2020/10/14

『山県有朋と明治国家』 井上寿一 NHKブックス

以下、箇条書きで。

徴兵制のジレンマがあり、山県は士族の特権を排し、国民皆兵を目指すが、山県は自由民権運動などの国民運動に否定的で、しかし徴兵制はその国民を徴兵するものであるから必然的に軍に自由民権運動のような思想が流れ込むことになる。それでも1873年に徴兵令が発せられた。
そしてだからこそ軍人勅諭がつくられる。軍人たるもの政治に関与してはならず、天皇への忠義を説く。
参謀本部の独立は統帥権の独立であり、これが太平洋戦争のときに悪用される。しかし、軍の政治からの中立を必要としていたため、参謀本部は独立機関となり、陸相から軍令事項の権限から切り離された。とはいっても、これをもってシビリアン・コントロールは崩れたとは言えない。参謀本部が内閣や陸軍より優位であることではないし、政治から切り離し、作戦、用兵を立案する組織は「強兵」の面から必要であり、前提条件だった。
この軍の改革は地方自治にも通じ、地方の富裕層、地主などが地方自治制度の中心に据え、秩序を与えようとした。そしてこれら地方自治から有力者が国政に進出できるようにする、そうすればみだりに空論を弄する輩が現れず、秩序が保てると考えた。

1885年巨文島事件が起き、山県はイギリスとロシアの衝突を危惧する。またカナダの太平洋横断鉄道やシベリア鉄道によって近い将来日本は危機に直面すると予想する。山県は外交の重要性を承知しているが、その裏付けには軍事力が必要だと考えていた。しかし軍拡張をするにせよ、予算が足りない、増税すれば内政の不安定になる、という現実があった。

山県は1888年に二度目のヨーロッパ視察に行き、そこでシュタイン教授から、シベリア鉄道によってロシアの脅威が直接日本にはあまりないこと、イギリスの極東での脅威は限定的であることを説明し、主権線だけでなく利益線を守ることを説いた。
朝鮮永世中立国化を目指す。ヨーロッパで帝国主義的対りが激しくなり、イギリスとロシアの関係は怪しくなっていた。極東でイギリスとロシア、日本での朝鮮中立化がなればロシアにとっても利益になる。山県は日清英協調路線を目指していた。しかし朝鮮の政府が中立化の意志がなければ達成できない。そのため日本は朝鮮の内政改革に乗り出す。そんななか1894年2月に甲午農民戦争が起こる。朝鮮政府は清に派兵の協力を打診する。日本は朝鮮から協力が得られなければ兵をだすことはできない。
日本の出兵はあくまで居留民の保護が目的で、戦後歴史学で非難されていた侵略ではなかったと考えられる。いずれにせよ朝鮮政府からの要請が必要だった。
しかし5月末ごろ大鳥圭介らがこれを機に内政改革の機会にもなると説く。

山県は伊藤博文の主導する政党政治に否定的だが、とはいっても超然内閣を組閣するこはできない。だから第二次山県内閣のときでも議会の多数派を味方にする必要はあった。だから政党を操縦するためにも憲政党との提携をなしていく。
山県は憲政党との妥協で地租をあげる案も譲歩して予定よりも低くした。しかし、山県は軍部大臣の現役武官制を制度化し、文官人用例を改正し、次官、局長級の勅任官の任用規定によって資格制限が定められた。

1900年、伊藤は政友会を組織する。とはいっても伊藤も政党よりも国家の優位を主張しており、そのところでは山県とも共通している。第一次桂内閣では増税を撤回させるかわりに、海軍拡張を受け入れたりとしていた。政友会からすれば裏切りだが、伊藤は国際情勢をみれば山県と同じ認識であり、国家を優位とする考えからは政党は二の次だったようだ。その後伊藤は政友会での地位が彩湯くなり、枢密院議長という閑職につくことになる。

伊藤の日露協商路線か、それとも山県らの日英同盟かは、両人にとっては手段の違いでしかなく、基本的な認識は共有してたため、どちらもお互いの路線を反対はしていなかった。

赤旗事件、大逆事件、南北朝正閏問題などで社会不安が巻き起こっていた。そのため桂内閣では思想統制法をだし、しかし社会不安を抑えるためにも教員の待遇改善、貧民救済事業、工場法を整備していく。

第二次桂内閣までは山県の政党間における権謀術数が可能であったが、明治天皇が死んで、桂が新党構想をはじめたころから憲政擁護の運動が活発になり、第三次桂内閣のときに民衆運動が直接、倒閣を実現した。

第一次世界大戦には日本は関わりたくはなかったが、当時はまだイギリスが勝つかドイツが勝かはわからない状況で、ただ日英同盟の関係上、ドイツの租借地である膠州湾攻撃を決める。山県は反対ではあったが、攻撃するにせよ、ドイツ側には日英同盟上のいきがかりであることを説明し、信義にもとづくべきと主張する。山県は日英同盟に重きを置く加藤外相に不信をもっていた。しかし一方的な宣戦布告が行われてしまう。
同時に、山県は中国との関係も良好であることを望んでいた。辛亥革命によって袁世凱政権ができ、日本の政策を変えざるを得ないにしても。
膠州湾をとったところで、戦後に中国に返還しなければならない状況に追い込まれる。だからこそ中国との関係を良好にすべきだった。満蒙問題でも袁世凱に日本は信頼できるものであることを主張しなければならなかった。
そこででてきた山県のレトリックは「人種競争」だった。ただしこれは有色人種の同盟をいみしているのではない。欧米に対して説かれているものではなく、あくまで袁世凱政権に対してのレトリックだった。これによって信頼回復を目指した。

日露関係にしても、当時はまだロシア革命がおきるとはだれも予想していなかったし、山県が日露協商を重要視していたにせよ、日英同盟を軽視していたわけではない。あくまでバランスの問題なのだ。1916年の段階で、日英同盟と日露協商によって山県が思い描く多角的な列国協調路線を実現していた。
山県と原敬は日米関係の重要さを強調していた。
大隈内閣は選挙で勝利し、軍艦建造費と二個師団増設を承認させる。山県にとっては朗報だった。とはいっても外交問題では原敬を失うことは出来ない。大隈は1915年に袁世凱政権に対して対華二十一か条の要求をつきくける。理由として第二条七条の満蒙についてで、関東州租借地の起源が1923年に切れるため、その対応という側面もあったが、第五号などが帝国主義的な要求でもあり、しかも日本は列強にそれを隠していたことがバレて、アメリカにリークされる。
山県と原が恐れていたことで、日本がこれで孤立する可能性もある。山県にとっても満蒙を手放す気はないが、中国との関係も重要視していた。要はやり方だった。これによって加藤外相は辞任、大隈内閣は倒閣となる。
後継の寺内内閣ではアメリカとの関係修復のために石井=ライジング協定を結ぶ。アメリカの主張する「門戸開放」を掲げつつ、日本の権益を認めるものだった。そしてそれは対華二十一か条の要求の中核部分をアメリカが認めたことになる。
ロシア革命とドイツの敗北によって、日本の外交が変わる。日露協商は破棄される。
そんななかイギリスよりロシア革命への干渉のために日本へシベリアへの出兵を打診される。山県はシベリアへの出兵に対して、日本の単独行動は不得策であり、アメリカとの協調を重視し、また軍費の調達を明確すべきことを意見する。
日本の経済はアメリカ依存をしていて、そして一度シベリア出兵すればすぐに撤兵はできない。だから慎重にすべきとなる。3月の時点ではアメリカは日本の出兵には反対し、その相談があったことにアメリカ政府は満足していることが伝えられる。しかし7月にあるとアメリカからシベリア出兵の要請がくる。しかし山県は慎重論だったが、意見書の条件を満たすこともあり、出兵をさせる。このあたり一貫した考えと、リアリズムで徹底されている。通常意見書は反対のためにおこなわれるもので、たとえ条件を満たしてもさらに条件をたして見送らせようとするのが常であるのに、ここからわかるように山県はシベリア出兵への反対というのは、筋が通っていた。

1918年7月、米騒動は起きる。第一次世界大戦の好景気は薄れ、米価が高騰していく。しかしこの米騒動はロシア革命のような性質ではなく、自然発生的で組織的なものではなかった。山県も原も重々承知していた。

第一次世界大戦後、アメリカが世界の外交を主導するようになり、山県それに反発するが、理想主義に陥らずに英米本位の平和主義へと順応していく。講和会議では、人種平等を掲げつつ欧州が反対するので引っ込め、そして山東の権益を獲得するという実をあげる。ここでも「人種」はレトリックにすぎない。
山県はあくまでも協調主義をとっており、ワシントン会議において、英米が親中であることがわかり、山東からの撤退をさせる。さらに国際連盟への加盟も当然とし、さらには旧時代に締結された日英同盟もワシントン会議という国際協調路線という新外交の枠組みから破棄されること受け入れる。これは日英米仏による国際条約でもあった。そしてもう一つシベリアからの完全撤退を原内閣とともに実現させる。
原内閣になると普通選挙運動、民主化運動が急進的になっていく。原は民主主義に賛成だが、時期尚早とみていた。そのため吉野作造などの知識人から批判される。

近代から今日までの国民国家にとって、軍部の存在は基礎的な条件でありつづけている。国民国家であるということは、国民軍隊をもっているということである。日本が近代国家をめざす以上、誰かがこの基礎的な条件を整えなくてはならなかった。誰が引き受けたのか。山県だった。……徴兵制による国民軍の創出に勤め……軍政改革をとおして、日本の国家的な独立の危機に対応した軍事的リアリストだった。(236-237)

 

明治国家の権力を強調し、そのもとでたえず抑圧される「民衆」という歴史観では、帝国憲法を前提とする国家体制であっても、斬新的な民主化が進んだ政治過程を説明することはむずかしい。他方で「民衆」が民主化の中心だったとする歴史観にも無理がある。民主化は運動だけでは実現しない。民主化を可能とした近代的な諸制度を整備したのは、国家権力の側、政治指導者であり、国家官僚だった。要するに、多元的な権力関係の明治国家をとらえることがきる歴史観によって、日本近代史像を統合すべきである。(241)

 

