変わらない夢を 流れにもとめて ~~単純に本の内容を書き留めるだけのこともあり。書評という性格はほとんどなし。 レコードや本の備忘録として~~Good bye MP3
2020/12/28
『天皇と東大――大日本帝国の生と死 下』 立花隆 文藝春秋
2020/12/18
『ゲンロン戦記――「知の観客」をつくる』 東浩紀 中公新書ラクレ
会社の本体は事務にあります。研究成果でも作品でもなんでもいいですが、「商品」は事務がしっかりしないと生みだせません。研究者やクリエイターだけが重要で事務はしょせん補助だというような発送は、結果的に手痛いしっぺ返しを食らうことになります。(32)
2020/12/17
『哲学の誕生――ソクラテスとは何者か』 納富信留 ちくま学芸文庫
人間の生は、競技会に赴く人々に似ている。ある人は競技で勝利して名誉をえることを求め、またある人はそこで物を売って利益を得ようとする。しかし、もっともすぐれた人は、競技を観るためにやって来る。そのように、人生においても、名誉や利益のような奴隷的なものを求める生き方に対して、真理を観照し愛求するフィロソフォスの生こそがもっとも望ましいのである。(キケロ『トゥスクルス荘対談集5・3・8-9から要約)(本書22)
2020/12/08
『おもかげ』 浅田次郎 講談社文庫
2020/11/27
『天皇と東大――大日本帝国の生と死 上』 立花隆 文藝春秋
2020/11/05
『孔丘』 宮城谷昌光 文藝春秋
人こそ宝である、という信念の上に孔丘の学問がある。ゆえに孔丘の思想は温かい。(398)
2020/11/02
『オプス・デイ――任務の考古学』ジョルジョ・アガンベン/杉山博昭訳 以文社
神のエフェクトゥスは人間の代務によって確定され、人間の代務は神のエフェクトゥスによって確定される。この実効的一致は、オフィキウムとエフェキウムの一致である。しかし、この一致は以下を意味する。つまりオフィキウムは存在と実践のあいだに循環的関係を確立する。この関係にのっとって、祭司の存在はみずからの実践を定義し、他方、祭司の実践はみずからの存在を定義する。オフィキウムのもと、存在論と実践は決定不能となる。したがって、祭司は在るものとして在らねばならず、同時に、在らねばならないものとして在るのである。(148)
そのふるまいから存在を規定されるのであり、その存在からふるまいを規定される。司宰者とおなじく官吏もまた、そう為すべきように在り、そう在るように為すべきである。現代の倫理だけでなくその存在論と政治をも定義する、存在から当為への返還がみずからのパラダイムを据える(154)
神学と形而上学がいよいよその版図を科学的理性に明けわたすその時、カントの思想が表わすのは、ある〔エスティ〕の存在論のただなかに、あれ〔エスト〕の存在論が世俗的に再登場したことであり、哲学のただなかに、法と敬神が破滅的に再浮上したことである。科学的知見の勝利に際して、カントは形而上学の生き残りを担保するべく、実体と存在の存在論のなかに、命令と当為の存在論を移植し、それらを作動するがままにした。このように形而上学の可能性を保証しようとし、それと同時に、法と敬神ともかかわりのない倫理を創設しようとしたのが感とである。しかしいっぴうで彼は、オフィキウムと有為性という、神学的-典礼的伝tプの遺産をいっさい職名することなく受け入れ、他方では、古典的存在論に対して永遠の離別を告げた(222)
もし存在が、在るのではなくみずからを実現しなければならないのだとすれば、そのとき存在は、みずからの本質において、意志であり命令である。翻って、もし存在が意志なのだとすれば、そのとき存在はただ在るのではなく在るべきである。それゆえ、到来する哲学の問題とは以下を思考することにある。つまり、有為性と命令の彼方にある存在論を、そして、義務と意志の概念から完全に開放された倫理と政治を。(233)
2020/10/30
『ママ、最後の抱擁――わたしたちに動物の情動がわかるのか』 フランス・ドゥ・ヴァール/柴田裕之訳 紀伊國屋書店
情動とは、当該の生き物にとって意味のある外的刺激によって生じる一時的な状態である。情動は、体と心(脳、ホルモン、筋肉、内臓、心臓、覚醒状態など)における特定の変化を特徴とする。どの情動が引き起こされているかは、その生き物が置かれた状況からも、その生き物の行動の変化と表現からも推測できる。情動と、その結果として生じる行動との間には、一対一の対応関係はなく、情動は個々の経験を環境の評価と組み合わせ、最適の応答ができるようにその生き物に準備させる。(114)
情動が行動の背後にある同期にかかわるものであるのに対して、結果は行動の機能にかかわる。両者は切っても切れない間柄にある。どんな行動も、動機と機能の両方を特徴としている。私たち人間は、愛するとともに生殖もする。自負を感じるとともに相手を畏怖させもする。渇きを覚えるとともに水を飲みもする。恐れるとともに自分を守りもする。嫌悪を感じるとともに体を清潔にする。(224)
