2020/12/28

『天皇と東大――大日本帝国の生と死 下』 立花隆 文藝春秋

本書を読んでいくと、学力があるインテリたちが右翼イデオロギーを傾倒していき、テロを起こしたり、言論統制をしたりとなかなかすごい。
筧克彦、上杉慎吉、平泉澄らは、活動家に思想を提供するが、彼らはけっして活動家のような極端なテロや言論活動まではしていないようだ。これは左翼とは異なるところで、共産主義の場合は、活動家と思想家はイコールであることが多い。
例えば平泉の皇国史観は陸軍に影響を与えたにせよ、平泉自身は天皇親政を主張していたにせよ、クーデターを肯定をしているわけではない。
国粋主義がいかにバカげたものであろうと、戦前戦中の時期は一般民衆にまでその思想が受け入れられ、天皇主義に普遍性をもたせようとした狂気の時代でもあった。
かつて、竹内洋と佐藤優が立花隆の蓑田の描き方が、極端に一面的で、狂人でしかない愚か者としてしか書かれていないことを批判していた。
んーまあそのとおりでもある。
本書だけを読むと、平泉も上杉も蓑田も筧も、みんなイカレタ思想家としてしか読めない。だから本書では、なぜ当時のインテリたちが右翼イデオロギーにはまっていったのかは書かれていない。これが本書の限界でもある。
ただこれをテーマに書くことはかなり難しい。下手をすると、かなりの飛躍をして個人の生い立ちと結びつけてしまうことにもなる。上杉の薫陶をうけた蓑田にせよ、なぜ過激な言動をしたのか、これを理解なんて端からできるはずもない。予想しようとすれば飛躍が起きるし、ありもしない憶測を並べ立てることになる。このあたりは佐野眞一的な偶然や強引なこじつけになりかねない。
だいいちぼくが現在のように左翼から保守自由主義に転向していること自体、どう説明したらいいのか自分でもできないし、ましてや他人にもできやしない。
とまあ、とりあえず下記はメモ。

滝川事件。当時の文部大臣であった鳩山一郎が京都帝国大学の滝川幸辰の辞職を求めた。
客観主義刑法と主観主義刑法。滝川は客観主義刑法。で、「国家否認」「大憲否認」につながるとして、非難される。
トルストイの『復活』における刑法観。人間が人間を裁くことはできない。キリスト教的な見方。社会が人間を犯罪に走らせているという考え。
治安維持法が成立したときは、法律家からは評判が悪かった。私有財産制を否定すること自体は問題にすること自体が問題となる。というのも私有財産制を撤廃する現実的な知からがないならば不能犯であり、これは犯罪にはならない。
滝川の理論はマルクス主義的だとして非難を浴びる。滝川自身、マルクス主義者ではないが、当時の進歩主義はマルクス主義でもあったので、当然その思想の影響がある。

筧克彦。「神ながらの道」。自然主義的ナショナリズム。神道自由主義。国粋主義とは違う。そのためか公職追放にはなっていない。蓑田胸喜は一時期筧に傾倒する。いわば本居宣長を継承しているという。

上杉慎吉が生きていた時期は、まだ左翼の勢力が強く、上杉率いる右派はあまり人気がなかった。

明治憲法ができて東京帝大に憲法の講座が作られるが、担当したのは穂積八束。穂積は天皇絶対主義であり、伊藤博文の憲法観とは異なるものだった。どうしてそんな穂積が憲法の講座を受け持つことができたのか。謎。穂積のあとを継いだのが、上杉慎吉。

天皇機関説。明治憲法の前文は祝詞でできていて、伊藤は立憲君主制と前近代的な王権神授説が残っているものになっている。明治憲法には議会制度や内閣制度は述べられておらず、あいまいなままだった。内閣と軍、統帥権などあいまいなため、天皇機関説問題で問題となっていく部分があった。

右派の蓑田らの歴史観では、明治維新は「革命」で、美濃部は合法的に行われた政権移譲として捉えていた。
美濃部は、右派が主張するロンドン軍縮会議は統帥権干犯であるというのはあたらないとする。兵を戦場で動かすのは統帥権にかかわるから政府は関与できない。しかし、軍の規模や予算は政府が決めるべき問題であり、条約を調印するかどうかも政府の問題。
また天皇もロンドン軍縮条約に批准したのだから、それを批判すること自体不敬であると。
天皇機関説、それは「天皇は国の元首である」というのと同じ意味であり、君主と国家の関係を述べているにすぎない。君主は国家ではない。君主は国家の一部であるが、君主は元首であること。国がなければ君主もない。

陸軍パンフレット事件。「国防の本義と其強化の提唱」。英米との戦争に備えよ、そのために国民一丸となり、利己的個人主義を排し、国家社会主義を提唱する内容。
一木喜徳郎枢密院議長。どうも、天皇機関説事件は政治権力闘争の面もあった。真崎、荒木ら皇道派は、平沼騏一郎が設立した国本社に属しており、天皇機関説を糾弾したものたちの多くがこの結社に属していた。平沼は一木を排除し、自分が議長になろうとしていた。それによって、軍部としても権力を手に入れることができる。本丸は美濃部ではなく一木となる。ただし平沼は昭和天皇や西園寺公望にそのファシズム気質を嫌われていた。平沼が内閣総理大臣になる際も、国本社を解散したことを述べてから就任している。
美濃部の著作が発禁になったのは、天皇機関説ではなかった。というのも天皇機関説は当時の定説でもあり、これを否定してしまえば、多くの書籍が発禁になり、混乱を免れない。「社会の安寧秩序妨害」という理由。

二・二六事件が日本を軍国主義を完成させる一歩。まだ当時の軍には例えば渡辺錠太郎陸軍大将は天皇機関説を支持していた。そのため二・二六では狙われた。

平泉澄。平泉の皇国史観。平泉の歴史観では、大化の改新、建武中興、明治維新といった天皇親政こそが日本の精神。それ以外は暗黒時代。国体の自覚と天皇への絶対忠誠こそが、臣民の忠であると。祭政一致を¥という天皇教えお国教と宗教国家を目指していた。
東條英機は平泉に傾倒しており、平泉に陸軍士官学校に平泉の門下生を送りこんで、将校を教育してほしいと頼んだ。そのことで平泉の思想は陸軍に浸透していく。のちのち8月15日皇居占拠を行った青年将校大も平泉の影響下にあるものであったし、当時の陸軍大将であった阿南陸相も平泉に傾倒していた。
北畑親房や楠木正成のような非業の死、天皇への忠義による死を、「忠義の美学」として称揚した。
平泉の門下生の黒木博司は、人間魚雷「回天」の発案者。恐ろしいことに、日本の起死回生と位置づけていたし、血書で嘆願書を提出した。物量ではかなわないが「士魂」では負けていない、という。狂気。海軍も海軍で昭和19年8月に採用してしまう。黒木は回天の訓練中に事故死するが、平泉への礼の言葉を書き残していたという。

二・二六事件の際に昭和天皇を退位させ秩父宮に替わって天皇になってもらおうという動きもあったという。そして皇族内閣を目指していた。秩父宮自身は、たしかに平泉と交流があり、ファッショ的な人物でもあったが行動は起こさなかった。それは平泉自身が昭和天皇退位を主張していたわけでもなく、むしろ皇室が二つに分かれることを恐れていた。平泉は反乱軍に切り込むつもりでもいた。立花氏は保阪正康の平泉が秩父宮を説得して決起させようとしたという説を異論を唱えている。

平泉は、二・二六事件に批判的だったとしても、彼の思想がファシズムにつながるとして、湯浅倉平や西園寺公望からは嫌われていた。そして二・二六事件以降はそれまで親交があった木戸幸一からも距離をとられていく。
平泉の門下生には、宮城事件をおこした畑中、井田、古賀、椎埼がいた。阿南陸相も平泉に心酔していた。ポツダム宣言を受諾するという昭和天皇の決断に、彼らはたとえ天皇でも道を明らかに謝るようなら、それを正すべきとする。「「承詔必謹」であるべきではないとする。吉田松陰の「諫死論」。そして、昭和天皇が心変わりしないようなら、皇太子に天皇に替わってもらおうと、阿南にも持ちかけていたという。阿南はうなずかなかったようだ。
クーデターを起こす際に彼らは平泉に相談しにいったが、平泉は押し黙っていたという。
義勇兵役法の冒頭の上論を書いたのは、平泉だった。そこには平泉美学である、忠君愛国、七生報国、国体護持の思想が忌憚なく書かれている。

天皇機関説事件の際、美濃部を東大の教え子たちは見捨てた。見捨てなかったのは、矢内原忠雄と河井栄次郎だけだったそして両人のボーイズラブ。
矢内原忠雄は、満州国の批判、天皇問題を取り組んでいく。(373)
津田左右吉『古事記及日本書紀の研究』。大正13年に出版され、岩波の再販を機に、蓑田らによって津田の思想は日本の東亜における新秩序とは乖離しているとして糾弾されていく。右翼学生らが津田の講義に押しかけたりした。
平賀譲による経済学部の粛正。平賀は軍艦建造における神様とされていたとのことで東大で工学部で教えていた。
田中耕太郎は経済学部の、河合派、大内派、土方派の争いを解決するために平賀に担ぎ上げる。喧嘩両成敗。
田中耕太郎は『世界法の理論』を昭和9年に出版れるが、これも「原理日本」グループに攻撃される。田中まだ世界確立されていなかった世界奉を考察していた。田中の専門は商法だが、まさに商取引が世界奉の発展してきた側面がある。
この時期世界公法というものが生まれるる遭った時代でもあり普遍的な社会を構築する機運があった。

「国体を明徴にせよ」。原理日本は多くの知識人を標的にしていった。日中戦争も大東亜戦争も「国体明徴戦」だという。アジア全体を天皇の統治のもとひとつの共同体にすることを主張していった。
満蒙開拓団の指導者加藤完治は筧克彦の信奉者であり「神ながらのみち」を実践していく。満州では伊勢神宮の分社が作られていく。筧は溥儀にも「神ながらの道」を講じたという。当時の天皇主義とは右翼国粋主義にとっては世界を統一する思想であった。
河合栄次郎は、なかなか面白い人物で、戦中に抵抗することで戦後に活躍することを目論んでいたという。彼はヨーロッパ型の社会民主主義者であった。

『きけ わだつみこのこえ』について、東大協同組合出版部から出版されたさいは、皇国思想、戦争賛美のものは削られた状態だった。

戦後の東大総長になった南原繁の紀元節式典のスピーチのテキストが載っているが、そこには民族の永続性とかの言葉が載っていて、現在のサヨク諸君は驚くだろう。
南原は天皇を慕っていたが、天皇が法的、政治的責任はないが、道義的な責任があるから退位するだろうと考えていた。南原は学徒出陣で学生らが自ら出征していくことを止めることができなかった。東京大空襲を契機に南原繁、高木八尺、田中耕太郎、末信三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄で密かに終戦工作を行う。どこまで影響があったかは不明のようだが。
戦後、GHQによる財閥解体が行われたが、それを終戦直後の破綻した経済を救う経済政策を立案していったのは、マルクス経済学者たちだった。インフレ政策、財閥解体、軍人恩給停止論、戦時利得税設定論など。日本の敗戦によって、マルクス経済学が勝利し東大経済学部の主流となっていく。

2020/12/18

『ゲンロン戦記――「知の観客」をつくる』 東浩紀 中公新書ラクレ

一気読み。おもしろかったー。あずまんがエクセルに領収書の金額を打ち込んで、人生は地道に生きねばならないと悟るところなんかいい感じ。
でも、ちょっと冷静に考えると、いたって普通のことで、経理や総務をきちんとやりましょう。請求書、領収書の管理をしっかりしましょう、歳出歳入もしっかりね、っていうのはあたりまえなこと・・・・・・あずまんのえらいところは、その重要性をようやく知ったことを正直にしゃべっていることだ。みんなそんな勇気ないでしょ。
会社の本体は事務にあります。研究成果でも作品でもなんでもいいですが、「商品」は事務がしっかりしないと生みだせません。研究者やクリエイターだけが重要で事務はしょせん補助だというような発送は、結果的に手痛いしっぺ返しを食らうことになります。(32)
よく経理や総務という俗世間を馬鹿にしがちになる。ぼくもそうだったし。左翼思想にかぶれ、左翼運動に片足をつっこんでいたときは、簿記や法律事項なんかを蔑視し、自らの精神はこれら俗世間から分離すべきものと考えていた。あずまんもこれらを補助でしかない認識だったと告白している。
ただし、実際は会社に就職し、生活者として生きていくと、必然的に地道な経理、事務、管理などがいかに重要であるかを知る。
ぼくの場合、こういったことを学びはじめて、左翼からは離脱した。あまりに生活者としてなっていないのが、ぼくが属していた左翼界隈だった。
現在でも、コロナ騒動で、GoToを止めて、直接給付を声高に叫んでいるのは左派系の連中だが、こういうのも正直言って生活者をわかっていないと思う。
仕事なくてもお金を配ってあげればいいでしょ、という浅はかすぎる考えが根底にあって、でもそれは人間の生活を無視していると思う。労働をして、社会とつながる重要性がわっかっていないんだと思う。えてして、そういう連中は大学人と学生に多い。これは仕方がないのかと思うけどね。

あずまんの失敗を読むと勇気が湧いてきます。失敗の仕方は人それぞれだけど、人間は何度も失敗するようで、「学び」なんて本当にできるのかなぁといつも考えます。
で、あずまんが代表を下りたのは、その失敗を繰り返す原因が自分にあることがわかっているからであり、おそらくまた繰り返すという念もあるからだと思う。
ぼく自身、同じ失敗を繰り返して、気づいたのは、どうもぼくは失敗には気づくけど、それを矯正できるほど自己に厳しい人間ではないということで、なので、同僚にぼくを監視してもらう役をお願いしたことがある。そしたら、いい感じで、仕事がスムーズにいくようになった。

「ぼくみたいなやつ」を集めることをやめて、「孤独」を選ぶというのもいい感じ。何かを継続させるための本質がここにあるような気がする。

「知る→わかる→動かす」という一見合理的なサイクルは、じつは幻想で知れば知るほど動けなくなる」というのは、至言で本当に動けなくなる。そして保守的になっていくのだ。

ゲンロンのロゴの焼き印が押された「ゲンロンカフェ特製ホットドッグ」なるものが、あったのがほほえましい。

2020/12/17

『哲学の誕生――ソクラテスとは何者か』 納富信留 ちくま学芸文庫

古典を読むうえで難しいの時代背景でしょうか。何が当時問題となっているのかを知らないと、何を読んでもあまり感銘をうけないものです。ぼくが高校生の頃にプラトンや孔子を読んでいた時、何が面白いのかがよくわからなかったものです。
本書でもでてくる「無知の知」なんて、だから何?的な感じでしたし。
当時の世相を知っていくと、面白くなっていくわけです。
以下、簡単にまとめ。
人間の生は、競技会に赴く人々に似ている。ある人は競技で勝利して名誉をえることを求め、またある人はそこで物を売って利益を得ようとする。しかし、もっともすぐれた人は、競技を観るためにやって来る。そのように、人生においても、名誉や利益のような奴隷的なものを求める生き方に対して、真理を観照し愛求するフィロソフォスの生こそがもっとも望ましいのである。(キケロ『トゥスクルス荘対談集5・3・8-9から要約)(本書22)
 んーいい感じ。ピュタゴラスの言葉らしいが、筋肉至上主義にたいする精神的勝利。
プラトンを読んでいて難しいなあと思うのが「想起(アナムネーシス)」これは不在のものの現在化と捉え、竪琴や衣服を見てその持ち主である恋人を思うことといった感じのよう。プラトンは書くと言うこと自体が一つの想起として位置付けていたようで、それは哲学者ソクラテスの記憶、つまり不在の過去の遡及で、像から実在へいたる運動となっている。(128)

クセノフォンにしろプラトンにしろ、同時代の反ソクラテスの人たちへの反論としても著作は位置づけることができる。例えばポリュクラテス『ソクラテスの告発』。この著作は現在は失っているが、内容はソクラテスが不敬神であったことには触れておらず、若者を堕落させていたったことへの告発だった。とくにクリティアスとアルキビアデスの二人はポリス最大の悪をなした人物としても名高い。ソクラテスを語るプラトンもクセノフォンもエリート主義であり、政治はテクネー(技術)であるとする。そしてその技術を養うために、「善き生」の吟味を必要とした。それは民主制への鋭い批判ともなる。

ソクラテスは民主制の基盤でもある「パレーシア(言論の自由)」で行使していたにすぎないが、それが逆に民衆の怒りをも買う結果となっている。

三十人政権について。ペロポネソス戦争後にアテナイではクリティアスを首領に寡頭政治が行われ、粛正が行われていった。クリティアスは実際にはスパルタ式の政治を展開していこうとしていた。それまでの民主制の弊害に対する政治変革の意味もあった。
クリティアスがソクラテスから「言論の自由」を奪おうとしたが、ソフォクレスが描くソクラテスが秀逸。単なる屁理屈を通り越してかなり滑稽さがあっていい。

「ソクラテスが二人にこう尋ねる。「もし命じられたことの何かを知らないとしたら、尋ねて構わないでしょうか。
二人はそれをよしとした。
「では私は法律に従うようにしてきました。ですが、知らないがゆえに法にはんすることを気づかずにすることがないように、このことをあなた方からはっきりと学びたいのです。
言論の技術とは、正しく語られたことを伴うのか、それとも正しくなく語られたことを伴うのか、どちらを考えてそれを避けるように命じられているのでしょうか。というのは、もし正しい言論をともなうもののことであれば、正しく語ることを避けるべきなのは明らかですし、他方、もし正しくない言論をであれば、正しく語るように努めるねきなのは明らかです。」
カリクレスは彼に腹を立ててこう言った。「ソクラテス、君は知らないのだから、分かりやすいように、このことをわれわれは命じる。若者たちと一切対話しないように。」
するとソクラテスは、「では、私が命じられたこと以外をする疑念がないように、何歳までの人間を若者と考えるべきか、規定してください。」
「カリクレスは、「審議に加わることが認められない時期だ。まだ十分に思慮がないという理由で。……
「では、もし私が何かを買う時、売り手が三十歳より若かったら、いくらで売るかを尋ねてもいけないのですか。」
「そのようなことは、よい」
……
「もし若い人は私に質問をして、私が知っていても、答えてはいけないのですか。カリクレスがどこに住んでいるかとか、クリティアスがどこにいるかとか?」
「そんなことは、よい」(175-176)

プラトンの場合は「思慮深さ」という言葉でクリティアスとソクラテスの関係を語っていく。「思慮深さ」はスパルタの徳目の一つであったから。「思慮深さ」とは程遠くクリティアスは政治を行った。プラトンはここに哲学と政治の根本問題を見る。
クリティアスの政治は自己の欲望を満たすためのものではなかった。プラトンの『カルミデス』を参照。ここに「思慮深さ」の本質が語られる。
ソクラテスはたしかにレオンの逮捕に関与しなかったが、積極的に助けもしなかった。民主派からすればソクラテスの態度は三十人政権を擁護しているように見えた。ここはプラトンやソフォクレスの苦しいところでもあった。
ちなみにこの「レオン」は将軍レオンのことなのか、「サラミス人レオン」なのかははっきりわからないよう。

