2020/12/28

『天皇と東大――大日本帝国の生と死 下』 立花隆 文藝春秋

本書を読んでいくと、学力があるインテリたちが右翼イデオロギーを傾倒していき、テロを起こしたり、言論統制をしたりとなかなかすごい。
筧克彦、上杉慎吉、平泉澄らは、活動家に思想を提供するが、彼らはけっして活動家のような極端なテロや言論活動まではしていないようだ。これは左翼とは異なるところで、共産主義の場合は、活動家と思想家はイコールであることが多い。
例えば平泉の皇国史観は陸軍に影響を与えたにせよ、平泉自身は天皇親政を主張していたにせよ、クーデターを肯定をしているわけではない。
国粋主義がいかにバカげたものであろうと、戦前戦中の時期は一般民衆にまでその思想が受け入れられ、天皇主義に普遍性をもたせようとした狂気の時代でもあった。
かつて、竹内洋と佐藤優が立花隆の蓑田の描き方が、極端に一面的で、狂人でしかない愚か者としてしか書かれていないことを批判していた。
んーまあそのとおりでもある。
本書だけを読むと、平泉も上杉も蓑田も筧も、みんなイカレタ思想家としてしか読めない。だから本書では、なぜ当時のインテリたちが右翼イデオロギーにはまっていったのかは書かれていない。これが本書の限界でもある。
ただこれをテーマに書くことはかなり難しい。下手をすると、かなりの飛躍をして個人の生い立ちと結びつけてしまうことにもなる。上杉の薫陶をうけた蓑田にせよ、なぜ過激な言動をしたのか、これを理解なんて端からできるはずもない。予想しようとすれば飛躍が起きるし、ありもしない憶測を並べ立てることになる。このあたりは佐野眞一的な偶然や強引なこじつけになりかねない。
だいいちぼくが現在のように左翼から保守自由主義に転向していること自体、どう説明したらいいのか自分でもできないし、ましてや他人にもできやしない。
とまあ、とりあえず下記はメモ。

滝川事件。当時の文部大臣であった鳩山一郎が京都帝国大学の滝川幸辰の辞職を求めた。
客観主義刑法と主観主義刑法。滝川は客観主義刑法。で、「国家否認」「大憲否認」につながるとして、非難される。
トルストイの『復活』における刑法観。人間が人間を裁くことはできない。キリスト教的な見方。社会が人間を犯罪に走らせているという考え。
治安維持法が成立したときは、法律家からは評判が悪かった。私有財産制を否定すること自体は問題にすること自体が問題となる。というのも私有財産制を撤廃する現実的な知からがないならば不能犯であり、これは犯罪にはならない。
滝川の理論はマルクス主義的だとして非難を浴びる。滝川自身、マルクス主義者ではないが、当時の進歩主義はマルクス主義でもあったので、当然その思想の影響がある。

筧克彦。「神ながらの道」。自然主義的ナショナリズム。神道自由主義。国粋主義とは違う。そのためか公職追放にはなっていない。蓑田胸喜は一時期筧に傾倒する。いわば本居宣長を継承しているという。

上杉慎吉が生きていた時期は、まだ左翼の勢力が強く、上杉率いる右派はあまり人気がなかった。

明治憲法ができて東京帝大に憲法の講座が作られるが、担当したのは穂積八束。穂積は天皇絶対主義であり、伊藤博文の憲法観とは異なるものだった。どうしてそんな穂積が憲法の講座を受け持つことができたのか。謎。穂積のあとを継いだのが、上杉慎吉。

天皇機関説。明治憲法の前文は祝詞でできていて、伊藤は立憲君主制と前近代的な王権神授説が残っているものになっている。明治憲法には議会制度や内閣制度は述べられておらず、あいまいなままだった。内閣と軍、統帥権などあいまいなため、天皇機関説問題で問題となっていく部分があった。

右派の蓑田らの歴史観では、明治維新は「革命」で、美濃部は合法的に行われた政権移譲として捉えていた。
美濃部は、右派が主張するロンドン軍縮会議は統帥権干犯であるというのはあたらないとする。兵を戦場で動かすのは統帥権にかかわるから政府は関与できない。しかし、軍の規模や予算は政府が決めるべき問題であり、条約を調印するかどうかも政府の問題。
また天皇もロンドン軍縮条約に批准したのだから、それを批判すること自体不敬であると。
天皇機関説、それは「天皇は国の元首である」というのと同じ意味であり、君主と国家の関係を述べているにすぎない。君主は国家ではない。君主は国家の一部であるが、君主は元首であること。国がなければ君主もない。

陸軍パンフレット事件。「国防の本義と其強化の提唱」。英米との戦争に備えよ、そのために国民一丸となり、利己的個人主義を排し、国家社会主義を提唱する内容。
一木喜徳郎枢密院議長。どうも、天皇機関説事件は政治権力闘争の面もあった。真崎、荒木ら皇道派は、平沼騏一郎が設立した国本社に属しており、天皇機関説を糾弾したものたちの多くがこの結社に属していた。平沼は一木を排除し、自分が議長になろうとしていた。それによって、軍部としても権力を手に入れることができる。本丸は美濃部ではなく一木となる。ただし平沼は昭和天皇や西園寺公望にそのファシズム気質を嫌われていた。平沼が内閣総理大臣になる際も、国本社を解散したことを述べてから就任している。
美濃部の著作が発禁になったのは、天皇機関説ではなかった。というのも天皇機関説は当時の定説でもあり、これを否定してしまえば、多くの書籍が発禁になり、混乱を免れない。「社会の安寧秩序妨害」という理由。

