ノモンハン事件は、僕にとってロマンの対象で、今もそうあり続けている。草原に赤錆びた戦車の残骸が転がっている写真を見れば、そりゃファンタジーの世界に引き込まれるわけです。
いずれにせよ、このノモンハン事件がなんであったのかはよくわからない。ソ連と日本との実質的な戦争であったと言われるが、局所的ではあるし、調べてみても地味な感じは拭えない。それでも日本ではノモンハンについての書籍が多くでていて、何がそうさせているのか。
ノモンハン事件が、モンゴルと満州の国境争いで起こっていて、ハルハ河沿いで行われたのは知っている。河沿いを国境にするのか、それとも東岸にするのかで、当時ソ連でも日本でも曖昧だった。
秦先生は、国境線の論争では日本は輪に分が悪いと見ているが、正直よくわからない。
曖昧であり続ければよかったが、国境線での小競り合いはよくあることで、ノモンハンでも1939年以前から頻発して、あくまで国境警備隊のちょっとしたいざこざで終わることが大半だが、どこかで臨界点を超えてしまう。「子供のケンカに親がでる」事態に発展する。
第一次ノモンハン事件では、モンゴル軍の越境が頻発し、小松原道太郎中将は「満ソ国境紛争処理要綱」をもとに、5月11日の衝突に対して、東八百蔵捜索隊を派遣するが、この東隊は全滅する。
関東軍作戦参謀の辻政信は、驚くべきことに「ノモンハン」を知らなかったという。かなりマイナーすぎる国境線だったこともあるのだろうし、また誰もが大事件になるとまで考えていなかった様子。
第一次ノモンハンはそれほど大規模な戦闘でもなく、日本、ソ連ともに準備していたというよりも、突発的な小競り合いといった印象だ。
ソ連と日本とでは、その後の準備が異なってくる。ソ連は日本側の戦力を大幅に大きく見積もっていたにせよ、戦車、装甲車などの近代兵器を十分に用意した一方で、日本は歩兵の数だけは多く、戦車などの兵器はほとんど増強もしなかった。このあたり、日本の白兵戦信仰のなせるわざでしょうか。戦車の設計思想なんかでも、中国と戦争していた日本にとっては、戦車は中国軍が怖がる牛程度にしか考えていなかったから装甲なんか薄っぺらだったみたいですし。
そして、ここでも日本の敵への蔑視が仇となっている。ソ連兵は大したことがない、士気が著しく低いなど、なんだかねー。
板垣陸相や稲田正純参謀本部作戦課長も関東軍の暴走を止められなかった。稲田の回想では、一抹の不安があったが関東軍は中央に忠実だったように見えたらしい。どうもねー。
第二次ノモンハン事件は7月3日~5日のバインツザガン会戦から8月月末の小松原第二十三師団の壊滅と、失敗に終わった日本軍の逆攻勢までのことのよう。
ジューコフによる8月の大攻勢は、かなり周到に準備しており、それに対して日本側はほとんどなにもしていない。にしても、戦争は運も付き物で、ジューコフ、シュルテンらの思惑にうまくはまりすぎてしまったのが当時の日本軍だった。
しかし、辻と荻洲の会話が載っいるが、かなり醜悪だ。敗北となった責任で、小松原に死をもって償ってもらう話をしている。
八月攻勢後、ソ連はスターリンの厳命で国境線の守備のみをしていたが、関東軍はまだまだ戦う気だったようだ。中央と関東軍との温度差は、ひどいもので、なぜ関東軍はここまで暴走していったのか。
日本軍はハルハ山に侵攻し、奪取する。ジューコフ司令部は奪還計画を準備するが、停戦となる。国境はこの時の停止位置できまっており、現在でもモンゴルは不満のようす。
日ソ停戦協定が1939年9月15日にかわされノモンハン事件は終結する。秦先生は、
スターリンは実現寸前だったドイツを標的とする英仏ソ同盟の路線を一夜で独ソ提携に切りかえ、労せずしてポーランド、バルト三国、フィンランドなど東欧地域を支配権に収めたばかでなく、日独伊三国同盟を阻止して東西から挟撃される軍事的脅威を除去することができた。一石三鳥とも四鳥ともいえる外交的成功と評してよい(235)
と評価する。こういうところを見ると、当時の日本外交の稚拙さが見えて悲しくなる。ヨーロッパの政治情勢は長年権謀術数で出来上がっていることもあり、外交文化自体が極東アジアとはかなり異なっているからでもあるが。
この停戦協定の二日後、ソ連はポーランド侵攻を行う。このあたりもソ連の外交的勝利。というのもの第六軍新攻勢構想というの関東軍にはあり、それが発動されれば長期戦となる。すでにポーランドとフィンランドへの侵攻を予定していたスターリンにとっては早く停戦をしたいところだった。
ノモンハン事件から得られた教訓はいろいろあったにせよ、物資不足は解消できない以上、「精神威力」に頼るしかなかった。関東軍にせよ陸軍にせよ、物資が豊富にあれば、精神力に頼らなくてもよかったのだが。
クックス博士の日本軍の弱点をあげている。「兵力の逐次投入、装備改善の遅さ、夜襲への執着、非降伏主義、守勢への嫌悪、航空機による地上支援能力の低さ」とある。すでに太平洋戦争時の日本軍の駄目さがここでも要約されている。
とはいっても、ソ連側もノモンハンの教訓をきちんと見ず、その後のドイツとの戦いでは戦車を優位にせず歩兵を使った。
人間は過去から学ぶことが根本的にで難しいようで、これは受け入れるしかない。
服部卓四郎、辻政信はノモンハンの件で一時期左遷させられるが、太平洋戦争には再びノモンハンと同じ手法で戦争を行っていく。
指揮官たちは自決を強要されていく。小松原は、命令に従わなかったとして部下に責任を負わせようとしていた。軍法会議になれば自らの作戦の失態を追及されるのを恐れて、軍法会議を回避し、部下に自決を強要する。
捕虜の扱いも、ノモンハンのころには日露戦争のときとは異なっていた。秦先生は上海事変の空閑昇少佐の自決が引き金かもしれないという。捕虜であることは恥ずかしことであるみたいな。とはいいつつソ連のジューコフも捕虜の観念はさほどたがわず、残忍なかたちで帰ってきた捕虜たちに自決を選ばせたという。
年功序列人事が厳として維持されるなかで、敗北や失敗の責任を問われた上級指揮官や実力派参謀が皆無に近かったのに対し、中下級指揮官や兵士たちは飢餓死や玉砕死を強いられた(413)
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