2020/11/27

『天皇と東大――大日本帝国の生と死 上』 立花隆 文藝春秋

出版されてすぐ購入してすぐ読んだけど、売ってしまった本。今さらながら、書籍というのは売らない方がいい。いずれまた読むこともあるし、確認したいことなどもでてくる。十年ぐらい前に、蔵書を大量に売っぱらったことを後悔する。
現在、学術会議問題が盛り上がっている。大学の独立、学問の自由ということで、とりあえず戦前においては学問の自由はとりあえず保証されていたところもあるが、やっぱりあんまり不穏当なことはダメということで、発禁処分にあったり、釈明させられたり、免職させられたり。
学術会議問題については、とくに感想もなにもない。世には、世間が無関心であることが政府の横暴を招いたというような論調もあるが、何をいいやがる。学術会議以外でも重要な案件はあるが、それを無視し続けているのも学術会議ではないか。野党も野党だ。学術会議の任命拒否を政治問題化していったこと自体が問題だろうよ。まあいいです。
東大では戦前において、国体主義者、自由主義者、マルクス主義者などが混在している空間だったが、時代と共に国体主義、皇道主義一本となっていく。戦後は国体主義者は公職追放となり、マル系なんかが主流となっていく。
栄枯盛衰です。
以下、メモ程度で箇条書き。

民主主義の根本的な難しさは、政治がたとえ民主主義であっても、有司専制主義であることだ。情報公開が完全に行われることはなく、そのため物事を判断する上での情報を国民が持つことが難しい。というか、市井の人々が法律やらを読んでいちいちあーだこーだするなんてこと自体がありえない絵空事だ。

この理屈が、明治のころも有効であり、民権派の板垣退助、副島種臣、後藤象二郎らが民選議員設立の建白書をだしたとき加藤弘之は反対する。山県有朋もしかり。

悲しいことに日本の制度は明治のころのものを引き継いでおり、勅任官、奉任官、判任官の身分がそのまま残っているという。キャリアとノンキャリの区別は明治にできた。

東大における法学部優位が明治のころからのものだという。というのもの明治政府は近代国家として法治主義と近代法を整備するために、法律の専門家を養成することを急務としていたためだ。つまりは東大というのはそもそもが官僚養成機関だった。

福澤諭吉も大隈重信も私立大学を東大にような官僚養成機関として位置付けなかった。そして大隈の下野に多くの東大の学生が、大隈の立憲改進党に参加した。それによって官僚を目指さず、政党へと流れ込む現象が起きる。そのため、政府は法学部を卒業した者は完了になる私見を免除する優遇制度を与えたりした。

北里柴三郎が留学から帰ったとき、政府はポストを与えることもしなかったことに福沢諭吉は怒り、私立の伝染病研究所をたてる。ここに志賀潔も参加する。その後内務省管轄の国立となったが北里の知らないところで文部省に移管される。それにおこった北里以下研究員が全員が辞職したらしい。

とういうのも北里の伝染病研究所は抗血清、ワクチンの販売に成功しており、この製造所を手に入れるためだったようだ。北里はその後、また研究所をつくり、それが現在の北里大学となる。

内村鑑三の不敬事件教育勅語御親署を排する際、。どうも信仰のため頭を下げたくなかったと思っていた。しかしどうもそうではないらしい。内村はよく、仕方なくにせよ、偶像の天皇の御真影にお辞儀していたという。しかし、その日は御真影ではなく御真筆に対してで戸惑っていて、少しはお辞儀をしたらしい。だが、学生たちがお辞儀がたらないと騒いでことが大きくなった。

南北朝正閏問題について。北朝が正統なはずなのに、心情的に南朝に向かい、大学の講義でも「吉野朝時代史」と改められる。どういうこっちゃねん。

七博士建白書。帝国大学法科大学の教授たちが連名で政府に送りつける。日露間の戦争を促していく。義和団事件でのロシアの横暴を許すまじ、というやつ。ここで近衛篤麿が登場。近衛文麿の父。ナショナリスティックで活動家にも支援をしていたという。近衛を中心に対露強硬策をうちたて、世論を扇動していった。文麿も大概だが、篤麿も大概だな。とはいっても、冷静に開戦論への批判もあり、世論は沸騰したが、まだまだましだったよう。

戸水寛人は、かなりの強硬論を張っていて、なんとバイカル湖までとってしまえと主張していたようだ。そのため「バイカル博士」の異名も得る。戸水の戦争継続論などは、日露戦争の勝利にもかかわらず、妥協的な講和条約による世論の反発も相乗効果をなす。そして戸水は文部省から罷免させられる。
これによって、大学の独立と学問の自由が大きな争点となっていく。あの美濃部達吉も戸水に主張には反対であるが、政府が大学人事に口を出したことに批判を加えていく。
ポーツマス条約の波紋で東京は一時期無政府状況に陥り、戒厳令が出される。

白虎隊の生き残り山川健次郎。イエール大学をでて、日本人ではじめての物理学教授。当時物理理論の多くを教えていた。山川は千里眼事件にも噛んでいたようで、いくつか実験を行ったが、御船千鶴子が透視能力があるとは結論付けられなかった。とはいっても当時、透視能力を否定したというわけではない。当時は心理学、物理学などにおける躍進があり、人間の従来の学問を超えた現象が証明されつつあった時代でもあった。