アルキビアデスは当時、かなり話題な人だったようす。アルキビアデスはソクラテスと仲違いの描写がソフォクレス『思い出』にもあり、さらにアルキビアデスをソクラテスの影響の悪しき若者の例として用いている感じがあるようだ。
面白い指摘だったのが、『饗宴』でのアルキビアデスの演説が、彼のソクラテスとの出会い、改心、そしてソクラテスと疎遠になったあとのアルキビアデスの生き方を映しだしているというところで、ソクラテスへの屈折した思いが書き込まれているという。そこに愛(エロース)が宿っているという。

ここで「不知」について書かれている。ぼくが高校生のころに初めて『ソクラテスの弁明』を読んだとき、「無知の知」というのを、巷で言われている「知らないことを知っている」というふうに捉えていた。そのため、そんなこと別に哲学的でもなんでもないと思っていた。謙遜は世界共通の美徳であり、ソクラテスが言ったから徳になっているわけでもないわけで、つまらない本だと、なぜこれが哲学書として崇められているのかとか不思議に思ったものだ。
「知らないことを知っている」という態度自体が、傲慢であり、「知らないこと」をどう「知る」ことができるのか。
では「無知の知」はどこから来たのか。高橋里美がそれをクザーヌスの「不知」の否定神学と重ねあわされたという(docta ignorantia)。昭和初期にこの「無知の知」が成立したと考えられ、大正時代の『岩波哲学辞典』の「無知の知」の項目ではdocta ignorantiaが紹介されているが、ソクラテスと関連付けられていないという。そして高橋の教え子である教育学者稲富栄次郎は著作で「無知の知」をソクラテスと重ねて商会していき。人口に膾炙していったと考えられるという。

2020/12/08

『おもかげ』 浅田次郎 講談社文庫

んー、なんかとっても微妙な感じ。娘婿の言葉遣いとかわざとらしいし、とっても単純な人間として描かれている。
ただ主人公やかっちゃんが、場面場面で若返ったりするのはなかなかいい。『おもひでぽろぽろ』的な感じがするし。
僕には地下鉄をそこまでノスタルジックに思えるほどのものではないのが残念。ただ地下鉄が記憶を掘り起こすというメタファーは悪くはない。地下に潜っていくというのは、ある種の記憶の回帰だし。

浅田さんは文章がうまいから、一つ一つの場面の状況が目に浮かぶようなんだけどね。
浅田さんのえらいところは、主人公の不遇を具体的に描かずに読者の想像にまかせているところでしょう。人間、生きていれば嫌な思い出があり、それと浅田さんの小説と重なり合ったりして、感情移入がしやすい。いわば、日本の土壌に慣れ親しんだ者でなければ、この小説を楽しむことはできない。サラリーマンの悲哀だとかね。こういうのを言葉や文章にしないで、わかるだろ、と迫ってくるように書かれている。なかなか憎いやり方です。
だいいち冒頭で、主人公の同期入社で社長になった堀田がきちんと登場するのは、最初だけ。そのあとはほとんど登場しない。これもなかなかいい演出。いろいろと想像をめぐらせることができるし、現代のサラリーマン諸君にも心当たりがあるだろうし、こういうのを下手に具体的な回想だとか、交流だとかを描くと、逆に感情移入を阻害するものになってします。
良くも悪くも、浅田次郎の小説というのは抽象性によって成り立ち、なんら具体性のない世界観を提示している。だからこそ多くの人の心をうつものでもある。
ただ浅田次郎はやっぱり短篇にかぎるなあと改めて思うわけです。浅田さんの長編はいくつも読んでいるけど、どれも途中でお腹いっぱいになる。北方謙三的な感じで、感動のインフレーションが起こっており、陳腐になっていく。短篇であれば、感動もハイパーインフレを起こさずに、コンパクトにまとまり、読後感のさっぱり。

ラストは過去と和解する。浅田さんは、とっても優しい方でどうぢようもない状況に立たされた人に手をさしのべていく。峰子の境遇は悲惨であるが、子供を地下鉄に置き去りにすることで、救われる。これはつまらない道徳からすれば、唾棄すべきことのように思うが、それでも子供は育つというもので、もし捨てなければ親子ともども死んでしまう。
未来を選択するというのは、そういうこともあるんだと。

2020/11/27

『天皇と東大――大日本帝国の生と死 上』 立花隆 文藝春秋

出版されてすぐ購入してすぐ読んだけど、売ってしまった本。今さらながら、書籍というのは売らない方がいい。いずれまた読むこともあるし、確認したいことなどもでてくる。十年ぐらい前に、蔵書を大量に売っぱらったことを後悔する。
現在、学術会議問題が盛り上がっている。大学の独立、学問の自由ということで、とりあえず戦前においては学問の自由はとりあえず保証されていたところもあるが、やっぱりあんまり不穏当なことはダメということで、発禁処分にあったり、釈明させられたり、免職させられたり。
学術会議問題については、とくに感想もなにもない。世には、世間が無関心であることが政府の横暴を招いたというような論調もあるが、何をいいやがる。学術会議以外でも重要な案件はあるが、それを無視し続けているのも学術会議ではないか。野党も野党だ。学術会議の任命拒否を政治問題化していったこと自体が問題だろうよ。まあいいです。
東大では戦前において、国体主義者、自由主義者、マルクス主義者などが混在している空間だったが、時代と共に国体主義、皇道主義一本となっていく。戦後は国体主義者は公職追放となり、マル系なんかが主流となっていく。
栄枯盛衰です。
以下、メモ程度で箇条書き。

民主主義の根本的な難しさは、政治がたとえ民主主義であっても、有司専制主義であることだ。情報公開が完全に行われることはなく、そのため物事を判断する上での情報を国民が持つことが難しい。というか、市井の人々が法律やらを読んでいちいちあーだこーだするなんてこと自体がありえない絵空事だ。

この理屈が、明治のころも有効であり、民権派の板垣退助、副島種臣、後藤象二郎らが民選議員設立の建白書をだしたとき加藤弘之は反対する。山県有朋もしかり。

悲しいことに日本の制度は明治のころのものを引き継いでおり、勅任官、奉任官、判任官の身分がそのまま残っているという。キャリアとノンキャリの区別は明治にできた。

東大における法学部優位が明治のころからのものだという。というのもの明治政府は近代国家として法治主義と近代法を整備するために、法律の専門家を養成することを急務としていたためだ。つまりは東大というのはそもそもが官僚養成機関だった。

福澤諭吉も大隈重信も私立大学を東大にような官僚養成機関として位置付けなかった。そして大隈の下野に多くの東大の学生が、大隈の立憲改進党に参加した。それによって官僚を目指さず、政党へと流れ込む現象が起きる。そのため、政府は法学部を卒業した者は完了になる私見を免除する優遇制度を与えたりした。

北里柴三郎が留学から帰ったとき、政府はポストを与えることもしなかったことに福沢諭吉は怒り、私立の伝染病研究所をたてる。ここに志賀潔も参加する。その後内務省管轄の国立となったが北里の知らないところで文部省に移管される。それにおこった北里以下研究員が全員が辞職したらしい。

とういうのも北里の伝染病研究所は抗血清、ワクチンの販売に成功しており、この製造所を手に入れるためだったようだ。北里はその後、また研究所をつくり、それが現在の北里大学となる。

内村鑑三の不敬事件教育勅語御親署を排する際、。どうも信仰のため頭を下げたくなかったと思っていた。しかしどうもそうではないらしい。内村はよく、仕方なくにせよ、偶像の天皇の御真影にお辞儀していたという。しかし、その日は御真影ではなく御真筆に対してで戸惑っていて、少しはお辞儀をしたらしい。だが、学生たちがお辞儀がたらないと騒いでことが大きくなった。

南北朝正閏問題について。北朝が正統なはずなのに、心情的に南朝に向かい、大学の講義でも「吉野朝時代史」と改められる。どういうこっちゃねん。

七博士建白書。帝国大学法科大学の教授たちが連名で政府に送りつける。日露間の戦争を促していく。義和団事件でのロシアの横暴を許すまじ、というやつ。ここで近衛篤麿が登場。近衛文麿の父。ナショナリスティックで活動家にも支援をしていたという。近衛を中心に対露強硬策をうちたて、世論を扇動していった。文麿も大概だが、篤麿も大概だな。とはいっても、冷静に開戦論への批判もあり、世論は沸騰したが、まだまだましだったよう。

戸水寛人は、かなりの強硬論を張っていて、なんとバイカル湖までとってしまえと主張していたようだ。そのため「バイカル博士」の異名も得る。戸水の戦争継続論などは、日露戦争の勝利にもかかわらず、妥協的な講和条約による世論の反発も相乗効果をなす。そして戸水は文部省から罷免させられる。
これによって、大学の独立と学問の自由が大きな争点となっていく。あの美濃部達吉も戸水に主張には反対であるが、政府が大学人事に口を出したことに批判を加えていく。
ポーツマス条約の波紋で東京は一時期無政府状況に陥り、戒厳令が出される。

白虎隊の生き残り山川健次郎。イエール大学をでて、日本人ではじめての物理学教授。当時物理理論の多くを教えていた。山川は千里眼事件にも噛んでいたようで、いくつか実験を行ったが、御船千鶴子が透視能力があるとは結論付けられなかった。とはいっても当時、透視能力を否定したというわけではない。当時は心理学、物理学などにおける躍進があり、人間の従来の学問を超えた現象が証明されつつあった時代でもあった。

森戸事件。山川健次郎は国家主義者でもあり、天皇へ畏敬の念を持っていた人物だが、森戸事件の際の森戸の学者としての姿勢、論文を訂正も撤回もしなかったことをほめている。この森戸事件は上杉慎吉がうらで糸を引いていたようで、上杉の人脈で山県や政府上層部をに働きかけていたという。そして森戸は起訴される。
ここでも学問の自由がいわれるが、戸水罷免のときとは異なり、美濃部も吉野作造も、森戸を擁護しなかった。ただし吉野は森戸の弁護人を引き受けるが。

上杉慎吉。帝国大学では、憲法講義を受け持っていたが、途中から美濃部達吉も憲法講座をもつようになり、かなりプライドを傷つけられた様子。上杉の憲法論は伊藤博文が念頭においていたものとは異なり、天皇親政をよしとしている。伊藤博文はシュタインの君主機関説をとっているので、美濃部の天皇機関説は政治家、官界では常識的なものだったが、上杉は主権は天皇にあり、統治者であり、被統治者は臣民で服従すべきとする。

上杉は木曜会、興国同志会、七生社をつくっていく。これらが右翼運動における源流となっていく。安岡正篤も上杉門下。
森戸事件後、報告会が行われるが、意気揚々と興国同志会が報告をすると、批判が相次ぐ。学生が独断で政府にお伺いをたて、大学の自治を犯したと。そして興国同志会は消滅していく。森戸は文部大臣などを行う。
大内兵衛なんかも面白い。労農派マルクス主義者であり、森戸事件に連座して失職する。大内は東大を卒業後、官僚になり、若月礼次郎や高橋是清のもとで財務を担当する。戦後は渋沢敬三の顧問をやるが大臣をやることはなかった。
マルクス経済学だとしても、大内は実務に明るい人物で、当時のマルクス経済学の一端をみることができる。戦後はさらに社会保障制度をつくるのに尽力した。

血盟団事件。一人一殺主義によるテロリズム。日蓮宗の国家主義者井上日召。
前史として、安田財閥の朝日平吾による安田善次郎暗殺がある。彼は北一輝に心酔していた。この朝日の問題意識は血盟団にも受け継がれている。汚職にまみれた政治家、財閥を一掃し、天皇と臣民との直接的な関係を結び直そうとするもの。
日本の右翼思想は、天皇主義を除けば社会主義思想と同じ。『資本論』を完訳した高畠素之は堺利彦と袂を分かった後に、上杉慎吉と組むことになる。これによって天皇中心主義と社会主義思想が一緒になっていく。北一輝は別ルートで社会主義の傾向をみせている。天皇が親政を行い、特権階級を排し、万民平等の公平公正な社会を実現する思想。「一視同仁」。
岸信介は、大学に残らずに官僚になるが、森戸論文にも好意的であるし、戦後も社会党から出馬しようとしたりしている。彼自身、北一輝に心酔した人物でもあり、やはし国家社会主義の思想を持っていた。

河上肇は当時共産主義思想のスターだったが、京都大学を罷免されたのち、念願の共産党員になる。しかし数か月で逮捕となる。転向はしなかった政治にかかわらず、引退宣言をする。満期で出所。

四元義隆、池袋正釟郎らが起こしたテロ事件。安岡正篤はインチキとのこと。重信房子の父は直接テロを行ったわけではないが、四元らと一緒に行動をしていたという。
海軍グループと民間グループで共に決起する予定だったが、上海事件で海軍グループは行動ができず、仕方なく民間グループのみで決起することにするが、結局は井上準之助と団琢磨の二人だけを暗殺するだけにとどまる。起爆剤としてテロを行う。
井上は大陸浪人をやっていたこともあり、テロ工作や情報工作にも精通していた。血盟団の若者たちは自分たちを「地湧の菩薩」と見なし、末法濁世から世界を救済する菩薩と見なしていた。
天皇が自ら政治を行うための革命。日蓮主義と天皇御親政。啓蒙の時代ではない、破壊の時代である。共産主義革命にも通じる革命論ではありませんか。
三月事件と、十月事件の失敗と上海事変。海軍の藤井斉は上海事変で死ぬ。
紀元節にお行う予定だったが、紆余曲折があり、井上は一人一殺で、テロをしていくことにし、計画は井上準之助と団琢磨の二人をテロっただけで終わる。
井上は頭山満の邸に出頭するまで住んでいた。公安たちは、事件の全貌がわかっておらず、井上が関係しているにしろ証拠がなかった。そして頭山に匿われているとなると手出しができなかった。

権藤成卿は、昭和維新と大化の改新を重ね合わせていく。しかもそのテロの正統性を偽書『南淵書』という文献から得、しかもこの偽書は権藤自身が書いた可能性が高いという。南淵請安は中大兄皇子に帝王学を教え、蘇我入鹿に天誅を加えるべきことを勧めるという内容のよう。しかもこの書は古事記より古いという設定だという。権藤先生、勇気があるな。権藤は日本国内だけでなく、中国、朝鮮にも幅広く人脈もっており、血盟団事件のあと高速されるが、簡単に釈放されてしまう。
権藤の思想は農本主義、農地解放、農村自救運動。なかなか興味深いが、偽書を書くという根性もすごい。四元らは北一輝から権藤の思想へとシフトしていったという。

五・一五事件は海軍と陸軍の青年に夜首相官邸を襲った事件だが、この事件は減刑嘆願がだされるほど世の同情をもらった。というのも彼らは義憤で立ち上がったのであるからだ。
天野辰夫はこの五・一五事件の不発を、なんとか挽回するために今一度クーデターを計画する。それが神兵隊事件だった。しかし杜撰な計画のため未遂で終わる。そして裁判では有罪だが刑は免除という奇怪な判決となる。「革命無罪」が実現する。

2020/11/05

『孔丘』 宮城谷昌光 文藝春秋

人こそ宝である、という信念の上に孔丘の学問がある。ゆえに孔丘の思想は温かい。(398)
宮城谷さんはよく書いたな。小説という形をとりながら、論語などの解釈を一つ一つ丁寧に開陳している。
たとえば、「不惑」は、孔子が周文化こそを思想の基底に据えることに確信したことだとしている。それが四十歳。
五十歳で天命を知るとは、斉を去り、魯に帰ることになったことを言っていおり、孔子にとって斉での就職活動の失敗から、一気に巻き返すことができるチャンスの到来が巡ってきたということだ。
こういう解釈もひとつひとつがおもしろい。
他にも孔子が「君子もとより窮す、小人、窮すればここに濫る」で子路が孔丘の独尊ぶりにいらだっているところだとか。聖人君子でも、飢えているときにこういうこと言われたら腹がたつものでしょう。

人間孔子の実像にけっこう近いのではないかと思う。
儒家が葬儀を司る集団だったところから書く。
孔子が革命的なところは何か。
礼を貴族だけでなく人間一般にまで広げたものとし、礼を政治的なマナーから人間の権力関係一般にまで広げたことか。
孔子は基本的に、政道にかかわる役職にないものが、政治をを批判することを驕りと考えている。きちんと地位を得てから行うべきというのが孔子だ。
そして徳において勝たねば、ほんとうに勝ったとはならない。正義には徳が必要であるとする。孔子にとっては人格的成熟や倫理的な姿勢をさしている。
「民を導くには徳を以てし、民を斉するには礼を以てするのがよい」。ここに人間の自立と他者との調和という孔子の根本的な思想を見出ししてる。
そして孝は徳の基本であるとする。このあたりが、なんかモヤっとするとこでしょうか。
国が乱れないため、無暗に下克上が起きないように、礼をもって国が統治される、っていうのは特権階級の温存でしかないと思いがちだが、実際は政務と執り行うものは専門家であるべきだという、いたってふつうのことを主張している。民主主義の世の中だと、パンピーでも政治ができると錯覚してしまうが。
ただ孔子は理想主義であり、あまりに現実離れはしている。国を乱さないために礼を普及させるというのは、いかにも人間に期待しすぎている。
しかしだからこそ「大いなる時代遅れは、かえって斬新なものだ」」(359)

たしか宮城谷さんの『太公望』だったと思うが、本書でも「天」についての考察が書かれていたと思う。殷は神々を占有し、そして自らを帝とし、神政を摂った。周はその帝を再度元の位置にもどした。天帝にかわる形而上的な存在、それが「天」であると。象はないが意志はある。天は自己規律の大本となった。
孔子は晩年に易に熱心になったというが、天命に従うというを、ある種諦念のようなものとして描いている。

2020/11/02

『オプス・デイ――任務の考古学』ジョルジョ・アガンベン/杉山博昭訳 以文社

キリスト教神学やギリシア語、ラテン語の詳しい解釈は、もう正直言って難しいが、言わんとしていることはわかる。
英語のdutyもラテン語からで、「~を負る」の意味をもっていて、本書でも「負債」を論じるところででてくる。
カント倫理学の厳格は、若いころの僕を魅了した。人間とはかくあるべきと理想に燃えるものです。しかし社会生活を営んでいく過程で、カント倫理学がいかに傲慢であり、そして非人間的であるかを思わざるを得ないわけです。
アガンベンの最後の提言への解答はどこにあるでしょうか。


祭司は善悪かかわらず、典礼を行うものは、キリストの秘儀の代理者として行う。つまり道具でしかない。典礼の実践では、秘跡の客体化の効能と価値と現実の主体は完全に独立している。だからユダから洗礼を受けても、無効にはならない。
「存在はいっさいの残余なく実効性と一致するが、それは、存在がただあるがままのものではなく、実行化され、実現化されなければならない」(85)。この有為性は効力と行為、作用と仕事、効果と実効性など決定不能になり。この決定不能性こそが、教会がおつ典礼の秘儀を定義付けている。作用、有為性自体が存在で、存在それ自体が有為的だという。(92)

「代理する」という用語はつねに他性を内包し、この他性の名のものとに「権能」ははたされる。しかしそれだけではない。ここで問題になる存在そのものが、人為的かつ函数的であることが重要なのである。「それゆえ、この事実は当の存在を定義して理解することを、そのつど、ひとつの実践へと送り返す。」(99)
これが典礼の秘儀の本質となる。

