2020/10/14

『山県有朋と明治国家』 井上寿一 NHKブックス

以下、箇条書きで。

徴兵制のジレンマがあり、山県は士族の特権を排し、国民皆兵を目指すが、山県は自由民権運動などの国民運動に否定的で、しかし徴兵制はその国民を徴兵するものであるから必然的に軍に自由民権運動のような思想が流れ込むことになる。それでも1873年に徴兵令が発せられた。
そしてだからこそ軍人勅諭がつくられる。軍人たるもの政治に関与してはならず、天皇への忠義を説く。
参謀本部の独立は統帥権の独立であり、これが太平洋戦争のときに悪用される。しかし、軍の政治からの中立を必要としていたため、参謀本部は独立機関となり、陸相から軍令事項の権限から切り離された。とはいっても、これをもってシビリアン・コントロールは崩れたとは言えない。参謀本部が内閣や陸軍より優位であることではないし、政治から切り離し、作戦、用兵を立案する組織は「強兵」の面から必要であり、前提条件だった。
この軍の改革は地方自治にも通じ、地方の富裕層、地主などが地方自治制度の中心に据え、秩序を与えようとした。そしてこれら地方自治から有力者が国政に進出できるようにする、そうすればみだりに空論を弄する輩が現れず、秩序が保てると考えた。

1885年巨文島事件が起き、山県はイギリスとロシアの衝突を危惧する。またカナダの太平洋横断鉄道やシベリア鉄道によって近い将来日本は危機に直面すると予想する。山県は外交の重要性を承知しているが、その裏付けには軍事力が必要だと考えていた。しかし軍拡張をするにせよ、予算が足りない、増税すれば内政の不安定になる、という現実があった。

山県は1888年に二度目のヨーロッパ視察に行き、そこでシュタイン教授から、シベリア鉄道によってロシアの脅威が直接日本にはあまりないこと、イギリスの極東での脅威は限定的であることを説明し、主権線だけでなく利益線を守ることを説いた。
朝鮮永世中立国化を目指す。ヨーロッパで帝国主義的対りが激しくなり、イギリスとロシアの関係は怪しくなっていた。極東でイギリスとロシア、日本での朝鮮中立化がなればロシアにとっても利益になる。山県は日清英協調路線を目指していた。しかし朝鮮の政府が中立化の意志がなければ達成できない。そのため日本は朝鮮の内政改革に乗り出す。そんななか1894年2月に甲午農民戦争が起こる。朝鮮政府は清に派兵の協力を打診する。日本は朝鮮から協力が得られなければ兵をだすことはできない。
日本の出兵はあくまで居留民の保護が目的で、戦後歴史学で非難されていた侵略ではなかったと考えられる。いずれにせよ朝鮮政府からの要請が必要だった。
しかし5月末ごろ大鳥圭介らがこれを機に内政改革の機会にもなると説く。

山県は伊藤博文の主導する政党政治に否定的だが、とはいっても超然内閣を組閣するこはできない。だから第二次山県内閣のときでも議会の多数派を味方にする必要はあった。だから政党を操縦するためにも憲政党との提携をなしていく。
山県は憲政党との妥協で地租をあげる案も譲歩して予定よりも低くした。しかし、山県は軍部大臣の現役武官制を制度化し、文官人用例を改正し、次官、局長級の勅任官の任用規定によって資格制限が定められた。

1900年、伊藤は政友会を組織する。とはいっても伊藤も政党よりも国家の優位を主張しており、そのところでは山県とも共通している。第一次桂内閣では増税を撤回させるかわりに、海軍拡張を受け入れたりとしていた。政友会からすれば裏切りだが、伊藤は国際情勢をみれば山県と同じ認識であり、国家を優位とする考えからは政党は二の次だったようだ。その後伊藤は政友会での地位が彩湯くなり、枢密院議長という閑職につくことになる。

伊藤の日露協商路線か、それとも山県らの日英同盟かは、両人にとっては手段の違いでしかなく、基本的な認識は共有してたため、どちらもお互いの路線を反対はしていなかった。

赤旗事件、大逆事件、南北朝正閏問題などで社会不安が巻き起こっていた。そのため桂内閣では思想統制法をだし、しかし社会不安を抑えるためにも教員の待遇改善、貧民救済事業、工場法を整備していく。

第二次桂内閣までは山県の政党間における権謀術数が可能であったが、明治天皇が死んで、桂が新党構想をはじめたころから憲政擁護の運動が活発になり、第三次桂内閣のときに民衆運動が直接、倒閣を実現した。

