山県有朋は近代日本を作り上げた立役者の一人であるのは間違いないが、なぜか人気がない。
本書を読むと山県が単なる権力欲の塊であったり、陸軍や宮中を完全に支配していたわけではないことがわかる。そして、人間が単純な生き物ではないこともよくわかる。
議会運営の際には、伊藤や議会に妥協点を見出しながら行っており、陸軍拡張や地方自治制度の確立のためにも根回しをしながらやっている。それに本書によれば、山県有朋が実質的に伊藤博文と対等の権力を得ることができたのは1900年頃だという。
山県は地租増微法案を成立した見返りに、憲政党が求めていた地方制度改革案を帝国議会で成立させたり、複選制ではなく府県会議員を直接選挙に変えた。軍備拡張のためにも、ロシアに対抗するためにもここでも妥協をする。
妥協ばかりだ。太平洋戦争の時の指導部と格が違う。
山県が構想した徴兵制がなかなか面白くて、皆兵制ではなくエリート集団をまず作ろうとしていた。
六歳から十九歳までに小中学校教育を終えた者が二十歳で徴兵されるというのは、当時では小学四年程度が普通の当時ではエリートと言っていい。ただし、代人料を支払えば徴兵免除ができる規定が加わったためエリート性がなくなったともいう。
徴兵制というものが、現在言われているものとは違う。現在は皆平等なので皆徴兵となるけど。
参謀本部の独立は、山県が西南戦争で得た教訓からなされたことで、当時は有力者が文官の参議や大臣を決めていたため、後に「統帥権の独立」でもって暴走することは考えられなかった。参謀本部は大久保も伊藤も人員、物資の配置などの大枠を指導、作戦、戦略をたてる部署を必要であるという合理的判断で行われている。ただし、実質的に山県が竹橋事件で苦境に立っているのを救い、政権の安定をもたらすためにも設立されている。
著者は、参謀本部の独立や山県の陸軍の在り方が、後の陸軍や関東軍の暴走、そして統帥権の独立へと繋がっている、という考えを明確に否定している。
山県は陸軍に内閣の介入を嫌っていたし、実際に介入を阻止する仕組みも作った。しかし、陸軍は陸相を中心に統制がとれていた組織であり、関東軍の暴走を参謀本部と陸軍が追認なんかする組織ではなかった。
帝国主義の時代にあって、伊藤も山県も列強の干渉を恐れて、強気の大陸政策をとらなかったし、列強が認めないならば伊藤も山県も引いていた。だから日清戦争でも日露戦争でも、不満足な結果でも受け入れてきた。
山県は議会制を嫌っていたため、大隈重信が1883年までに国会を開き政党内閣制をするという、当時では急進的な内容の意見書をだしたので、伊藤、山県は大隈を罷免し、政府追放させる。
山県は晩年まで議会を嫌っており、原敬の内閣をみて、議会政治を認めるようになったとか著者はいう。原敬を「偉い」と評価し、暗殺されたときも涙を流したらしい。伊藤博文にしろ、大隈の革新性を好まなかった。
「自由党はもっぱら「下等の人民」をあやつり、「過激粗暴な士」集めようとしているようである」と山県は自由民権運動を見ていた。そのため政党処分は厳しい処断を求めていた。
山県はヨーロッパ視察でベルリンなどの議会政治を見て、「沈着老成」の議論ではなく、「急燥過激」の空論が名望を得ていることに、国会や選挙に不信を抱いたという。
まったくもって山県は正しい。世界の趨勢はデモクラシーにあっても、それがいかに醜悪なものかもわかっていた。1900年ではまだ民主主義はヨーロッパでも主流ではなく、かなり限定的ではあったが、それでも流れは寡頭政治ではなく衆愚政治へと向かっていく。
当時最先端だった政治理論であるウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授の君主機関説の憲法理論は、伊藤のめざす統治機構だった。
憲法制定と同じく重要だったのが地方自治制の確立で、ドイツの制度をもとにつくりあげられていく。山県が内務卿になってから推進していく。1889年12月から翌10月まで山県は地方自治制度の視察のために二度目のヨーロッパ視察にいく。グナイストから強権を持った政府が迅速で効果的な施政をすべきで、地方行政において道路や橋の補修・治安・救貧などで、住民の自発的な隣保活動が重要であることを山県に伝える。
地方自治について、山県がどれくらい関与し、現在の仕組みと繋がっているのかはよくわからないので、松本崇『山縣有朋の挫折――誰がための地方自治改革』(日本経済新聞出版社)を読むことにする。
軍人勅諭の成立は、自由民権運動が軍に波及することを恐れ、西周に起草させ、福地源一郎に大幅に改編させ、そして井上毅と山県で修正したもので、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五か条が強調され、政治に惑わされることを戒めている。
山県内閣の1890年に地方長官などから文部省へ教育の道徳的指針をまとめてほしいという要望があったという。欧米に心酔し日本を卑下する風潮を戒めるために、儒教の「仁義忠孝」を基本に芳川正顕と山県でつくられる。
山県内閣の際に第一議会が行われている。山県は国家の独立自衛を確保するために、国の領域である「主権戦」と国家の安危に関係する「利益線」(朝鮮半島)を保護する必要を説き、軍備拡張を唱える。しかし自由党や改進党は予算削減を求めていた。憲法に誇りを持っていた伊藤、井上は解散を支持しておらず、山県も列強に日本が議会を運営できることをアピールするためにも、第一議会を乗り切ること考えていた。山県は予算削減の妥協する。
第四次伊藤内閣が倒れた後、山県系の桂内閣ができ、伊藤の推進する日露協商の可能性が低くなり、山県らが求める日英同盟から対強硬路線の可能性が強くなる(330)とある。そうなのか。
山県はアメリカ、イギリスなどの列強と対立することを嫌っていた。あくまで国際ゲームのなかで大陸政策をしなければいけないことを、伊藤ほどではないにしろ理解していた。
山県は伊藤博文とは違い、暗く、近代日本の影の部分みたいな感じの印象を残すが、本書を読むと、まさに山県の人生は近代日本そのものだし、彼抜きでは近代日本は語れないことがよくわかる。
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