2020/10/24
『イワンのばか』 トルストイ/金子幸彦訳 岩波少年文庫
2020/10/23
『阿片王――満州の夜と霧』 佐野眞一 新潮文庫
2020/10/22
『ニュルンベルク裁判――ナチ・ドイツはどのように裁かれたのか』 アンネッテ・ヴァインケ/板橋拓己訳 中公新書
2020/10/21
『漂泊のアーレント 戦場のヨナス――ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』 戸谷洋志、百木漠 慶應義塾大学出版会
2020/10/14
『山県有朋と明治国家』 井上寿一 NHKブックス
近代から今日までの国民国家にとって、軍部の存在は基礎的な条件でありつづけている。国民国家であるということは、国民軍隊をもっているということである。日本が近代国家をめざす以上、誰かがこの基礎的な条件を整えなくてはならなかった。誰が引き受けたのか。山県だった。……徴兵制による国民軍の創出に勤め……軍政改革をとおして、日本の国家的な独立の危機に対応した軍事的リアリストだった。(236-237)
明治国家の権力を強調し、そのもとでたえず抑圧される「民衆」という歴史観では、帝国憲法を前提とする国家体制であっても、斬新的な民主化が進んだ政治過程を説明することはむずかしい。他方で「民衆」が民主化の中心だったとする歴史観にも無理がある。民主化は運動だけでは実現しない。民主化を可能とした近代的な諸制度を整備したのは、国家権力の側、政治指導者であり、国家官僚だった。要するに、多元的な権力関係の明治国家をとらえることがきる歴史観によって、日本近代史像を統合すべきである。(241)
途上国において軍部がその国の近代化を主導することは不思議ではない。第二次世界大戦後、あらたに独立した東南アジア諸国が程度の差はあれ、そうだった。これは開発独裁体制といってもよい。山県の政治的な役割も同じだった。明治維新革命後の途上国日本は、山県のもとで開発独裁体制の確立を志向した。……国家と国民の一体感は過渡に協調すべきではないだろう。幕末維新期の国家的な独立の危機が国家と国民の間の共通の明式だったのは、日清戦争までである。……開発独裁体制の確立をめざして出発した明治国家は、条約改正問題をとおして、西欧化が不可避となったからである。西欧化とは政治的な西欧化を含む。僧である以上、帝国憲法のもとであっても、選出勢力による政治が展開する。国家的利益と非国家的利益の噴出によって、多元的な政治対立が生まれる。……客観的には近代日本の斬新的な民主化の過程が進んだ。(242-243)
2020/10/10
『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 伊藤之雄 文春新書
2020/10/08
『1941 決意なき開戦――現代日本の起源』 堀田江理 人文書院
最終的に、戦争を回避する道を選ぶことは、長期戦を戦えるアメリカではなく、劣性が明らかな日本が下されなければならない決断だった。それがいかに屈辱的で、不可能で、自己去勢行為に等しいことのように思えても、それが最終的に国家の存続と繁栄につながるという考えに、政策と世論を持っていくことが、先見ある指導者の務めであるはずだった。あたかも、避戦という選択肢が存在しないように匂わせる戦略的タイムテーブルと、官僚的なルールは、日本の指導者たちが自身に課したもので、米政府の作ったものではなかった。それは自分たちが、どれだけ外の知からによって不当に戦争に追い詰められた、と納得させようとも、まったく変えられない事実だった。自分たちを被害者だと言い聞かせ、日本は常に平和を願い、アメリカに対して、譲歩の姿勢を取り続けてきたと主張しても、事実は違った。……彼らにあるものは、自己憐憫、怒り、そして何より賭博師の大胆さだけだった。(350-351)
2020/10/05
『ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点』 スチュアート・D・ゴールドマン/麻田雅文(解説)、山岡由美訳 みすず書房
1939年前半のヨーロッパでは確かにスターリンの思いのままに事が運んでいるかにみえたが、五月の時点ではヒトラーはソ連との条約締結の可能性について明確な意思表示をしておらず、ノモンハン事件はその段階で起きたのだ(228)