カテーコンというギリシア語をキケロは、オフィキウムと訳す。両者の特徴は、善悪とは関係がなく、むしろ義務を善悪に持ちこむことを諌めている。
キケロの『義務(オフィキウム)について』は、動作主の社会的条件を考慮し、ふさわしいことについての著作である。これは善悪とは関係なく、たとえばどう航海するか、それは状況によるというのと同じである。

本書によれば狭義のオフィキウムには責務や義務が生じないという(128)。キケロによればオフィキウムとは、名誉、礼節、友愛に属するものであるという。
さらにキケロはオフィキウムが「生のかたち」に関わっていることを示唆する。「生を監督する」「事物を統一する」ことが、「生の使用にかたちを与える」「生を設ける」ことを意味し、「生の創設」となる。

アンブロジウムは、このキケロのオフィキウムをキリスト教に持ちこむ。これによって祭司の実践に、本来は徳性を語っていたものが変化していく。それは、祭司の代務という要素と、神の介入、代務の実現、そして実効性を語るようになる。
神のエフェクトゥスは人間の代務によって確定され、人間の代務は神のエフェクトゥスによって確定される。この実効的一致は、オフィキウムとエフェキウムの一致である。しかし、この一致は以下を意味する。つまりオフィキウムは存在と実践のあいだに循環的関係を確立する。この関係にのっとって、祭司の存在はみずからの実践を定義し、他方、祭司の実践はみずからの存在を定義する。オフィキウムのもと、存在論と実践は決定不能となる。したがって、祭司は在るものとして在らねばならず、同時に、在らねばならないものとして在るのである。(148)
命令は行為ではない。しかし命令が他者性をもつことで意味がある。
そのふるまいから存在を規定されるのであり、その存在からふるまいを規定される。司宰者とおなじく官吏もまた、そう為すべきように在り、そう在るように為すべきである。現代の倫理だけでなくその存在論と政治をも定義する、存在から当為への返還がみずからのパラダイムを据える(154)
義務は法に対する敬意から生じる。義務という観念の起源は何か。
徳性は有為的状態であり、これはまさに有為的状態であるため、徳性の目的は執行そのものとなる。つまり徳性の目的はその有為性にある。
祭司の任務と徳性も、循環性があり、つまり「善もしくは徳性に満ちているのだとすれば、それがよくはたらくかぎりにおいてであり、よくはたらくのだとすれ、それが善もしくは徳性に満ちているかぎりにおいてである。(185)

レリギオ(religio)の理論が、徳性と任務を仲介する。神を敬うことは、それ自体は徳性であり、そしてそれは自由意志によってなされる。人間は神に負債を返す。トマス・アクイナスは人間が神に奉仕を負うことは、自分の主人に対して自発的に負うのと同じように必然的であるとする。自発的である限りにおいて、徳性は行為となる。徳性に満ち、有為的である行為は、義務の執行となる。神を敬うこと義務に向けられ、そして徳性を課される。
負債のもとで敬神は神の法に従うことであり、そこから法的命令に依拠する義務になる。そしてこの負債は完全に返すことはできないものであり、無限の義務が生じる。

カントにおいて、「徳性の義務」という概念があり、これが倫理の次元で徳性と義務を一致させている。「義務であると同時に目的」という概念だ。これはまさに教会が実践と理論化をとして行ってきた聖務・任務と同じとなる。カントにおいて神の地位にあるのが法である。カントは、法に対する純粋な尊敬をとおして行われるのが義務と定義される。
道徳律に関して強制とは、法による外的な強制ではなく、自己によって、尊敬することで自発的に行われる、自由意志と密接に関係する。カントは「尊敬」というものを「理性みずからが生み出した感情」とする。そしてこれは完全にアプリオリに認識する唯一の感情として位置づけていて、つまりはアプリオリな感情はもはや感情ではなく、意志が法に服従するという意識を単に表すものとなる。「尊敬は、主体における法の効果であっても、法の原因ではない」(208)
これはある種のパラドックスをなす。意志は自己強制として規定され、そして同時に衝動という主体というかたちをとることになる。
しかしカントは同時に、尊敬を消極的効果としても見いだし、そしてこの感情は法へ服従であり、主体に対する命令でもあり、行為することの不快を含む。そして尊敬の起源は謎のままとなる。

存在と当為を分離することはできない。「存在論が、そもそもの始まりから、そして実効性にかかわるのと同じくらい、命令にかかわる存在論でもある」(216)。当為は外部から存在に付与された法概念や宗教ではない。当為はひとつの存在論を孕み、定義する。
神学と形而上学がいよいよその版図を科学的理性に明けわたすその時、カントの思想が表わすのは、ある〔エスティ〕の存在論のただなかに、あれ〔エスト〕の存在論が世俗的に再登場したことであり、哲学のただなかに、法と敬神が破滅的に再浮上したことである。科学的知見の勝利に際して、カントは形而上学の生き残りを担保するべく、実体と存在の存在論のなかに、命令と当為の存在論を移植し、それらを作動するがままにした。このように形而上学の可能性を保証しようとし、それと同時に、法と敬神ともかかわりのない倫理を創設しようとしたのが感とである。しかしいっぴうで彼は、オフィキウムと有為性という、神学的-典礼的伝tプの遺産をいっさい職名することなく受け入れ、他方では、古典的存在論に対して永遠の離別を告げた(222)
規範は規定された事実とふるまいが一致しないのと同じで、命令もまた命令による構成される意味と意思の行動は一致しない。規範はたんに任毛がなにかしらの仕方でふるまわなければならないことを望んでいる。
もし存在が、在るのではなくみずからを実現しなければならないのだとすれば、そのとき存在は、みずからの本質において、意志であり命令である。翻って、もし存在が意志なのだとすれば、そのとき存在はただ在るのではなく在るべきである。それゆえ、到来する哲学の問題とは以下を思考することにある。つまり、有為性と命令の彼方にある存在論を、そして、義務と意志の概念から完全に開放された倫理と政治を。(233) 

2020/10/30

『ママ、最後の抱擁――わたしたちに動物の情動がわかるのか』 フランス・ドゥ・ヴァール/柴田裕之訳 紀伊國屋書店

情動とは何か
情動は、私たちは十分に理解できない複雑な世界で舵取りをするのを助ける。情動は、私たちが自分にとって最善のことをするのを確実にする、体なりの手段なのだ。しかも、必要とされる行動をとれるのは身体だけだ。心は単純では役に立たない。周りの世界とかかわりを持つには体を必要とする。情動は、これら三つ、すなわち、心と体と環境の接点なのだ。(114)
ドゥ・ヴァ―ルによる情動(emotion)の定義。
情動とは、当該の生き物にとって意味のある外的刺激によって生じる一時的な状態である。情動は、体と心(脳、ホルモン、筋肉、内臓、心臓、覚醒状態など)における特定の変化を特徴とする。どの情動が引き起こされているかは、その生き物が置かれた状況からも、その生き物の行動の変化と表現からも推測できる。情動と、その結果として生じる行動との間には、一対一の対応関係はなく、情動は個々の経験を環境の評価と組み合わせ、最適の応答ができるようにその生き物に準備させる。(114)
感情は意識的な経験であり、情動の経験を自覚した時にのみ、感情へと変化する。「だから私たちは、情動は示すが、感情については語る」(11)。情動は身体的表現であり、感情は内面にとどまる。
動物行動学のような機能的解釈は、情動を語るのを避ける。ラットが馬やヘビを怖がるという表現は慎むように言われるが、なぜそんな必要があるのか。
共感は中立的な能力だとする。(139) 他者を思いやるにせよ、拷問をして痛めつけるにせよ、この共感という能力は使われる。他者を助ける利他的行動を起こす。
人間は言うほど利己的ではないし、自らを犠牲にしてでも他者を助けることはよくある。

情動の背景にある豊かさと深み
微笑みが「幸せな」顔だと判断されがちだが、微笑みの背景にはもっとずっと豊かな意味がある。他者を喜ばせる必要性や、不安な他者を安心させる意図、歓迎の態度や服従、愉快さなどで、単一の意味を持っているわけではない。微笑みは服従と敵愾心の欠如を表すことから、親愛の合図に変化していった。笑いはくすぐりあいなどの遊びの標識として始まり、絆作りや健全さのシグナル、そして面白さや幸せのシグナルへと変化していった。この二つの表現はしだいに近づき、混ざりあっている。
「自分のよからぬ振る舞いについて後ろめたく感じると言って謝罪する人のも、私はいつも納得いくわけではない。むしろ私は、無言の後ろめたさの「ほうが好ましいと思う。」(205)
へーと思うのが、海外でも偽りの涙や、謝罪の形式というものがあって、有名人の謝罪なんかはこの「非謝罪」「偽謝罪」を使うようだ。んー人間は普遍的だね。
「嫌悪」という情動は、文化的現象が背景にあり、後天的なものと扱われることもある。虫、排泄物に対する嫌悪だけではなく、道徳的な嫌悪も同じで、近親相関や詐欺などに対する嫌悪もそうだが、しかし動物も人間と同じように

動物への不当なまなざし
動物、特に哺乳類、類人猿は、人間と近い情動を表す。同一ではないかもしれないが、人間が使う表現で表すことはできる。動物はこれらの情動に沿って、返礼、復讐、赦し、そして未来を予期することもする。犬だって何かを「期待」して行動をしている。
人間と動物にはそれぞれ」異なる言葉が使われる。「自負」と「優位性」、「恥じる」と「服従」あるいは「下位者」など。動物を語る差異、機能にかかわる言葉を使い行動の背後に感情がることを意図して無視する。
行動心理学からすると「愛」は否定され、そこには生殖だけを問題にし、動物が自負を見せれば、それは単なる自己顕示だと言う。生物学ではこれを「分析レベルの混同」として知られているようで、
情動が行動の背後にある同期にかかわるものであるのに対して、結果は行動の機能にかかわる。両者は切っても切れない間柄にある。どんな行動も、動機と機能の両方を特徴としている。私たち人間は、愛するとともに生殖もする。自負を感じるとともに相手を畏怖させもする。渇きを覚えるとともに水を飲みもする。恐れるとともに自分を守りもする。嫌悪を感じるとともに体を清潔にする。(224)
チンパンジーの母親が自分の子を他人に奪われたとき、母親は関心がないふりをする。へたに奪った者を追いかけたりすれば赤ん坊に危険が及ぶことを知っているからだ。だからあえて無関心を装ったり、冷静さを保つ。しかし子供を取り返すと、奪った者たちを力いっぱい威嚇し怒りを発散させる。ここにも情動の抑制がみられるし、そして物事の対応へのある種の「合理性」を見出すことができる。

現代社会では受け入れられるか
現在では人間の社会構造を分析し、それを肯定することは、道徳的に批判を受けることになりかねない。例えば、会社で上司にゴマをすったりぐらいならまだいいが、部下が上司に気を使ったり、上司の顔色を読んだり、上司が気に入った人物を特別扱いしたなどなどはは、「閉鎖的」とか言われるが、人間特有の特質ではなく、動物も構造は異なるにせよ、持ち合わせている。こういう現象は、人間が特別な存在ではなく、動物一般に見られ、人間が動物であることの証拠である。
権力はいかなる人間関係の間にも存在する網の目のような力関係であり、人はそれから決して逃れられない。
そして人間の社会は、整然として見えるが、規則を守らない者には刑罰と強制によってなりたっている。「人間であれ動物であれ、結果を考えずに情動に屈することほど愚かな行動はない」(52)。動物は機械のような生き物ではない。自らの情動を抑えて行動をしている。食べ物を狙うときだって、情動の従って闇雲に襲うことはないのもその証左となる。
つまりは、人間社会というものの悲しい現実に直面せざるを得なく、またそれは必然でもあるという悲しさ。
だからといって、よりよい社会、よりよい人間関係を目指しても無駄だということではなく、人間社会の不平等や不寛容を批判する際に、フェミニズムや合理的・理性的思考をもって批判すること自体が無効化されていくと思われる。
さらに、ある種のタブーも書かれている。
ボノボの研究で孤児となった子供は、共感能力を著しく損なわれるということがわかったようだ。母親とともに育った場合情動のコントロールがうまく、調整することを知っている。孤児の場合、自分の情動の波をどう処理していいのか、難しいようだ。そして孤児のボノボは他者を気遣ったり、慰める行動は少ない。
これを人間社会でもそうなのではないかとして研究をすること自体が難しく、結果がでてもそれを公表しずらい時代でもある。しかし動物を対象にしていれば、雄弁にも語られる。

哲学は有効なのか
「文明は何か外部にある力ではなく、私たちそのものだ。」(261)霊長類は社会生活とは切っても切れないものであり、文化が社会を構成するのではない。生物学的特質と社会は密接に関係しあっている。
猿たちは、自分のご褒美と他のサルのご褒美の比較をし、それに満足や不満足を示す。つまり猿たちも他者を観察し、見積り、比較している。人間だけでなく猿たちも相対的な世界で生きている。ロールズへの批判として、正義の原理は嫉妬とは無縁の人びとが選ぶべきものとしており、そうするある矛盾に行きつく。つまり嫉妬のない世界であれば、公平さに配慮する必要がないからだ。ロールズのような合理的な議論は、道徳原理が情動から力を得ていることを無視している。(290)むしろこの情動の存在を認めて社会を構築していくべきだ。
哲学では、贈与や負債などの概念が、人間に特有のものとして展開されるが、「おもいやり
」や「後ろめたさ」といった情動が動物にもあるのなら、宗教や社会制度によって構築されていったとされるこれらの概念が危うい状況になるかと思う。
ということで次にアガンベン『オプス・デイ』を読むことにする。

2020/10/24

『イワンのばか』 トルストイ/金子幸彦訳 岩波少年文庫

「イワンのばか」の話は、そらくは小学生か中学生ぶり。そういえばこういう話だったなーと思い出に耽る。トルストイ先生は、やはり根っからのヒューマニストである。一生懸命に、手にタコができながら、畑を耕して働く人間の尊さと書く。
そもそも本書に収められている「カフカースのとりこ」を読むために本書を繙いた。
当時から、ロシア人とチェチェン人はいがみあっていたようですね。トルストイは特にタタール人を悪くは書いていない。
最後に
「これがぼくの帰郷と結婚だったのさ! いや、二つとも、ぼくには縁がなかったようだね。」
と言って、カフカースで任務を全うしたと終えている。
これはどういう意味なのか。
この話は、他の短篇とは異なり、あまり人生論や道徳を語っていない。主人公のイワンが帰郷途中にタタール人に捕まり、タタール人と仲良くもなりつつ、逃げるための準備をする。一回目は失敗するが、二回目タタール人の少女ジーリンの助けもあり成功する。
トルストイはタタール人の村のある老人が、家族を殺されたことでロシア人を憎んいると書く。

2020/10/23

『阿片王――満州の夜と霧』 佐野眞一 新潮文庫

里見甫や満州国の阿片金脈を知りたかったが、悪い意味で期待を裏切っる。里見よりも愛人関係や周辺の人物のことばかりであり、おそらくは佐野眞一は群像劇を狙ったのかもしれないが、失敗している。梅村うた、淳の複雑怪奇な家系図や人生に相当なページを割き、満州国の蠱惑的雰囲気をだそうとしているが、ぼくは失敗していると思う。
梅村うたと多彩な政界、財界人との交流は、どうみても誇張しすぎとしか言いようがない。ノンフィクションとして焦点を合わせて、満州裏面史としては、まあそういう人生もあるというだけで、それが歴史とどう結びつくのかが不明瞭であり、かつ強引すぎる。時代にほんろうされたというならわかるが。それに梅村淳についても、はっきりいって消化不良であり、淳が満州で阿片の運び屋をしていたというが、その具体的な方法やどう関わっていたのかが書かれていない。淳がどれほど里見にとって重要な人物であったのかもわからず。
がっかりしたのが、満州国が阿片王国であったことは、興味がある人にはすでに知っていることだが、その莫大な阿片が満州国の繁栄にどのように使われ、そして日中戦争を戦ってきたのかもよくわからない。東條英樹と阿片についても、とっても重要なことなのにあっさりしか触れていない。
そして、佐野眞一だけではないのだが、ノンフィクション作家の癖というか習性なのか、関係があるのかどうかわからない人間関係が網羅されていて、はっきりいって何がなにやらわからなくなる。吉野作造の弟である吉野信次が梅村うたとアメリカで出会っていたことや湯崗子のホテルから日本に期間したあとに会いにいった話など、これって本当に書くべきことなのか。だから何だというしかない。取材過程を書くのはいいが、吉野信次と知り合いだったから何なのだ。こういう小枝が多すぎて、結局だから何なんだという感想が浮かぶのみ。
多くの点で不満足すぎる。満州の壮大な実験が戦後日本の高度成長期を実現させたとかなんとか。半分は本当だと思う。前間孝則氏の『亜細亜新幹線 幻の東京発北京行き超特急』あたりでは、佐野がちょろっとしか触れていない特急「あじあ号」について詳細がわかるし、そして新幹線との関係が語られている。

収穫といえば、里見が中国との和平工作を動いていたという記述で、太平天国の乱を鎮圧した曾国藩の末裔である老三爺を介して蒋介石、毛沢東と交渉をすすめようとしていたらしい。
その条件が
1 日本の即刻内閣の総辞職
2 満州国、そして権益を含め、手放すこと
3 台湾の後協議
4 以上の条件がのめない場合、日本は首都を長春に遷都して、徹底抗戦をする。
これらの条件について、よく意味がわからない。とくになぜ1辞職をせねばならないのか、そして満州を手放す云々であればポツダム宣言と一緒であり、当時の鈴木貫太郎首相が勝手に内閣に内緒で根回ししたとは思えない。3はいいとしても4はあまりに荒唐無稽すぎる。おそらく里見も個人の意見として中国との和平を望んでいただろうし、そのためにどうすればいいかという考えもあっただろう。具体的に動いていたのかどうかまではわからないようだし、ソ連の参戦でおじゃんになったという。
ここでも佐野はあまりに深くこのことを突っ込まない。なぜ里見は以上の条件を提示できると考えたのか。ポツダム宣言を里見は知らなかったにせよ、上記の条件で日本政府が動くわけがない。
満州国通信社について、宏済善堂について、里見機関について、すべて中途半端。
満州国通信社を作った里見がなにをこの会社でなしていたのか、そして里見機関がどのような組織で、阿片の売買のルートなども靄っとさせたまま。結局はわからないというのが正直なところだろう。資料だって残っていないのだし。
結局、満州国と里見の関係は暴かれることなく、里見の阿片王たる所以もわからず、たんに里見の女性関係と、里見が笹川良一や児玉誉士夫などの金の亡者とは一線を画すのです程度の内容が書かれているのみ。
タイトルが『梅村うたと淳 里見の愛した女たち』みたいなタイトルなら納得だけど、ひどいよ。里見がなぜ阿片と深く付き合うようになったのか、どのようにネットワークが構築されていったのか。重要な証言として、里見は国民党にも阿片の利益を流していた。この事実をなぜもっと広げないのだ佐野!! 単に中国で商売しなければならない手前蒋介石にも恩を売る必要があるのはわかるが、しかし、とっても重要なことだろうよ。敵国に援助していたのだから。
まあつまりです、里見を知りたくて読むには適していない。単純に満州にかかわった女たちの生きざまというノンフィクションとしては面白いとは思う。

