2020/10/30

『ママ、最後の抱擁――わたしたちに動物の情動がわかるのか』 フランス・ドゥ・ヴァール/柴田裕之訳 紀伊國屋書店

情動とは何か
情動は、私たちは十分に理解できない複雑な世界で舵取りをするのを助ける。情動は、私たちが自分にとって最善のことをするのを確実にする、体なりの手段なのだ。しかも、必要とされる行動をとれるのは身体だけだ。心は単純では役に立たない。周りの世界とかかわりを持つには体を必要とする。情動は、これら三つ、すなわち、心と体と環境の接点なのだ。(114)
ドゥ・ヴァ―ルによる情動(emotion)の定義。
情動とは、当該の生き物にとって意味のある外的刺激によって生じる一時的な状態である。情動は、体と心(脳、ホルモン、筋肉、内臓、心臓、覚醒状態など)における特定の変化を特徴とする。どの情動が引き起こされているかは、その生き物が置かれた状況からも、その生き物の行動の変化と表現からも推測できる。情動と、その結果として生じる行動との間には、一対一の対応関係はなく、情動は個々の経験を環境の評価と組み合わせ、最適の応答ができるようにその生き物に準備させる。(114)
感情は意識的な経験であり、情動の経験を自覚した時にのみ、感情へと変化する。「だから私たちは、情動は示すが、感情については語る」(11)。情動は身体的表現であり、感情は内面にとどまる。
動物行動学のような機能的解釈は、情動を語るのを避ける。ラットが馬やヘビを怖がるという表現は慎むように言われるが、なぜそんな必要があるのか。
共感は中立的な能力だとする。(139) 他者を思いやるにせよ、拷問をして痛めつけるにせよ、この共感という能力は使われる。他者を助ける利他的行動を起こす。
人間は言うほど利己的ではないし、自らを犠牲にしてでも他者を助けることはよくある。

情動の背景にある豊かさと深み
微笑みが「幸せな」顔だと判断されがちだが、微笑みの背景にはもっとずっと豊かな意味がある。他者を喜ばせる必要性や、不安な他者を安心させる意図、歓迎の態度や服従、愉快さなどで、単一の意味を持っているわけではない。微笑みは服従と敵愾心の欠如を表すことから、親愛の合図に変化していった。笑いはくすぐりあいなどの遊びの標識として始まり、絆作りや健全さのシグナル、そして面白さや幸せのシグナルへと変化していった。この二つの表現はしだいに近づき、混ざりあっている。
「自分のよからぬ振る舞いについて後ろめたく感じると言って謝罪する人のも、私はいつも納得いくわけではない。むしろ私は、無言の後ろめたさの「ほうが好ましいと思う。」(205)
へーと思うのが、海外でも偽りの涙や、謝罪の形式というものがあって、有名人の謝罪なんかはこの「非謝罪」「偽謝罪」を使うようだ。んー人間は普遍的だね。
「嫌悪」という情動は、文化的現象が背景にあり、後天的なものと扱われることもある。虫、排泄物に対する嫌悪だけではなく、道徳的な嫌悪も同じで、近親相関や詐欺などに対する嫌悪もそうだが、しかし動物も人間と同じように

