2020/10/08

『1941 決意なき開戦――現代日本の起源』 堀田江理 人文書院

1941年の日本とアメリカのやりとりについて、おそらく見解が割れる。
ルーズヴェルトは、いつ日本との戦争を決意したのかが問題だが、1941年8月12日のチャーチルとの大西洋憲章の際に、日本との戦争を3か月は先延ばしにできると言ったという話もあるが、これをもってすでにルーズヴェルトが太平洋での日本との戦争を決めていたとは言い難い。本書では、ルーズヴェルトは直前まで日本との戦争を回避しようと心がけていたように書かれているが、このあたりは結局は闇の中かと思われるが。
当時の日本はファシズム体制ではなかったし、独裁政権でもなかった。それでも近衛内閣はドイツとイタリアを選んだ。途中で同盟を破棄もできたし、逆にソ連への侵攻も選択肢としてもあった。でもアメリカとの戦争を選んでいる。南印進駐してもアメリカが世界平和、民族解放を理由に、静観してくれるだろうとかいうわけわからない予想もしていたみたいだが。

本書を読んでいて、日本の意思決定というものが、いわば「欧米式」のものではないということが痛感される。建前と本音があるのは世界共通だと思うが、ただ建前と本音の様式が欧米とは異なっているということだろう。
本書では何度もアメリカとの戦争を回避できた場面があることが書かれている。おそらくその通りだ。日本の政府も戦争推進派だけの一枚岩ではないし、むしろ戦争回避を進めてきたのはたしかだが、要は意思決定の様式がアメリカとは異なり、戦争せざるをえない状況に追い込まれていった。
近衛文麿がファシズム気質だったかどうかはおくとして、反欧米の気持ちは当時の日本の指導者たちは持っていてもおかしくない。欧米と親しくすべきと主張する人たちにおいてもだ。そして近衛、松岡洋右にしろ、あまりにもアメリカが日本の理念を理解してくれるものと考えていたのは問題だった。
ハルを筆頭に日本の拡大主義を批判するのはあたりまえで、それは国際協調主義からすれば唾棄されるべきだろう。当時、すでに帝国主義の風潮は退潮ぎみだったし、アメリカ自体が帝国主義ではなかった。フィリピンもすでに独立をすることになっていた。たしかにイギリスなんかは植民地の利権を手放す気はなかったが、それでも第一次世界大戦の教訓で、権謀術数が蔓延る外交は忌避されるようになっていた。

八紘一宇、大東亜共栄、そして王道楽土、これらの用語ははたしてどこまで本気だったのか。それはある種の虚勢で、ただ政策が御前会議で採択されると、聖なるものへと昇華していく、という感じで書いている。おそらくこのあたりが妥当なところか。「信」の構造からすれば、理念とは後追いするものであり、理念が先にあるのではない。
上記の用語は、当時ではある種の枕詞のように使われていたと考える。それがいつしか理念へと変化、大義名分になっていき、信じるものへと昇華していく。そういう過程があったのではないかと思う。多くの政府の指導者やそれに近い人も大東亜共栄なんて、当初は理念でもなく、単なる言い訳だったものが、いつしか信じるものになってしまった。それがなくなれば戦争をする、している理由がなくなるからだ。
日中戦争の泥沼化によって1941年にはすでに物資不足に悩まされていた。そういう状況で政治の指導者はきちんと状況を把握し、アメリカとの戦争を望んではいなかったが、口から出る言葉は、米国との戦争もやむなし、なのだから虚勢でしかない。

本書、太平洋戦争前夜を描くノンフィクションとしては、かなり面白い。ところどころに挟まれるエピソードが人物の描写を際立たせているし、多岐にわたって目が行き届いている。
昭和天皇の洋行、近衛文麿のヒトラーのコスプレ、会津生まれの捨松と薩摩の大山巌の結婚、石川信吾や石原莞爾の思想が小さい扱いながらもバランスよく散りばめられている。そして永井荷風の日記が当時の雰囲気を語る。ゾルゲ事件も重要なことは取り上げていて、トリビアな「結婚報国」や「慰問袋」の話も織り交ぜてくる。太平洋戦争前夜を描くうえで、ほぼすべてがおさまっている。そして、潮津なる人の従軍日記が要所要所に散りばめられて、首脳部と現実とのギャップが悲しい。