2020/10/22

『ニュルンベルク裁判――ナチ・ドイツはどのように裁かれたのか』 アンネッテ・ヴァインケ/板橋拓己訳 中公新書

日本ではなぜかニュルンベルク裁判の書籍がほとんど出版されていない。東京裁判関係は山ほどあるのにもかかわらずだ。東京裁判の枠組みをつくったニュルンベルク裁判を知りたくても難しい状況だ。
んで、この小さい書物なのだが、はっきり言って入門中の入門で、かなり不満すぎる。ウィキペディア級のことしか書かれていないというか、ウィキペディアの方が詳しいし、変な訳語もなくていい。
ニュルンベルク裁判の成立については、かなり興味があるんだけど、まあ入門書でもあるのでさらっとしか書いていないが、そもそもイギリスは裁判形式をせず、銃殺してしまえという態度だっとなんて知らなかった。そうすることで、単純に有耶無耶にもできうるし、ところがスターリンが裁判形式を支持してしまうらしい。
このあたりの詳しい状況を知りたい。
さらには「モーゲンソー・プラン」という過酷な制裁もアメリカは考えていたようだ。
んー気になるね。もっと詳しい事情を知りたい。

とりあえず、本書で重要なのは、ニュルンベルク裁判が、単にナチス指導者21人を裁いた裁判ではなく、他のエリートたちを裁く12の継続裁判も重要視していることで、むしろこれらの諸裁判を含めて「ニュルンベルク裁判」と呼ぶべきものであるという。
医師裁判
ミルヒ裁判
法律家差異案
ポール裁判
フリック裁判
IGファルベン裁判
南東戦線将官裁判(人質殺害裁判)
親衛隊人種・植民本部(RuSHA)裁判
行動部隊裁判
クルップ裁判
ヴィルヘルムシュトラーセ裁判(諸官庁裁判)
国防軍最高司令部(OKW)裁判

1945年以降のドイツの歴史認識やら言説なんかは、日本とあんまり変わらないのかなと思うし、敗戦国の宿命とも言える。勝者の裁きだっていう声だって普通に存在してもおかしくないし、一億総懺悔よりもいいような気がしないでもない。
ニュルンベルク裁判はドイツを裁くために行われたにせよ、日本でも適用され、そしてハーグ国際刑事裁判所へと繋がっていく

芝健介『ニュルンベルク裁判』岩波書店
クリストフ・クレスマン『戦後ドイツ史1945-1955――二重の建国』未來社
石田勇治『過去の克服――ヒトラー後のドイツ』白水社
このあたりを今度読んでみるか。

2020/10/21

『漂泊のアーレント 戦場のヨナス――ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』 戸谷洋志、百木漠 慶應義塾大学出版会

ヨナスとアーレントのちょっとした入門書にもなっているし、いい感じ。
アーレントの入門書は多く出版されているが、ヨナスは共著者の一人である戸谷洋志さんの『ハンス・ヨナスを読む』(堀之内出版)という本ぐらい。こちらは未読なので何とも言えないが、ヨナスって環境倫理や生命倫理のの分野では活躍した人という程度しか知らなかったし、読んだこともないが、面白そうじゃないですか。
しかし、ヨナスの本は難しいそうで、本書ではかなーりわかりやく解説しているが、翻訳でも原著にあたるとすると、おそらくは理解できない恐れがある。とくにハイデガー用語を使われたら一巻の終わりで、だってハイデガー・ジャーゴンはあまりに抽象的で、その抽象的な用語をこねくり回しているなら、そりゃもう読みにくいこと疑いない。

アーレントの思想の足跡をみるのも非常によくって、『エルサレムのアイヒマン』で展開されている「凡庸な悪」という概念は、『全体主義の起源』で展開されていた「根源的な悪」とは、全く異なる、自らを否定するものになっていて、アーレント自身がそれを認めていた。そして、「活動」ではなく、「精神の生活」へと展開していく様子。

他にも、著者はなかなか面白い指摘をしていたのは、アーレントの「出生」概念について、ある種の齟齬で、アーレントは私的領域と公的領域を玄覚に区別していたが、「出生」にあたってはその区別がない。政治的に人間がはじまるのは、人間の誕生によって保証されるとアーレントは説く。
このあたりのアーレントの思想遍歴をみるうえでも非常によくって、しかもヨナスの思想との対比がアーレントの思想を浮かび上がらせている。

よく思うのだが、ある人物の入門書を読んでいて不満なのが、同世代との比較、そして過去との比較が一切なく、単にアーレントならアーレントのみの思想や、フーコーならフーコーのみを語る入門書で、これだとなにがアーレントの特異さなのか、何がフーコーの狂気なのかがわからずに終わる。
その点、本書はヨナスとアーレントとかなり興味深いうえに、お互いがどのように影響していったのか、違いはなんなのかが考察されているので、とってもよかった。

ヨナスの論理を追うと、生命を還元論で説明しようとすると、ドーパミンがどうの、フェロモンがどうも、そして細胞を細かくみれば炭素だとかの元素に帰し、それには生命と呼ばれるものがなく、死のみとなる。
そうなると、刹那的な生き方やニヒリズムへと行きつく。
ヨナスは戦争体験によって、ハイデガーの「世界-内-存在」などといった上品な概念では捉えつくせない人間の脆さを知る。飢えや劣悪な衛生環境、一瞬で殺されていく人間たち。
ヨナスの哲学的生命論では、有機体のうちに精神を基礎づけるという点で、生物学的な生名の理解を回避するものであり、同時に、精神のうつに有機体を基礎づけるという点で、ハイデガーのニヒリズムを克服しようとする。つまりそれは、「一方では観念論および実存主義の人間中心主義的な制約を、他方では自然科学の物質主義的制約を、ともに打破することを試みている」。(181)
死の存在論を相対化して別の存在論を打ち立てようとしていた。

重要な概念の一つに「代謝stofwechsel」があり、外部を取り入れながら内部と交換していく働きを、有機体の本質として取り上げる。つねに代謝を繰り返すことは、生命の個体の同一性が、その個体をこうせいしている物質の同一性では説明できないことになる。(182) 
ヨナスの倫理学でおもしろいのは、やはり「子供への責任」「未来への責任」で、これって現在が見知らぬ未来に責任をもっているということだから。ヨナスの場合、ここで未来を語ることの難しを承知していて、通常では未来をバラ色に描くことはできけど、実際はぼくらは現在にしか生きることができない。バラ色の未来なんてものは保証されていない。
ヨナスは形而上学的な公理を提示する。生命をそれ自体で善なる存在であり、存在しているだけで価値をもつ存在である、という。これは実証的に結論付けられた公理でもなんでもなく、単なる仮想ではあるが、これは死の存在論と対置するためにも必要で、ヨナスはここであげる事例が興味深い。
生まれたばかりの子供の呼吸、ただそれだけで反論の余地もなく、自分を世話することへの当為を向ける。子供は大人に世話の当為を喚起させる。これを説明するために、家族愛では説明できない広がりがあり、契約や合意といったものでこの責任を論じることもできない。これをこの責任を説明するためには、子供の存在それ自体は勝ちを持つ、と考えるしかない。赤ん坊の「呼び声」。

アーレントとは異なり、ヨナスは第二次世界大戦の経験から、神を語ることの虚しさを共有していたが、それでも形而上学的な概念が必要であることを説く。アーレントは「一者のなかの二者」としての自己内対話から導き出す「良心」と「判断」を重視していたが、ヨナスは、究極的なもの、普遍的なものへ向かう倫理を目指していた。ヨナスは究極の、破局的な終末の状況は、それ自体は究極的なものであり、だからこの究極的状況を語るためにも究極的な知をさぐる必要があると。

歴史認識についても、ちょっとおもしろい。歴史的な理解の正しさの正しさを問う。
人間の歴史は、ある特定の文脈に支配されており、それは一回きりの出来事であるから、人間が過去を理解することは不可能なものとなる。結局は「私」による理解にすぎないとなる。いや、今も昔も人間の思考は一緒だとすることもできる。
ヨナスはここでそもそも正しさの正しさを問うていく。ここでもヨナスは赤ん坊を事例に上げていて、おもしろい。
赤ん坊が微笑むのは、微笑みがなんであるかを経験していて、理解しているからではない。母親が微笑み、それに微笑み返し、そして微笑みが喜びであることを理解する。赤ん坊は自らの内に潜む可能性に触発され、理解していく、というのだ。
にゃるほど。

アーレントにとって「責任」とは、大人のみが参加する公的領域で成立するものであり、ヨナスの「乳飲み子への責任」というのは私的領域に属すると考える。子供への責任というのが、ある種の生命至上主義という普遍的真理となことを恐れたのではないかと著者は言います。僕もそのとおりだと思う。「乳飲み子への責任」というのはある種の脅迫感じなくもない。
単純に、その責任がはたして正しいのかどうかが、結局は未来の人間が判断せざるを得ないのだから、現在の人間が未来の責任を担うってかなり傲慢でもあるような気がする。がしかし、と堂々巡りなる。

2020/10/14

『山県有朋と明治国家』 井上寿一 NHKブックス

以下、箇条書きで。

徴兵制のジレンマがあり、山県は士族の特権を排し、国民皆兵を目指すが、山県は自由民権運動などの国民運動に否定的で、しかし徴兵制はその国民を徴兵するものであるから必然的に軍に自由民権運動のような思想が流れ込むことになる。それでも1873年に徴兵令が発せられた。
そしてだからこそ軍人勅諭がつくられる。軍人たるもの政治に関与してはならず、天皇への忠義を説く。
参謀本部の独立は統帥権の独立であり、これが太平洋戦争のときに悪用される。しかし、軍の政治からの中立を必要としていたため、参謀本部は独立機関となり、陸相から軍令事項の権限から切り離された。とはいっても、これをもってシビリアン・コントロールは崩れたとは言えない。参謀本部が内閣や陸軍より優位であることではないし、政治から切り離し、作戦、用兵を立案する組織は「強兵」の面から必要であり、前提条件だった。
この軍の改革は地方自治にも通じ、地方の富裕層、地主などが地方自治制度の中心に据え、秩序を与えようとした。そしてこれら地方自治から有力者が国政に進出できるようにする、そうすればみだりに空論を弄する輩が現れず、秩序が保てると考えた。

1885年巨文島事件が起き、山県はイギリスとロシアの衝突を危惧する。またカナダの太平洋横断鉄道やシベリア鉄道によって近い将来日本は危機に直面すると予想する。山県は外交の重要性を承知しているが、その裏付けには軍事力が必要だと考えていた。しかし軍拡張をするにせよ、予算が足りない、増税すれば内政の不安定になる、という現実があった。

山県は1888年に二度目のヨーロッパ視察に行き、そこでシュタイン教授から、シベリア鉄道によってロシアの脅威が直接日本にはあまりないこと、イギリスの極東での脅威は限定的であることを説明し、主権線だけでなく利益線を守ることを説いた。
朝鮮永世中立国化を目指す。ヨーロッパで帝国主義的対りが激しくなり、イギリスとロシアの関係は怪しくなっていた。極東でイギリスとロシア、日本での朝鮮中立化がなればロシアにとっても利益になる。山県は日清英協調路線を目指していた。しかし朝鮮の政府が中立化の意志がなければ達成できない。そのため日本は朝鮮の内政改革に乗り出す。そんななか1894年2月に甲午農民戦争が起こる。朝鮮政府は清に派兵の協力を打診する。日本は朝鮮から協力が得られなければ兵をだすことはできない。
日本の出兵はあくまで居留民の保護が目的で、戦後歴史学で非難されていた侵略ではなかったと考えられる。いずれにせよ朝鮮政府からの要請が必要だった。
しかし5月末ごろ大鳥圭介らがこれを機に内政改革の機会にもなると説く。

山県は伊藤博文の主導する政党政治に否定的だが、とはいっても超然内閣を組閣するこはできない。だから第二次山県内閣のときでも議会の多数派を味方にする必要はあった。だから政党を操縦するためにも憲政党との提携をなしていく。
山県は憲政党との妥協で地租をあげる案も譲歩して予定よりも低くした。しかし、山県は軍部大臣の現役武官制を制度化し、文官人用例を改正し、次官、局長級の勅任官の任用規定によって資格制限が定められた。

1900年、伊藤は政友会を組織する。とはいっても伊藤も政党よりも国家の優位を主張しており、そのところでは山県とも共通している。第一次桂内閣では増税を撤回させるかわりに、海軍拡張を受け入れたりとしていた。政友会からすれば裏切りだが、伊藤は国際情勢をみれば山県と同じ認識であり、国家を優位とする考えからは政党は二の次だったようだ。その後伊藤は政友会での地位が彩湯くなり、枢密院議長という閑職につくことになる。

伊藤の日露協商路線か、それとも山県らの日英同盟かは、両人にとっては手段の違いでしかなく、基本的な認識は共有してたため、どちらもお互いの路線を反対はしていなかった。

赤旗事件、大逆事件、南北朝正閏問題などで社会不安が巻き起こっていた。そのため桂内閣では思想統制法をだし、しかし社会不安を抑えるためにも教員の待遇改善、貧民救済事業、工場法を整備していく。

第二次桂内閣までは山県の政党間における権謀術数が可能であったが、明治天皇が死んで、桂が新党構想をはじめたころから憲政擁護の運動が活発になり、第三次桂内閣のときに民衆運動が直接、倒閣を実現した。

第一次世界大戦には日本は関わりたくはなかったが、当時はまだイギリスが勝つかドイツが勝かはわからない状況で、ただ日英同盟の関係上、ドイツの租借地である膠州湾攻撃を決める。山県は反対ではあったが、攻撃するにせよ、ドイツ側には日英同盟上のいきがかりであることを説明し、信義にもとづくべきと主張する。山県は日英同盟に重きを置く加藤外相に不信をもっていた。しかし一方的な宣戦布告が行われてしまう。
同時に、山県は中国との関係も良好であることを望んでいた。辛亥革命によって袁世凱政権ができ、日本の政策を変えざるを得ないにしても。
膠州湾をとったところで、戦後に中国に返還しなければならない状況に追い込まれる。だからこそ中国との関係を良好にすべきだった。満蒙問題でも袁世凱に日本は信頼できるものであることを主張しなければならなかった。
そこででてきた山県のレトリックは「人種競争」だった。ただしこれは有色人種の同盟をいみしているのではない。欧米に対して説かれているものではなく、あくまで袁世凱政権に対してのレトリックだった。これによって信頼回復を目指した。

日露関係にしても、当時はまだロシア革命がおきるとはだれも予想していなかったし、山県が日露協商を重要視していたにせよ、日英同盟を軽視していたわけではない。あくまでバランスの問題なのだ。1916年の段階で、日英同盟と日露協商によって山県が思い描く多角的な列国協調路線を実現していた。
山県と原敬は日米関係の重要さを強調していた。
大隈内閣は選挙で勝利し、軍艦建造費と二個師団増設を承認させる。山県にとっては朗報だった。とはいっても外交問題では原敬を失うことは出来ない。大隈は1915年に袁世凱政権に対して対華二十一か条の要求をつきくける。理由として第二条七条の満蒙についてで、関東州租借地の起源が1923年に切れるため、その対応という側面もあったが、第五号などが帝国主義的な要求でもあり、しかも日本は列強にそれを隠していたことがバレて、アメリカにリークされる。
山県と原が恐れていたことで、日本がこれで孤立する可能性もある。山県にとっても満蒙を手放す気はないが、中国との関係も重要視していた。要はやり方だった。これによって加藤外相は辞任、大隈内閣は倒閣となる。
後継の寺内内閣ではアメリカとの関係修復のために石井=ライジング協定を結ぶ。アメリカの主張する「門戸開放」を掲げつつ、日本の権益を認めるものだった。そしてそれは対華二十一か条の要求の中核部分をアメリカが認めたことになる。
ロシア革命とドイツの敗北によって、日本の外交が変わる。日露協商は破棄される。
そんななかイギリスよりロシア革命への干渉のために日本へシベリアへの出兵を打診される。山県はシベリアへの出兵に対して、日本の単独行動は不得策であり、アメリカとの協調を重視し、また軍費の調達を明確すべきことを意見する。
日本の経済はアメリカ依存をしていて、そして一度シベリア出兵すればすぐに撤兵はできない。だから慎重にすべきとなる。3月の時点ではアメリカは日本の出兵には反対し、その相談があったことにアメリカ政府は満足していることが伝えられる。しかし7月にあるとアメリカからシベリア出兵の要請がくる。しかし山県は慎重論だったが、意見書の条件を満たすこともあり、出兵をさせる。このあたり一貫した考えと、リアリズムで徹底されている。通常意見書は反対のためにおこなわれるもので、たとえ条件を満たしてもさらに条件をたして見送らせようとするのが常であるのに、ここからわかるように山県はシベリア出兵への反対というのは、筋が通っていた。

1918年7月、米騒動は起きる。第一次世界大戦の好景気は薄れ、米価が高騰していく。しかしこの米騒動はロシア革命のような性質ではなく、自然発生的で組織的なものではなかった。山県も原も重々承知していた。

第一次世界大戦後、アメリカが世界の外交を主導するようになり、山県それに反発するが、理想主義に陥らずに英米本位の平和主義へと順応していく。講和会議では、人種平等を掲げつつ欧州が反対するので引っ込め、そして山東の権益を獲得するという実をあげる。ここでも「人種」はレトリックにすぎない。
山県はあくまでも協調主義をとっており、ワシントン会議において、英米が親中であることがわかり、山東からの撤退をさせる。さらに国際連盟への加盟も当然とし、さらには旧時代に締結された日英同盟もワシントン会議という国際協調路線という新外交の枠組みから破棄されること受け入れる。これは日英米仏による国際条約でもあった。そしてもう一つシベリアからの完全撤退を原内閣とともに実現させる。
原内閣になると普通選挙運動、民主化運動が急進的になっていく。原は民主主義に賛成だが、時期尚早とみていた。そのため吉野作造などの知識人から批判される。

近代から今日までの国民国家にとって、軍部の存在は基礎的な条件でありつづけている。国民国家であるということは、国民軍隊をもっているということである。日本が近代国家をめざす以上、誰かがこの基礎的な条件を整えなくてはならなかった。誰が引き受けたのか。山県だった。……徴兵制による国民軍の創出に勤め……軍政改革をとおして、日本の国家的な独立の危機に対応した軍事的リアリストだった。(236-237)

 

明治国家の権力を強調し、そのもとでたえず抑圧される「民衆」という歴史観では、帝国憲法を前提とする国家体制であっても、斬新的な民主化が進んだ政治過程を説明することはむずかしい。他方で「民衆」が民主化の中心だったとする歴史観にも無理がある。民主化は運動だけでは実現しない。民主化を可能とした近代的な諸制度を整備したのは、国家権力の側、政治指導者であり、国家官僚だった。要するに、多元的な権力関係の明治国家をとらえることがきる歴史観によって、日本近代史像を統合すべきである。(241)

 