途上国において軍部がその国の近代化を主導することは不思議ではない。第二次世界大戦後、あらたに独立した東南アジア諸国が程度の差はあれ、そうだった。これは開発独裁体制といってもよい。山県の政治的な役割も同じだった。明治維新革命後の途上国日本は、山県のもとで開発独裁体制の確立を志向した。……国家と国民の一体感は過渡に協調すべきではないだろう。幕末維新期の国家的な独立の危機が国家と国民の間の共通の明式だったのは、日清戦争までである。……開発独裁体制の確立をめざして出発した明治国家は、条約改正問題をとおして、西欧化が不可避となったからである。西欧化とは政治的な西欧化を含む。僧である以上、帝国憲法のもとであっても、選出勢力による政治が展開する。国家的利益と非国家的利益の噴出によって、多元的な政治対立が生まれる。……客観的には近代日本の斬新的な民主化の過程が進んだ。(242-243)
1874年(明治7年) 台湾出兵
1875年(明治8年) 江華島事件
1877年(明治10年) 西南戦争
1884年(明治17年) 甲申政変
1885年(明治18年) 天津条約
1889年(明治22年) 朝鮮永世中立化構想
1889年2月11日 大日本帝国憲法公布
1890年(明治23年) 第一議会
1894年(明治27年)3月 甲午農民戦争
1894年7月~1895年4月 日清戦争
1900年6月~1901年9月 義和団事件
1904年2月~1905年5月 日露戦争
1911年~1912年 辛亥革命
1915年1月 対華21カ条要求
1917年10月 ロシア革命
1917年11月 石井-ライジング協定
1918年8月~1922年10月 シベリア出兵
1919年1月 パリ講和会議
1919年5月 五四運動
1919年6月 ヴェルサイユ条約
1920年~1921年2月 宮中某重大事件
1922年2月 ワシントン海軍軍縮条約
1923年8月 日英同盟失効

第一次伊藤内内閣1885年(明治18年)12月 1888年(明治21年)4月30日
黒田内閣 1888年(明治21年)4月30日 1889年(明治22年)10月25日
三条内閣 1889年(明治22年)10月25日 1889年12月24日
第一次山県内閣 1889年12月24日 1891年(明治24年)5月6日
第一次松方内閣 1891年(明治24年)5月6日    1892年(明治25年)8月8日
第二次伊藤内閣 1892年(明治25年)8月8日    1896年(明治29年)9月18日
第二次松方内閣 1896年(明治29年)9月18日    1898年(明治31年)1月12日
第三次伊藤内閣 1898年(明治31年)1月12日 1898年(明治31年)6月30日
第一次大隈内閣 1898年(明治31年)6月30日 1898年(明治31年)11月8日
第二次山縣内閣 1898年(明治31年)11月8日 1900年(明治33年)10月19日
第四次伊藤内閣 1900年(明治33年)10月19日 1901年(明治34年)6月2日
第一次桂内閣 1901年(明治34年)6月2日 1906年(明治39年)1月7日
第一次西園寺内閣 1906年(明治39年)1月7日 1908年(明治41年)7月14日
第二次桂内閣 1908年(明治41年)7月14日 1911年(明治44年)8月30日
第二次西園寺内閣 1911年(明治44年)8月30日 1912年(大正元年)12月21日
第三次桂内閣 1912年(大正元年)12月21日 1913年(大正2年)2月20日
第一次山本内閣 1913年(大正2年)2月20日 1914年(大正3年)4月16日
第二次大隈内閣 1914年(大正3年)4月16日 1916年(大正5年)10月9日
寺内内閣 1916年(大正5年)10月9日 1918年(大正7年)9月29日
原内閣 1918年(大正7年)9月29日 1921年(大正10年)11月13日
高橋内閣 1921年(大正10年)11月13日 1922年(大正11年)6月12日

2020/10/10

『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 伊藤之雄 文春新書

山県有朋は近代日本を作り上げた立役者の一人であるのは間違いないが、なぜか人気がない。
本書を読むと山県が単なる権力欲の塊であったり、陸軍や宮中を完全に支配していたわけではないことがわかる。そして、人間が単純な生き物ではないこともよくわかる。
議会運営の際には、伊藤や議会に妥協点を見出しながら行っており、陸軍拡張や地方自治制度の確立のためにも根回しをしながらやっている。それに本書によれば、山県有朋が実質的に伊藤博文と対等の権力を得ることができたのは1900年頃だという。
山県は地租増微法案を成立した見返りに、憲政党が求めていた地方制度改革案を帝国議会で成立させたり、複選制ではなく府県会議員を直接選挙に変えた。軍備拡張のためにも、ロシアに対抗するためにもここでも妥協をする。
妥協ばかりだ。太平洋戦争の時の指導部と格が違う。

山県が構想した徴兵制がなかなか面白くて、皆兵制ではなくエリート集団をまず作ろうとしていた。
六歳から十九歳までに小中学校教育を終えた者が二十歳で徴兵されるというのは、当時では小学四年程度が普通の当時ではエリートと言っていい。ただし、代人料を支払えば徴兵免除ができる規定が加わったためエリート性がなくなったともいう。
徴兵制というものが、現在言われているものとは違う。現在は皆平等なので皆徴兵となるけど。

参謀本部の独立は、山県が西南戦争で得た教訓からなされたことで、当時は有力者が文官の参議や大臣を決めていたため、後に「統帥権の独立」でもって暴走することは考えられなかった。参謀本部は大久保も伊藤も人員、物資の配置などの大枠を指導、作戦、戦略をたてる部署を必要であるという合理的判断で行われている。ただし、実質的に山県が竹橋事件で苦境に立っているのを救い、政権の安定をもたらすためにも設立されている。
著者は、参謀本部の独立や山県の陸軍の在り方が、後の陸軍や関東軍の暴走、そして統帥権の独立へと繋がっている、という考えを明確に否定している。
山県は陸軍に内閣の介入を嫌っていたし、実際に介入を阻止する仕組みも作った。しかし、陸軍は陸相を中心に統制がとれていた組織であり、関東軍の暴走を参謀本部と陸軍が追認なんかする組織ではなかった。
帝国主義の時代にあって、伊藤も山県も列強の干渉を恐れて、強気の大陸政策をとらなかったし、列強が認めないならば伊藤も山県も引いていた。だから日清戦争でも日露戦争でも、不満足な結果でも受け入れてきた。

山県は議会制を嫌っていたため、大隈重信が1883年までに国会を開き政党内閣制をするという、当時では急進的な内容の意見書をだしたので、伊藤、山県は大隈を罷免し、政府追放させる。
山県は晩年まで議会を嫌っており、原敬の内閣をみて、議会政治を認めるようになったとか著者はいう。原敬を「偉い」と評価し、暗殺されたときも涙を流したらしい。伊藤博文にしろ、大隈の革新性を好まなかった。
「自由党はもっぱら「下等の人民」をあやつり、「過激粗暴な士」集めようとしているようである」と山県は自由民権運動を見ていた。そのため政党処分は厳しい処断を求めていた。
山県はヨーロッパ視察でベルリンなどの議会政治を見て、「沈着老成」の議論ではなく、「急燥過激」の空論が名望を得ていることに、国会や選挙に不信を抱いたという。
まったくもって山県は正しい。世界の趨勢はデモクラシーにあっても、それがいかに醜悪なものかもわかっていた。1900年ではまだ民主主義はヨーロッパでも主流ではなく、かなり限定的ではあったが、それでも流れは寡頭政治ではなく衆愚政治へと向かっていく。

当時最先端だった政治理論であるウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授の君主機関説の憲法理論は、伊藤のめざす統治機構だった。
憲法制定と同じく重要だったのが地方自治制の確立で、ドイツの制度をもとにつくりあげられていく。山県が内務卿になってから推進していく。1889年12月から翌10月まで山県は地方自治制度の視察のために二度目のヨーロッパ視察にいく。グナイストから強権を持った政府が迅速で効果的な施政をすべきで、地方行政において道路や橋の補修・治安・救貧などで、住民の自発的な隣保活動が重要であることを山県に伝える。
地方自治について、山県がどれくらい関与し、現在の仕組みと繋がっているのかはよくわからないので、松本崇『山縣有朋の挫折――誰がための地方自治改革』(日本経済新聞出版社)を読むことにする。

軍人勅諭の成立は、自由民権運動が軍に波及することを恐れ、西周に起草させ、福地源一郎に大幅に改編させ、そして井上毅と山県で修正したもので、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五か条が強調され、政治に惑わされることを戒めている。
山県内閣の1890年に地方長官などから文部省へ教育の道徳的指針をまとめてほしいという要望があったという。欧米に心酔し日本を卑下する風潮を戒めるために、儒教の「仁義忠孝」を基本に芳川正顕と山県でつくられる。

山県内閣の際に第一議会が行われている。山県は国家の独立自衛を確保するために、国の領域である「主権戦」と国家の安危に関係する「利益線」(朝鮮半島)を保護する必要を説き、軍備拡張を唱える。しかし自由党や改進党は予算削減を求めていた。憲法に誇りを持っていた伊藤、井上は解散を支持しておらず、山県も列強に日本が議会を運営できることをアピールするためにも、第一議会を乗り切ること考えていた。山県は予算削減の妥協する。

第四次伊藤内閣が倒れた後、山県系の桂内閣ができ、伊藤の推進する日露協商の可能性が低くなり、山県らが求める日英同盟から対強硬路線の可能性が強くなる(330)とある。そうなのか。
山県はアメリカ、イギリスなどの列強と対立することを嫌っていた。あくまで国際ゲームのなかで大陸政策をしなければいけないことを、伊藤ほどではないにしろ理解していた。
山県は伊藤博文とは違い、暗く、近代日本の影の部分みたいな感じの印象を残すが、本書を読むと、まさに山県の人生は近代日本そのものだし、彼抜きでは近代日本は語れないことがよくわかる。

2020/10/08

『1941 決意なき開戦――現代日本の起源』 堀田江理 人文書院

1941年の日本とアメリカのやりとりについて、おそらく見解が割れる。
ルーズヴェルトは、いつ日本との戦争を決意したのかが問題だが、1941年8月12日のチャーチルとの大西洋憲章の際に、日本との戦争を3か月は先延ばしにできると言ったという話もあるが、これをもってすでにルーズヴェルトが太平洋での日本との戦争を決めていたとは言い難い。本書では、ルーズヴェルトは直前まで日本との戦争を回避しようと心がけていたように書かれているが、このあたりは結局は闇の中かと思われるが。
当時の日本はファシズム体制ではなかったし、独裁政権でもなかった。それでも近衛内閣はドイツとイタリアを選んだ。途中で同盟を破棄もできたし、逆にソ連への侵攻も選択肢としてもあった。でもアメリカとの戦争を選んでいる。南印進駐してもアメリカが世界平和、民族解放を理由に、静観してくれるだろうとかいうわけわからない予想もしていたみたいだが。

