本書ではノモンハン事件を世界史の中でとらえ直している。内陸アジアの僻地で戦われた知名度の低い紛争が、ヒトラーのポーランド侵攻などの導火線になっているという。
時系列で言えば
1937年6月 乾岔子島事件
1937年7月7日 盧溝橋事件
1938年3月12日 アンシュルス
1938年7月29日~8月11日 張鼓峰事件
1938年9月下旬 ミュンヘン会談
1939年3月チェコスロヴァキア解体
1939年5月11日~8月31日 ノモンハン事件
1939年8月23日 独ソ不可侵条約
1939年9月1日 ドイツによるポーランド侵攻
1939年9月3日 英仏によるドイツへの宣戦布告
1939年9月15日 ノモンハン事件の停戦協定
1939年9月17日 ソ連によるポーランド侵攻
1940年9月27日 日独伊三国同盟
こう時系列でみるとなかなか面白く、乾岔子島事件が終息したのは盧溝橋事件によってスターリンはアムール川での日本との争いに興味がなくなったからで、日本と中国が戦争へ拡大することはスターリンにとっては歓迎だった。これによって日本の脅威は大幅に減じ、ソ連は蒋介石への支援をしていく。
またチェンバレンがヒトラーに弱腰だった理由として財政問題だったことが書かれている。さらにイギリスは伝統的に反ロシアであり、なおかつ反ボリシェビキでもあった。第一次世界大戦でのロシアの不甲斐なさを知り、スターリンと組むことはしたくなかったようだ。
ヨーロッパと日本では基本的に反ソ連であり、スターリンは孤立していた。外交は難しいようで、日独の同盟はソ連を英仏に走らせることになり、ドイツからすれば第一次世界大戦と同様に英仏露を相手に戦う羽目になる。英仏の宣戦布告まで日独同盟が果たせなかった理由となる。
日本のドイツ接近はゾルゲによってソ連は把握していた。だからこそスターリンはドイツへと接近していき、不可侵条約まで結ばれる。
ソ連にとって僥倖だったのが、ヒトラーのチェコスロヴァキアへの侵攻で、これによってチェンバレンはトサカにきたようだ。ミュンヘン会議はなんだったのかと。
そしてスターリン有利と事が運んでいく。
1939年前半のヨーロッパでは確かにスターリンの思いのままに事が運んでいるかにみえたが、五月の時点ではヒトラーはソ連との条約締結の可能性について明確な意思表示をしておらず、ノモンハン事件はその段階で起きたのだ(228)
スターリンの外交は絶妙だったという。ドイツはポーランドへ侵攻することを決めており、ソ連との不可侵条約締結を目指していた。しかしスターリンは二枚舌外交を行う。英仏との同盟をしていると、わざと英仏との交渉を長引かせてドイツを焦らせている。そしてスターリンはドイツを選び、相互不可侵だけでなく、ポーランド分割、エストニア、ラトヴィアとフィンランドのソ連勢力への容認とリトアニアのドイツ勢力への容認も含んでいた。
なぜスターリンはドイツを選んだのか。著者はここで東アジア情勢を導入する。ソ連と英仏が結べば、ドイツは日本と同盟を結ぶ。そうすると必然的に日本は満州国とソ連圏の国境で攻撃を仕掛けてくる。
しかもドイツを選べば、ヨーロッパの中でソ連は局外の位置に立つことができる。そしてドイツと結べば、ノモンハンで日本を徹底的に争うことができた。
スターリンは日本がソ連と全面戦争やる意志がないことは知っていたが、かといって関東軍が日本中央に従う保証もないとも考えていた。
ノモンハン事件がソ連の軍事的勝利かどうかともかく、外交的勝利であった。8月下旬の時点でスターリンは日本と和平をする準備をしていたが、それを日本側に察知されないようにしていた。
そして、著者はさらにドイツのポーランド侵攻後、ヒトラーはスターリンに東側からポーランドを責めるようになんども催促するが、それは実現するのは9月15日と二週間後となる。なぜなのか。それは東側での戦闘終了がなってから西側の戦いに入ることを考えたからだという。二正面作戦を回避した。
1939年の外交の舞台は複雑を極め、いずれの訳者にも第一の目標と第二の目標があった。イギリス政府はソ連と取り決めを結ぶことでヒトラーのポーランド攻撃を抑止しようとした。ヒトラーの抑止に失敗した場合も、取り決めさえあればソ連を英仏との「同盟にしばりつけることができるものと考えた。ヒトラーが目指した低他の、英仏のポーランド援助を抑止する者としてのソ連との同盟であり、もしくは英仏がポーランド防衛線に打って出た場合にソ連の中立を確保するものとしてのソ連との同盟であった。また日本政府はソ連に照準を絞った軍事同盟をドイツと結ぶことを目指し、それがかなわぬならば包括的な防共協定を強化することを望んでいた。スターリンは西側民主主義国とドイツを戦わせることでソ連の東西において裁量を得ることを目標とし、それに失敗したならば、対独戦となった場合に英仏の援助を確実に得られるようにしたいと考えていた。この四者のうち、第一の目標を達成できたのはスターリンだけである。ヒトラーは第二の目標を実現し、イギリスと日本は何も手に入れられなかった。(244)
本書の弱点としては、スターリンの選択について資料の裏付けがないことだろう。ただし、これは著者言うように論理的な解でもある。
著者は言う、ノモンハンで日本は苦い経験をした。ゆえに北進ではなく南進を選んだと。知らなかったが、独ソの戦争でドイツの快進撃が続くなか、日本でソ連との開戦を検討していたことがあり、松岡外相は日ソ中立条約をまとめた人物だが、条約を破棄しドイツと共にソ連を攻撃することを提案する。それを反対したのが東条英機で、とうじ日本軍ではドイツの快進撃が弱まり、どうも雲行きが怪しい状況にあり、しかも中部戦線のソ連軍を指揮しているのがジューコフであることを知っていたため、というのだ。
ノモンハン事件の責任者が太平洋戦争の開戦論者だった。服部卓四郎と辻政信だ。
ゾルゲによってもたらされた、日本の対ソ戦の延期は極東ソ連軍の大移動をもたらし、1941年のモスクワ攻防戦に投入されていく。モスクワはソ連にとって最重要であり、もしモスクワを取られれば、ソ連は瓦解するとスターリンは確信していたらしい。ドイツももしモスクワだけに集中していれば、ナチスはヨーロッパを手中におさめていたという。
そういう側面からもノモンハン事件が日本にもたらした影響は、ヨーロッパ戦線にも波及していった。
本書解題で、蒋介石がノモンハン事件が日ソ全面戦争に発展することに期待していたことやブリュヘルが張鼓峰事件で粛正、さらにモンゴル共和国でのスターリン粛清について書かれている。このあたりは秦郁彦氏の著作でふれられていた。
また小松原道太郎がソ連のスパイではないかという説があるらしく、著者のゴールドマンは否定的だという。
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