2020/10/21

『漂泊のアーレント 戦場のヨナス――ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』 戸谷洋志、百木漠 慶應義塾大学出版会

ヨナスとアーレントのちょっとした入門書にもなっているし、いい感じ。
アーレントの入門書は多く出版されているが、ヨナスは共著者の一人である戸谷洋志さんの『ハンス・ヨナスを読む』(堀之内出版)という本ぐらい。こちらは未読なので何とも言えないが、ヨナスって環境倫理や生命倫理のの分野では活躍した人という程度しか知らなかったし、読んだこともないが、面白そうじゃないですか。
しかし、ヨナスの本は難しいそうで、本書ではかなーりわかりやく解説しているが、翻訳でも原著にあたるとすると、おそらくは理解できない恐れがある。とくにハイデガー用語を使われたら一巻の終わりで、だってハイデガー・ジャーゴンはあまりに抽象的で、その抽象的な用語をこねくり回しているなら、そりゃもう読みにくいこと疑いない。

アーレントの思想の足跡をみるのも非常によくって、『エルサレムのアイヒマン』で展開されている「凡庸な悪」という概念は、『全体主義の起源』で展開されていた「根源的な悪」とは、全く異なる、自らを否定するものになっていて、アーレント自身がそれを認めていた。そして、「活動」ではなく、「精神の生活」へと展開していく様子。

他にも、著者はなかなか面白い指摘をしていたのは、アーレントの「出生」概念について、ある種の齟齬で、アーレントは私的領域と公的領域を玄覚に区別していたが、「出生」にあたってはその区別がない。政治的に人間がはじまるのは、人間の誕生によって保証されるとアーレントは説く。
このあたりのアーレントの思想遍歴をみるうえでも非常によくって、しかもヨナスの思想との対比がアーレントの思想を浮かび上がらせている。

よく思うのだが、ある人物の入門書を読んでいて不満なのが、同世代との比較、そして過去との比較が一切なく、単にアーレントならアーレントのみの思想や、フーコーならフーコーのみを語る入門書で、これだとなにがアーレントの特異さなのか、何がフーコーの狂気なのかがわからずに終わる。
その点、本書はヨナスとアーレントとかなり興味深いうえに、お互いがどのように影響していったのか、違いはなんなのかが考察されているので、とってもよかった。

ヨナスの論理を追うと、生命を還元論で説明しようとすると、ドーパミンがどうの、フェロモンがどうも、そして細胞を細かくみれば炭素だとかの元素に帰し、それには生命と呼ばれるものがなく、死のみとなる。
そうなると、刹那的な生き方やニヒリズムへと行きつく。
ヨナスは戦争体験によって、ハイデガーの「世界-内-存在」などといった上品な概念では捉えつくせない人間の脆さを知る。飢えや劣悪な衛生環境、一瞬で殺されていく人間たち。
ヨナスの哲学的生命論では、有機体のうちに精神を基礎づけるという点で、生物学的な生名の理解を回避するものであり、同時に、精神のうつに有機体を基礎づけるという点で、ハイデガーのニヒリズムを克服しようとする。つまりそれは、「一方では観念論および実存主義の人間中心主義的な制約を、他方では自然科学の物質主義的制約を、ともに打破することを試みている」。(181)
死の存在論を相対化して別の存在論を打ち立てようとしていた。

重要な概念の一つに「代謝stofwechsel」があり、外部を取り入れながら内部と交換していく働きを、有機体の本質として取り上げる。つねに代謝を繰り返すことは、生命の個体の同一性が、その個体をこうせいしている物質の同一性では説明できないことになる。(182) 
ヨナスの倫理学でおもしろいのは、やはり「子供への責任」「未来への責任」で、これって現在が見知らぬ未来に責任をもっているということだから。ヨナスの場合、ここで未来を語ることの難しを承知していて、通常では未来をバラ色に描くことはできけど、実際はぼくらは現在にしか生きることができない。バラ色の未来なんてものは保証されていない。
ヨナスは形而上学的な公理を提示する。生命をそれ自体で善なる存在であり、存在しているだけで価値をもつ存在である、という。これは実証的に結論付けられた公理でもなんでもなく、単なる仮想ではあるが、これは死の存在論と対置するためにも必要で、ヨナスはここであげる事例が興味深い。
生まれたばかりの子供の呼吸、ただそれだけで反論の余地もなく、自分を世話することへの当為を向ける。子供は大人に世話の当為を喚起させる。これを説明するために、家族愛では説明できない広がりがあり、契約や合意といったものでこの責任を論じることもできない。これをこの責任を説明するためには、子供の存在それ自体は勝ちを持つ、と考えるしかない。赤ん坊の「呼び声」。

アーレントとは異なり、ヨナスは第二次世界大戦の経験から、神を語ることの虚しさを共有していたが、それでも形而上学的な概念が必要であることを説く。アーレントは「一者のなかの二者」としての自己内対話から導き出す「良心」と「判断」を重視していたが、ヨナスは、究極的なもの、普遍的なものへ向かう倫理を目指していた。ヨナスは究極の、破局的な終末の状況は、それ自体は究極的なものであり、だからこの究極的状況を語るためにも究極的な知をさぐる必要があると。

歴史認識についても、ちょっとおもしろい。歴史的な理解の正しさの正しさを問う。
人間の歴史は、ある特定の文脈に支配されており、それは一回きりの出来事であるから、人間が過去を理解することは不可能なものとなる。結局は「私」による理解にすぎないとなる。いや、今も昔も人間の思考は一緒だとすることもできる。
ヨナスはここでそもそも正しさの正しさを問うていく。ここでもヨナスは赤ん坊を事例に上げていて、おもしろい。
赤ん坊が微笑むのは、微笑みがなんであるかを経験していて、理解しているからではない。母親が微笑み、それに微笑み返し、そして微笑みが喜びであることを理解する。赤ん坊は自らの内に潜む可能性に触発され、理解していく、というのだ。
にゃるほど。

アーレントにとって「責任」とは、大人のみが参加する公的領域で成立するものであり、ヨナスの「乳飲み子への責任」というのは私的領域に属すると考える。子供への責任というのが、ある種の生命至上主義という普遍的真理となことを恐れたのではないかと著者は言います。僕もそのとおりだと思う。「乳飲み子への責任」というのはある種の脅迫感じなくもない。
単純に、その責任がはたして正しいのかどうかが、結局は未来の人間が判断せざるを得ないのだから、現在の人間が未来の責任を担うってかなり傲慢でもあるような気がする。がしかし、と堂々巡りなる。

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