第一次世界大戦には日本は関わりたくはなかったが、当時はまだイギリスが勝つかドイツが勝かはわからない状況で、ただ日英同盟の関係上、ドイツの租借地である膠州湾攻撃を決める。山県は反対ではあったが、攻撃するにせよ、ドイツ側には日英同盟上のいきがかりであることを説明し、信義にもとづくべきと主張する。山県は日英同盟に重きを置く加藤外相に不信をもっていた。しかし一方的な宣戦布告が行われてしまう。
同時に、山県は中国との関係も良好であることを望んでいた。辛亥革命によって袁世凱政権ができ、日本の政策を変えざるを得ないにしても。
膠州湾をとったところで、戦後に中国に返還しなければならない状況に追い込まれる。だからこそ中国との関係を良好にすべきだった。満蒙問題でも袁世凱に日本は信頼できるものであることを主張しなければならなかった。
そこででてきた山県のレトリックは「人種競争」だった。ただしこれは有色人種の同盟をいみしているのではない。欧米に対して説かれているものではなく、あくまで袁世凱政権に対してのレトリックだった。これによって信頼回復を目指した。

日露関係にしても、当時はまだロシア革命がおきるとはだれも予想していなかったし、山県が日露協商を重要視していたにせよ、日英同盟を軽視していたわけではない。あくまでバランスの問題なのだ。1916年の段階で、日英同盟と日露協商によって山県が思い描く多角的な列国協調路線を実現していた。
山県と原敬は日米関係の重要さを強調していた。
大隈内閣は選挙で勝利し、軍艦建造費と二個師団増設を承認させる。山県にとっては朗報だった。とはいっても外交問題では原敬を失うことは出来ない。大隈は1915年に袁世凱政権に対して対華二十一か条の要求をつきくける。理由として第二条七条の満蒙についてで、関東州租借地の起源が1923年に切れるため、その対応という側面もあったが、第五号などが帝国主義的な要求でもあり、しかも日本は列強にそれを隠していたことがバレて、アメリカにリークされる。
山県と原が恐れていたことで、日本がこれで孤立する可能性もある。山県にとっても満蒙を手放す気はないが、中国との関係も重要視していた。要はやり方だった。これによって加藤外相は辞任、大隈内閣は倒閣となる。
後継の寺内内閣ではアメリカとの関係修復のために石井=ライジング協定を結ぶ。アメリカの主張する「門戸開放」を掲げつつ、日本の権益を認めるものだった。そしてそれは対華二十一か条の要求の中核部分をアメリカが認めたことになる。
ロシア革命とドイツの敗北によって、日本の外交が変わる。日露協商は破棄される。
そんななかイギリスよりロシア革命への干渉のために日本へシベリアへの出兵を打診される。山県はシベリアへの出兵に対して、日本の単独行動は不得策であり、アメリカとの協調を重視し、また軍費の調達を明確すべきことを意見する。
日本の経済はアメリカ依存をしていて、そして一度シベリア出兵すればすぐに撤兵はできない。だから慎重にすべきとなる。3月の時点ではアメリカは日本の出兵には反対し、その相談があったことにアメリカ政府は満足していることが伝えられる。しかし7月にあるとアメリカからシベリア出兵の要請がくる。しかし山県は慎重論だったが、意見書の条件を満たすこともあり、出兵をさせる。このあたり一貫した考えと、リアリズムで徹底されている。通常意見書は反対のためにおこなわれるもので、たとえ条件を満たしてもさらに条件をたして見送らせようとするのが常であるのに、ここからわかるように山県はシベリア出兵への反対というのは、筋が通っていた。

1918年7月、米騒動は起きる。第一次世界大戦の好景気は薄れ、米価が高騰していく。しかしこの米騒動はロシア革命のような性質ではなく、自然発生的で組織的なものではなかった。山県も原も重々承知していた。

第一次世界大戦後、アメリカが世界の外交を主導するようになり、山県それに反発するが、理想主義に陥らずに英米本位の平和主義へと順応していく。講和会議では、人種平等を掲げつつ欧州が反対するので引っ込め、そして山東の権益を獲得するという実をあげる。ここでも「人種」はレトリックにすぎない。
山県はあくまでも協調主義をとっており、ワシントン会議において、英米が親中であることがわかり、山東からの撤退をさせる。さらに国際連盟への加盟も当然とし、さらには旧時代に締結された日英同盟もワシントン会議という国際協調路線という新外交の枠組みから破棄されること受け入れる。これは日英米仏による国際条約でもあった。そしてもう一つシベリアからの完全撤退を原内閣とともに実現させる。
原内閣になると普通選挙運動、民主化運動が急進的になっていく。原は民主主義に賛成だが、時期尚早とみていた。そのため吉野作造などの知識人から批判される。