動物への不当なまなざし
動物、特に哺乳類、類人猿は、人間と近い情動を表す。同一ではないかもしれないが、人間が使う表現で表すことはできる。動物はこれらの情動に沿って、返礼、復讐、赦し、そして未来を予期することもする。犬だって何かを「期待」して行動をしている。
人間と動物にはそれぞれ」異なる言葉が使われる。「自負」と「優位性」、「恥じる」と「服従」あるいは「下位者」など。動物を語る差異、機能にかかわる言葉を使い行動の背後に感情がることを意図して無視する。
行動心理学からすると「愛」は否定され、そこには生殖だけを問題にし、動物が自負を見せれば、それは単なる自己顕示だと言う。生物学ではこれを「分析レベルの混同」として知られているようで、
情動が行動の背後にある同期にかかわるものであるのに対して、結果は行動の機能にかかわる。両者は切っても切れない間柄にある。どんな行動も、動機と機能の両方を特徴としている。私たち人間は、愛するとともに生殖もする。自負を感じるとともに相手を畏怖させもする。渇きを覚えるとともに水を飲みもする。恐れるとともに自分を守りもする。嫌悪を感じるとともに体を清潔にする。(224)
チンパンジーの母親が自分の子を他人に奪われたとき、母親は関心がないふりをする。へたに奪った者を追いかけたりすれば赤ん坊に危険が及ぶことを知っているからだ。だからあえて無関心を装ったり、冷静さを保つ。しかし子供を取り返すと、奪った者たちを力いっぱい威嚇し怒りを発散させる。ここにも情動の抑制がみられるし、そして物事の対応へのある種の「合理性」を見出すことができる。

現代社会では受け入れられるか
現在では人間の社会構造を分析し、それを肯定することは、道徳的に批判を受けることになりかねない。例えば、会社で上司にゴマをすったりぐらいならまだいいが、部下が上司に気を使ったり、上司の顔色を読んだり、上司が気に入った人物を特別扱いしたなどなどはは、「閉鎖的」とか言われるが、人間特有の特質ではなく、動物も構造は異なるにせよ、持ち合わせている。こういう現象は、人間が特別な存在ではなく、動物一般に見られ、人間が動物であることの証拠である。
権力はいかなる人間関係の間にも存在する網の目のような力関係であり、人はそれから決して逃れられない。
そして人間の社会は、整然として見えるが、規則を守らない者には刑罰と強制によってなりたっている。「人間であれ動物であれ、結果を考えずに情動に屈することほど愚かな行動はない」(52)。動物は機械のような生き物ではない。自らの情動を抑えて行動をしている。食べ物を狙うときだって、情動の従って闇雲に襲うことはないのもその証左となる。
つまりは、人間社会というものの悲しい現実に直面せざるを得なく、またそれは必然でもあるという悲しさ。
だからといって、よりよい社会、よりよい人間関係を目指しても無駄だということではなく、人間社会の不平等や不寛容を批判する際に、フェミニズムや合理的・理性的思考をもって批判すること自体が無効化されていくと思われる。
さらに、ある種のタブーも書かれている。
ボノボの研究で孤児となった子供は、共感能力を著しく損なわれるということがわかったようだ。母親とともに育った場合情動のコントロールがうまく、調整することを知っている。孤児の場合、自分の情動の波をどう処理していいのか、難しいようだ。そして孤児のボノボは他者を気遣ったり、慰める行動は少ない。
これを人間社会でもそうなのではないかとして研究をすること自体が難しく、結果がでてもそれを公表しずらい時代でもある。しかし動物を対象にしていれば、雄弁にも語られる。

哲学は有効なのか
「文明は何か外部にある力ではなく、私たちそのものだ。」(261)霊長類は社会生活とは切っても切れないものであり、文化が社会を構成するのではない。生物学的特質と社会は密接に関係しあっている。
猿たちは、自分のご褒美と他のサルのご褒美の比較をし、それに満足や不満足を示す。つまり猿たちも他者を観察し、見積り、比較している。人間だけでなく猿たちも相対的な世界で生きている。ロールズへの批判として、正義の原理は嫉妬とは無縁の人びとが選ぶべきものとしており、そうするある矛盾に行きつく。つまり嫉妬のない世界であれば、公平さに配慮する必要がないからだ。ロールズのような合理的な議論は、道徳原理が情動から力を得ていることを無視している。(290)むしろこの情動の存在を認めて社会を構築していくべきだ。
哲学では、贈与や負債などの概念が、人間に特有のものとして展開されるが、「おもいやり
」や「後ろめたさ」といった情動が動物にもあるのなら、宗教や社会制度によって構築されていったとされるこれらの概念が危うい状況になるかと思う。
ということで次にアガンベン『オプス・デイ』を読むことにする。

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