本書を読んでいて、日本の意思決定というものが、いわば「欧米式」のものではないということが痛感される。建前と本音があるのは世界共通だと思うが、ただ建前と本音の様式が欧米とは異なっているということだろう。
本書では何度もアメリカとの戦争を回避できた場面があることが書かれている。おそらくその通りだ。日本の政府も戦争推進派だけの一枚岩ではないし、むしろ戦争回避を進めてきたのはたしかだが、要は意思決定の様式がアメリカとは異なり、戦争せざるをえない状況に追い込まれていった。
近衛文麿がファシズム気質だったかどうかはおくとして、反欧米の気持ちは当時の日本の指導者たちは持っていてもおかしくない。欧米と親しくすべきと主張する人たちにおいてもだ。そして近衛、松岡洋右にしろ、あまりにもアメリカが日本の理念を理解してくれるものと考えていたのは問題だった。
ハルを筆頭に日本の拡大主義を批判するのはあたりまえで、それは国際協調主義からすれば唾棄されるべきだろう。当時、すでに帝国主義の風潮は退潮ぎみだったし、アメリカ自体が帝国主義ではなかった。フィリピンもすでに独立をすることになっていた。たしかにイギリスなんかは植民地の利権を手放す気はなかったが、それでも第一次世界大戦の教訓で、権謀術数が蔓延る外交は忌避されるようになっていた。

八紘一宇、大東亜共栄、そして王道楽土、これらの用語ははたしてどこまで本気だったのか。それはある種の虚勢で、ただ政策が御前会議で採択されると、聖なるものへと昇華していく、という感じで書いている。おそらくこのあたりが妥当なところか。「信」の構造からすれば、理念とは後追いするものであり、理念が先にあるのではない。
上記の用語は、当時ではある種の枕詞のように使われていたと考える。それがいつしか理念へと変化、大義名分になっていき、信じるものへと昇華していく。そういう過程があったのではないかと思う。多くの政府の指導者やそれに近い人も大東亜共栄なんて、当初は理念でもなく、単なる言い訳だったものが、いつしか信じるものになってしまった。それがなくなれば戦争をする、している理由がなくなるからだ。
日中戦争の泥沼化によって1941年にはすでに物資不足に悩まされていた。そういう状況で政治の指導者はきちんと状況を把握し、アメリカとの戦争を望んではいなかったが、口から出る言葉は、米国との戦争もやむなし、なのだから虚勢でしかない。

本書、太平洋戦争前夜を描くノンフィクションとしては、かなり面白い。ところどころに挟まれるエピソードが人物の描写を際立たせているし、多岐にわたって目が行き届いている。
昭和天皇の洋行、近衛文麿のヒトラーのコスプレ、会津生まれの捨松と薩摩の大山巌の結婚、石川信吾や石原莞爾の思想が小さい扱いながらもバランスよく散りばめられている。そして永井荷風の日記が当時の雰囲気を語る。ゾルゲ事件も重要なことは取り上げていて、トリビアな「結婚報国」や「慰問袋」の話も織り交ぜてくる。太平洋戦争前夜を描くうえで、ほぼすべてがおさまっている。そして、潮津なる人の従軍日記が要所要所に散りばめられて、首脳部と現実とのギャップが悲しい。

ヒトラーがいないドイツはすぐに多くが違う国になったであろうが、日本の場合は東條ではなかったならと言われても相違点が明らかにならない。
堀田さんは結論します。
最終的に、戦争を回避する道を選ぶことは、長期戦を戦えるアメリカではなく、劣性が明らかな日本が下されなければならない決断だった。それがいかに屈辱的で、不可能で、自己去勢行為に等しいことのように思えても、それが最終的に国家の存続と繁栄につながるという考えに、政策と世論を持っていくことが、先見ある指導者の務めであるはずだった。あたかも、避戦という選択肢が存在しないように匂わせる戦略的タイムテーブルと、官僚的なルールは、日本の指導者たちが自身に課したもので、米政府の作ったものではなかった。それは自分たちが、どれだけ外の知からによって不当に戦争に追い詰められた、と納得させようとも、まったく変えられない事実だった。自分たちを被害者だと言い聞かせ、日本は常に平和を願い、アメリカに対して、譲歩の姿勢を取り続けてきたと主張しても、事実は違った。……彼らにあるものは、自己憐憫、怒り、そして何より賭博師の大胆さだけだった。(350-351)
一億層玉砕から一億総懺悔へと変わる。それは戦争が全ての国民に万遍なく責任があるということであり、確かにその面もないわけではないが、しかしこのことによって開戦責任が曖昧になり、「誰も悪くなかった」という主張に等しくなる。国民総懺悔は指導者にとっては好都合な概念でしかない。

時系列は以下。
1940年9月23日 北部仏印進駐
1940年9月27日 日独伊三国同盟
1940年10月 大政翼賛会設立
1941年4月13日 日ソ中立条約
1941年6月22日 独ソ開戦
1941年6月25日 アメリカによるソ連資産凍結の解除
1941年7月25日 アメリカによる日本資産凍結
1941年7月28日 日本の南部仏印進駐(情勢二推移二伴フ帝国国策要綱)
1941年8月1日 アメリカによる石油禁輸措置
1941年8月9日~12日 大西洋憲章
1941年9月6日 帝国国策遂行要領
1941年9月下旬から ゾルゲ事件
1941年10月12日 荻外荘会談
1941年10月15日 日米の外交期限
1941年10月~1942年1月 モスクワの戦い
1941年11月27日 ハル・ノート
1941年12月8日 真珠湾攻撃

内閣の移り変わりは以下。
1937年6月4日~1939年1月5日 第一次近衛内閣
1939年1月5日~1939年8月30日 平沼内閣
1939年8月30日~1940年1月16日 阿部内閣
1940年1月16日~1940年7月22日 米内内閣
1940年7月22日~1941年7月18日 第二次近衛内閣
1941年7月18日~1941年10月18日 第三次近衛内閣
1941年10月18日~1944年7月22日 東條内閣

読んでいて、暗澹たる思いでした。本書では日本の意思決定を中心に書いているが、それでもいろいろと疑問がわき出てくる。いろいろと日本側の言い分もあるかと思うが、いずれにせよ戦争を遂行したのは日本の当時の政治家たちで、世論が戦争を支持していたからって、それに靡くようじゃ、はっきり言って政治家なんかいらない。

戦争前夜についての本はかなり久しぶりに読んだから、多くのことを忘れていた。永野修身の存在すら忘れかけていた。
太平洋戦争関係をいろいろと読んでみようと思ったのはいいけど、相当な量の書籍が出版されていて、うんざりすえるぜ。2日に1冊のペースを維持しようと躍起になって読んでいるが、つらい。何がつらいって、読めば読むほど参考文献が増えていくことだ。
どうすりゃいいんだ。もう僕のアマゾンの購入予定のリストには70冊と図書館の予約リストにも50冊、計130冊もの第二次世界大戦関係の書籍があって、どんどん膨れ上がっていく。読めんのかよ、これ。

2020/10/05

『ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点』 スチュアート・D・ゴールドマン/麻田雅文(解説)、山岡由美訳 みすず書房

本書ではノモンハン事件を世界史の中でとらえ直している。内陸アジアの僻地で戦われた知名度の低い紛争が、ヒトラーのポーランド侵攻などの導火線になっているという。
時系列で言えば
1937年6月 乾岔子島事件
1937年7月7日 盧溝橋事件
1938年3月12日 アンシュルス
1938年7月29日~8月11日 張鼓峰事件
1938年9月下旬 ミュンヘン会談
1939年3月チェコスロヴァキア解体
1939年5月11日~8月31日 ノモンハン事件
1939年8月23日 独ソ不可侵条約
1939年9月1日 ドイツによるポーランド侵攻
1939年9月3日 英仏によるドイツへの宣戦布告
1939年9月15日 ノモンハン事件の停戦協定
1939年9月17日 ソ連によるポーランド侵攻
1940年9月27日 日独伊三国同盟

こう時系列でみるとなかなか面白く、乾岔子島事件が終息したのは盧溝橋事件によってスターリンはアムール川での日本との争いに興味がなくなったからで、日本と中国が戦争へ拡大することはスターリンにとっては歓迎だった。これによって日本の脅威は大幅に減じ、ソ連は蒋介石への支援をしていく。
またチェンバレンがヒトラーに弱腰だった理由として財政問題だったことが書かれている。さらにイギリスは伝統的に反ロシアであり、なおかつ反ボリシェビキでもあった。第一次世界大戦でのロシアの不甲斐なさを知り、スターリンと組むことはしたくなかったようだ。
ヨーロッパと日本では基本的に反ソ連であり、スターリンは孤立していた。外交は難しいようで、日独の同盟はソ連を英仏に走らせることになり、ドイツからすれば第一次世界大戦と同様に英仏露を相手に戦う羽目になる。英仏の宣戦布告まで日独同盟が果たせなかった理由となる。
日本のドイツ接近はゾルゲによってソ連は把握していた。だからこそスターリンはドイツへと接近していき、不可侵条約まで結ばれる。
ソ連にとって僥倖だったのが、ヒトラーのチェコスロヴァキアへの侵攻で、これによってチェンバレンはトサカにきたようだ。ミュンヘン会議はなんだったのかと。
そしてスターリン有利と事が運んでいく。
1939年前半のヨーロッパでは確かにスターリンの思いのままに事が運んでいるかにみえたが、五月の時点ではヒトラーはソ連との条約締結の可能性について明確な意思表示をしておらず、ノモンハン事件はその段階で起きたのだ(228)
スターリンの外交は絶妙だったという。ドイツはポーランドへ侵攻することを決めており、ソ連との不可侵条約締結を目指していた。しかしスターリンは二枚舌外交を行う。英仏との同盟をしていると、わざと英仏との交渉を長引かせてドイツを焦らせている。そしてスターリンはドイツを選び、相互不可侵だけでなく、ポーランド分割、エストニア、ラトヴィアとフィンランドのソ連勢力への容認とリトアニアのドイツ勢力への容認も含んでいた。