途上国において軍部がその国の近代化を主導することは不思議ではない。第二次世界大戦後、あらたに独立した東南アジア諸国が程度の差はあれ、そうだった。これは開発独裁体制といってもよい。山県の政治的な役割も同じだった。明治維新革命後の途上国日本は、山県のもとで開発独裁体制の確立を志向した。……国家と国民の一体感は過渡に協調すべきではないだろう。幕末維新期の国家的な独立の危機が国家と国民の間の共通の明式だったのは、日清戦争までである。……開発独裁体制の確立をめざして出発した明治国家は、条約改正問題をとおして、西欧化が不可避となったからである。西欧化とは政治的な西欧化を含む。僧である以上、帝国憲法のもとであっても、選出勢力による政治が展開する。国家的利益と非国家的利益の噴出によって、多元的な政治対立が生まれる。……客観的には近代日本の斬新的な民主化の過程が進んだ。(242-243)
1874年(明治7年) 台湾出兵
1875年(明治8年) 江華島事件
1877年(明治10年) 西南戦争
1884年(明治17年) 甲申政変
1885年(明治18年) 天津条約
1889年(明治22年) 朝鮮永世中立化構想
1889年2月11日 大日本帝国憲法公布
1890年(明治23年) 第一議会
1894年(明治27年)3月 甲午農民戦争
1894年7月~1895年4月 日清戦争
1900年6月~1901年9月 義和団事件
1904年2月~1905年5月 日露戦争
1911年~1912年 辛亥革命
1915年1月 対華21カ条要求
1917年10月 ロシア革命
1917年11月 石井-ライジング協定
1918年8月~1922年10月 シベリア出兵
1919年1月 パリ講和会議
1919年5月 五四運動
1919年6月 ヴェルサイユ条約
1920年~1921年2月 宮中某重大事件
1922年2月 ワシントン海軍軍縮条約
1923年8月 日英同盟失効

第一次伊藤内内閣1885年(明治18年)12月 1888年(明治21年)4月30日
黒田内閣 1888年(明治21年)4月30日 1889年(明治22年)10月25日
三条内閣 1889年(明治22年)10月25日 1889年12月24日
第一次山県内閣 1889年12月24日 1891年(明治24年)5月6日
第一次松方内閣 1891年(明治24年)5月6日    1892年(明治25年)8月8日
第二次伊藤内閣 1892年(明治25年)8月8日    1896年(明治29年)9月18日
第二次松方内閣 1896年(明治29年)9月18日    1898年(明治31年)1月12日
第三次伊藤内閣 1898年(明治31年)1月12日 1898年(明治31年)6月30日
第一次大隈内閣 1898年(明治31年)6月30日 1898年(明治31年)11月8日
第二次山縣内閣 1898年(明治31年)11月8日 1900年(明治33年)10月19日
第四次伊藤内閣 1900年(明治33年)10月19日 1901年(明治34年)6月2日
第一次桂内閣 1901年(明治34年)6月2日 1906年(明治39年)1月7日
第一次西園寺内閣 1906年(明治39年)1月7日 1908年(明治41年)7月14日
第二次桂内閣 1908年(明治41年)7月14日 1911年(明治44年)8月30日
第二次西園寺内閣 1911年(明治44年)8月30日 1912年(大正元年)12月21日
第三次桂内閣 1912年(大正元年)12月21日 1913年(大正2年)2月20日
第一次山本内閣 1913年(大正2年)2月20日 1914年(大正3年)4月16日
第二次大隈内閣 1914年(大正3年)4月16日 1916年(大正5年)10月9日
寺内内閣 1916年(大正5年)10月9日 1918年(大正7年)9月29日
原内閣 1918年(大正7年)9月29日 1921年(大正10年)11月13日
高橋内閣 1921年(大正10年)11月13日 1922年(大正11年)6月12日

2020/10/10

『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 伊藤之雄 文春新書

山県有朋は近代日本を作り上げた立役者の一人であるのは間違いないが、なぜか人気がない。
本書を読むと山県が単なる権力欲の塊であったり、陸軍や宮中を完全に支配していたわけではないことがわかる。そして、人間が単純な生き物ではないこともよくわかる。
議会運営の際には、伊藤や議会に妥協点を見出しながら行っており、陸軍拡張や地方自治制度の確立のためにも根回しをしながらやっている。それに本書によれば、山県有朋が実質的に伊藤博文と対等の権力を得ることができたのは1900年頃だという。
山県は地租増微法案を成立した見返りに、憲政党が求めていた地方制度改革案を帝国議会で成立させたり、複選制ではなく府県会議員を直接選挙に変えた。軍備拡張のためにも、ロシアに対抗するためにもここでも妥協をする。
妥協ばかりだ。太平洋戦争の時の指導部と格が違う。

山県が構想した徴兵制がなかなか面白くて、皆兵制ではなくエリート集団をまず作ろうとしていた。
六歳から十九歳までに小中学校教育を終えた者が二十歳で徴兵されるというのは、当時では小学四年程度が普通の当時ではエリートと言っていい。ただし、代人料を支払えば徴兵免除ができる規定が加わったためエリート性がなくなったともいう。
徴兵制というものが、現在言われているものとは違う。現在は皆平等なので皆徴兵となるけど。

参謀本部の独立は、山県が西南戦争で得た教訓からなされたことで、当時は有力者が文官の参議や大臣を決めていたため、後に「統帥権の独立」でもって暴走することは考えられなかった。参謀本部は大久保も伊藤も人員、物資の配置などの大枠を指導、作戦、戦略をたてる部署を必要であるという合理的判断で行われている。ただし、実質的に山県が竹橋事件で苦境に立っているのを救い、政権の安定をもたらすためにも設立されている。
著者は、参謀本部の独立や山県の陸軍の在り方が、後の陸軍や関東軍の暴走、そして統帥権の独立へと繋がっている、という考えを明確に否定している。
山県は陸軍に内閣の介入を嫌っていたし、実際に介入を阻止する仕組みも作った。しかし、陸軍は陸相を中心に統制がとれていた組織であり、関東軍の暴走を参謀本部と陸軍が追認なんかする組織ではなかった。
帝国主義の時代にあって、伊藤も山県も列強の干渉を恐れて、強気の大陸政策をとらなかったし、列強が認めないならば伊藤も山県も引いていた。だから日清戦争でも日露戦争でも、不満足な結果でも受け入れてきた。

山県は議会制を嫌っていたため、大隈重信が1883年までに国会を開き政党内閣制をするという、当時では急進的な内容の意見書をだしたので、伊藤、山県は大隈を罷免し、政府追放させる。
山県は晩年まで議会を嫌っており、原敬の内閣をみて、議会政治を認めるようになったとか著者はいう。原敬を「偉い」と評価し、暗殺されたときも涙を流したらしい。伊藤博文にしろ、大隈の革新性を好まなかった。
「自由党はもっぱら「下等の人民」をあやつり、「過激粗暴な士」集めようとしているようである」と山県は自由民権運動を見ていた。そのため政党処分は厳しい処断を求めていた。
山県はヨーロッパ視察でベルリンなどの議会政治を見て、「沈着老成」の議論ではなく、「急燥過激」の空論が名望を得ていることに、国会や選挙に不信を抱いたという。
まったくもって山県は正しい。世界の趨勢はデモクラシーにあっても、それがいかに醜悪なものかもわかっていた。1900年ではまだ民主主義はヨーロッパでも主流ではなく、かなり限定的ではあったが、それでも流れは寡頭政治ではなく衆愚政治へと向かっていく。

当時最先端だった政治理論であるウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授の君主機関説の憲法理論は、伊藤のめざす統治機構だった。
憲法制定と同じく重要だったのが地方自治制の確立で、ドイツの制度をもとにつくりあげられていく。山県が内務卿になってから推進していく。1889年12月から翌10月まで山県は地方自治制度の視察のために二度目のヨーロッパ視察にいく。グナイストから強権を持った政府が迅速で効果的な施政をすべきで、地方行政において道路や橋の補修・治安・救貧などで、住民の自発的な隣保活動が重要であることを山県に伝える。
地方自治について、山県がどれくらい関与し、現在の仕組みと繋がっているのかはよくわからないので、松本崇『山縣有朋の挫折――誰がための地方自治改革』(日本経済新聞出版社)を読むことにする。

軍人勅諭の成立は、自由民権運動が軍に波及することを恐れ、西周に起草させ、福地源一郎に大幅に改編させ、そして井上毅と山県で修正したもので、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五か条が強調され、政治に惑わされることを戒めている。
山県内閣の1890年に地方長官などから文部省へ教育の道徳的指針をまとめてほしいという要望があったという。欧米に心酔し日本を卑下する風潮を戒めるために、儒教の「仁義忠孝」を基本に芳川正顕と山県でつくられる。

山県内閣の際に第一議会が行われている。山県は国家の独立自衛を確保するために、国の領域である「主権戦」と国家の安危に関係する「利益線」(朝鮮半島)を保護する必要を説き、軍備拡張を唱える。しかし自由党や改進党は予算削減を求めていた。憲法に誇りを持っていた伊藤、井上は解散を支持しておらず、山県も列強に日本が議会を運営できることをアピールするためにも、第一議会を乗り切ること考えていた。山県は予算削減の妥協する。

第四次伊藤内閣が倒れた後、山県系の桂内閣ができ、伊藤の推進する日露協商の可能性が低くなり、山県らが求める日英同盟から対強硬路線の可能性が強くなる(330)とある。そうなのか。
山県はアメリカ、イギリスなどの列強と対立することを嫌っていた。あくまで国際ゲームのなかで大陸政策をしなければいけないことを、伊藤ほどではないにしろ理解していた。
山県は伊藤博文とは違い、暗く、近代日本の影の部分みたいな感じの印象を残すが、本書を読むと、まさに山県の人生は近代日本そのものだし、彼抜きでは近代日本は語れないことがよくわかる。

2020/10/08

『1941 決意なき開戦――現代日本の起源』 堀田江理 人文書院

1941年の日本とアメリカのやりとりについて、おそらく見解が割れる。
ルーズヴェルトは、いつ日本との戦争を決意したのかが問題だが、1941年8月12日のチャーチルとの大西洋憲章の際に、日本との戦争を3か月は先延ばしにできると言ったという話もあるが、これをもってすでにルーズヴェルトが太平洋での日本との戦争を決めていたとは言い難い。本書では、ルーズヴェルトは直前まで日本との戦争を回避しようと心がけていたように書かれているが、このあたりは結局は闇の中かと思われるが。
当時の日本はファシズム体制ではなかったし、独裁政権でもなかった。それでも近衛内閣はドイツとイタリアを選んだ。途中で同盟を破棄もできたし、逆にソ連への侵攻も選択肢としてもあった。でもアメリカとの戦争を選んでいる。南印進駐してもアメリカが世界平和、民族解放を理由に、静観してくれるだろうとかいうわけわからない予想もしていたみたいだが。

本書を読んでいて、日本の意思決定というものが、いわば「欧米式」のものではないということが痛感される。建前と本音があるのは世界共通だと思うが、ただ建前と本音の様式が欧米とは異なっているということだろう。
本書では何度もアメリカとの戦争を回避できた場面があることが書かれている。おそらくその通りだ。日本の政府も戦争推進派だけの一枚岩ではないし、むしろ戦争回避を進めてきたのはたしかだが、要は意思決定の様式がアメリカとは異なり、戦争せざるをえない状況に追い込まれていった。
近衛文麿がファシズム気質だったかどうかはおくとして、反欧米の気持ちは当時の日本の指導者たちは持っていてもおかしくない。欧米と親しくすべきと主張する人たちにおいてもだ。そして近衛、松岡洋右にしろ、あまりにもアメリカが日本の理念を理解してくれるものと考えていたのは問題だった。
ハルを筆頭に日本の拡大主義を批判するのはあたりまえで、それは国際協調主義からすれば唾棄されるべきだろう。当時、すでに帝国主義の風潮は退潮ぎみだったし、アメリカ自体が帝国主義ではなかった。フィリピンもすでに独立をすることになっていた。たしかにイギリスなんかは植民地の利権を手放す気はなかったが、それでも第一次世界大戦の教訓で、権謀術数が蔓延る外交は忌避されるようになっていた。

八紘一宇、大東亜共栄、そして王道楽土、これらの用語ははたしてどこまで本気だったのか。それはある種の虚勢で、ただ政策が御前会議で採択されると、聖なるものへと昇華していく、という感じで書いている。おそらくこのあたりが妥当なところか。「信」の構造からすれば、理念とは後追いするものであり、理念が先にあるのではない。
上記の用語は、当時ではある種の枕詞のように使われていたと考える。それがいつしか理念へと変化、大義名分になっていき、信じるものへと昇華していく。そういう過程があったのではないかと思う。多くの政府の指導者やそれに近い人も大東亜共栄なんて、当初は理念でもなく、単なる言い訳だったものが、いつしか信じるものになってしまった。それがなくなれば戦争をする、している理由がなくなるからだ。
日中戦争の泥沼化によって1941年にはすでに物資不足に悩まされていた。そういう状況で政治の指導者はきちんと状況を把握し、アメリカとの戦争を望んではいなかったが、口から出る言葉は、米国との戦争もやむなし、なのだから虚勢でしかない。

本書、太平洋戦争前夜を描くノンフィクションとしては、かなり面白い。ところどころに挟まれるエピソードが人物の描写を際立たせているし、多岐にわたって目が行き届いている。
昭和天皇の洋行、近衛文麿のヒトラーのコスプレ、会津生まれの捨松と薩摩の大山巌の結婚、石川信吾や石原莞爾の思想が小さい扱いながらもバランスよく散りばめられている。そして永井荷風の日記が当時の雰囲気を語る。ゾルゲ事件も重要なことは取り上げていて、トリビアな「結婚報国」や「慰問袋」の話も織り交ぜてくる。太平洋戦争前夜を描くうえで、ほぼすべてがおさまっている。そして、潮津なる人の従軍日記が要所要所に散りばめられて、首脳部と現実とのギャップが悲しい。

ヒトラーがいないドイツはすぐに多くが違う国になったであろうが、日本の場合は東條ではなかったならと言われても相違点が明らかにならない。
堀田さんは結論します。
最終的に、戦争を回避する道を選ぶことは、長期戦を戦えるアメリカではなく、劣性が明らかな日本が下されなければならない決断だった。それがいかに屈辱的で、不可能で、自己去勢行為に等しいことのように思えても、それが最終的に国家の存続と繁栄につながるという考えに、政策と世論を持っていくことが、先見ある指導者の務めであるはずだった。あたかも、避戦という選択肢が存在しないように匂わせる戦略的タイムテーブルと、官僚的なルールは、日本の指導者たちが自身に課したもので、米政府の作ったものではなかった。それは自分たちが、どれだけ外の知からによって不当に戦争に追い詰められた、と納得させようとも、まったく変えられない事実だった。自分たちを被害者だと言い聞かせ、日本は常に平和を願い、アメリカに対して、譲歩の姿勢を取り続けてきたと主張しても、事実は違った。……彼らにあるものは、自己憐憫、怒り、そして何より賭博師の大胆さだけだった。(350-351)
一億層玉砕から一億総懺悔へと変わる。それは戦争が全ての国民に万遍なく責任があるということであり、確かにその面もないわけではないが、しかしこのことによって開戦責任が曖昧になり、「誰も悪くなかった」という主張に等しくなる。国民総懺悔は指導者にとっては好都合な概念でしかない。

時系列は以下。
1940年9月23日 北部仏印進駐
1940年9月27日 日独伊三国同盟
1940年10月 大政翼賛会設立
1941年4月13日 日ソ中立条約
1941年6月22日 独ソ開戦
1941年6月25日 アメリカによるソ連資産凍結の解除
1941年7月25日 アメリカによる日本資産凍結
1941年7月28日 日本の南部仏印進駐(情勢二推移二伴フ帝国国策要綱)
1941年8月1日 アメリカによる石油禁輸措置
1941年8月9日~12日 大西洋憲章
1941年9月6日 帝国国策遂行要領
1941年9月下旬から ゾルゲ事件
1941年10月12日 荻外荘会談
1941年10月15日 日米の外交期限
1941年10月~1942年1月 モスクワの戦い
1941年11月27日 ハル・ノート
1941年12月8日 真珠湾攻撃

内閣の移り変わりは以下。
1937年6月4日~1939年1月5日 第一次近衛内閣
1939年1月5日~1939年8月30日 平沼内閣
1939年8月30日~1940年1月16日 阿部内閣
1940年1月16日~1940年7月22日 米内内閣
1940年7月22日~1941年7月18日 第二次近衛内閣
1941年7月18日~1941年10月18日 第三次近衛内閣
1941年10月18日~1944年7月22日 東條内閣

読んでいて、暗澹たる思いでした。本書では日本の意思決定を中心に書いているが、それでもいろいろと疑問がわき出てくる。いろいろと日本側の言い分もあるかと思うが、いずれにせよ戦争を遂行したのは日本の当時の政治家たちで、世論が戦争を支持していたからって、それに靡くようじゃ、はっきり言って政治家なんかいらない。

戦争前夜についての本はかなり久しぶりに読んだから、多くのことを忘れていた。永野修身の存在すら忘れかけていた。
太平洋戦争関係をいろいろと読んでみようと思ったのはいいけど、相当な量の書籍が出版されていて、うんざりすえるぜ。2日に1冊のペースを維持しようと躍起になって読んでいるが、つらい。何がつらいって、読めば読むほど参考文献が増えていくことだ。
どうすりゃいいんだ。もう僕のアマゾンの購入予定のリストには70冊と図書館の予約リストにも50冊、計130冊もの第二次世界大戦関係の書籍があって、どんどん膨れ上がっていく。読めんのかよ、これ。

2020/10/05

『ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点』 スチュアート・D・ゴールドマン/麻田雅文(解説)、山岡由美訳 みすず書房

本書ではノモンハン事件を世界史の中でとらえ直している。内陸アジアの僻地で戦われた知名度の低い紛争が、ヒトラーのポーランド侵攻などの導火線になっているという。
時系列で言えば
1937年6月 乾岔子島事件
1937年7月7日 盧溝橋事件
1938年3月12日 アンシュルス
1938年7月29日~8月11日 張鼓峰事件
1938年9月下旬 ミュンヘン会談
1939年3月チェコスロヴァキア解体
1939年5月11日~8月31日 ノモンハン事件
1939年8月23日 独ソ不可侵条約
1939年9月1日 ドイツによるポーランド侵攻
1939年9月3日 英仏によるドイツへの宣戦布告
1939年9月15日 ノモンハン事件の停戦協定
1939年9月17日 ソ連によるポーランド侵攻
1940年9月27日 日独伊三国同盟