1939年の外交の舞台は複雑を極め、いずれの訳者にも第一の目標と第二の目標があった。イギリス政府はソ連と取り決めを結ぶことでヒトラーのポーランド攻撃を抑止しようとした。ヒトラーの抑止に失敗した場合も、取り決めさえあればソ連を英仏との「同盟にしばりつけることができるものと考えた。ヒトラーが目指した低他の、英仏のポーランド援助を抑止する者としてのソ連との同盟であり、もしくは英仏がポーランド防衛線に打って出た場合にソ連の中立を確保するものとしてのソ連との同盟であった。また日本政府はソ連に照準を絞った軍事同盟をドイツと結ぶことを目指し、それがかなわぬならば包括的な防共協定を強化することを望んでいた。スターリンは西側民主主義国とドイツを戦わせることでソ連の東西において裁量を得ることを目標とし、それに失敗したならば、対独戦となった場合に英仏の援助を確実に得られるようにしたいと考えていた。この四者のうち、第一の目標を達成できたのはスターリンだけである。ヒトラーは第二の目標を実現し、イギリスと日本は何も手に入れられなかった。(244)
2020/10/03
『明と暗のノモンハン戦史』 秦郁彦 PHP研究所
スターリンは実現寸前だったドイツを標的とする英仏ソ同盟の路線を一夜で独ソ提携に切りかえ、労せずしてポーランド、バルト三国、フィンランドなど東欧地域を支配権に収めたばかでなく、日独伊三国同盟を阻止して東西から挟撃される軍事的脅威を除去することができた。一石三鳥とも四鳥ともいえる外交的成功と評してよい(235)
年功序列人事が厳として維持されるなかで、敗北や失敗の責任を問われた上級指揮官や実力派参謀が皆無に近かったのに対し、中下級指揮官や兵士たちは飢餓死や玉砕死を強いられた(413)
2020/10/01
『満州事変から日中全面戦争へ(戦争の日本史22)』 伊香俊哉 吉川弘文館
2020/09/30
『最後のソ連世代――ブレジネフからペレストロイカまで』 アレクセイ・ユルチャク/半谷史郎訳 みすず書房
ソ連時代の初期は、権威的言説による発話の文字通りの意味に評価を下す存在として言説の主人(master)がおり(一九二〇年代末からスターリンがこの役割を独占した)、外部の「客観的な」規範であるマルクス=レーニン主義の真理にがっちするかどうかを決めていた。だが五〇年代末半ばに権威的言説の外部の主人が消える。この変化うぃ受け手ルフォールの逆説が覆い隠せなくなり、イデオロギー表象のあらゆる面に影響が及んだ。(32)
どんな(近代的な)政治システムでも正統性を主張する根拠は、そのイデオロギーの外部の位置にある何らかの「明白な」真理に基づく。システムのイデオロギー言説は常にこの「真理」を参照しており、その根拠を論証することはできない。これが近代国家のイデオロギー言説がそもそも抱え込んでいる矛盾である。(47)
スターリンの個人崇拝と独裁権力は、暴力や恐怖にのみ依拠していたわけではない――そんなことがスターリンに可能だったのは、自身の正統性を、レーニンの教えの継承者、レーニンに指名された人物、レーニンの考えをよく知り理解する指導者に擬すことで得ていたからだ。(93)
スヴェイー(仲間)からすれば、反ソ活動などの「異端派」は健康な人からみた病人であり、考慮から排除される存在だった。なぜなら体制が明らかに安定しているからだ。
後期ソ連社会の脱領土化がもたらした予想外の大変化の一つが、独特な社会集団の登場である。これをひとまずスヴァイーの共同体と名づけよう。イデオロギーの機構と権威的言語が支配するコンテクストでは、スヴァイーが生まれる基準は、共通の社会的出自や特定階級への基準ではなく、権威的言説の受け止め方がにているかどうかだった。してみると、スヴァイーは権威的言説の「公衆」と位置づけることができる。(166)
「スヴァイーの公衆」と名づけた共同体は、至る所で年がら年中あった公的なよびかけへの答えとして生まれたわけだが、そうした呼びかけはソ連体制の権威的言説で出来ている。(167)
こうした繰り返しが続くうちに、呼びかけにパフォーマティヴ・シフトがおこり、儀礼の硬直した形式は再生産されるのに、意味が予想もつかない形に変化していく(168)
インナたちは、異端派の政治言説にも深入りしなかった……「私たちは異端派のことは一度も話題にしませんでした。分かりきったことを、なぜ話すんですか。あんなもの面白くありません」 最後の一言から思い浮かぶのは、お馴染みの権威的言説のパフォーマティヴ・シフトである。権威的な発話・シンボル・慣行を文字通り受けとめなくてもよかった(コンスタティヴな意味を重視されなかった)ため、インナたちをはじめ多くの人が、その意味が正しいかどうかを考えるのも時間の無駄と思っていた。形式的かつ取り込まれないように権威的シンボルを再生産し、そこから生まれた可能性を活用する方が賢いし面白いとも思っていた。そうすれば、システムの統制の目が行き届かない新たな意味を自分の存在に付け加えられた。だからこそインナとその友達は、システムの慣行や発話の文字通りの意味に取り込まれない方を選び(それが肯定的なものでも否定的なものでも)、活動家の言説も異端派の言説も黙って遠ざけた。(174-175)