なぜスターリンはドイツを選んだのか。著者はここで東アジア情勢を導入する。ソ連と英仏が結べば、ドイツは日本と同盟を結ぶ。そうすると必然的に日本は満州国とソ連圏の国境で攻撃を仕掛けてくる。
しかもドイツを選べば、ヨーロッパの中でソ連は局外の位置に立つことができる。そしてドイツと結べば、ノモンハンで日本を徹底的に争うことができた。
スターリンは日本がソ連と全面戦争やる意志がないことは知っていたが、かといって関東軍が日本中央に従う保証もないとも考えていた。
ノモンハン事件がソ連の軍事的勝利かどうかともかく、外交的勝利であった。8月下旬の時点でスターリンは日本と和平をする準備をしていたが、それを日本側に察知されないようにしていた。
そして、著者はさらにドイツのポーランド侵攻後、ヒトラーはスターリンに東側からポーランドを責めるようになんども催促するが、それは実現するのは9月15日と二週間後となる。なぜなのか。それは東側での戦闘終了がなってから西側の戦いに入ることを考えたからだという。二正面作戦を回避した。
1939年の外交の舞台は複雑を極め、いずれの訳者にも第一の目標と第二の目標があった。イギリス政府はソ連と取り決めを結ぶことでヒトラーのポーランド攻撃を抑止しようとした。ヒトラーの抑止に失敗した場合も、取り決めさえあればソ連を英仏との「同盟にしばりつけることができるものと考えた。ヒトラーが目指した低他の、英仏のポーランド援助を抑止する者としてのソ連との同盟であり、もしくは英仏がポーランド防衛線に打って出た場合にソ連の中立を確保するものとしてのソ連との同盟であった。また日本政府はソ連に照準を絞った軍事同盟をドイツと結ぶことを目指し、それがかなわぬならば包括的な防共協定を強化することを望んでいた。スターリンは西側民主主義国とドイツを戦わせることでソ連の東西において裁量を得ることを目標とし、それに失敗したならば、対独戦となった場合に英仏の援助を確実に得られるようにしたいと考えていた。この四者のうち、第一の目標を達成できたのはスターリンだけである。ヒトラーは第二の目標を実現し、イギリスと日本は何も手に入れられなかった。(244)
本書の弱点としては、スターリンの選択について資料の裏付けがないことだろう。ただし、これは著者言うように論理的な解でもある。

著者は言う、ノモンハンで日本は苦い経験をした。ゆえに北進ではなく南進を選んだと。知らなかったが、独ソの戦争でドイツの快進撃が続くなか、日本でソ連との開戦を検討していたことがあり、松岡外相は日ソ中立条約をまとめた人物だが、条約を破棄しドイツと共にソ連を攻撃することを提案する。それを反対したのが東条英機で、とうじ日本軍ではドイツの快進撃が弱まり、どうも雲行きが怪しい状況にあり、しかも中部戦線のソ連軍を指揮しているのがジューコフであることを知っていたため、というのだ。
ノモンハン事件の責任者が太平洋戦争の開戦論者だった。服部卓四郎と辻政信だ。
ゾルゲによってもたらされた、日本の対ソ戦の延期は極東ソ連軍の大移動をもたらし、1941年のモスクワ攻防戦に投入されていく。モスクワはソ連にとって最重要であり、もしモスクワを取られれば、ソ連は瓦解するとスターリンは確信していたらしい。ドイツももしモスクワだけに集中していれば、ナチスはヨーロッパを手中におさめていたという。
そういう側面からもノモンハン事件が日本にもたらした影響は、ヨーロッパ戦線にも波及していった。

本書解題で、蒋介石がノモンハン事件が日ソ全面戦争に発展することに期待していたことやブリュヘルが張鼓峰事件で粛正、さらにモンゴル共和国でのスターリン粛清について書かれている。このあたりは秦郁彦氏の著作でふれられていた。
また小松原道太郎がソ連のスパイではないかという説があるらしく、著者のゴールドマンは否定的だという。

2020/10/03

『明と暗のノモンハン戦史』 秦郁彦 PHP研究所

ノモンハン事件は、僕にとってロマンの対象で、今もそうあり続けている。草原に赤錆びた戦車の残骸が転がっている写真を見れば、そりゃファンタジーの世界に引き込まれるわけです。
いずれにせよ、このノモンハン事件がなんであったのかはよくわからない。ソ連と日本との実質的な戦争であったと言われるが、局所的ではあるし、調べてみても地味な感じは拭えない。それでも日本ではノモンハンについての書籍が多くでていて、何がそうさせているのか。
ノモンハン事件が、モンゴルと満州の国境争いで起こっていて、ハルハ河沿いで行われたのは知っている。河沿いを国境にするのか、それとも東岸にするのかで、当時ソ連でも日本でも曖昧だった。
秦先生は、国境線の論争では日本は輪に分が悪いと見ているが、正直よくわからない。
曖昧であり続ければよかったが、国境線での小競り合いはよくあることで、ノモンハンでも1939年以前から頻発して、あくまで国境警備隊のちょっとしたいざこざで終わることが大半だが、どこかで臨界点を超えてしまう。「子供のケンカに親がでる」事態に発展する。

第一次ノモンハン事件では、モンゴル軍の越境が頻発し、小松原道太郎中将は「満ソ国境紛争処理要綱」をもとに、5月11日の衝突に対して、東八百蔵捜索隊を派遣するが、この東隊は全滅する。
関東軍作戦参謀の辻政信は、驚くべきことに「ノモンハン」を知らなかったという。かなりマイナーすぎる国境線だったこともあるのだろうし、また誰もが大事件になるとまで考えていなかった様子。
第一次ノモンハンはそれほど大規模な戦闘でもなく、日本、ソ連ともに準備していたというよりも、突発的な小競り合いといった印象だ。

ソ連と日本とでは、その後の準備が異なってくる。ソ連は日本側の戦力を大幅に大きく見積もっていたにせよ、戦車、装甲車などの近代兵器を十分に用意した一方で、日本は歩兵の数だけは多く、戦車などの兵器はほとんど増強もしなかった。このあたり、日本の白兵戦信仰のなせるわざでしょうか。戦車の設計思想なんかでも、中国と戦争していた日本にとっては、戦車は中国軍が怖がる牛程度にしか考えていなかったから装甲なんか薄っぺらだったみたいですし。
そして、ここでも日本の敵への蔑視が仇となっている。ソ連兵は大したことがない、士気が著しく低いなど、なんだかねー。
板垣陸相や稲田正純参謀本部作戦課長も関東軍の暴走を止められなかった。稲田の回想では、一抹の不安があったが関東軍は中央に忠実だったように見えたらしい。どうもねー。

第二次ノモンハン事件は7月3日~5日のバインツザガン会戦から8月月末の小松原第二十三師団の壊滅と、失敗に終わった日本軍の逆攻勢までのことのよう。
ジューコフによる8月の大攻勢は、かなり周到に準備しており、それに対して日本側はほとんどなにもしていない。にしても、戦争は運も付き物で、ジューコフ、シュルテンらの思惑にうまくはまりすぎてしまったのが当時の日本軍だった。
しかし、辻と荻洲の会話が載っいるが、かなり醜悪だ。敗北となった責任で、小松原に死をもって償ってもらう話をしている。
八月攻勢後、ソ連はスターリンの厳命で国境線の守備のみをしていたが、関東軍はまだまだ戦う気だったようだ。中央と関東軍との温度差は、ひどいもので、なぜ関東軍はここまで暴走していったのか。
日本軍はハルハ山に侵攻し、奪取する。ジューコフ司令部は奪還計画を準備するが、停戦となる。国境はこの時の停止位置できまっており、現在でもモンゴルは不満のようす。

日ソ停戦協定が1939年9月15日にかわされノモンハン事件は終結する。秦先生は、
スターリンは実現寸前だったドイツを標的とする英仏ソ同盟の路線を一夜で独ソ提携に切りかえ、労せずしてポーランド、バルト三国、フィンランドなど東欧地域を支配権に収めたばかでなく、日独伊三国同盟を阻止して東西から挟撃される軍事的脅威を除去することができた。一石三鳥とも四鳥ともいえる外交的成功と評してよい(235)
と評価する。こういうところを見ると、当時の日本外交の稚拙さが見えて悲しくなる。ヨーロッパの政治情勢は長年権謀術数で出来上がっていることもあり、外交文化自体が極東アジアとはかなり異なっているからでもあるが。
この停戦協定の二日後、ソ連はポーランド侵攻を行う。このあたりもソ連の外交的勝利。というのもの第六軍新攻勢構想というの関東軍にはあり、それが発動されれば長期戦となる。すでにポーランドとフィンランドへの侵攻を予定していたスターリンにとっては早く停戦をしたいところだった。

ノモンハン事件から得られた教訓はいろいろあったにせよ、物資不足は解消できない以上、「精神威力」に頼るしかなかった。関東軍にせよ陸軍にせよ、物資が豊富にあれば、精神力に頼らなくてもよかったのだが。
クックス博士の日本軍の弱点をあげている。「兵力の逐次投入、装備改善の遅さ、夜襲への執着、非降伏主義、守勢への嫌悪、航空機による地上支援能力の低さ」とある。すでに太平洋戦争時の日本軍の駄目さがここでも要約されている。
とはいっても、ソ連側もノモンハンの教訓をきちんと見ず、その後のドイツとの戦いでは戦車を優位にせず歩兵を使った。
人間は過去から学ぶことが根本的にで難しいようで、これは受け入れるしかない。

服部卓四郎、辻政信はノモンハンの件で一時期左遷させられるが、太平洋戦争には再びノモンハンと同じ手法で戦争を行っていく。
指揮官たちは自決を強要されていく。小松原は、命令に従わなかったとして部下に責任を負わせようとしていた。軍法会議になれば自らの作戦の失態を追及されるのを恐れて、軍法会議を回避し、部下に自決を強要する。
捕虜の扱いも、ノモンハンのころには日露戦争のときとは異なっていた。秦先生は上海事変の空閑昇少佐の自決が引き金かもしれないという。捕虜であることは恥ずかしことであるみたいな。とはいいつつソ連のジューコフも捕虜の観念はさほどたがわず、残忍なかたちで帰ってきた捕虜たちに自決を選ばせたという。
年功序列人事が厳として維持されるなかで、敗北や失敗の責任を問われた上級指揮官や実力派参謀が皆無に近かったのに対し、中下級指揮官や兵士たちは飢餓死や玉砕死を強いられた(413)