二・二六事件が日本を軍国主義を完成させる一歩。まだ当時の軍には例えば渡辺錠太郎陸軍大将は天皇機関説を支持していた。そのため二・二六では狙われた。

平泉澄。平泉の皇国史観。平泉の歴史観では、大化の改新、建武中興、明治維新といった天皇親政こそが日本の精神。それ以外は暗黒時代。国体の自覚と天皇への絶対忠誠こそが、臣民の忠であると。祭政一致を¥という天皇教えお国教と宗教国家を目指していた。
東條英機は平泉に傾倒しており、平泉に陸軍士官学校に平泉の門下生を送りこんで、将校を教育してほしいと頼んだ。そのことで平泉の思想は陸軍に浸透していく。のちのち8月15日皇居占拠を行った青年将校大も平泉の影響下にあるものであったし、当時の陸軍大将であった阿南陸相も平泉に傾倒していた。
北畑親房や楠木正成のような非業の死、天皇への忠義による死を、「忠義の美学」として称揚した。
平泉の門下生の黒木博司は、人間魚雷「回天」の発案者。恐ろしいことに、日本の起死回生と位置づけていたし、血書で嘆願書を提出した。物量ではかなわないが「士魂」では負けていない、という。狂気。海軍も海軍で昭和19年8月に採用してしまう。黒木は回天の訓練中に事故死するが、平泉への礼の言葉を書き残していたという。

二・二六事件の際に昭和天皇を退位させ秩父宮に替わって天皇になってもらおうという動きもあったという。そして皇族内閣を目指していた。秩父宮自身は、たしかに平泉と交流があり、ファッショ的な人物でもあったが行動は起こさなかった。それは平泉自身が昭和天皇退位を主張していたわけでもなく、むしろ皇室が二つに分かれることを恐れていた。平泉は反乱軍に切り込むつもりでもいた。立花氏は保阪正康の平泉が秩父宮を説得して決起させようとしたという説を異論を唱えている。

平泉は、二・二六事件に批判的だったとしても、彼の思想がファシズムにつながるとして、湯浅倉平や西園寺公望からは嫌われていた。そして二・二六事件以降はそれまで親交があった木戸幸一からも距離をとられていく。
平泉の門下生には、宮城事件をおこした畑中、井田、古賀、椎埼がいた。阿南陸相も平泉に心酔していた。ポツダム宣言を受諾するという昭和天皇の決断に、彼らはたとえ天皇でも道を明らかに謝るようなら、それを正すべきとする。「「承詔必謹」であるべきではないとする。吉田松陰の「諫死論」。そして、昭和天皇が心変わりしないようなら、皇太子に天皇に替わってもらおうと、阿南にも持ちかけていたという。阿南はうなずかなかったようだ。
クーデターを起こす際に彼らは平泉に相談しにいったが、平泉は押し黙っていたという。
義勇兵役法の冒頭の上論を書いたのは、平泉だった。そこには平泉美学である、忠君愛国、七生報国、国体護持の思想が忌憚なく書かれている。

天皇機関説事件の際、美濃部を東大の教え子たちは見捨てた。見捨てなかったのは、矢内原忠雄と河井栄次郎だけだったそして両人のボーイズラブ。
矢内原忠雄は、満州国の批判、天皇問題を取り組んでいく。(373)
津田左右吉『古事記及日本書紀の研究』。大正13年に出版され、岩波の再販を機に、蓑田らによって津田の思想は日本の東亜における新秩序とは乖離しているとして糾弾されていく。右翼学生らが津田の講義に押しかけたりした。
平賀譲による経済学部の粛正。平賀は軍艦建造における神様とされていたとのことで東大で工学部で教えていた。
田中耕太郎は経済学部の、河合派、大内派、土方派の争いを解決するために平賀に担ぎ上げる。喧嘩両成敗。
田中耕太郎は『世界法の理論』を昭和9年に出版れるが、これも「原理日本」グループに攻撃される。田中まだ世界確立されていなかった世界奉を考察していた。田中の専門は商法だが、まさに商取引が世界奉の発展してきた側面がある。
この時期世界公法というものが生まれるる遭った時代でもあり普遍的な社会を構築する機運があった。

「国体を明徴にせよ」。原理日本は多くの知識人を標的にしていった。日中戦争も大東亜戦争も「国体明徴戦」だという。アジア全体を天皇の統治のもとひとつの共同体にすることを主張していった。
満蒙開拓団の指導者加藤完治は筧克彦の信奉者であり「神ながらのみち」を実践していく。満州では伊勢神宮の分社が作られていく。筧は溥儀にも「神ながらの道」を講じたという。当時の天皇主義とは右翼国粋主義にとっては世界を統一する思想であった。
河合栄次郎は、なかなか面白い人物で、戦中に抵抗することで戦後に活躍することを目論んでいたという。彼はヨーロッパ型の社会民主主義者であった。

『きけ わだつみこのこえ』について、東大協同組合出版部から出版されたさいは、皇国思想、戦争賛美のものは削られた状態だった。

戦後の東大総長になった南原繁の紀元節式典のスピーチのテキストが載っているが、そこには民族の永続性とかの言葉が載っていて、現在のサヨク諸君は驚くだろう。
南原は天皇を慕っていたが、天皇が法的、政治的責任はないが、道義的な責任があるから退位するだろうと考えていた。南原は学徒出陣で学生らが自ら出征していくことを止めることができなかった。東京大空襲を契機に南原繁、高木八尺、田中耕太郎、末信三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄で密かに終戦工作を行う。どこまで影響があったかは不明のようだが。
戦後、GHQによる財閥解体が行われたが、それを終戦直後の破綻した経済を救う経済政策を立案していったのは、マルクス経済学者たちだった。インフレ政策、財閥解体、軍人恩給停止論、戦時利得税設定論など。日本の敗戦によって、マルクス経済学が勝利し東大経済学部の主流となっていく。

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