こう時系列でみるとなかなか面白く、乾岔子島事件が終息したのは盧溝橋事件によってスターリンはアムール川での日本との争いに興味がなくなったからで、日本と中国が戦争へ拡大することはスターリンにとっては歓迎だった。これによって日本の脅威は大幅に減じ、ソ連は蒋介石への支援をしていく。
またチェンバレンがヒトラーに弱腰だった理由として財政問題だったことが書かれている。さらにイギリスは伝統的に反ロシアであり、なおかつ反ボリシェビキでもあった。第一次世界大戦でのロシアの不甲斐なさを知り、スターリンと組むことはしたくなかったようだ。
ヨーロッパと日本では基本的に反ソ連であり、スターリンは孤立していた。外交は難しいようで、日独の同盟はソ連を英仏に走らせることになり、ドイツからすれば第一次世界大戦と同様に英仏露を相手に戦う羽目になる。英仏の宣戦布告まで日独同盟が果たせなかった理由となる。
日本のドイツ接近はゾルゲによってソ連は把握していた。だからこそスターリンはドイツへと接近していき、不可侵条約まで結ばれる。
ソ連にとって僥倖だったのが、ヒトラーのチェコスロヴァキアへの侵攻で、これによってチェンバレンはトサカにきたようだ。ミュンヘン会議はなんだったのかと。
そしてスターリン有利と事が運んでいく。
1939年前半のヨーロッパでは確かにスターリンの思いのままに事が運んでいるかにみえたが、五月の時点ではヒトラーはソ連との条約締結の可能性について明確な意思表示をしておらず、ノモンハン事件はその段階で起きたのだ(228)
スターリンの外交は絶妙だったという。ドイツはポーランドへ侵攻することを決めており、ソ連との不可侵条約締結を目指していた。しかしスターリンは二枚舌外交を行う。英仏との同盟をしていると、わざと英仏との交渉を長引かせてドイツを焦らせている。そしてスターリンはドイツを選び、相互不可侵だけでなく、ポーランド分割、エストニア、ラトヴィアとフィンランドのソ連勢力への容認とリトアニアのドイツ勢力への容認も含んでいた。

なぜスターリンはドイツを選んだのか。著者はここで東アジア情勢を導入する。ソ連と英仏が結べば、ドイツは日本と同盟を結ぶ。そうすると必然的に日本は満州国とソ連圏の国境で攻撃を仕掛けてくる。
しかもドイツを選べば、ヨーロッパの中でソ連は局外の位置に立つことができる。そしてドイツと結べば、ノモンハンで日本を徹底的に争うことができた。
スターリンは日本がソ連と全面戦争やる意志がないことは知っていたが、かといって関東軍が日本中央に従う保証もないとも考えていた。
ノモンハン事件がソ連の軍事的勝利かどうかともかく、外交的勝利であった。8月下旬の時点でスターリンは日本と和平をする準備をしていたが、それを日本側に察知されないようにしていた。
そして、著者はさらにドイツのポーランド侵攻後、ヒトラーはスターリンに東側からポーランドを責めるようになんども催促するが、それは実現するのは9月15日と二週間後となる。なぜなのか。それは東側での戦闘終了がなってから西側の戦いに入ることを考えたからだという。二正面作戦を回避した。
1939年の外交の舞台は複雑を極め、いずれの訳者にも第一の目標と第二の目標があった。イギリス政府はソ連と取り決めを結ぶことでヒトラーのポーランド攻撃を抑止しようとした。ヒトラーの抑止に失敗した場合も、取り決めさえあればソ連を英仏との「同盟にしばりつけることができるものと考えた。ヒトラーが目指した低他の、英仏のポーランド援助を抑止する者としてのソ連との同盟であり、もしくは英仏がポーランド防衛線に打って出た場合にソ連の中立を確保するものとしてのソ連との同盟であった。また日本政府はソ連に照準を絞った軍事同盟をドイツと結ぶことを目指し、それがかなわぬならば包括的な防共協定を強化することを望んでいた。スターリンは西側民主主義国とドイツを戦わせることでソ連の東西において裁量を得ることを目標とし、それに失敗したならば、対独戦となった場合に英仏の援助を確実に得られるようにしたいと考えていた。この四者のうち、第一の目標を達成できたのはスターリンだけである。ヒトラーは第二の目標を実現し、イギリスと日本は何も手に入れられなかった。(244)
本書の弱点としては、スターリンの選択について資料の裏付けがないことだろう。ただし、これは著者言うように論理的な解でもある。

著者は言う、ノモンハンで日本は苦い経験をした。ゆえに北進ではなく南進を選んだと。知らなかったが、独ソの戦争でドイツの快進撃が続くなか、日本でソ連との開戦を検討していたことがあり、松岡外相は日ソ中立条約をまとめた人物だが、条約を破棄しドイツと共にソ連を攻撃することを提案する。それを反対したのが東条英機で、とうじ日本軍ではドイツの快進撃が弱まり、どうも雲行きが怪しい状況にあり、しかも中部戦線のソ連軍を指揮しているのがジューコフであることを知っていたため、というのだ。
ノモンハン事件の責任者が太平洋戦争の開戦論者だった。服部卓四郎と辻政信だ。
ゾルゲによってもたらされた、日本の対ソ戦の延期は極東ソ連軍の大移動をもたらし、1941年のモスクワ攻防戦に投入されていく。モスクワはソ連にとって最重要であり、もしモスクワを取られれば、ソ連は瓦解するとスターリンは確信していたらしい。ドイツももしモスクワだけに集中していれば、ナチスはヨーロッパを手中におさめていたという。
そういう側面からもノモンハン事件が日本にもたらした影響は、ヨーロッパ戦線にも波及していった。

本書解題で、蒋介石がノモンハン事件が日ソ全面戦争に発展することに期待していたことやブリュヘルが張鼓峰事件で粛正、さらにモンゴル共和国でのスターリン粛清について書かれている。このあたりは秦郁彦氏の著作でふれられていた。
また小松原道太郎がソ連のスパイではないかという説があるらしく、著者のゴールドマンは否定的だという。

2020/10/03

『明と暗のノモンハン戦史』 秦郁彦 PHP研究所

ノモンハン事件は、僕にとってロマンの対象で、今もそうあり続けている。草原に赤錆びた戦車の残骸が転がっている写真を見れば、そりゃファンタジーの世界に引き込まれるわけです。
いずれにせよ、このノモンハン事件がなんであったのかはよくわからない。ソ連と日本との実質的な戦争であったと言われるが、局所的ではあるし、調べてみても地味な感じは拭えない。それでも日本ではノモンハンについての書籍が多くでていて、何がそうさせているのか。
ノモンハン事件が、モンゴルと満州の国境争いで起こっていて、ハルハ河沿いで行われたのは知っている。河沿いを国境にするのか、それとも東岸にするのかで、当時ソ連でも日本でも曖昧だった。
秦先生は、国境線の論争では日本は輪に分が悪いと見ているが、正直よくわからない。
曖昧であり続ければよかったが、国境線での小競り合いはよくあることで、ノモンハンでも1939年以前から頻発して、あくまで国境警備隊のちょっとしたいざこざで終わることが大半だが、どこかで臨界点を超えてしまう。「子供のケンカに親がでる」事態に発展する。

第一次ノモンハン事件では、モンゴル軍の越境が頻発し、小松原道太郎中将は「満ソ国境紛争処理要綱」をもとに、5月11日の衝突に対して、東八百蔵捜索隊を派遣するが、この東隊は全滅する。
関東軍作戦参謀の辻政信は、驚くべきことに「ノモンハン」を知らなかったという。かなりマイナーすぎる国境線だったこともあるのだろうし、また誰もが大事件になるとまで考えていなかった様子。
第一次ノモンハンはそれほど大規模な戦闘でもなく、日本、ソ連ともに準備していたというよりも、突発的な小競り合いといった印象だ。

ソ連と日本とでは、その後の準備が異なってくる。ソ連は日本側の戦力を大幅に大きく見積もっていたにせよ、戦車、装甲車などの近代兵器を十分に用意した一方で、日本は歩兵の数だけは多く、戦車などの兵器はほとんど増強もしなかった。このあたり、日本の白兵戦信仰のなせるわざでしょうか。戦車の設計思想なんかでも、中国と戦争していた日本にとっては、戦車は中国軍が怖がる牛程度にしか考えていなかったから装甲なんか薄っぺらだったみたいですし。
そして、ここでも日本の敵への蔑視が仇となっている。ソ連兵は大したことがない、士気が著しく低いなど、なんだかねー。
板垣陸相や稲田正純参謀本部作戦課長も関東軍の暴走を止められなかった。稲田の回想では、一抹の不安があったが関東軍は中央に忠実だったように見えたらしい。どうもねー。

第二次ノモンハン事件は7月3日~5日のバインツザガン会戦から8月月末の小松原第二十三師団の壊滅と、失敗に終わった日本軍の逆攻勢までのことのよう。
ジューコフによる8月の大攻勢は、かなり周到に準備しており、それに対して日本側はほとんどなにもしていない。にしても、戦争は運も付き物で、ジューコフ、シュルテンらの思惑にうまくはまりすぎてしまったのが当時の日本軍だった。
しかし、辻と荻洲の会話が載っいるが、かなり醜悪だ。敗北となった責任で、小松原に死をもって償ってもらう話をしている。
八月攻勢後、ソ連はスターリンの厳命で国境線の守備のみをしていたが、関東軍はまだまだ戦う気だったようだ。中央と関東軍との温度差は、ひどいもので、なぜ関東軍はここまで暴走していったのか。
日本軍はハルハ山に侵攻し、奪取する。ジューコフ司令部は奪還計画を準備するが、停戦となる。国境はこの時の停止位置できまっており、現在でもモンゴルは不満のようす。

日ソ停戦協定が1939年9月15日にかわされノモンハン事件は終結する。秦先生は、
スターリンは実現寸前だったドイツを標的とする英仏ソ同盟の路線を一夜で独ソ提携に切りかえ、労せずしてポーランド、バルト三国、フィンランドなど東欧地域を支配権に収めたばかでなく、日独伊三国同盟を阻止して東西から挟撃される軍事的脅威を除去することができた。一石三鳥とも四鳥ともいえる外交的成功と評してよい(235)
と評価する。こういうところを見ると、当時の日本外交の稚拙さが見えて悲しくなる。ヨーロッパの政治情勢は長年権謀術数で出来上がっていることもあり、外交文化自体が極東アジアとはかなり異なっているからでもあるが。
この停戦協定の二日後、ソ連はポーランド侵攻を行う。このあたりもソ連の外交的勝利。というのもの第六軍新攻勢構想というの関東軍にはあり、それが発動されれば長期戦となる。すでにポーランドとフィンランドへの侵攻を予定していたスターリンにとっては早く停戦をしたいところだった。

ノモンハン事件から得られた教訓はいろいろあったにせよ、物資不足は解消できない以上、「精神威力」に頼るしかなかった。関東軍にせよ陸軍にせよ、物資が豊富にあれば、精神力に頼らなくてもよかったのだが。
クックス博士の日本軍の弱点をあげている。「兵力の逐次投入、装備改善の遅さ、夜襲への執着、非降伏主義、守勢への嫌悪、航空機による地上支援能力の低さ」とある。すでに太平洋戦争時の日本軍の駄目さがここでも要約されている。
とはいっても、ソ連側もノモンハンの教訓をきちんと見ず、その後のドイツとの戦いでは戦車を優位にせず歩兵を使った。
人間は過去から学ぶことが根本的にで難しいようで、これは受け入れるしかない。

服部卓四郎、辻政信はノモンハンの件で一時期左遷させられるが、太平洋戦争には再びノモンハンと同じ手法で戦争を行っていく。
指揮官たちは自決を強要されていく。小松原は、命令に従わなかったとして部下に責任を負わせようとしていた。軍法会議になれば自らの作戦の失態を追及されるのを恐れて、軍法会議を回避し、部下に自決を強要する。
捕虜の扱いも、ノモンハンのころには日露戦争のときとは異なっていた。秦先生は上海事変の空閑昇少佐の自決が引き金かもしれないという。捕虜であることは恥ずかしことであるみたいな。とはいいつつソ連のジューコフも捕虜の観念はさほどたがわず、残忍なかたちで帰ってきた捕虜たちに自決を選ばせたという。
年功序列人事が厳として維持されるなかで、敗北や失敗の責任を問われた上級指揮官や実力派参謀が皆無に近かったのに対し、中下級指揮官や兵士たちは飢餓死や玉砕死を強いられた(413)

2020/10/01

『満州事変から日中全面戦争へ(戦争の日本史22)』 伊香俊哉 吉川弘文館

日中戦争と国際法の関係を論じている。本書、この観点を中心に論じていればもっとよかったのだけけれど。ちょっと物足りない感じ。
当時は帝国主義の時代で、食うか食われるかだったという言説があるが、これはけっこう怪しいもので、第一次世界大戦後にすでにヨーロッパでは厭戦ムードだったし、平和のための国際協調が芽生え始めていた時代でもあった。とはいっても各国思惑もあるのでうまくいかず、というところ。
自衛権の範囲なんかも自国の都合によいように解釈されていくが、これはまあ現代と同じですね。領土を攻撃されたら自衛権は明確だけど、領土の外だった場合はどうなるのか。満州事変、イタリアのエチオピア侵攻、ドイツのズデーテン侵攻やらが集団的自衛権がうまく働かなったことなんか、まあ現代でも同じでしょうか。
当時の陸軍だけでなく政治家も、国際情勢への敏感さがなくなっていたのかな。リットン調査団の結論は、日本に相当の譲歩というか、日本にとっては目的達成だったはずなのに、それを拒否する。
すでに何のため行動をしたのか。拡大路線をとるようになっていくのは、陸軍や関東軍、政治家の驕りだろう。
本書では、立作太郎や横田喜三郎の議論が紹介されている。けっこう興味深いものなのだけど、ちょっと物足りない。
現在の視点でみると立作太郎の主張は、「御用学者」と言われるものになるが、彼の満州国容認の立論が、中国は特殊で、言っちゃえば野蛮なんだから文明国が統治するのは正当化されるだろうというもののようだ。この考えは当時において決して異端ではなかった。
しかし、まあ当時の関東軍も日本軍も何を考えていたんだろうな。何のために日中戦争をし、何のために太平洋戦争をしたんだか。

2020/09/30

『最後のソ連世代――ブレジネフからペレストロイカまで』 アレクセイ・ユルチャク/半谷史郎訳 みすず書房

非常に面白い。非常に示唆に富む内容。本書、日本の政治運動なんかにも痛いところを突いてきている。現在の政治をめぐる言説は、あまりにもコンスタティヴであり、意味を逸脱させたり、ずれが生じることを許さないものとなった。
ユーモアもなく、あるのは真面目な言説のみ。その構造は権力側と同じであり、僕ら「ふつうの人びと」はそういった空間に取り込まれるべきではないと思う今日のこの頃。
はっきりいって、日本でも「あいつら」の言っていることって、面白くない。文字通り、面白くない。

以下、まとめる、といってもかなりメモ的。
ソ連の語る時の二項対立「抑圧/抵抗」「自由/不自由」「真実/嘘」「公式文化/カウンターカルチャー」などは、意識的にソ連システムを否定的にみる見方をしている。
ソ連時代の初期は、権威的言説による発話の文字通りの意味に評価を下す存在として言説の主人(master)がおり(一九二〇年代末からスターリンがこの役割を独占した)、外部の「客観的な」規範であるマルクス=レーニン主義の真理にがっちするかどうかを決めていた。だが五〇年代末半ばに権威的言説の外部の主人が消える。この変化うぃ受け手ルフォールの逆説が覆い隠せなくなり、イデオロギー表象のあらゆる面に影響が及んだ。(32)
権威がいなくなれば、客観的な真理規範を参照できなくなるが、そこで見つけられた方法が、それまで別の人が書いた文章や発言を引用コピーすることで、それがさらに複製されていく。こうして権威的言語の形式が画一化・定型化し、汎用性も高まる。
そしてこのコピーそれ自体が目的化し、「言説ではパフォーマティヴな意味がいっそう強まり、コンスタティヴな意味は新たな予想外な解釈に開かれていく。」(33)
このずれをパフォーマティヴ・シフトと読んでいる。
どんな(近代的な)政治システムでも正統性を主張する根拠は、そのイデオロギーの外部の位置にある何らかの「明白な」真理に基づく。システムのイデオロギー言説は常にこの「真理」を参照しており、その根拠を論証することはできない。これが近代国家のイデオロギー言説がそもそも抱え込んでいる矛盾である。(47)
ソ連イデオロギーの主人のシニフィアンは、レーニン=党=共産主義であって、決してスターリンやブレジネフではない。
スターリンの個人崇拝と独裁権力は、暴力や恐怖にのみ依拠していたわけではない――そんなことがスターリンに可能だったのは、自身の正統性を、レーニンの教えの継承者、レーニンに指名された人物、レーニンの考えをよく知り理解する指導者に擬すことで得ていたからだ。(93)
あくまで「スターリン」は「レーニン」というシニフィアンに規定されるものでしかない。
ソ連で生きることは、単なる面従腹背ではなく、イデオロギーを信じながらも、それからそこそこ自由でということで、純然たる形式業務と意味のある仕事が持ちつ持たれつの関係にあった。
スヴェイー(仲間)からすれば、反ソ活動などの「異端派」は健康な人からみた病人であり、考慮から排除される存在だった。なぜなら体制が明らかに安定しているからだ。
後期ソ連社会の脱領土化がもたらした予想外の大変化の一つが、独特な社会集団の登場である。これをひとまずスヴァイーの共同体と名づけよう。イデオロギーの機構と権威的言語が支配するコンテクストでは、スヴァイーが生まれる基準は、共通の社会的出自や特定階級への基準ではなく、権威的言説の受け止め方がにているかどうかだった。してみると、スヴァイーは権威的言説の「公衆」と位置づけることができる。(166)
「スヴァイーの公衆」と名づけた共同体は、至る所で年がら年中あった公的なよびかけへの答えとして生まれたわけだが、そうした呼びかけはソ連体制の権威的言説で出来ている。(167)

こうした繰り返しが続くうちに、呼びかけにパフォーマティヴ・シフトがおこり、儀礼の硬直した形式は再生産されるのに、意味が予想もつかない形に変化していく(168) 

インナたちは、異端派の政治言説にも深入りしなかった……「私たちは異端派のことは一度も話題にしませんでした。分かりきったことを、なぜ話すんですか。あんなもの面白くありません」 最後の一言から思い浮かぶのは、お馴染みの権威的言説のパフォーマティヴ・シフトである。権威的な発話・シンボル・慣行を文字通り受けとめなくてもよかった(コンスタティヴな意味を重視されなかった)ため、インナたちをはじめ多くの人が、その意味が正しいかどうかを考えるのも時間の無駄と思っていた。形式的かつ取り込まれないように権威的シンボルを再生産し、そこから生まれた可能性を活用する方が賢いし面白いとも思っていた。そうすれば、システムの統制の目が行き届かない新たな意味を自分の存在に付け加えられた。だからこそインナとその友達は、システムの慣行や発話の文字通りの意味に取り込まれない方を選び(それが肯定的なものでも否定的なものでも)、活動家の言説も異端派の言説も黙って遠ざけた。(174-175) 

異端派の言説も権力の言説も同じ土俵でしかない。しかしインナたち「ふつうの人たち」は超越(ヴニェ)していたという。
ヴニェした面白く充実した創造的な生活を送る、それはソ連のシステムを疑うこと、真実を見極めることとは違う。
システムをヴニェ(超越)する生き方とは、あるものの存在を知っているが、それが目に入らないということで、そうすることでシステムの内にあり続けてもシンボル・法律・言語といった媒介変数に従わずにすむ。
これは、非常に強い現在の言論空間への批判と読める。過激な言葉や斬新な言葉を使って、詩的言語をつくりだすことを、多くの言論人が行っている。それに対して多くの人が冷めた目で見ている。ふつうの人は体制に批判的かどうかはどうでもよく、ふつうの人たちの広がる言説空間とは全く異なる。異端派の言説が退屈であるというのは、まさに彼らの言説が権力側の言説と同じコンスタティヴを要求するからだ。面白くないからだ。創造的ではないからだ。