2020/10/01

『満州事変から日中全面戦争へ(戦争の日本史22)』 伊香俊哉 吉川弘文館

日中戦争と国際法の関係を論じている。本書、この観点を中心に論じていればもっとよかったのだけけれど。ちょっと物足りない感じ。
当時は帝国主義の時代で、食うか食われるかだったという言説があるが、これはけっこう怪しいもので、第一次世界大戦後にすでにヨーロッパでは厭戦ムードだったし、平和のための国際協調が芽生え始めていた時代でもあった。とはいっても各国思惑もあるのでうまくいかず、というところ。
自衛権の範囲なんかも自国の都合によいように解釈されていくが、これはまあ現代と同じですね。領土を攻撃されたら自衛権は明確だけど、領土の外だった場合はどうなるのか。満州事変、イタリアのエチオピア侵攻、ドイツのズデーテン侵攻やらが集団的自衛権がうまく働かなったことなんか、まあ現代でも同じでしょうか。
当時の陸軍だけでなく政治家も、国際情勢への敏感さがなくなっていたのかな。リットン調査団の結論は、日本に相当の譲歩というか、日本にとっては目的達成だったはずなのに、それを拒否する。
すでに何のため行動をしたのか。拡大路線をとるようになっていくのは、陸軍や関東軍、政治家の驕りだろう。
本書では、立作太郎や横田喜三郎の議論が紹介されている。けっこう興味深いものなのだけど、ちょっと物足りない。
現在の視点でみると立作太郎の主張は、「御用学者」と言われるものになるが、彼の満州国容認の立論が、中国は特殊で、言っちゃえば野蛮なんだから文明国が統治するのは正当化されるだろうというもののようだ。この考えは当時において決して異端ではなかった。
しかし、まあ当時の関東軍も日本軍も何を考えていたんだろうな。何のために日中戦争をし、何のために太平洋戦争をしたんだか。

2020/09/30

『最後のソ連世代――ブレジネフからペレストロイカまで』 アレクセイ・ユルチャク/半谷史郎訳 みすず書房

非常に面白い。非常に示唆に富む内容。本書、日本の政治運動なんかにも痛いところを突いてきている。現在の政治をめぐる言説は、あまりにもコンスタティヴであり、意味を逸脱させたり、ずれが生じることを許さないものとなった。
ユーモアもなく、あるのは真面目な言説のみ。その構造は権力側と同じであり、僕ら「ふつうの人びと」はそういった空間に取り込まれるべきではないと思う今日のこの頃。
はっきりいって、日本でも「あいつら」の言っていることって、面白くない。文字通り、面白くない。

以下、まとめる、といってもかなりメモ的。
ソ連の語る時の二項対立「抑圧/抵抗」「自由/不自由」「真実/嘘」「公式文化/カウンターカルチャー」などは、意識的にソ連システムを否定的にみる見方をしている。
ソ連時代の初期は、権威的言説による発話の文字通りの意味に評価を下す存在として言説の主人(master)がおり(一九二〇年代末からスターリンがこの役割を独占した)、外部の「客観的な」規範であるマルクス=レーニン主義の真理にがっちするかどうかを決めていた。だが五〇年代末半ばに権威的言説の外部の主人が消える。この変化うぃ受け手ルフォールの逆説が覆い隠せなくなり、イデオロギー表象のあらゆる面に影響が及んだ。(32)
権威がいなくなれば、客観的な真理規範を参照できなくなるが、そこで見つけられた方法が、それまで別の人が書いた文章や発言を引用コピーすることで、それがさらに複製されていく。こうして権威的言語の形式が画一化・定型化し、汎用性も高まる。
そしてこのコピーそれ自体が目的化し、「言説ではパフォーマティヴな意味がいっそう強まり、コンスタティヴな意味は新たな予想外な解釈に開かれていく。」(33)
このずれをパフォーマティヴ・シフトと読んでいる。
どんな(近代的な)政治システムでも正統性を主張する根拠は、そのイデオロギーの外部の位置にある何らかの「明白な」真理に基づく。システムのイデオロギー言説は常にこの「真理」を参照しており、その根拠を論証することはできない。これが近代国家のイデオロギー言説がそもそも抱え込んでいる矛盾である。(47)
ソ連イデオロギーの主人のシニフィアンは、レーニン=党=共産主義であって、決してスターリンやブレジネフではない。
スターリンの個人崇拝と独裁権力は、暴力や恐怖にのみ依拠していたわけではない――そんなことがスターリンに可能だったのは、自身の正統性を、レーニンの教えの継承者、レーニンに指名された人物、レーニンの考えをよく知り理解する指導者に擬すことで得ていたからだ。(93)
あくまで「スターリン」は「レーニン」というシニフィアンに規定されるものでしかない。
ソ連で生きることは、単なる面従腹背ではなく、イデオロギーを信じながらも、それからそこそこ自由でということで、純然たる形式業務と意味のある仕事が持ちつ持たれつの関係にあった。
スヴェイー(仲間)からすれば、反ソ活動などの「異端派」は健康な人からみた病人であり、考慮から排除される存在だった。なぜなら体制が明らかに安定しているからだ。
後期ソ連社会の脱領土化がもたらした予想外の大変化の一つが、独特な社会集団の登場である。これをひとまずスヴァイーの共同体と名づけよう。イデオロギーの機構と権威的言語が支配するコンテクストでは、スヴァイーが生まれる基準は、共通の社会的出自や特定階級への基準ではなく、権威的言説の受け止め方がにているかどうかだった。してみると、スヴァイーは権威的言説の「公衆」と位置づけることができる。(166)
「スヴァイーの公衆」と名づけた共同体は、至る所で年がら年中あった公的なよびかけへの答えとして生まれたわけだが、そうした呼びかけはソ連体制の権威的言説で出来ている。(167)

こうした繰り返しが続くうちに、呼びかけにパフォーマティヴ・シフトがおこり、儀礼の硬直した形式は再生産されるのに、意味が予想もつかない形に変化していく(168) 

インナたちは、異端派の政治言説にも深入りしなかった……「私たちは異端派のことは一度も話題にしませんでした。分かりきったことを、なぜ話すんですか。あんなもの面白くありません」 最後の一言から思い浮かぶのは、お馴染みの権威的言説のパフォーマティヴ・シフトである。権威的な発話・シンボル・慣行を文字通り受けとめなくてもよかった(コンスタティヴな意味を重視されなかった)ため、インナたちをはじめ多くの人が、その意味が正しいかどうかを考えるのも時間の無駄と思っていた。形式的かつ取り込まれないように権威的シンボルを再生産し、そこから生まれた可能性を活用する方が賢いし面白いとも思っていた。そうすれば、システムの統制の目が行き届かない新たな意味を自分の存在に付け加えられた。だからこそインナとその友達は、システムの慣行や発話の文字通りの意味に取り込まれない方を選び(それが肯定的なものでも否定的なものでも)、活動家の言説も異端派の言説も黙って遠ざけた。(174-175) 

異端派の言説も権力の言説も同じ土俵でしかない。しかしインナたち「ふつうの人たち」は超越(ヴニェ)していたという。
ヴニェした面白く充実した創造的な生活を送る、それはソ連のシステムを疑うこと、真実を見極めることとは違う。
システムをヴニェ(超越)する生き方とは、あるものの存在を知っているが、それが目に入らないということで、そうすることでシステムの内にあり続けてもシンボル・法律・言語といった媒介変数に従わずにすむ。
これは、非常に強い現在の言論空間への批判と読める。過激な言葉や斬新な言葉を使って、詩的言語をつくりだすことを、多くの言論人が行っている。それに対して多くの人が冷めた目で見ている。ふつうの人は体制に批判的かどうかはどうでもよく、ふつうの人たちの広がる言説空間とは全く異なる。異端派の言説が退屈であるというのは、まさに彼らの言説が権力側の言説と同じコンスタティヴを要求するからだ。面白くないからだ。創造的ではないからだ。

バフチンのヴニェであること(外在)という概念。
バフチンは「文学テキストにおける作者と主人公との間のある特殊な関係を考察し、これを「主人公のすべての要因に対する作者の緊張感ある外在の位置、空間的・時間的・意味的な外在の位置」にある関係と定義した。(180、「ミハイル・バフチン全著作第一巻 所収「美的活動における作者と主人公」)

なぜこのような生き方が可能だったのか。それはソ連が意図せず行った文化政策に負うところが大きく、教育制度を重視し、公式文書で高級文化や集団主義や物欲にとらわれない価値の重要性を繰り返し語ったおかげだ。そして重要なのが、ソ連というシステムのなかでは基本的に最低限の生活条件を保証されており、生活への不安がほとんどなかったこも大きい。
ソ連国境開放をして現実の西側を目の当たりにしてがっかりしたというのは、よくわかる。僕が海外に行くと常に思うことだ。

ソ連のカフェ文化なんか、やっぱり面白い。多くの人がカフェに行き、そこで文化が育まれていく。文化は人が集まって醸成されるもので、いまオンラインが推奨されているけど、本当にそんなんでいいのでしょうかね。

アネクドートを「戦うのを止めたユーモア」と位置づけている。いいですねー。
アネクドートが語っているのは、やつらのこと、「ソ連体制」のことではなく、ソ連の現実そのものであり、われわれ全員もここに含まれる。アネクドートを語る主体も、それを聞いて笑っている客体(つまる、ソ連の人たちほとんど)も、システムに外部の批評家でなく、ヴニェの姿勢で接している。アネクドートは、「ふつう」主体とシステムとの現実の相互関係を示すミニモデルなのだ。ここで皮肉まじりに描かれているのは、笑っている一人ひとりが個人や集団でソ連システムの再生産に形式面で手を貸し、と同時にその意味をずらしていく様である。つまり、アネクドートの主たる任務は、「自分自身を」見ること、厳密にいえば「私たち自身を」見ることだ――もちろん見ると言っても、焦点の合わない、ぼんやりした目でアネクドートの儀礼化した不自然な形式を垣間見ることだけなので、主体が自分自身について直に言うことも、自身の行動や現実との関係に注意することもない。だから、アネクドート語りの儀礼が終わると、それまでと同じように行動することができた。(410)
だからこそ、「システムの危機を人知れず用意する最も効果的なメカニズムだったのである」。

2020/09/26

『太平洋戦争』(上・下) 児島襄 中公新書

出版が1965年~1966年。
すでにこの時代に基本的なことが情報がすべて出揃っている。現在からすると、かなりバランスの取れた記述になっている。日本軍への思い入れも当然あるが、作戦の不備や戦略の甘さを指摘しているし、アメリカ側の欠点も優秀さもきちんと書いている。
児島襄は保守の側だったので、本書の性格も当時の保守的考えを反映している。日本軍への思い入れが通奏低音になっているが、本書を読んでいればわかる通り、児島氏は太平洋戦争を肯定はしていない。そりゃそうだ。
戦争というものが、つねに不確定要素を含み、みんながみんな状況判断を間違える、そんなものなんだというのがよくわかる。太平洋戦争を戦略、戦術の側面から書かれていて、これはなかなか貴重。全体的に戦争がどのように進行していったのかの概観がわかる。