ヒトラーがいないドイツはすぐに多くが違う国になったであろうが、日本の場合は東條ではなかったならと言われても相違点が明らかにならない。
堀田さんは結論します。
最終的に、戦争を回避する道を選ぶことは、長期戦を戦えるアメリカではなく、劣性が明らかな日本が下されなければならない決断だった。それがいかに屈辱的で、不可能で、自己去勢行為に等しいことのように思えても、それが最終的に国家の存続と繁栄につながるという考えに、政策と世論を持っていくことが、先見ある指導者の務めであるはずだった。あたかも、避戦という選択肢が存在しないように匂わせる戦略的タイムテーブルと、官僚的なルールは、日本の指導者たちが自身に課したもので、米政府の作ったものではなかった。それは自分たちが、どれだけ外の知からによって不当に戦争に追い詰められた、と納得させようとも、まったく変えられない事実だった。自分たちを被害者だと言い聞かせ、日本は常に平和を願い、アメリカに対して、譲歩の姿勢を取り続けてきたと主張しても、事実は違った。……彼らにあるものは、自己憐憫、怒り、そして何より賭博師の大胆さだけだった。(350-351)
一億層玉砕から一億総懺悔へと変わる。それは戦争が全ての国民に万遍なく責任があるということであり、確かにその面もないわけではないが、しかしこのことによって開戦責任が曖昧になり、「誰も悪くなかった」という主張に等しくなる。国民総懺悔は指導者にとっては好都合な概念でしかない。

時系列は以下。
1940年9月23日 北部仏印進駐
1940年9月27日 日独伊三国同盟
1940年10月 大政翼賛会設立
1941年4月13日 日ソ中立条約
1941年6月22日 独ソ開戦
1941年6月25日 アメリカによるソ連資産凍結の解除
1941年7月25日 アメリカによる日本資産凍結
1941年7月28日 日本の南部仏印進駐(情勢二推移二伴フ帝国国策要綱)
1941年8月1日 アメリカによる石油禁輸措置
1941年8月9日~12日 大西洋憲章
1941年9月6日 帝国国策遂行要領
1941年9月下旬から ゾルゲ事件
1941年10月12日 荻外荘会談
1941年10月15日 日米の外交期限
1941年10月~1942年1月 モスクワの戦い
1941年11月27日 ハル・ノート
1941年12月8日 真珠湾攻撃

内閣の移り変わりは以下。
1937年6月4日~1939年1月5日 第一次近衛内閣
1939年1月5日~1939年8月30日 平沼内閣
1939年8月30日~1940年1月16日 阿部内閣
1940年1月16日~1940年7月22日 米内内閣
1940年7月22日~1941年7月18日 第二次近衛内閣
1941年7月18日~1941年10月18日 第三次近衛内閣
1941年10月18日~1944年7月22日 東條内閣

読んでいて、暗澹たる思いでした。本書では日本の意思決定を中心に書いているが、それでもいろいろと疑問がわき出てくる。いろいろと日本側の言い分もあるかと思うが、いずれにせよ戦争を遂行したのは日本の当時の政治家たちで、世論が戦争を支持していたからって、それに靡くようじゃ、はっきり言って政治家なんかいらない。

戦争前夜についての本はかなり久しぶりに読んだから、多くのことを忘れていた。永野修身の存在すら忘れかけていた。
太平洋戦争関係をいろいろと読んでみようと思ったのはいいけど、相当な量の書籍が出版されていて、うんざりすえるぜ。2日に1冊のペースを維持しようと躍起になって読んでいるが、つらい。何がつらいって、読めば読むほど参考文献が増えていくことだ。
どうすりゃいいんだ。もう僕のアマゾンの購入予定のリストには70冊と図書館の予約リストにも50冊、計130冊もの第二次世界大戦関係の書籍があって、どんどん膨れ上がっていく。読めんのかよ、これ。

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