2020/09/30

『最後のソ連世代――ブレジネフからペレストロイカまで』 アレクセイ・ユルチャク/半谷史郎訳 みすず書房

非常に面白い。非常に示唆に富む内容。本書、日本の政治運動なんかにも痛いところを突いてきている。現在の政治をめぐる言説は、あまりにもコンスタティヴであり、意味を逸脱させたり、ずれが生じることを許さないものとなった。
ユーモアもなく、あるのは真面目な言説のみ。その構造は権力側と同じであり、僕ら「ふつうの人びと」はそういった空間に取り込まれるべきではないと思う今日のこの頃。
はっきりいって、日本でも「あいつら」の言っていることって、面白くない。文字通り、面白くない。

以下、まとめる、といってもかなりメモ的。
ソ連の語る時の二項対立「抑圧/抵抗」「自由/不自由」「真実/嘘」「公式文化/カウンターカルチャー」などは、意識的にソ連システムを否定的にみる見方をしている。
ソ連時代の初期は、権威的言説による発話の文字通りの意味に評価を下す存在として言説の主人(master)がおり(一九二〇年代末からスターリンがこの役割を独占した)、外部の「客観的な」規範であるマルクス=レーニン主義の真理にがっちするかどうかを決めていた。だが五〇年代末半ばに権威的言説の外部の主人が消える。この変化うぃ受け手ルフォールの逆説が覆い隠せなくなり、イデオロギー表象のあらゆる面に影響が及んだ。(32)
権威がいなくなれば、客観的な真理規範を参照できなくなるが、そこで見つけられた方法が、それまで別の人が書いた文章や発言を引用コピーすることで、それがさらに複製されていく。こうして権威的言語の形式が画一化・定型化し、汎用性も高まる。
そしてこのコピーそれ自体が目的化し、「言説ではパフォーマティヴな意味がいっそう強まり、コンスタティヴな意味は新たな予想外な解釈に開かれていく。」(33)
このずれをパフォーマティヴ・シフトと読んでいる。
どんな(近代的な)政治システムでも正統性を主張する根拠は、そのイデオロギーの外部の位置にある何らかの「明白な」真理に基づく。システムのイデオロギー言説は常にこの「真理」を参照しており、その根拠を論証することはできない。これが近代国家のイデオロギー言説がそもそも抱え込んでいる矛盾である。(47)
ソ連イデオロギーの主人のシニフィアンは、レーニン=党=共産主義であって、決してスターリンやブレジネフではない。
スターリンの個人崇拝と独裁権力は、暴力や恐怖にのみ依拠していたわけではない――そんなことがスターリンに可能だったのは、自身の正統性を、レーニンの教えの継承者、レーニンに指名された人物、レーニンの考えをよく知り理解する指導者に擬すことで得ていたからだ。(93)
あくまで「スターリン」は「レーニン」というシニフィアンに規定されるものでしかない。
ソ連で生きることは、単なる面従腹背ではなく、イデオロギーを信じながらも、それからそこそこ自由でということで、純然たる形式業務と意味のある仕事が持ちつ持たれつの関係にあった。
スヴェイー(仲間)からすれば、反ソ活動などの「異端派」は健康な人からみた病人であり、考慮から排除される存在だった。なぜなら体制が明らかに安定しているからだ。
後期ソ連社会の脱領土化がもたらした予想外の大変化の一つが、独特な社会集団の登場である。これをひとまずスヴァイーの共同体と名づけよう。イデオロギーの機構と権威的言語が支配するコンテクストでは、スヴァイーが生まれる基準は、共通の社会的出自や特定階級への基準ではなく、権威的言説の受け止め方がにているかどうかだった。してみると、スヴァイーは権威的言説の「公衆」と位置づけることができる。(166)
「スヴァイーの公衆」と名づけた共同体は、至る所で年がら年中あった公的なよびかけへの答えとして生まれたわけだが、そうした呼びかけはソ連体制の権威的言説で出来ている。(167)

こうした繰り返しが続くうちに、呼びかけにパフォーマティヴ・シフトがおこり、儀礼の硬直した形式は再生産されるのに、意味が予想もつかない形に変化していく(168) 