真珠湾攻撃における日本の未熟な戦争観があるという。日本海軍にとって戦う相手は軍艦であり、基地や施設は二の次だった。近代戦は総合的戦力の戦いであり、単純な戦闘の集積ではない。ハワイへの再度の攻撃をしなかったことは戦術上の誤りだった。とはいいつつも、真珠湾攻撃によってアメリカの作戦に変更が加えられた。山本五十六はアメリカの戦争準備を遅らせるためにも、行う必要があった。

シンガポール攻略においては、華僑の反抗が激しく、そして日本軍も華僑の大量処刑を行うなどした。
華僑の反抗が日本軍を刺激したのか、日本軍の偏見が華僑の抗戦意欲を燃えたたせたのか、事件の遠因近因は複雑にからみあっているが、太平洋戦争をくろくいろどる不祥事であることは変わりない。こうした日本は、初戦に置いて早くもアジア人を敵にまわし、戦争遂行に必要な原住民の協力を失った。マレー、シンガポールの華僑は、この事件(華僑処刑事件)によって、ますます反日態度を固め、シンガポール市、マレー半島における活動は、その後決してやむことはなかったのである。(上163)
バターン死の行進なんかも、いまじゃ日本のど根性魂の象徴みたいに扱われることが多いが、予期しない数万にもおよぶ捕虜の扱いをバターン半島でどう扱うかというのは、頭で考えるよりも難しい。バターン死の行進も歴史を語るうえで埋まらない溝がある。アメリカからすれば虐待だし、日本からすればアメリカもアメリカでマッカーサーは逃げるし、残された米兵や原住民をどうすりゃいいんだとなる。とはいっても本書でも指摘しているように、日本軍によるアメリカ軍捕虜への虐殺もあったようなので、暗い戦争側面を表している
バターン攻略でも、日本軍は攻撃しないで、包囲していれば自ずとマッカーサーは物資不足で投降せざるをえなかったが、日本軍は攻撃したことで、マッカーサーは英雄にもなり、宣伝にも使うことができた。

フィリピンの原住民たちは、マッカーサーの「I shall retarn」を冗談のように使っていたという話が載っている。

「軍曹どの、便所に行って参ります。でも、私は帰って参ります(アイ・シャル・リターン)。」 

「よし、オレも行く。だが、お前たち、さぼるんじゃないぜ。オレも”アイ・シャル・リターン”だからな」(上191-192)

うける。
上巻はガダルカナル島の戦いで終わる。ミッドウェイ海戦までは日本軍が連戦連勝だったが、次第に雲行きが怪しくなっていく。最後、ガダルカナル島の戦いの章の最後、上巻の最後に児島氏は「悲惨のきわみである」と締めくくっている。

下巻からはもうすでに日本軍の快進撃はない。
参謀本部の情勢判断は杜撰なものであることはわかるが、アメリカ側もたいしたことがないようで、情報を正確に得るなんてことはまず不可能であり、そしてそんな状況下で戦争を遂行するのだから、そもそも長期的な戦略なんてものがどれほど役に立たないか。
零戦の優位も1943年ごろにはあくなっており、米軍も牛革、人造ゴム、天然ゴムの三重でタンクを張り合わせ、13ミリ、20ミリの機銃弾ではジェラルミンの機体に穴をあけてもこの三重の壁を突き破れなくなっていたという。
ウェーキ島を攻略した際、英米軍の通信線を遮断させたことが勝利の鍵だったが、今度は逆にべチオ島の戦いで日本軍が遮断されてしまったウェーキ島の教訓を吟味せず、単に一つひとつの戦いの勝敗のみに気を配っていたためだ。一人ひとりの日本兵は精鋭で奮闘するが、戦争は組織と組織の戦いのため、いずれは負けることになる。
米軍はタラワ戦の教訓からトーチカの破壊方法を学んでいく。
ソロモンの戦いは悲惨だが、トラックを守るためには必要と判断されていた。にもかかわらず、そのトラック戦わずにを捨てることに判断をしたり、参謀本部の混乱というのがよくわかる。
多くの戦いが、単発的で、戦略的ではなく、場当たり的になっていく。そして戦闘機や兵をそのつど失い、消耗していく。

インパール作戦も今回はじめて地図で追いながら、ざっと時系列を知った。素人の僕にはよくわからないが、師団長のやる気のなさがこの戦いの敗北のい一因であるようだが、それだけでなくインパールを獲得した後の補給の問題やらも未解決だったようだ。いずれにせよビルマの安泰と援蒋ルートの遮断、そしてインド独立運動を激化させるために作戦がたてられたが、よくもまあ戦線をそこまで拡大するなあと素朴に思う。
米軍からみればミチナ(ミッチーナ)攻略は、中国から日本本土へのB29での空爆のための補給基地とし必要だったという。そうなのか。
インパールは現在でも秘境といっていい。マニプル州はなかなか行きにくいし、バングラデシュや中国に挟まれているし。行くには仕事をやめるしかない。
牟田口中将のジンギスカン作戦は無謀かつ夢想的作戦とされているが、じっさい険しい山のなかではそれしか道がなかったし、そうはいっても結局はこの作戦も失敗する。牟田口中将の思想は不可能を可能にすることが軍人の本務というものだから、部下がインパール作戦の無謀さを批判しても、結局は聞く耳がないわけだが、しかしどんな組織でも同様なものだろう。
日本軍の猛撃もすさまじかったようだが、結局は負ける。なんだかね。

いよいよ終盤、大西瀧治郎中将の提案で「神風隊(しんぷうたい)」が結成される。当初は局所的な臨時的な作戦で、レイテ島沖海戦での敵空母を叩くためだった。しかしレイテ島の戦いは決戦にはならずに終了する。
栗林中将の硫黄島の戦いの記述もある。ペリリュー島と硫黄島の戦いのみが、陣地確保しつつ持久戦をとる戦法をとった。他では守る側が突撃攻撃をして敗北を早めていた。こういうところでも潔さを良しとする美学が仇となっているが、はたしてこの感覚は伝統的なものなのかどうか。いずれにしても、戦争時にはあまりいいものではないが、平時では悪くない精神だとも思う。

本書はあくまで戦略、戦術の観点から太平洋戦争を描いている。
太平洋戦争を断罪したり、弁護したり、判決する前に、なによりも戦争をして戦争を語らしめることを心がけた。」(上iv)

個々の戦場ではかなり悲惨な現状があるにせよ、戦争がどのように作戦がたてられ、遂行され、戦われて、勝敗がつくのか。そこには国の文化、伝統、思想がまさにむきだし露わてくる。 

2020/09/21

『続・語録のことば 『碧巌録』と宋代の禅』 小川隆 禅文化研究所

『碧巌録』の難しさというのが、単に語っていることが難しいというだけでなく、当時の慣用句は熟語の意味を決めることから難しいようで、つまりは解釈云々以前の問題がいろいろとあるよう。このあたりは地道な研究が必要でしょう。
『碧巌録』だけではないが、禅関係の漢文というのは難しい。これは宋代の文章だからなのか、よくわからないが、訓読がいかに不自然な読み方であるかがわかる。かなり無理矢理読んでいる感が否めない。

わが通玄峰の頂上は
人の世間を超えたところ
すべては一心の生み出せしもの
見わたす限りの 青き山々

なるほどー。独りぼっちの空間を世界に広げればいいだけなんですよね。
僧、法眼に問う、「慧超、和尚にとう、如何なるか是れ仏?」
法眼云く、「汝は是れ慧超」。
この型はさまざまなところで登場するようで、これに対する解釈なんかは、唐代の即仏というのが宋代にも一般的だったようだが、圜悟は「即汝是」を真に肯ううるためには、
充分な機根の成熟過程と、一瞬の契合による決定的な悟りの体験が必要だった。そして、それをさえ得てしまえば、なるほど、いかにも玄則自身が本より仏にほかならないのであった。(133) 
全一なるものを全一のまま、無分節なものを無分節のまま、まるごと直に体認せひょ。それができれば「ひとり大空を闊歩することも夢ではない。逆にこれを情識・分別でなど理解したら、悟りなどはるか彼方の沙汰である。(152)
僧、趙州に問う、「万法は一に帰す、一は何処にか帰する?」 
州云く、「我青州に在りて、一領の布衫を作る。重きこと七斤」。

石は石、大は大、小は小と、自然がただ自然のままあるさま、人間の存在とは無関係に存在しているという考えを圜悟は批判する。

みな凡情と分別とばかりではないか。そういう凡情や分別をすべて捨て去ったら、そこで始めて看ぬくことができるのだ。そして看ぬいてみれば、やはり依然として、天は天、山は山、水は水だ、ということになるのである。(195)

圜悟は「無事」「作用即性」への批判する。本来性(0度)⇒開悟(一八〇度)⇒本来性(三六〇度)という円環的な「悟り」の論理を述べる。

 


2020/09/19

『フランス革命はなぜおこったか――革命史再考』 柴田三千雄 山川出版社

安達氏の著作とは毛色が異なる。まず16世の評価もそれほではないし、マリー=アントワネットに対してもそう。おもしろいのが、「首飾り事件」が公共圏を活性化したという指摘で、この事件自体マリー=アントワネットは無関係にもかかわらず、彼女の日ごろの行動や噂と相まって、王妃を誹謗する出版が賑わったりしたようだ。

本書の特徴としては、フランス革命を思想史事件の側面からではなく、王権と統治の構造改革の側面から論じているところ。
変革主体とは、どのようにして形成されるのか。……社会層、あるいは社会的結合関係などは、変革主体の土壌ともいうべきもので、それらのことから、変革主体が自動的に生まれるものではない。変革主体とは、社会・経済構造の矛盾のなかで異質の敵対分子として徐々に形成され一定の力をたくわえた情勢の時を待って立ち上がる、という性質のものではない。この一般的な社会傾向は、変革主体の形成を説明しない。それには、その契機となる客観的要因と現実にたいして能動的に立ち向かう主体的要因とを考えなくてはならない。(169)
この客観的、外的要因がアメリカ独立戦争やオランダとの戦争での莫大な戦費による財政問題が発端で、財政を立て直すために税制改革や法制改革を行おうとする。それがフランス革命に繋がっていく。