近代から今日までの国民国家にとって、軍部の存在は基礎的な条件でありつづけている。国民国家であるということは、国民軍隊をもっているということである。日本が近代国家をめざす以上、誰かがこの基礎的な条件を整えなくてはならなかった。誰が引き受けたのか。山県だった。……徴兵制による国民軍の創出に勤め……軍政改革をとおして、日本の国家的な独立の危機に対応した軍事的リアリストだった。(236-237)

 

明治国家の権力を強調し、そのもとでたえず抑圧される「民衆」という歴史観では、帝国憲法を前提とする国家体制であっても、斬新的な民主化が進んだ政治過程を説明することはむずかしい。他方で「民衆」が民主化の中心だったとする歴史観にも無理がある。民主化は運動だけでは実現しない。民主化を可能とした近代的な諸制度を整備したのは、国家権力の側、政治指導者であり、国家官僚だった。要するに、多元的な権力関係の明治国家をとらえることがきる歴史観によって、日本近代史像を統合すべきである。(241)

 

途上国において軍部がその国の近代化を主導することは不思議ではない。第二次世界大戦後、あらたに独立した東南アジア諸国が程度の差はあれ、そうだった。これは開発独裁体制といってもよい。山県の政治的な役割も同じだった。明治維新革命後の途上国日本は、山県のもとで開発独裁体制の確立を志向した。……国家と国民の一体感は過渡に協調すべきではないだろう。幕末維新期の国家的な独立の危機が国家と国民の間の共通の明式だったのは、日清戦争までである。……開発独裁体制の確立をめざして出発した明治国家は、条約改正問題をとおして、西欧化が不可避となったからである。西欧化とは政治的な西欧化を含む。僧である以上、帝国憲法のもとであっても、選出勢力による政治が展開する。国家的利益と非国家的利益の噴出によって、多元的な政治対立が生まれる。……客観的には近代日本の斬新的な民主化の過程が進んだ。(242-243)
1874年(明治7年) 台湾出兵
1875年(明治8年) 江華島事件
1877年(明治10年) 西南戦争
1884年(明治17年) 甲申政変
1885年(明治18年) 天津条約
1889年(明治22年) 朝鮮永世中立化構想
1889年2月11日 大日本帝国憲法公布
1890年(明治23年) 第一議会
1894年(明治27年)3月 甲午農民戦争
1894年7月~1895年4月 日清戦争
1900年6月~1901年9月 義和団事件
1904年2月~1905年5月 日露戦争
1911年~1912年 辛亥革命
1915年1月 対華21カ条要求
1917年10月 ロシア革命
1917年11月 石井-ライジング協定
1918年8月~1922年10月 シベリア出兵
1919年1月 パリ講和会議
1919年5月 五四運動
1919年6月 ヴェルサイユ条約
1920年~1921年2月 宮中某重大事件
1922年2月 ワシントン海軍軍縮条約
1923年8月 日英同盟失効

第一次伊藤内内閣1885年(明治18年)12月 1888年(明治21年)4月30日
黒田内閣 1888年(明治21年)4月30日 1889年(明治22年)10月25日
三条内閣 1889年(明治22年)10月25日 1889年12月24日
第一次山県内閣 1889年12月24日 1891年(明治24年)5月6日
第一次松方内閣 1891年(明治24年)5月6日    1892年(明治25年)8月8日
第二次伊藤内閣 1892年(明治25年)8月8日    1896年(明治29年)9月18日
第二次松方内閣 1896年(明治29年)9月18日    1898年(明治31年)1月12日
第三次伊藤内閣 1898年(明治31年)1月12日 1898年(明治31年)6月30日
第一次大隈内閣 1898年(明治31年)6月30日 1898年(明治31年)11月8日
第二次山縣内閣 1898年(明治31年)11月8日 1900年(明治33年)10月19日
第四次伊藤内閣 1900年(明治33年)10月19日 1901年(明治34年)6月2日
第一次桂内閣 1901年(明治34年)6月2日 1906年(明治39年)1月7日
第一次西園寺内閣 1906年(明治39年)1月7日 1908年(明治41年)7月14日
第二次桂内閣 1908年(明治41年)7月14日 1911年(明治44年)8月30日
第二次西園寺内閣 1911年(明治44年)8月30日 1912年(大正元年)12月21日
第三次桂内閣 1912年(大正元年)12月21日 1913年(大正2年)2月20日
第一次山本内閣 1913年(大正2年)2月20日 1914年(大正3年)4月16日
第二次大隈内閣 1914年(大正3年)4月16日 1916年(大正5年)10月9日
寺内内閣 1916年(大正5年)10月9日 1918年(大正7年)9月29日
原内閣 1918年(大正7年)9月29日 1921年(大正10年)11月13日
高橋内閣 1921年(大正10年)11月13日 1922年(大正11年)6月12日

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