バフチンのヴニェであること(外在)という概念。
バフチンは「文学テキストにおける作者と主人公との間のある特殊な関係を考察し、これを「主人公のすべての要因に対する作者の緊張感ある外在の位置、空間的・時間的・意味的な外在の位置」にある関係と定義した。(180、「ミハイル・バフチン全著作第一巻 所収「美的活動における作者と主人公」)

なぜこのような生き方が可能だったのか。それはソ連が意図せず行った文化政策に負うところが大きく、教育制度を重視し、公式文書で高級文化や集団主義や物欲にとらわれない価値の重要性を繰り返し語ったおかげだ。そして重要なのが、ソ連というシステムのなかでは基本的に最低限の生活条件を保証されており、生活への不安がほとんどなかったこも大きい。
ソ連国境開放をして現実の西側を目の当たりにしてがっかりしたというのは、よくわかる。僕が海外に行くと常に思うことだ。

ソ連のカフェ文化なんか、やっぱり面白い。多くの人がカフェに行き、そこで文化が育まれていく。文化は人が集まって醸成されるもので、いまオンラインが推奨されているけど、本当にそんなんでいいのでしょうかね。

アネクドートを「戦うのを止めたユーモア」と位置づけている。いいですねー。
アネクドートが語っているのは、やつらのこと、「ソ連体制」のことではなく、ソ連の現実そのものであり、われわれ全員もここに含まれる。アネクドートを語る主体も、それを聞いて笑っている客体(つまる、ソ連の人たちほとんど)も、システムに外部の批評家でなく、ヴニェの姿勢で接している。アネクドートは、「ふつう」主体とシステムとの現実の相互関係を示すミニモデルなのだ。ここで皮肉まじりに描かれているのは、笑っている一人ひとりが個人や集団でソ連システムの再生産に形式面で手を貸し、と同時にその意味をずらしていく様である。つまり、アネクドートの主たる任務は、「自分自身を」見ること、厳密にいえば「私たち自身を」見ることだ――もちろん見ると言っても、焦点の合わない、ぼんやりした目でアネクドートの儀礼化した不自然な形式を垣間見ることだけなので、主体が自分自身について直に言うことも、自身の行動や現実との関係に注意することもない。だから、アネクドート語りの儀礼が終わると、それまでと同じように行動することができた。(410)
だからこそ、「システムの危機を人知れず用意する最も効果的なメカニズムだったのである」。

2020/09/26

『太平洋戦争』(上・下) 児島襄 中公新書

出版が1965年~1966年。
すでにこの時代に基本的なことが情報がすべて出揃っている。現在からすると、かなりバランスの取れた記述になっている。日本軍への思い入れも当然あるが、作戦の不備や戦略の甘さを指摘しているし、アメリカ側の欠点も優秀さもきちんと書いている。
児島襄は保守の側だったので、本書の性格も当時の保守的考えを反映している。日本軍への思い入れが通奏低音になっているが、本書を読んでいればわかる通り、児島氏は太平洋戦争を肯定はしていない。そりゃそうだ。
戦争というものが、つねに不確定要素を含み、みんながみんな状況判断を間違える、そんなものなんだというのがよくわかる。太平洋戦争を戦略、戦術の側面から書かれていて、これはなかなか貴重。全体的に戦争がどのように進行していったのかの概観がわかる。

真珠湾攻撃における日本の未熟な戦争観があるという。日本海軍にとって戦う相手は軍艦であり、基地や施設は二の次だった。近代戦は総合的戦力の戦いであり、単純な戦闘の集積ではない。ハワイへの再度の攻撃をしなかったことは戦術上の誤りだった。とはいいつつも、真珠湾攻撃によってアメリカの作戦に変更が加えられた。山本五十六はアメリカの戦争準備を遅らせるためにも、行う必要があった。

シンガポール攻略においては、華僑の反抗が激しく、そして日本軍も華僑の大量処刑を行うなどした。
華僑の反抗が日本軍を刺激したのか、日本軍の偏見が華僑の抗戦意欲を燃えたたせたのか、事件の遠因近因は複雑にからみあっているが、太平洋戦争をくろくいろどる不祥事であることは変わりない。こうした日本は、初戦に置いて早くもアジア人を敵にまわし、戦争遂行に必要な原住民の協力を失った。マレー、シンガポールの華僑は、この事件(華僑処刑事件)によって、ますます反日態度を固め、シンガポール市、マレー半島における活動は、その後決してやむことはなかったのである。(上163)
バターン死の行進なんかも、いまじゃ日本のど根性魂の象徴みたいに扱われることが多いが、予期しない数万にもおよぶ捕虜の扱いをバターン半島でどう扱うかというのは、頭で考えるよりも難しい。バターン死の行進も歴史を語るうえで埋まらない溝がある。アメリカからすれば虐待だし、日本からすればアメリカもアメリカでマッカーサーは逃げるし、残された米兵や原住民をどうすりゃいいんだとなる。とはいっても本書でも指摘しているように、日本軍によるアメリカ軍捕虜への虐殺もあったようなので、暗い戦争側面を表している
バターン攻略でも、日本軍は攻撃しないで、包囲していれば自ずとマッカーサーは物資不足で投降せざるをえなかったが、日本軍は攻撃したことで、マッカーサーは英雄にもなり、宣伝にも使うことができた。

フィリピンの原住民たちは、マッカーサーの「I shall retarn」を冗談のように使っていたという話が載っている。

「軍曹どの、便所に行って参ります。でも、私は帰って参ります(アイ・シャル・リターン)。」 

「よし、オレも行く。だが、お前たち、さぼるんじゃないぜ。オレも”アイ・シャル・リターン”だからな」(上191-192)

うける。
上巻はガダルカナル島の戦いで終わる。ミッドウェイ海戦までは日本軍が連戦連勝だったが、次第に雲行きが怪しくなっていく。最後、ガダルカナル島の戦いの章の最後、上巻の最後に児島氏は「悲惨のきわみである」と締めくくっている。

下巻からはもうすでに日本軍の快進撃はない。
参謀本部の情勢判断は杜撰なものであることはわかるが、アメリカ側もたいしたことがないようで、情報を正確に得るなんてことはまず不可能であり、そしてそんな状況下で戦争を遂行するのだから、そもそも長期的な戦略なんてものがどれほど役に立たないか。
零戦の優位も1943年ごろにはあくなっており、米軍も牛革、人造ゴム、天然ゴムの三重でタンクを張り合わせ、13ミリ、20ミリの機銃弾ではジェラルミンの機体に穴をあけてもこの三重の壁を突き破れなくなっていたという。
ウェーキ島を攻略した際、英米軍の通信線を遮断させたことが勝利の鍵だったが、今度は逆にべチオ島の戦いで日本軍が遮断されてしまったウェーキ島の教訓を吟味せず、単に一つひとつの戦いの勝敗のみに気を配っていたためだ。一人ひとりの日本兵は精鋭で奮闘するが、戦争は組織と組織の戦いのため、いずれは負けることになる。
米軍はタラワ戦の教訓からトーチカの破壊方法を学んでいく。
ソロモンの戦いは悲惨だが、トラックを守るためには必要と判断されていた。にもかかわらず、そのトラック戦わずにを捨てることに判断をしたり、参謀本部の混乱というのがよくわかる。
多くの戦いが、単発的で、戦略的ではなく、場当たり的になっていく。そして戦闘機や兵をそのつど失い、消耗していく。

インパール作戦も今回はじめて地図で追いながら、ざっと時系列を知った。素人の僕にはよくわからないが、師団長のやる気のなさがこの戦いの敗北のい一因であるようだが、それだけでなくインパールを獲得した後の補給の問題やらも未解決だったようだ。いずれにせよビルマの安泰と援蒋ルートの遮断、そしてインド独立運動を激化させるために作戦がたてられたが、よくもまあ戦線をそこまで拡大するなあと素朴に思う。
米軍からみればミチナ(ミッチーナ)攻略は、中国から日本本土へのB29での空爆のための補給基地とし必要だったという。そうなのか。
インパールは現在でも秘境といっていい。マニプル州はなかなか行きにくいし、バングラデシュや中国に挟まれているし。行くには仕事をやめるしかない。
牟田口中将のジンギスカン作戦は無謀かつ夢想的作戦とされているが、じっさい険しい山のなかではそれしか道がなかったし、そうはいっても結局はこの作戦も失敗する。牟田口中将の思想は不可能を可能にすることが軍人の本務というものだから、部下がインパール作戦の無謀さを批判しても、結局は聞く耳がないわけだが、しかしどんな組織でも同様なものだろう。
日本軍の猛撃もすさまじかったようだが、結局は負ける。なんだかね。

いよいよ終盤、大西瀧治郎中将の提案で「神風隊(しんぷうたい)」が結成される。当初は局所的な臨時的な作戦で、レイテ島沖海戦での敵空母を叩くためだった。しかしレイテ島の戦いは決戦にはならずに終了する。
栗林中将の硫黄島の戦いの記述もある。ペリリュー島と硫黄島の戦いのみが、陣地確保しつつ持久戦をとる戦法をとった。他では守る側が突撃攻撃をして敗北を早めていた。こういうところでも潔さを良しとする美学が仇となっているが、はたしてこの感覚は伝統的なものなのかどうか。いずれにしても、戦争時にはあまりいいものではないが、平時では悪くない精神だとも思う。

本書はあくまで戦略、戦術の観点から太平洋戦争を描いている。
太平洋戦争を断罪したり、弁護したり、判決する前に、なによりも戦争をして戦争を語らしめることを心がけた。」(上iv)

個々の戦場ではかなり悲惨な現状があるにせよ、戦争がどのように作戦がたてられ、遂行され、戦われて、勝敗がつくのか。そこには国の文化、伝統、思想がまさにむきだし露わてくる。 

2020/09/21

『続・語録のことば 『碧巌録』と宋代の禅』 小川隆 禅文化研究所

『碧巌録』の難しさというのが、単に語っていることが難しいというだけでなく、当時の慣用句は熟語の意味を決めることから難しいようで、つまりは解釈云々以前の問題がいろいろとあるよう。このあたりは地道な研究が必要でしょう。
『碧巌録』だけではないが、禅関係の漢文というのは難しい。これは宋代の文章だからなのか、よくわからないが、訓読がいかに不自然な読み方であるかがわかる。かなり無理矢理読んでいる感が否めない。

わが通玄峰の頂上は
人の世間を超えたところ
すべては一心の生み出せしもの
見わたす限りの 青き山々

なるほどー。独りぼっちの空間を世界に広げればいいだけなんですよね。
僧、法眼に問う、「慧超、和尚にとう、如何なるか是れ仏?」
法眼云く、「汝は是れ慧超」。
この型はさまざまなところで登場するようで、これに対する解釈なんかは、唐代の即仏というのが宋代にも一般的だったようだが、圜悟は「即汝是」を真に肯ううるためには、
充分な機根の成熟過程と、一瞬の契合による決定的な悟りの体験が必要だった。そして、それをさえ得てしまえば、なるほど、いかにも玄則自身が本より仏にほかならないのであった。(133) 
全一なるものを全一のまま、無分節なものを無分節のまま、まるごと直に体認せひょ。それができれば「ひとり大空を闊歩することも夢ではない。逆にこれを情識・分別でなど理解したら、悟りなどはるか彼方の沙汰である。(152)
僧、趙州に問う、「万法は一に帰す、一は何処にか帰する?」 
州云く、「我青州に在りて、一領の布衫を作る。重きこと七斤」。

石は石、大は大、小は小と、自然がただ自然のままあるさま、人間の存在とは無関係に存在しているという考えを圜悟は批判する。

みな凡情と分別とばかりではないか。そういう凡情や分別をすべて捨て去ったら、そこで始めて看ぬくことができるのだ。そして看ぬいてみれば、やはり依然として、天は天、山は山、水は水だ、ということになるのである。(195)

圜悟は「無事」「作用即性」への批判する。本来性(0度)⇒開悟(一八〇度)⇒本来性(三六〇度)という円環的な「悟り」の論理を述べる。

 


2020/09/19

『フランス革命はなぜおこったか――革命史再考』 柴田三千雄 山川出版社

安達氏の著作とは毛色が異なる。まず16世の評価もそれほではないし、マリー=アントワネットに対してもそう。おもしろいのが、「首飾り事件」が公共圏を活性化したという指摘で、この事件自体マリー=アントワネットは無関係にもかかわらず、彼女の日ごろの行動や噂と相まって、王妃を誹謗する出版が賑わったりしたようだ。

本書の特徴としては、フランス革命を思想史事件の側面からではなく、王権と統治の構造改革の側面から論じているところ。
変革主体とは、どのようにして形成されるのか。……社会層、あるいは社会的結合関係などは、変革主体の土壌ともいうべきもので、それらのことから、変革主体が自動的に生まれるものではない。変革主体とは、社会・経済構造の矛盾のなかで異質の敵対分子として徐々に形成され一定の力をたくわえた情勢の時を待って立ち上がる、という性質のものではない。この一般的な社会傾向は、変革主体の形成を説明しない。それには、その契機となる客観的要因と現実にたいして能動的に立ち向かう主体的要因とを考えなくてはならない。(169)
この客観的、外的要因がアメリカ独立戦争やオランダとの戦争での莫大な戦費による財政問題が発端で、財政を立て直すために税制改革や法制改革を行おうとする。それがフランス革命に繋がっていく。

ルイ15世のときにモプーがおこなった司法改革や財政改革が徐々に功を奏したが、ルイ15世の死によって頓挫し、そのときにルイ16世が即位したという。これは啓蒙専制主義への展開のチャンスを逃したことを意味する。ルイ15世のときから財政改革をしようとしていたことがわかる。
テゥルゴは穀物の規制を廃止し、自由主義経済を推し進めようとしたが、不運なことに不作の年でもあったり。
ネッケルはもっと現実的な政策を行っていき、さらには会計報告書を国民に公開した。それで人気がでたらしい。しかしこういうことが反発もでるもので、フランス伝統の万人は君主に従うものだというふうに非難されたり。ネッケルは啓蒙主義的すぎたようで。
そして重要なことはテゥルゴもネッケルも世論に振り回されていたことのようだ。世論というものが形成されてきた。
そして後任のカロンヌは財政が限界であることを覚り、テゥルゴやネッケルの失敗からも学び、名士議会を開催することとした。この名士議会がフランス革命の一つの要因だという。貴族たちは自分たちの特権を失いたくないのでカロンヌの改革案を拒否するが、カロンヌは世論に訴える。しかしまだ世論は貴族たちを信用していた。むしろカロンヌこそが悪弊の根源と見なされていたという。なんとまあ。
政府側は改革をしようとするが、既得権益者や改革によって利益を得る人々などが絡み合って、改革というのは日進月歩で行われていくものなのだとわかる。革新というのは、政治の力学がわからない人たちなので、結局はロベスピエールのような人間が、美徳という名のもとで恐怖政治へとつながる。

モラル・エコノミーという概念があるのを初めて知る。穀物の価格が自由化されることで、不作の年には価格が暴騰する。ネッケルは輸入で対応するが、市民たちは高騰している価格に腹が立つわけで、それが暴動になるが、でもフランスでは暴動は頻発していたという。しかし、群衆たちは危機がすぎたあとも商人や供給者と日常的に付き合う必要があるから、妥協的な交渉をして「公正」な価格、「民衆的価格設定」を行い、さらに払い戻しもしていたという。これらの行為が、慣習的な権利であり、当局が公正な価格を保つことが義務と見なされていたから、この暴動が犯罪的な犯行ではなく、「代執行」の正当行為として考えられていたという。
なるほどー。これはなかなか面白く、イギリスのような自由主義経済のアンチで、ある種フランスで社会主義が盛んなのもこういう歴史的な様相が影響しているのかもしれない。
モラル・エコノミーは本書でも言われているように、パターナリズムだが、アンシャンレジーム下では民衆のなかには潜在的にパターナリズムを受け入れているわけだし。テゥルゴはこのモラル・エコノミーを放棄しようとしていたが、失脚後に自由化は撤廃される。
その後のバスティーユ占拠やヴェルサイユ行進(十月事件)にしろ、いろいろと偶発的なことがおこって、結果、ターニングポイントとしての事件になっている。歴史っておもしろいです。

あと蛇足だが、安達氏の『物語 フランス革命』で、ルイ16世に手術云々の記述があって、その後マリ=アントワネットは懐妊したと書かれていたが、なんのことやらわからなかったが、本書で包茎手術と明記されていた。なんだよー。

2020/09/18

『物語 フランス革命――バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』 安達正勝 中公新書

エドモンド・バーグ『フランス革命の省察』を読むにあたってのフランス革命のおさらいのために読む。コンパクトにまとまっており良かった。

当初は、革命派は王政を廃止しようとは考えておらず、立憲民主制を考えていた。しかし、ヴァレンヌ事件によって王への信頼がガタ落ちになり裁判となり死刑。このヴァレンヌ事件の首謀者はフェルセンで、『ベルばら』のフェルゼン。
ルイ16世の評価が変わってきているようで、暗愚ではなかったという。ルイ16世がギロチンの刃の形状を考案したという説を知った。そうなのか。ルイ16世が、まさに自由、平等を重んじていたからこそ、フランス革命が起きたというのは、そうだよね、としかいいようがない。ふつーなら暴動を徹底的に潰すものだし。
ルイ16世はアメリカ独立戦争の際にアメリカ側に加担する。これは反イギリスだからってのもあるが、ルイ16世の思想も影響しているようだ。フランスでは啓蒙君主の登場はルイ16世と言ってもよかったかもしれないが、時代はそうはさせなかったということだ。

ロベスピエールはやはり潔癖すぎたのでしょう。ポルポトもそうだったように、良かれと思って多くの人を粛正していく。権力欲からではなく理想のためというのが悲劇。猜疑心やらが心を蝕んでいくのでしょう。
ロベスピエールのヤバさは、「至高存在」を持ちだしてきたところで、霊魂の不滅までも言い始めてしまことだ。理性を信じた極致といっていい。キリスト教の神ではよくないからって、「至高存在」なんというものをもってくるあたりがヤバい。しかも祭典までおこなってしまっている。
本書で少し触れられているのが、ジロンド派が経済的自由を主張するがロベスピエールは生存権をもって反論する。生存権というのはある種究極の反論で、まったくもって現実的な解を提示しない愚論だが、民衆への説得力は計りしれない。
矛盾するかのような「自由による専制」だが、これは段階的な革命論で、まず絶対王政という専制を打倒し、それにともなう諸外国との戦争に勝ち抜くために非常事態体制をとり、そして真の自由を勝ち取る。
民衆はこの考えに賛同し、恐怖政治自体も民衆が望んでいたものだったという。搾取される側の反抗とは、こういう矛盾が潜んでしまう。だから穏健に改革していく必要があるのかもしれない。そうすると人は必然に保守主義になるな。