ルイ15世のときにモプーがおこなった司法改革や財政改革が徐々に功を奏したが、ルイ15世の死によって頓挫し、そのときにルイ16世が即位したという。これは啓蒙専制主義への展開のチャンスを逃したことを意味する。ルイ15世のときから財政改革をしようとしていたことがわかる。
テゥルゴは穀物の規制を廃止し、自由主義経済を推し進めようとしたが、不運なことに不作の年でもあったり。
ネッケルはもっと現実的な政策を行っていき、さらには会計報告書を国民に公開した。それで人気がでたらしい。しかしこういうことが反発もでるもので、フランス伝統の万人は君主に従うものだというふうに非難されたり。ネッケルは啓蒙主義的すぎたようで。
そして重要なことはテゥルゴもネッケルも世論に振り回されていたことのようだ。世論というものが形成されてきた。
そして後任のカロンヌは財政が限界であることを覚り、テゥルゴやネッケルの失敗からも学び、名士議会を開催することとした。この名士議会がフランス革命の一つの要因だという。貴族たちは自分たちの特権を失いたくないのでカロンヌの改革案を拒否するが、カロンヌは世論に訴える。しかしまだ世論は貴族たちを信用していた。むしろカロンヌこそが悪弊の根源と見なされていたという。なんとまあ。
政府側は改革をしようとするが、既得権益者や改革によって利益を得る人々などが絡み合って、改革というのは日進月歩で行われていくものなのだとわかる。革新というのは、政治の力学がわからない人たちなので、結局はロベスピエールのような人間が、美徳という名のもとで恐怖政治へとつながる。

モラル・エコノミーという概念があるのを初めて知る。穀物の価格が自由化されることで、不作の年には価格が暴騰する。ネッケルは輸入で対応するが、市民たちは高騰している価格に腹が立つわけで、それが暴動になるが、でもフランスでは暴動は頻発していたという。しかし、群衆たちは危機がすぎたあとも商人や供給者と日常的に付き合う必要があるから、妥協的な交渉をして「公正」な価格、「民衆的価格設定」を行い、さらに払い戻しもしていたという。これらの行為が、慣習的な権利であり、当局が公正な価格を保つことが義務と見なされていたから、この暴動が犯罪的な犯行ではなく、「代執行」の正当行為として考えられていたという。
なるほどー。これはなかなか面白く、イギリスのような自由主義経済のアンチで、ある種フランスで社会主義が盛んなのもこういう歴史的な様相が影響しているのかもしれない。
モラル・エコノミーは本書でも言われているように、パターナリズムだが、アンシャンレジーム下では民衆のなかには潜在的にパターナリズムを受け入れているわけだし。テゥルゴはこのモラル・エコノミーを放棄しようとしていたが、失脚後に自由化は撤廃される。
その後のバスティーユ占拠やヴェルサイユ行進(十月事件)にしろ、いろいろと偶発的なことがおこって、結果、ターニングポイントとしての事件になっている。歴史っておもしろいです。

あと蛇足だが、安達氏の『物語 フランス革命』で、ルイ16世に手術云々の記述があって、その後マリ=アントワネットは懐妊したと書かれていたが、なんのことやらわからなかったが、本書で包茎手術と明記されていた。なんだよー。

2020/09/18

『物語 フランス革命――バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』 安達正勝 中公新書

エドモンド・バーグ『フランス革命の省察』を読むにあたってのフランス革命のおさらいのために読む。コンパクトにまとまっており良かった。

当初は、革命派は王政を廃止しようとは考えておらず、立憲民主制を考えていた。しかし、ヴァレンヌ事件によって王への信頼がガタ落ちになり裁判となり死刑。このヴァレンヌ事件の首謀者はフェルセンで、『ベルばら』のフェルゼン。
ルイ16世の評価が変わってきているようで、暗愚ではなかったという。ルイ16世がギロチンの刃の形状を考案したという説を知った。そうなのか。ルイ16世が、まさに自由、平等を重んじていたからこそ、フランス革命が起きたというのは、そうだよね、としかいいようがない。ふつーなら暴動を徹底的に潰すものだし。
ルイ16世はアメリカ独立戦争の際にアメリカ側に加担する。これは反イギリスだからってのもあるが、ルイ16世の思想も影響しているようだ。フランスでは啓蒙君主の登場はルイ16世と言ってもよかったかもしれないが、時代はそうはさせなかったということだ。

ロベスピエールはやはり潔癖すぎたのでしょう。ポルポトもそうだったように、良かれと思って多くの人を粛正していく。権力欲からではなく理想のためというのが悲劇。猜疑心やらが心を蝕んでいくのでしょう。
ロベスピエールのヤバさは、「至高存在」を持ちだしてきたところで、霊魂の不滅までも言い始めてしまことだ。理性を信じた極致といっていい。キリスト教の神ではよくないからって、「至高存在」なんというものをもってくるあたりがヤバい。しかも祭典までおこなってしまっている。
本書で少し触れられているのが、ジロンド派が経済的自由を主張するがロベスピエールは生存権をもって反論する。生存権というのはある種究極の反論で、まったくもって現実的な解を提示しない愚論だが、民衆への説得力は計りしれない。
矛盾するかのような「自由による専制」だが、これは段階的な革命論で、まず絶対王政という専制を打倒し、それにともなう諸外国との戦争に勝ち抜くために非常事態体制をとり、そして真の自由を勝ち取る。
民衆はこの考えに賛同し、恐怖政治自体も民衆が望んでいたものだったという。搾取される側の反抗とは、こういう矛盾が潜んでしまう。だから穏健に改革していく必要があるのかもしれない。そうすると人は必然に保守主義になるな。

本書で際立っているのが、女性たちの活躍を強調していることだ。フランス革命では多くの女性が革命に参加し、戦争にもいった。ロラン夫人ねー、忘却の彼方にいましたが、ジロンド派の影の支配者。マレー暗殺を実行したシャルロット・コルデーなどなど。

また死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンについても書かれていて、知らなかったが彼は死刑執行するだけでなく医者でもあったという。しかも単なる町医者ではなく、王家、貴族などを診察したり、難病を治したり、貧しい人には無料で治療してあげたりと、死刑執行する贖罪の面もあったようだ。彼はルイ16世やマリーアントワネットなど知り合いを自らの手で死刑にしていくことで荒んでいったようだ。
安達氏曰く、ギロチンという処刑方法は人道的観点から導入されたが、これがかえって裏目にでて恐怖政治の出現を許してしまった面があるという。拷問や惨たらしい刑であれば、大勢の人間を粛正することはできなかっただろうと。そうだねー。これってけっこう重要な指摘かもしれない。恐怖政治を敷いても、殺すというの現代では銃だとか生物兵器だとかいろいろと大量殺戮させる方法はあるが、当時は一人ひとりをきっちり誰かが殺す必要があったわけだ。戦争とは違い、平時におけるテロリズムの質は全く異なるな。ギロチンなくして達成しえなかったテロリズムだということ。

いい復習になった。どうやら調べたら、バルザックの『サンソン回想録』というのが近いうちに出版されるよう。読んでみるか。

2020/09/16

『大分断――格差と停滞を生んだ「現状満足階級」の実像』 タイラー・コーエン 渡辺靖(解説) 池村千秋訳 NTT出版

なんか日本の状況を語っているのかと勘違いするぐらい。
現状満足階級が増えていき、イノベーションが起きにくく、流動性も低くなる。そして低成長社会へとなっていく。
人が移住をしなくなってしまったこと、転職しなくなったなどなど、まあ日本でも同じ傾向というか日本の方がひどい状況にあるような気がしていますが、どちらにせよ、この現状満足型は欧米日本の先進国では一般的傾向にある。
コーエンはそんな状況で日本をある程度うまくやっている国として、皮肉なのか、評価しているが、解説を書いている渡辺氏も言うように、だからって現状に満足していていいわけがない。僕らはけっこう政治や経済にあきらめムードがあって、もっとよい社会をつくろうとか、よくしていこうという気概が薄い。先進国では社会的な高齢化が進んで、成熟社会にいたり始めているようだ。
マッチングが僕らの生活の質を向上してくれているのは確かだし、でもそれがディストピアに見えなくもない。未来の評価というのは難しいもので、音楽に関していえば、レコードが登場した時、録音技術が音楽文化を崩壊させるという論調はふつーにあったし、チェリビダッケは音楽を体験として位置付けていたから、再生技術を嫌っていた。時が変わって、今ではCDでは本物を音ではないとか、MP3では音楽体験が希薄だとか言われ、レコード再発見がなされている。まあ僕もレコード至上主義者だけどね。
コーエン氏が言うことは、ある種の自分の生きた時代のノスタルジーではある。僕はそれを否定しないし、むしろ僕も携帯がない時代やネットフリックスがない時代を懐かしく思う。だってこれらがなかった時の方が、物や知識への執着が強いように思える。もっと活動的だったと思うんだよね。これは単なるノスタルジーでしかないと思うけども。
それに僕は地元に居続けている同級生を馬鹿にもしている。なぜ都会にでてこない、なぜ地元でぬくぬくと週末はショッピングモールに行って、ウインドウショッピングして、はたまたなんちゃってキャンプをして、そんなのが楽しいのかと。
でも、このなんとなく安定した社会は素晴らしいものでもある。不安定な時代にみんなが望んでいたことでもある。まだまだ道半ばだが、マルクスのいうように資本主義のあとは共産主義がくるのではないかと思える。そういう意味でも、このフラットな社会をコーエン氏は本能的に嫌っているのかもしれない。
コーエン氏は歴史は循環すると言うが、まあ循環するというよりも安定した社会というのは未来永劫続かないってだけでしょう。この日本も斜陽と言われながらも、安定した社会を維持してきている。かつて焼け野原になったように社会はいつだって崩壊する機会がある。
言わんとしていることはよくわかる。でもどこか呑み屋での若者への叱責にしか聞こえなくもない。

2020/09/11

『正法眼蔵入門』 頼住光子 角川ソフィア文庫

まあまあ。やはり原著にあたる方がよいかな。書いてある内容はたしかに入門でわかりやすいが、それ以上ではない。
とは言っても、『正法眼蔵』は何度か読もうと試みてきたが、一度たりとも岩波文庫の一巻目すら読み通すことができていない。激むず。
ふとしたときに道元関係の本を読んできたが、もうある程度の入門的な知識はあるのだが、やはり直接、長い時間をかけ、『正法眼蔵』と格闘せねばならないようだ。

