2021/03/17

『晩年のカント』 中島義道 講談社現代新書

はじめて中島さんの本を読む。カントへのイメージが一変した。
食べ方とか汚いとか、なんか人間的でいい。決まった時間に散歩するというのも、若いころからしていた習慣ではなく、自分の家をもった63歳ごろで、病弱だったので健康のためにやっていたという。そして病弱なからだについて自己診断で自己流の療養法を行っていたという。ビールが嫌いで、誰かが病気になったとか死んだとかいうとビールのせいにしたらしい。
さらに女性観がひどいのなんの。女性が悪を避けるのは不正だからではなく、悪が醜いからだというのだ。女性に道徳心を認めていない。
本書にカントの草稿が載っているが、病的なほどびっしり書いている。

カントの「根本悪」という概念がおもしろい。真実性の原理と幸福の原理があって、人間は幸福の原理を選択する本性がある。なぜなら人間は感性的であり理性的だからだ。
そしてこれを必然的であるとはみなさない。というのも「べし」という普遍性と一般人が守っている経験的規則がある。そして必然性とは自然法則や道徳法則にかなったもの、理性にかなったものにしか使用してはならないという。つまり法則(理性)に反するものは必然的ではない。
よってすべての人に責任を帰すことができる、という結論になる。根本悪に陥ることが物理法則のように必然的だとすると、根本悪に陥る人間に責任を課すことはできない。つまり根本悪は必然的ではなく、選択しうるものである、となる。

「性癖」には三つある。1人間心情の脆さ。2人間心情の不純。3人間心情の悪性。
3は1と2で異なる構造をもつ。1と2は感性が理性にまさって陥ることで、3は理性が感性に引き起こすもの。
ここから人間は感性的存在者であり、かつ理性的存在者であることが導きかれる。根本悪はまさに感性的存在者にある理性が引き起こすものとなる。

『たんなる理性の限界内における宗教』が、物議をよび、カントは弁明をする。ここがまず素晴らしいところ。この弁明がが上記の根本悪と照らしてみると、まさにカントは根本悪をなしてしまっている。好意的にみてもそうなる。
そしてカントはスピノザのごとくキリスト教の有用性を説いたりしている。

カントの時間についてもいい感じ。
「時間の長さ」とは、過去を想起することから長さが生まれる。

んー他の中島さんの本を読んでみようか。

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