アネクドートが語っているのは、やつらのこと、「ソ連体制」のことではなく、ソ連の現実そのものであり、われわれ全員もここに含まれる。アネクドートを語る主体も、それを聞いて笑っている客体(つまる、ソ連の人たちほとんど)も、システムに外部の批評家でなく、ヴニェの姿勢で接している。アネクドートは、「ふつう」主体とシステムとの現実の相互関係を示すミニモデルなのだ。ここで皮肉まじりに描かれているのは、笑っている一人ひとりが個人や集団でソ連システムの再生産に形式面で手を貸し、と同時にその意味をずらしていく様である。つまり、アネクドートの主たる任務は、「自分自身を」見ること、厳密にいえば「私たち自身を」見ることだ――もちろん見ると言っても、焦点の合わない、ぼんやりした目でアネクドートの儀礼化した不自然な形式を垣間見ることだけなので、主体が自分自身について直に言うことも、自身の行動や現実との関係に注意することもない。だから、アネクドート語りの儀礼が終わると、それまでと同じように行動することができた。(410)
2020/09/26
『太平洋戦争』(上・下) 児島襄 中公新書
華僑の反抗が日本軍を刺激したのか、日本軍の偏見が華僑の抗戦意欲を燃えたたせたのか、事件の遠因近因は複雑にからみあっているが、太平洋戦争をくろくいろどる不祥事であることは変わりない。こうした日本は、初戦に置いて早くもアジア人を敵にまわし、戦争遂行に必要な原住民の協力を失った。マレー、シンガポールの華僑は、この事件(華僑処刑事件)によって、ますます反日態度を固め、シンガポール市、マレー半島における活動は、その後決してやむことはなかったのである。(上163)
「軍曹どの、便所に行って参ります。でも、私は帰って参ります(アイ・シャル・リターン)。」
「よし、オレも行く。だが、お前たち、さぼるんじゃないぜ。オレも”アイ・シャル・リターン”だからな」(上191-192)
太平洋戦争を断罪したり、弁護したり、判決する前に、なによりも戦争をして戦争を語らしめることを心がけた。」(上iv)
個々の戦場ではかなり悲惨な現状があるにせよ、戦争がどのように作戦がたてられ、遂行され、戦われて、勝敗がつくのか。そこには国の文化、伝統、思想がまさにむきだし露わてくる。
2020/09/21
『続・語録のことば 『碧巌録』と宋代の禅』 小川隆 禅文化研究所
わが通玄峰の頂上は人の世間を超えたところすべては一心の生み出せしもの見わたす限りの 青き山々
僧、法眼に問う、「慧超、和尚にとう、如何なるか是れ仏?」法眼云く、「汝は是れ慧超」。
充分な機根の成熟過程と、一瞬の契合による決定的な悟りの体験が必要だった。そして、それをさえ得てしまえば、なるほど、いかにも玄則自身が本より仏にほかならないのであった。(133)
全一なるものを全一のまま、無分節なものを無分節のまま、まるごと直に体認せひょ。それができれば「ひとり大空を闊歩することも夢ではない。逆にこれを情識・分別でなど理解したら、悟りなどはるか彼方の沙汰である。(152)
僧、趙州に問う、「万法は一に帰す、一は何処にか帰する?」
州云く、「我青州に在りて、一領の布衫を作る。重きこと七斤」。
石は石、大は大、小は小と、自然がただ自然のままあるさま、人間の存在とは無関係に存在しているという考えを圜悟は批判する。
みな凡情と分別とばかりではないか。そういう凡情や分別をすべて捨て去ったら、そこで始めて看ぬくことができるのだ。そして看ぬいてみれば、やはり依然として、天は天、山は山、水は水だ、ということになるのである。(195)
2020/09/19
『フランス革命はなぜおこったか――革命史再考』 柴田三千雄 山川出版社
変革主体とは、どのようにして形成されるのか。……社会層、あるいは社会的結合関係などは、変革主体の土壌ともいうべきもので、それらのことから、変革主体が自動的に生まれるものではない。変革主体とは、社会・経済構造の矛盾のなかで異質の敵対分子として徐々に形成され一定の力をたくわえた情勢の時を待って立ち上がる、という性質のものではない。この一般的な社会傾向は、変革主体の形成を説明しない。それには、その契機となる客観的要因と現実にたいして能動的に立ち向かう主体的要因とを考えなくてはならない。(169)
2020/09/18
『物語 フランス革命――バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』 安達正勝 中公新書
2020/09/16
『大分断――格差と停滞を生んだ「現状満足階級」の実像』 タイラー・コーエン 渡辺靖(解説) 池村千秋訳 NTT出版
2020/09/11
『正法眼蔵入門』 頼住光子 角川ソフィア文庫
2020/09/10
『ニュルンベルク合流――「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』 フィリップ・サンズ、園部哲訳 白水社
2020/09/02
