2020/09/21

『続・語録のことば 『碧巌録』と宋代の禅』 小川隆 禅文化研究所

『碧巌録』の難しさというのが、単に語っていることが難しいというだけでなく、当時の慣用句は熟語の意味を決めることから難しいようで、つまりは解釈云々以前の問題がいろいろとあるよう。このあたりは地道な研究が必要でしょう。
『碧巌録』だけではないが、禅関係の漢文というのは難しい。これは宋代の文章だからなのか、よくわからないが、訓読がいかに不自然な読み方であるかがわかる。かなり無理矢理読んでいる感が否めない。

わが通玄峰の頂上は
人の世間を超えたところ
すべては一心の生み出せしもの
見わたす限りの 青き山々

なるほどー。独りぼっちの空間を世界に広げればいいだけなんですよね。
僧、法眼に問う、「慧超、和尚にとう、如何なるか是れ仏?」
法眼云く、「汝は是れ慧超」。
この型はさまざまなところで登場するようで、これに対する解釈なんかは、唐代の即仏というのが宋代にも一般的だったようだが、圜悟は「即汝是」を真に肯ううるためには、
充分な機根の成熟過程と、一瞬の契合による決定的な悟りの体験が必要だった。そして、それをさえ得てしまえば、なるほど、いかにも玄則自身が本より仏にほかならないのであった。(133) 
全一なるものを全一のまま、無分節なものを無分節のまま、まるごと直に体認せひょ。それができれば「ひとり大空を闊歩することも夢ではない。逆にこれを情識・分別でなど理解したら、悟りなどはるか彼方の沙汰である。(152)
僧、趙州に問う、「万法は一に帰す、一は何処にか帰する?」 
州云く、「我青州に在りて、一領の布衫を作る。重きこと七斤」。

石は石、大は大、小は小と、自然がただ自然のままあるさま、人間の存在とは無関係に存在しているという考えを圜悟は批判する。

みな凡情と分別とばかりではないか。そういう凡情や分別をすべて捨て去ったら、そこで始めて看ぬくことができるのだ。そして看ぬいてみれば、やはり依然として、天は天、山は山、水は水だ、ということになるのである。(195)

圜悟は「無事」「作用即性」への批判する。本来性(0度)⇒開悟(一八〇度)⇒本来性(三六〇度)という円環的な「悟り」の論理を述べる。

 


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