キリスト教神学やギリシア語、ラテン語の詳しい解釈は、もう正直言って難しいが、言わんとしていることはわかる。
英語のdutyもラテン語からで、「~を負る」の意味をもっていて、本書でも「負債」を論じるところででてくる。
カント倫理学の厳格は、若いころの僕を魅了した。人間とはかくあるべきと理想に燃えるものです。しかし社会生活を営んでいく過程で、カント倫理学がいかに傲慢であり、そして非人間的であるかを思わざるを得ないわけです。
アガンベンの最後の提言への解答はどこにあるでしょうか。
祭司は善悪かかわらず、典礼を行うものは、キリストの秘儀の代理者として行う。つまり道具でしかない。典礼の実践では、秘跡の客体化の効能と価値と現実の主体は完全に独立している。だからユダから洗礼を受けても、無効にはならない。
「存在はいっさいの残余なく実効性と一致するが、それは、存在がただあるがままのものではなく、実行化され、実現化されなければならない」(85)。この有為性は効力と行為、作用と仕事、効果と実効性など決定不能になり。この決定不能性こそが、教会がおつ典礼の秘儀を定義付けている。作用、有為性自体が存在で、存在それ自体が有為的だという。(92)
「代理する」という用語はつねに他性を内包し、この他性の名のものとに「権能」ははたされる。しかしそれだけではない。ここで問題になる存在そのものが、人為的かつ函数的であることが重要なのである。「それゆえ、この事実は当の存在を定義して理解することを、そのつど、ひとつの実践へと送り返す。」(99)
これが典礼の秘儀の本質となる。
カテーコンというギリシア語をキケロは、オフィキウムと訳す。両者の特徴は、善悪とは関係がなく、むしろ義務を善悪に持ちこむことを諌めている。
キケロの『義務(オフィキウム)について』は、動作主の社会的条件を考慮し、ふさわしいことについての著作である。これは善悪とは関係なく、たとえばどう航海するか、それは状況によるというのと同じである。
本書によれば狭義のオフィキウムには責務や義務が生じないという(128)。キケロによればオフィキウムとは、名誉、礼節、友愛に属するものであるという。
さらにキケロはオフィキウムが「生のかたち」に関わっていることを示唆する。「生を監督する」「事物を統一する」ことが、「生の使用にかたちを与える」「生を設ける」ことを意味し、「生の創設」となる。
アンブロジウムは、このキケロのオフィキウムをキリスト教に持ちこむ。これによって祭司の実践に、本来は徳性を語っていたものが変化していく。それは、祭司の代務という要素と、神の介入、代務の実現、そして実効性を語るようになる。
神のエフェクトゥスは人間の代務によって確定され、人間の代務は神のエフェクトゥスによって確定される。この実効的一致は、オフィキウムとエフェキウムの一致である。しかし、この一致は以下を意味する。つまりオフィキウムは存在と実践のあいだに循環的関係を確立する。この関係にのっとって、祭司の存在はみずからの実践を定義し、他方、祭司の実践はみずからの存在を定義する。オフィキウムのもと、存在論と実践は決定不能となる。したがって、祭司は在るものとして在らねばならず、同時に、在らねばならないものとして在るのである。(148)
命令は行為ではない。しかし命令が他者性をもつことで意味がある。
そのふるまいから存在を規定されるのであり、その存在からふるまいを規定される。司宰者とおなじく官吏もまた、そう為すべきように在り、そう在るように為すべきである。現代の倫理だけでなくその存在論と政治をも定義する、存在から当為への返還がみずからのパラダイムを据える(154)
義務は法に対する敬意から生じる。義務という観念の起源は何か。
徳性は有為的状態であり、これはまさに有為的状態であるため、徳性の目的は執行そのものとなる。つまり徳性の目的はその有為性にある。
祭司の任務と徳性も、循環性があり、つまり「善もしくは徳性に満ちているのだとすれば、それがよくはたらくかぎりにおいてであり、よくはたらくのだとすれ、それが善もしくは徳性に満ちているかぎりにおいてである。(185)
レリギオ(religio)の理論が、徳性と任務を仲介する。神を敬うことは、それ自体は徳性であり、そしてそれは自由意志によってなされる。人間は神に負債を返す。トマス・アクイナスは人間が神に奉仕を負うことは、自分の主人に対して自発的に負うのと同じように必然的であるとする。自発的である限りにおいて、徳性は行為となる。徳性に満ち、有為的である行為は、義務の執行となる。神を敬うこと義務に向けられ、そして徳性を課される。
負債のもとで敬神は神の法に従うことであり、そこから法的命令に依拠する義務になる。そしてこの負債は完全に返すことはできないものであり、無限の義務が生じる。
カントにおいて、「徳性の義務」という概念があり、これが倫理の次元で徳性と義務を一致させている。「義務であると同時に目的」という概念だ。これはまさに教会が実践と理論化をとして行ってきた聖務・任務と同じとなる。カントにおいて神の地位にあるのが法である。カントは、法に対する純粋な尊敬をとおして行われるのが義務と定義される。
道徳律に関して強制とは、法による外的な強制ではなく、自己によって、尊敬することで自発的に行われる、自由意志と密接に関係する。カントは「尊敬」というものを「理性みずからが生み出した感情」とする。そしてこれは完全にアプリオリに認識する唯一の感情として位置づけていて、つまりはアプリオリな感情はもはや感情ではなく、意志が法に服従するという意識を単に表すものとなる。「尊敬は、主体における法の効果であっても、法の原因ではない」(208)
これはある種のパラドックスをなす。意志は自己強制として規定され、そして同時に衝動という主体というかたちをとることになる。
しかしカントは同時に、尊敬を消極的効果としても見いだし、そしてこの感情は法へ服従であり、主体に対する命令でもあり、行為することの不快を含む。そして尊敬の起源は謎のままとなる。
存在と当為を分離することはできない。「存在論が、そもそもの始まりから、そして実効性にかかわるのと同じくらい、命令にかかわる存在論でもある」(216)。当為は外部から存在に付与された法概念や宗教ではない。当為はひとつの存在論を孕み、定義する。
神学と形而上学がいよいよその版図を科学的理性に明けわたすその時、カントの思想が表わすのは、ある〔エスティ〕の存在論のただなかに、あれ〔エスト〕の存在論が世俗的に再登場したことであり、哲学のただなかに、法と敬神が破滅的に再浮上したことである。科学的知見の勝利に際して、カントは形而上学の生き残りを担保するべく、実体と存在の存在論のなかに、命令と当為の存在論を移植し、それらを作動するがままにした。このように形而上学の可能性を保証しようとし、それと同時に、法と敬神ともかかわりのない倫理を創設しようとしたのが感とである。しかしいっぴうで彼は、オフィキウムと有為性という、神学的-典礼的伝tプの遺産をいっさい職名することなく受け入れ、他方では、古典的存在論に対して永遠の離別を告げた(222)
規範は規定された事実とふるまいが一致しないのと同じで、命令もまた命令による構成される意味と意思の行動は一致しない。規範はたんに任毛がなにかしらの仕方でふるまわなければならないことを望んでいる。
もし存在が、在るのではなくみずからを実現しなければならないのだとすれば、そのとき存在は、みずからの本質において、意志であり命令である。翻って、もし存在が意志なのだとすれば、そのとき存在はただ在るのではなく在るべきである。それゆえ、到来する哲学の問題とは以下を思考することにある。つまり、有為性と命令の彼方にある存在論を、そして、義務と意志の概念から完全に開放された倫理と政治を。(233)
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