インナたちは、異端派の政治言説にも深入りしなかった……「私たちは異端派のことは一度も話題にしませんでした。分かりきったことを、なぜ話すんですか。あんなもの面白くありません」 最後の一言から思い浮かぶのは、お馴染みの権威的言説のパフォーマティヴ・シフトである。権威的な発話・シンボル・慣行を文字通り受けとめなくてもよかった(コンスタティヴな意味を重視されなかった)ため、インナたちをはじめ多くの人が、その意味が正しいかどうかを考えるのも時間の無駄と思っていた。形式的かつ取り込まれないように権威的シンボルを再生産し、そこから生まれた可能性を活用する方が賢いし面白いとも思っていた。そうすれば、システムの統制の目が行き届かない新たな意味を自分の存在に付け加えられた。だからこそインナとその友達は、システムの慣行や発話の文字通りの意味に取り込まれない方を選び(それが肯定的なものでも否定的なものでも)、活動家の言説も異端派の言説も黙って遠ざけた。(174-175) 

異端派の言説も権力の言説も同じ土俵でしかない。しかしインナたち「ふつうの人たち」は超越(ヴニェ)していたという。
ヴニェした面白く充実した創造的な生活を送る、それはソ連のシステムを疑うこと、真実を見極めることとは違う。
システムをヴニェ(超越)する生き方とは、あるものの存在を知っているが、それが目に入らないということで、そうすることでシステムの内にあり続けてもシンボル・法律・言語といった媒介変数に従わずにすむ。
これは、非常に強い現在の言論空間への批判と読める。過激な言葉や斬新な言葉を使って、詩的言語をつくりだすことを、多くの言論人が行っている。それに対して多くの人が冷めた目で見ている。ふつうの人は体制に批判的かどうかはどうでもよく、ふつうの人たちの広がる言説空間とは全く異なる。異端派の言説が退屈であるというのは、まさに彼らの言説が権力側の言説と同じコンスタティヴを要求するからだ。面白くないからだ。創造的ではないからだ。

バフチンのヴニェであること(外在)という概念。
バフチンは「文学テキストにおける作者と主人公との間のある特殊な関係を考察し、これを「主人公のすべての要因に対する作者の緊張感ある外在の位置、空間的・時間的・意味的な外在の位置」にある関係と定義した。(180、「ミハイル・バフチン全著作第一巻 所収「美的活動における作者と主人公」)

なぜこのような生き方が可能だったのか。それはソ連が意図せず行った文化政策に負うところが大きく、教育制度を重視し、公式文書で高級文化や集団主義や物欲にとらわれない価値の重要性を繰り返し語ったおかげだ。そして重要なのが、ソ連というシステムのなかでは基本的に最低限の生活条件を保証されており、生活への不安がほとんどなかったこも大きい。
ソ連国境開放をして現実の西側を目の当たりにしてがっかりしたというのは、よくわかる。僕が海外に行くと常に思うことだ。

ソ連のカフェ文化なんか、やっぱり面白い。多くの人がカフェに行き、そこで文化が育まれていく。文化は人が集まって醸成されるもので、いまオンラインが推奨されているけど、本当にそんなんでいいのでしょうかね。

アネクドートを「戦うのを止めたユーモア」と位置づけている。いいですねー。
アネクドートが語っているのは、やつらのこと、「ソ連体制」のことではなく、ソ連の現実そのものであり、われわれ全員もここに含まれる。アネクドートを語る主体も、それを聞いて笑っている客体(つまる、ソ連の人たちほとんど)も、システムに外部の批評家でなく、ヴニェの姿勢で接している。アネクドートは、「ふつう」主体とシステムとの現実の相互関係を示すミニモデルなのだ。ここで皮肉まじりに描かれているのは、笑っている一人ひとりが個人や集団でソ連システムの再生産に形式面で手を貸し、と同時にその意味をずらしていく様である。つまり、アネクドートの主たる任務は、「自分自身を」見ること、厳密にいえば「私たち自身を」見ることだ――もちろん見ると言っても、焦点の合わない、ぼんやりした目でアネクドートの儀礼化した不自然な形式を垣間見ることだけなので、主体が自分自身について直に言うことも、自身の行動や現実との関係に注意することもない。だから、アネクドート語りの儀礼が終わると、それまでと同じように行動することができた。(410)
だからこそ、「システムの危機を人知れず用意する最も効果的なメカニズムだったのである」。

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