『敗北者たち――第一次世界大戦はなぜ終わり損ねたのか 1917-1923』 ローベルト・ゲルヴァルト 小原淳訳 みすず書房
2020/08/29
『夢遊病者たち 2――第一次世界大戦はいかにして始まったか』 クリストファー・クラーク/小原淳訳 みすず書房
同盟は憲法と同様、せいぜいのところ政治的現実のおおよその指針でしかなかった。(446)
単独で責任を負う国家を告発したり、あるいはそれぞれが分かち持つ戦争勃発への責任に応じて諸国家を格付けする必要が本当にあるのだろうか。……責任論を中心に据えた説明が問題なのは、ある集団に間違って責任をきするかもしれないという点ではなく、責任問題の周辺に作られた説明が先入観にもとづく推測を伴う点である。(830)
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ペルシャ高原の東、プシュト山脈をのぞむ町メナムが舞台。このメナムがどこかは不明。大鷹汗ボルトルの求愛を拒み続けるメナムの姫ナンがある日街で幻術師アッサムを目にする。アッサムはボルトルの暗殺を請負い、ある夜宴でアッサムはボルトルの眼前に姿を現す。そこでアッサムはボルトルを10日...
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ここ数ヶ月のあいだ、手にとってみたが途中で読むのをやめた本がいくつかある。思っていたものとは違う内容であったり、興味が途中でうせたり、つまらなかったり、といろいろ理由がある。古典とかだと根性で読むのだけれど。 『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ ソルニット 東辻賢治郎...
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Factfulness: Ten Reasons We're Wrong About The World - And Why Things Are Better Than You Think Hans Rosling, Ola Rosling Sceptre ...
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Antonio Vivaldi Le Quattro Stagioni Societa Corelli, RCA ITALLIAN, LM-20026 録音時期は不明だが、1962年以前。ジャケットに書き込みあり、1962年に贈物と書かれている。MONOの録音なので...
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Giacomo Carissimi Jephté Et Trois Motets Solistes, Choeurs & Orchestre De La Fondation Gulbenkian De Lisbonne Michel Corboz ...
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Joan Cererols(1618-1676), Vesper Beatae Mariae Virginis(Marienvesper) Escolaniai Capella de Montserrat Ars Musicae Barcelona (Ensemble...
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たいした話を書いているわけではないのに、なぜか面白い。学生のころに読もうと思ったが上巻で挫折したが、満を持して挑戦してみるとこれがおもしろいのなんの。 谷崎的、変態的な愛のかたちを描くわけでもなく、非常に淡々と姉妹の日常を描き出していくが、なぜにこんなにすらすらと読めるのだろ...
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北方謙三の『水滸伝』を13巻まで読んで、ぼくは決心しました。 もう、これ以上読むのはやめようと。もう、お腹いっぱいで、正直読むのがしんどい。13巻までだって、面白いから読んでいたのではなくて、義務感から読んでいたにすぎない。 北方謙三の『水滸伝』の斬新さ、ユニークさとは何か...
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A Recital of BACH and HANDEL Arias Kathleen Ferrier The London Philharmonic Orchestra Sir Andrian Boult Decca, LXT5383, MONO キャスリー...