「遠野物語」の良さは、やはり簡潔な文章にある。
収集した説話を無駄なものを付け加えずに残している。常民の研究が日本の精神史、宗教史をつまびらかにする。文章で残っている「古事記」「日本書紀」などだけでは日本の歴史を語れない。いまでも柳田のような研究を下品なものとして脇に追いやることがままある。とくにナショナリストによる歴史はそうだ。柳田が書くように、そういう人たちは「いつまでも高天原だけを説いているがよい」(264)
「山人考」で説かれているように、東北には神社が少ない。これは大和の支配圏がせいぜいいっても関東程度であったことで、「風土記」の編纂も常陸までしかない。
東北地方では、おそらく大和のもつ文化的宗教的侵襲を、平泉平定ごろまで拒んでいたふしがある。
とはいいつつも東北地方だけでなく、全国で常民の宗教の残滓を垣間見ることができる。「山の人生」はそれを見せてくれる。
かつては神を扱われたものが妖怪として恐れられたりする。もともと天狗や山人と集落の者たちとの交流があった。
「始めて人間が神を人のごとく想像しえた時代には、食物は今よりも遥かに大なる人生の部分を占めていた。」(253) その象徴が餅で、古来より神に餅を捧げるのは、まさに餅を供えることで神は人間の手助けをしてくれた時代があったのだ。角力も現在のような天皇を頂点とするヒエラルキーの中で行われていたわけではない。土地土地で山人と角力によって交流がなされていた説話が多く残っている。
柳田が残した説話から常民たちの宗教史なるものが浮かび上がる。この宗教というのは、仏教やキリスト教やイスラム教などのようなたいそうなものではない。
明治の三陸地震の津波の話が残っている。
「夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。……男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今この人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したり人と物いうとは思われずして、悲しくて情なくなりたれば足元をっみてありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。」(64)
よく柳田はこの話を残したと思う
このようなことは、簡単に幻覚だとか夢だとか、ウソだとかと言っていい話ではない。かなり現実的な話で、東日本大震災のあとも同様の話がいくつもある。
柳田は夏目漱石、森鴎外が作り上げた文学の流れにある。鴎外も柳田も官僚であった。彼らは国家と人間の関係を常に意識した作品となっている。それは田山花袋、芥川、太宰とは異なる系譜をつくりだしている。
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