森戸事件。山川健次郎は国家主義者でもあり、天皇へ畏敬の念を持っていた人物だが、森戸事件の際の森戸の学者としての姿勢、論文を訂正も撤回もしなかったことをほめている。この森戸事件は上杉慎吉がうらで糸を引いていたようで、上杉の人脈で山県や政府上層部をに働きかけていたという。そして森戸は起訴される。
ここでも学問の自由がいわれるが、戸水罷免のときとは異なり、美濃部も吉野作造も、森戸を擁護しなかった。ただし吉野は森戸の弁護人を引き受けるが。

上杉慎吉。帝国大学では、憲法講義を受け持っていたが、途中から美濃部達吉も憲法講座をもつようになり、かなりプライドを傷つけられた様子。上杉の憲法論は伊藤博文が念頭においていたものとは異なり、天皇親政をよしとしている。伊藤博文はシュタインの君主機関説をとっているので、美濃部の天皇機関説は政治家、官界では常識的なものだったが、上杉は主権は天皇にあり、統治者であり、被統治者は臣民で服従すべきとする。

上杉は木曜会、興国同志会、七生社をつくっていく。これらが右翼運動における源流となっていく。安岡正篤も上杉門下。
森戸事件後、報告会が行われるが、意気揚々と興国同志会が報告をすると、批判が相次ぐ。学生が独断で政府にお伺いをたて、大学の自治を犯したと。そして興国同志会は消滅していく。森戸は文部大臣などを行う。
大内兵衛なんかも面白い。労農派マルクス主義者であり、森戸事件に連座して失職する。大内は東大を卒業後、官僚になり、若月礼次郎や高橋是清のもとで財務を担当する。戦後は渋沢敬三の顧問をやるが大臣をやることはなかった。
マルクス経済学だとしても、大内は実務に明るい人物で、当時のマルクス経済学の一端をみることができる。戦後はさらに社会保障制度をつくるのに尽力した。

血盟団事件。一人一殺主義によるテロリズム。日蓮宗の国家主義者井上日召。
前史として、安田財閥の朝日平吾による安田善次郎暗殺がある。彼は北一輝に心酔していた。この朝日の問題意識は血盟団にも受け継がれている。汚職にまみれた政治家、財閥を一掃し、天皇と臣民との直接的な関係を結び直そうとするもの。
日本の右翼思想は、天皇主義を除けば社会主義思想と同じ。『資本論』を完訳した高畠素之は堺利彦と袂を分かった後に、上杉慎吉と組むことになる。これによって天皇中心主義と社会主義思想が一緒になっていく。北一輝は別ルートで社会主義の傾向をみせている。天皇が親政を行い、特権階級を排し、万民平等の公平公正な社会を実現する思想。「一視同仁」。
岸信介は、大学に残らずに官僚になるが、森戸論文にも好意的であるし、戦後も社会党から出馬しようとしたりしている。彼自身、北一輝に心酔した人物でもあり、やはし国家社会主義の思想を持っていた。

河上肇は当時共産主義思想のスターだったが、京都大学を罷免されたのち、念願の共産党員になる。しかし数か月で逮捕となる。転向はしなかった政治にかかわらず、引退宣言をする。満期で出所。

四元義隆、池袋正釟郎らが起こしたテロ事件。安岡正篤はインチキとのこと。重信房子の父は直接テロを行ったわけではないが、四元らと一緒に行動をしていたという。
海軍グループと民間グループで共に決起する予定だったが、上海事件で海軍グループは行動ができず、仕方なく民間グループのみで決起することにするが、結局は井上準之助と団琢磨の二人だけを暗殺するだけにとどまる。起爆剤としてテロを行う。
井上は大陸浪人をやっていたこともあり、テロ工作や情報工作にも精通していた。血盟団の若者たちは自分たちを「地湧の菩薩」と見なし、末法濁世から世界を救済する菩薩と見なしていた。
天皇が自ら政治を行うための革命。日蓮主義と天皇御親政。啓蒙の時代ではない、破壊の時代である。共産主義革命にも通じる革命論ではありませんか。
三月事件と、十月事件の失敗と上海事変。海軍の藤井斉は上海事変で死ぬ。
紀元節にお行う予定だったが、紆余曲折があり、井上は一人一殺で、テロをしていくことにし、計画は井上準之助と団琢磨の二人をテロっただけで終わる。
井上は頭山満の邸に出頭するまで住んでいた。公安たちは、事件の全貌がわかっておらず、井上が関係しているにしろ証拠がなかった。そして頭山に匿われているとなると手出しができなかった。

権藤成卿は、昭和維新と大化の改新を重ね合わせていく。しかもそのテロの正統性を偽書『南淵書』という文献から得、しかもこの偽書は権藤自身が書いた可能性が高いという。南淵請安は中大兄皇子に帝王学を教え、蘇我入鹿に天誅を加えるべきことを勧めるという内容のよう。しかもこの書は古事記より古いという設定だという。権藤先生、勇気があるな。権藤は日本国内だけでなく、中国、朝鮮にも幅広く人脈もっており、血盟団事件のあと高速されるが、簡単に釈放されてしまう。
権藤の思想は農本主義、農地解放、農村自救運動。なかなか興味深いが、偽書を書くという根性もすごい。四元らは北一輝から権藤の思想へとシフトしていったという。

五・一五事件は海軍と陸軍の青年に夜首相官邸を襲った事件だが、この事件は減刑嘆願がだされるほど世の同情をもらった。というのも彼らは義憤で立ち上がったのであるからだ。
天野辰夫はこの五・一五事件の不発を、なんとか挽回するために今一度クーデターを計画する。それが神兵隊事件だった。しかし杜撰な計画のため未遂で終わる。そして裁判では有罪だが刑は免除という奇怪な判決となる。「革命無罪」が実現する。

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