本書で際立っているのが、女性たちの活躍を強調していることだ。フランス革命では多くの女性が革命に参加し、戦争にもいった。ロラン夫人ねー、忘却の彼方にいましたが、ジロンド派の影の支配者。マレー暗殺を実行したシャルロット・コルデーなどなど。

また死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンについても書かれていて、知らなかったが彼は死刑執行するだけでなく医者でもあったという。しかも単なる町医者ではなく、王家、貴族などを診察したり、難病を治したり、貧しい人には無料で治療してあげたりと、死刑執行する贖罪の面もあったようだ。彼はルイ16世やマリーアントワネットなど知り合いを自らの手で死刑にしていくことで荒んでいったようだ。
安達氏曰く、ギロチンという処刑方法は人道的観点から導入されたが、これがかえって裏目にでて恐怖政治の出現を許してしまった面があるという。拷問や惨たらしい刑であれば、大勢の人間を粛正することはできなかっただろうと。そうだねー。これってけっこう重要な指摘かもしれない。恐怖政治を敷いても、殺すというの現代では銃だとか生物兵器だとかいろいろと大量殺戮させる方法はあるが、当時は一人ひとりをきっちり誰かが殺す必要があったわけだ。戦争とは違い、平時におけるテロリズムの質は全く異なるな。ギロチンなくして達成しえなかったテロリズムだということ。

いい復習になった。どうやら調べたら、バルザックの『サンソン回想録』というのが近いうちに出版されるよう。読んでみるか。

2020/09/16

『大分断――格差と停滞を生んだ「現状満足階級」の実像』 タイラー・コーエン 渡辺靖(解説) 池村千秋訳 NTT出版

なんか日本の状況を語っているのかと勘違いするぐらい。
現状満足階級が増えていき、イノベーションが起きにくく、流動性も低くなる。そして低成長社会へとなっていく。
人が移住をしなくなってしまったこと、転職しなくなったなどなど、まあ日本でも同じ傾向というか日本の方がひどい状況にあるような気がしていますが、どちらにせよ、この現状満足型は欧米日本の先進国では一般的傾向にある。
コーエンはそんな状況で日本をある程度うまくやっている国として、皮肉なのか、評価しているが、解説を書いている渡辺氏も言うように、だからって現状に満足していていいわけがない。僕らはけっこう政治や経済にあきらめムードがあって、もっとよい社会をつくろうとか、よくしていこうという気概が薄い。先進国では社会的な高齢化が進んで、成熟社会にいたり始めているようだ。
マッチングが僕らの生活の質を向上してくれているのは確かだし、でもそれがディストピアに見えなくもない。未来の評価というのは難しいもので、音楽に関していえば、レコードが登場した時、録音技術が音楽文化を崩壊させるという論調はふつーにあったし、チェリビダッケは音楽を体験として位置付けていたから、再生技術を嫌っていた。時が変わって、今ではCDでは本物を音ではないとか、MP3では音楽体験が希薄だとか言われ、レコード再発見がなされている。まあ僕もレコード至上主義者だけどね。
コーエン氏が言うことは、ある種の自分の生きた時代のノスタルジーではある。僕はそれを否定しないし、むしろ僕も携帯がない時代やネットフリックスがない時代を懐かしく思う。だってこれらがなかった時の方が、物や知識への執着が強いように思える。もっと活動的だったと思うんだよね。これは単なるノスタルジーでしかないと思うけども。
それに僕は地元に居続けている同級生を馬鹿にもしている。なぜ都会にでてこない、なぜ地元でぬくぬくと週末はショッピングモールに行って、ウインドウショッピングして、はたまたなんちゃってキャンプをして、そんなのが楽しいのかと。
でも、このなんとなく安定した社会は素晴らしいものでもある。不安定な時代にみんなが望んでいたことでもある。まだまだ道半ばだが、マルクスのいうように資本主義のあとは共産主義がくるのではないかと思える。そういう意味でも、このフラットな社会をコーエン氏は本能的に嫌っているのかもしれない。
コーエン氏は歴史は循環すると言うが、まあ循環するというよりも安定した社会というのは未来永劫続かないってだけでしょう。この日本も斜陽と言われながらも、安定した社会を維持してきている。かつて焼け野原になったように社会はいつだって崩壊する機会がある。
言わんとしていることはよくわかる。でもどこか呑み屋での若者への叱責にしか聞こえなくもない。

2020/09/11

『正法眼蔵入門』 頼住光子 角川ソフィア文庫

まあまあ。やはり原著にあたる方がよいかな。書いてある内容はたしかに入門でわかりやすいが、それ以上ではない。
とは言っても、『正法眼蔵』は何度か読もうと試みてきたが、一度たりとも岩波文庫の一巻目すら読み通すことができていない。激むず。
ふとしたときに道元関係の本を読んできたが、もうある程度の入門的な知識はあるのだが、やはり直接、長い時間をかけ、『正法眼蔵』と格闘せねばならないようだ。

本書は全体的に道元のエッセンスがよく書かれていると思うけど、道元の思想ばかりが書かれていて、時代背景や道元と彼以前の禅のあり方がいっさいないので逆に道元の思想がわかりにくいのではないかと思う。
道元が『正法眼蔵』でそれまでの禅の教えの何を乗り越えようとしていたのかが不明のまま。そのため全体的に一般的な「仏教思想」の内容に近いものになってしまっている。
たとえば公案の解釈の差異から道元独自の思想が浮かび上がってくるはずだ。でもそういうことをしていない。
結局、彼が永平寺で成し遂げようとしたことも中途半端な書き方なんですね。
有と時について抽象的な議論をするよりも、もっと道元の独自性に焦点を絞った方がよかった。
星二つ。
而今を「にこん」と読むが、Nikonの社名の由来だと勝手に考えていたが、どうなんだろう。でも、「この一瞬」という意味だから、カメラメーカーにぴったりなんだけど。

2020/09/10

『ニュルンベルク合流――「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』 フィリップ・サンズ、園部哲訳 白水社

ラファエル・レムキンとハーシュ・ラウターパクトの人生を描きつつ、自身の祖父の前半生を絡めている。正直言うと、祖父の部分は蛇足な気がしないでもないが、これはこれで貴重な家族史の掘り起こし作業として素晴らしい。
国際法については疎いので、「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の違いが当初はわからなかった。
レムキンからすれば個人を対象にした「人道に対する罪」では不十分であったし、ラウターパクトからすれば集団を対象にした「ジェノサイド」はあまりに曖昧なものだった。
レムキンは、ソゴモン・テフリリアンというアルメニア青年がアルメニア人と両親を殺した報復にオスマン帝国のタラート・パシャを暗殺した事件に触発されたようで、たしかにトルコ人を裁く法がないが、それでいいのかというのは当時の多くの人が持っていた気持ちだろう。
集団の絶滅、そしてそれは文化や伝統の破壊を防ぐための新しいルールをつくりだそうとレムキンはしていた。
「ジェノサイド」は個人の保護を危うくする用語であり、ある集団と別の集団と敵対させ同族意識を煽ることを懸念していた。
しかし、レムキンからすれば個人に焦点をあてることで、その暴力がどのようなものだったのか、ある集団になぜそのような暴力が向けられたのかという誘因を見えなくなってしまうところがある。
ここでなかなか面白いことが書いてあった。個人の責任と集団の責任についてで、フランクが裁判のときに集団の責任をもちだして自分個人に責任がないことを述べようとしていたようで、そこでドイツは今後ずっとその責任から逃れられないと。それにたいして他の比較は嘲笑ったようだ。なかなか興味深いエピソードです。
個人の保護と、極悪な犯罪に個人が刑事責任負うということがこれで判例になった。しかし「ジェノサイド」は採用されず、戦前の犯罪が無視されることになったが、ニュルンベルク裁判の後、1948年に国際連合でジェノサイド条約が採択され、1998年に国際刑事裁判所ができる。
ジェノサイドという概念にはいろいろと難題があり、ジェノサイドが民族アイデンティティにもありうるし、民族の溝を深める働きもある。しかし著者は留保付けながら、人間というのは集団でいきる生き物であり、集団と集団で戦争が行われてきていることを指摘している。

蛇足
知識としては知ってはいるが、ナチスによるユダヤ人虐殺、そしてその後の世代が引き受けた歴史を改めて読むと、ヨーロッパではナチスの問題が尾を引いていて、最近も当時17歳だった強制収容所の看守が有罪判決を受けていた。現在では90歳を超えている。こういうニュースを接するともやもやする。刑事裁判が行われることは理解できるのだが。『朗読者』でも、やはりもやもやしてしまう。
このもやもやを解消するには、ナチスを賛美し、現在の上記のような告発を批判するか、人権派になって擁護するしかない。
この裁判の意義は理解はできるが、なんか考えさせられてしまう。
フランクの息子のニクラスは父が絞首刑されたあとの写真を持ち歩いている。
あとラウターパクトやフランクが『マタイ受難曲』をSPで聞いていたようだだが、当時の録音は下記ぐらい。
ハンス・ヴァイスバッハ指揮 ライプツィヒ放送交響楽団
ウィレム・メンゲルベルク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ギュンター・ラミーン指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
どれだろうか。
それとユダヤ人であるラウターパクトが『マタイ受難曲』を好んでいたというのも、そうなんだーと思うところ。
受難劇では、イエスの弟子たち個人の罪と人間の罪が描かれて、バッハは見事にこの二つを音楽に昇華している。

2020/09/02

『敗北者たち――第一次世界大戦はなぜ終わり損ねたのか 1917-1923』 ローベルト・ゲルヴァルト 小原淳訳 みすず書房

国家間の戦争が終わっても、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国の解体によってもたらされた内戦が惨たらしく、第一次世界大戦そのものに匹敵するほどの犠牲者と混乱を招いていた。
この混乱をまとめて読めることは、この著作のいいところだが、訳者による補足があまりに多いため本書の信頼性がけっこう損なわれてしまっている。それをあえて無視すれば、本書はロシア革命がいかに戦後に影響を与え、そして第二次世界大戦への道を整えていったのかがわかるし、何よりも普通だと各国史でしか学べないヨーロッパの歴史を概観できるのがいい。
ともわれ1917年のロシア革命のインパクトは相当なものだったようで、ロシア国内の内戦にとどまらず、バルト三国、オーストリア、ドイツで共産主義の風が吹き荒れていたようだ。そして共産主義革命とともにナショナリズムが盛り上がり、帝国は解体されていく。1914年の段階では誰も予想できなかった事態が起きていた。
知らない歴史が書かれている。例えばバルト三国で終戦後にボリシェビキ革命に抗するためにドイツ人たちの義勇軍が派遣され、ボリシェビキと戦争していたこと、そしてそのドイツ人がかなり野蛮であったこと、そのため助けにを求めていた現地政府が逆にドイツ義勇軍を見放していくことなどだ。すでにゲリラの様相をていしており、誰が見方で敵かわからない状況で、村人たちを虐殺したりしていたようだ。
僕はドイツ軍は武装解除されていたのだと思っていたが、周辺国では終戦とはならず、動けるドイツ軍だけが頼りという状態だった
またボリシェビキにはユダヤ人が多くいたということもあり、ボリシェビキとユダヤ人を強く連想させるイメージが出来上がり、反ボリシェビキは反セム、反ユダヤの側面ももち、白軍がユダヤ人を虐殺することは珍しくなかったという。最終的にボリシェビキは内戦に勝つが、国内経済は疲弊し、それまで築いてきた工業化や経済力は失われてしまった。そのためロシア難民が西ヨーロッパに雪崩込み、とくにドイツには多くの難民が押し寄せる。そこで白系ロシア人は新聞や出版物でソ連を批判していく。
ミュンヘン・ソヴィエト(バイエルン・レーテ共和国)が創設されるが、あっけなく崩壊する。この事件はミュンヘンを反ボリシェビキに誘っていくもので、後年のナチズムへと繋がっていく。ボリシェビキの恐怖がファシズムを招いていく。
トルコとギリシャの戦争は、イギリスの後押しもある、一種の代理戦争といってもいいぐらいだ。セーヴル条約によって、少数民族問題を穏健に解決しようとする姿勢から遠く離れ、住民交換がトルコとギリシャで行われる。これってとても悲しい歴史。アナトリアやイズミルに住む正教徒はギリシャへ、そしてルメリアのムスリムはエーゲ海を渡りトルコへ渡る。国民国家の存続は民族の均質性によって担保されることを裏付けているかのようだ。
ウィルソンの民族自決は全民族に適用されるものではなく、戦勝国にとって利益になる場合に適用されていた。そしてこの民族自決によって諸国家の民族問題がでてくる。
19世紀からオーストリア、ドイツ、ロシア、オスマンの各帝国は民族問題を抱えていたが、それは民族国家を創り出すところまではいかず、あくまで帝国内での自治権程度でおさまっていた。また第一次世界大戦が起こったときでも、オーストリア帝国の解体までを想定はしていなかったし、望んでもいなかった。それがいつのまには民族ごとに国家を創り出すという話なっていたようだ。
本書の主張は非常に明快で、それは暴力の連鎖だ。1917年のロシア革命を契機に、それまでの帝国から民族に焦点が移っていき、そして反共産主義がヨーロッパの感心ごとととなっていく。1923年はローザンヌ条約が締結された年であると同時にヒトラーのミュンヘン一揆が起きた年でもある。ムッソリーニ、ヒトラーのファシズムの源流は、著者はこの1917年から1923年にあるいう感じでしょうか。
大戦が終了したのちも、各地では戦争が継続し、失地回復主義がヨーロッパ政治ではつきまとい、ドイツ、イタリア、日本は拡張主義へと走る。

2020/08/29

『夢遊病者たち 2――第一次世界大戦はいかにして始まったか』 クリストファー・クラーク/小原淳訳 みすず書房

しかしまあ、第一世界大戦前史というのは複雑怪奇で、昨日の味方が今日の敵だったりで、よくわからない状況。とくにバルカン戦争はもうニュートン力学的な何かではなく、複雑系の様相を呈していて、まったくもって理解不能。
教科書的に出来事を記述することはできても、その背景や権謀術数が複雑に絡み合い、その結果も予想不可能で、まさに政策決定者たちは「夢遊病者」となっていた。とはいっても、政策決定者が万能なわけではないので、夢遊病に罹患せざるを得ないものだ。市民が政府の政策を批判したって、それが正しいのかどうかの判断は未来に託されているだけだ。

第5章 バルカンの混迷
正直、とっても複雑すぎる。ブルガリアがオーストリアの後押しで独立後、ロシアは戦略的には重要なブルガリアとセルビアとのあいだでどちらをとるべきか迷う。
オーストリアからすればオスマン帝国が一定程度の影響力をバルカン半島にあるほうがよかったが、第一次バルカン戦争によってすべてが崩壊する。
アルバニア問題が1912年11月ごろからでてきており、セルビアとモンテネグロはスクータリ(シュコダル)を攻撃。最終的にはセルビアは列強の言い分に折れるかたちで第二次バルカン戦争が終わる。オーストリアが19世紀後半までもっていた、東からの侵略を阻止する要の役目は、20世紀初頭にはすでに失われていた。
ポワンカレ率いるフランスはバルカン問題に対して強硬姿勢をとっていた。イタリアのリア侵攻、そしてオスマン帝国の弱体化によって、
フランスはロシアのバルカン政策を支持しているようでそうでもなくて、ロシアがバルカン半島での勢力を伸ばすことにも懸念していた。しかしロシアのバルカン半島へ深くかかわっていることで、フランスとしてもロシアと手を組まなければならなかった。もしバルカンで戦争が起こった場合、ロシアと共同でドイツを対峙する必要があった。
同盟の意義についておもしろい見解があり、
同盟は憲法と同様、せいぜいのところ政治的現実のおおよその指針でしかなかった。(446)
日本では同盟を神聖なものと捉えがちだが、じつはそれほどでもないことがわかる。日ソ不可侵条約を犯したソ連ををあーだこーだ言ったり、ナチスドイツとソ連との不可侵条約に驚いたりするのは、ヨーロッパの外交がおそらく日本人が思っている以上に流動的で、利己的であるのだろう。信義を重んじるのは、あくまでも儀礼であり、裏では何をやっているのかわからないというのがあるのかな。
でも、それだけでは人間関係は不信感しかなくなるので、このあたり微妙なバランスがあったと思われる。

第6章 最後のチャンス
イギリスとロシアの関係はかなり微妙だったよう。ペルシャ、モンゴル、チベットでは衝突しており、英露協商の継続自体が危うい状態が続いていた。ペルシャ-インド間に鉄道を敷設するロシアの計画はイギリスの不信感を買っていたし、また日露戦争の敗戦によって、軍の改革が成し遂げられ、強力になっていた。
ヴィルヘルム2世の強硬な姿勢は、ベルリンでは受け入れられず、ベートマンが抑えていたし、ヴィルヘルム2世も正気にもどれば、戦争を回避しようとしていた。モルトケの予防戦争という路線もとられることもなく、アガディール危機も騒いだのは、フランスでもドイツでもなくイギリスだったという。ドイツはイギリスとの緊張緩和に努力していた。
よく言われるドイツのオスマン帝国やイスラーム圏への投資が協商国の反ドイツをまねいたという説明は、不十分であり、確かにアンカラバグラードへの鉄道敷設は計画は、フランスとの譲歩やイギリスへの管轄権の譲渡などで1914年6月時点で「平和的」な解決が進められていた。しかもドイツのアナトリア地方、メソポタミア地方への投資額にしろ輸出入にしろ、イギリスほど大きくなく、オーストリアよりも少なかった。
ロシアにとってはドイツのオスマン帝国への関与は恐怖だった。ロシアはボスファラス海峡は長年の懸案だったこともあり、ドイツが海峡の権益に関わることは無視できなかった。

んで、もうまとめるのがかなり面倒になってきたので一括することにする。
サラエボ事件ののち、オーストリアからすればセルビアを叩かないわけにはいかなかった。オーストリアがセルビアに突き付けた最後通牒は、本書の著者はそれほど過酷なものとして評価していない。エドワード・グレイは「最も恐れるべき文書」と評したようだが、著者はNATOがセルビア=ユーゴスラヴィアに提示板最後通牒より穏当なものだという。ただし、オーストリアがこの文章を作成するうえでセルビアが受け入れることはないことを前提にしていたことは間違いないようだ。
かなり込み入った話はおそらく忘れちゃうので、大枠としてはフランスもロシアもエ国家のエゴイズムを全面にだして動いていたことがわかる。そしてフランスもロシアも国内では意見がぶつかり合って、けっして首尾一貫した政策や戦略なんかがあったわけでもない。
イギリスとロシアとの関係ですら危うい状況であった。破綻する前にサラエボ事件が起こったにすぎない。イギリスの参戦自体も既定路線とは言い難かったようだ。
そして当時の政治家は引き起こされた戦争がいかにコストが高く、報酬が見合わなかったこと、そして短気で終わる戦争あると考えていた。確かにモルトケや他の戦略家は長期戦になると予想していたにせよ、よくわからなかったというのが本当のところだろう。
本書の要点は
単独で責任を負う国家を告発したり、あるいはそれぞれが分かち持つ戦争勃発への責任に応じて諸国家を格付けする必要が本当にあるのだろうか。……責任論を中心に据えた説明が問題なのは、ある集団に間違って責任をきするかもしれないという点ではなく、責任問題の周辺に作られた説明が先入観にもとづく推測を伴う点である。(830)