本書は全体的に道元のエッセンスがよく書かれていると思うけど、道元の思想ばかりが書かれていて、時代背景や道元と彼以前の禅のあり方がいっさいないので逆に道元の思想がわかりにくいのではないかと思う。
道元が『正法眼蔵』でそれまでの禅の教えの何を乗り越えようとしていたのかが不明のまま。そのため全体的に一般的な「仏教思想」の内容に近いものになってしまっている。
たとえば公案の解釈の差異から道元独自の思想が浮かび上がってくるはずだ。でもそういうことをしていない。
結局、彼が永平寺で成し遂げようとしたことも中途半端な書き方なんですね。
有と時について抽象的な議論をするよりも、もっと道元の独自性に焦点を絞った方がよかった。
星二つ。
而今を「にこん」と読むが、Nikonの社名の由来だと勝手に考えていたが、どうなんだろう。でも、「この一瞬」という意味だから、カメラメーカーにぴったりなんだけど。

2020/09/10

『ニュルンベルク合流――「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源』 フィリップ・サンズ、園部哲訳 白水社

ラファエル・レムキンとハーシュ・ラウターパクトの人生を描きつつ、自身の祖父の前半生を絡めている。正直言うと、祖父の部分は蛇足な気がしないでもないが、これはこれで貴重な家族史の掘り起こし作業として素晴らしい。
国際法については疎いので、「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の違いが当初はわからなかった。
レムキンからすれば個人を対象にした「人道に対する罪」では不十分であったし、ラウターパクトからすれば集団を対象にした「ジェノサイド」はあまりに曖昧なものだった。
レムキンは、ソゴモン・テフリリアンというアルメニア青年がアルメニア人と両親を殺した報復にオスマン帝国のタラート・パシャを暗殺した事件に触発されたようで、たしかにトルコ人を裁く法がないが、それでいいのかというのは当時の多くの人が持っていた気持ちだろう。
集団の絶滅、そしてそれは文化や伝統の破壊を防ぐための新しいルールをつくりだそうとレムキンはしていた。
「ジェノサイド」は個人の保護を危うくする用語であり、ある集団と別の集団と敵対させ同族意識を煽ることを懸念していた。
しかし、レムキンからすれば個人に焦点をあてることで、その暴力がどのようなものだったのか、ある集団になぜそのような暴力が向けられたのかという誘因を見えなくなってしまうところがある。
ここでなかなか面白いことが書いてあった。個人の責任と集団の責任についてで、フランクが裁判のときに集団の責任をもちだして自分個人に責任がないことを述べようとしていたようで、そこでドイツは今後ずっとその責任から逃れられないと。それにたいして他の比較は嘲笑ったようだ。なかなか興味深いエピソードです。
個人の保護と、極悪な犯罪に個人が刑事責任負うということがこれで判例になった。しかし「ジェノサイド」は採用されず、戦前の犯罪が無視されることになったが、ニュルンベルク裁判の後、1948年に国際連合でジェノサイド条約が採択され、1998年に国際刑事裁判所ができる。
ジェノサイドという概念にはいろいろと難題があり、ジェノサイドが民族アイデンティティにもありうるし、民族の溝を深める働きもある。しかし著者は留保付けながら、人間というのは集団でいきる生き物であり、集団と集団で戦争が行われてきていることを指摘している。

蛇足
知識としては知ってはいるが、ナチスによるユダヤ人虐殺、そしてその後の世代が引き受けた歴史を改めて読むと、ヨーロッパではナチスの問題が尾を引いていて、最近も当時17歳だった強制収容所の看守が有罪判決を受けていた。現在では90歳を超えている。こういうニュースを接するともやもやする。刑事裁判が行われることは理解できるのだが。『朗読者』でも、やはりもやもやしてしまう。
このもやもやを解消するには、ナチスを賛美し、現在の上記のような告発を批判するか、人権派になって擁護するしかない。
この裁判の意義は理解はできるが、なんか考えさせられてしまう。
フランクの息子のニクラスは父が絞首刑されたあとの写真を持ち歩いている。
あとラウターパクトやフランクが『マタイ受難曲』をSPで聞いていたようだだが、当時の録音は下記ぐらい。
ハンス・ヴァイスバッハ指揮 ライプツィヒ放送交響楽団
ウィレム・メンゲルベルク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ギュンター・ラミーン指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
どれだろうか。
それとユダヤ人であるラウターパクトが『マタイ受難曲』を好んでいたというのも、そうなんだーと思うところ。
受難劇では、イエスの弟子たち個人の罪と人間の罪が描かれて、バッハは見事にこの二つを音楽に昇華している。

2020/09/02

『敗北者たち――第一次世界大戦はなぜ終わり損ねたのか 1917-1923』 ローベルト・ゲルヴァルト 小原淳訳 みすず書房

国家間の戦争が終わっても、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国の解体によってもたらされた内戦が惨たらしく、第一次世界大戦そのものに匹敵するほどの犠牲者と混乱を招いていた。
この混乱をまとめて読めることは、この著作のいいところだが、訳者による補足があまりに多いため本書の信頼性がけっこう損なわれてしまっている。それをあえて無視すれば、本書はロシア革命がいかに戦後に影響を与え、そして第二次世界大戦への道を整えていったのかがわかるし、何よりも普通だと各国史でしか学べないヨーロッパの歴史を概観できるのがいい。
ともわれ1917年のロシア革命のインパクトは相当なものだったようで、ロシア国内の内戦にとどまらず、バルト三国、オーストリア、ドイツで共産主義の風が吹き荒れていたようだ。そして共産主義革命とともにナショナリズムが盛り上がり、帝国は解体されていく。1914年の段階では誰も予想できなかった事態が起きていた。
知らない歴史が書かれている。例えばバルト三国で終戦後にボリシェビキ革命に抗するためにドイツ人たちの義勇軍が派遣され、ボリシェビキと戦争していたこと、そしてそのドイツ人がかなり野蛮であったこと、そのため助けにを求めていた現地政府が逆にドイツ義勇軍を見放していくことなどだ。すでにゲリラの様相をていしており、誰が見方で敵かわからない状況で、村人たちを虐殺したりしていたようだ。
僕はドイツ軍は武装解除されていたのだと思っていたが、周辺国では終戦とはならず、動けるドイツ軍だけが頼りという状態だった
またボリシェビキにはユダヤ人が多くいたということもあり、ボリシェビキとユダヤ人を強く連想させるイメージが出来上がり、反ボリシェビキは反セム、反ユダヤの側面ももち、白軍がユダヤ人を虐殺することは珍しくなかったという。最終的にボリシェビキは内戦に勝つが、国内経済は疲弊し、それまで築いてきた工業化や経済力は失われてしまった。そのためロシア難民が西ヨーロッパに雪崩込み、とくにドイツには多くの難民が押し寄せる。そこで白系ロシア人は新聞や出版物でソ連を批判していく。
ミュンヘン・ソヴィエト(バイエルン・レーテ共和国)が創設されるが、あっけなく崩壊する。この事件はミュンヘンを反ボリシェビキに誘っていくもので、後年のナチズムへと繋がっていく。ボリシェビキの恐怖がファシズムを招いていく。
トルコとギリシャの戦争は、イギリスの後押しもある、一種の代理戦争といってもいいぐらいだ。セーヴル条約によって、少数民族問題を穏健に解決しようとする姿勢から遠く離れ、住民交換がトルコとギリシャで行われる。これってとても悲しい歴史。アナトリアやイズミルに住む正教徒はギリシャへ、そしてルメリアのムスリムはエーゲ海を渡りトルコへ渡る。国民国家の存続は民族の均質性によって担保されることを裏付けているかのようだ。
ウィルソンの民族自決は全民族に適用されるものではなく、戦勝国にとって利益になる場合に適用されていた。そしてこの民族自決によって諸国家の民族問題がでてくる。
19世紀からオーストリア、ドイツ、ロシア、オスマンの各帝国は民族問題を抱えていたが、それは民族国家を創り出すところまではいかず、あくまで帝国内での自治権程度でおさまっていた。また第一次世界大戦が起こったときでも、オーストリア帝国の解体までを想定はしていなかったし、望んでもいなかった。それがいつのまには民族ごとに国家を創り出すという話なっていたようだ。
本書の主張は非常に明快で、それは暴力の連鎖だ。1917年のロシア革命を契機に、それまでの帝国から民族に焦点が移っていき、そして反共産主義がヨーロッパの感心ごとととなっていく。1923年はローザンヌ条約が締結された年であると同時にヒトラーのミュンヘン一揆が起きた年でもある。ムッソリーニ、ヒトラーのファシズムの源流は、著者はこの1917年から1923年にあるいう感じでしょうか。
大戦が終了したのちも、各地では戦争が継続し、失地回復主義がヨーロッパ政治ではつきまとい、ドイツ、イタリア、日本は拡張主義へと走る。

2020/08/29

『夢遊病者たち 2――第一次世界大戦はいかにして始まったか』 クリストファー・クラーク/小原淳訳 みすず書房

しかしまあ、第一世界大戦前史というのは複雑怪奇で、昨日の味方が今日の敵だったりで、よくわからない状況。とくにバルカン戦争はもうニュートン力学的な何かではなく、複雑系の様相を呈していて、まったくもって理解不能。
教科書的に出来事を記述することはできても、その背景や権謀術数が複雑に絡み合い、その結果も予想不可能で、まさに政策決定者たちは「夢遊病者」となっていた。とはいっても、政策決定者が万能なわけではないので、夢遊病に罹患せざるを得ないものだ。市民が政府の政策を批判したって、それが正しいのかどうかの判断は未来に託されているだけだ。

第5章 バルカンの混迷
正直、とっても複雑すぎる。ブルガリアがオーストリアの後押しで独立後、ロシアは戦略的には重要なブルガリアとセルビアとのあいだでどちらをとるべきか迷う。
オーストリアからすればオスマン帝国が一定程度の影響力をバルカン半島にあるほうがよかったが、第一次バルカン戦争によってすべてが崩壊する。
アルバニア問題が1912年11月ごろからでてきており、セルビアとモンテネグロはスクータリ(シュコダル)を攻撃。最終的にはセルビアは列強の言い分に折れるかたちで第二次バルカン戦争が終わる。オーストリアが19世紀後半までもっていた、東からの侵略を阻止する要の役目は、20世紀初頭にはすでに失われていた。
ポワンカレ率いるフランスはバルカン問題に対して強硬姿勢をとっていた。イタリアのリア侵攻、そしてオスマン帝国の弱体化によって、
フランスはロシアのバルカン政策を支持しているようでそうでもなくて、ロシアがバルカン半島での勢力を伸ばすことにも懸念していた。しかしロシアのバルカン半島へ深くかかわっていることで、フランスとしてもロシアと手を組まなければならなかった。もしバルカンで戦争が起こった場合、ロシアと共同でドイツを対峙する必要があった。
同盟の意義についておもしろい見解があり、
同盟は憲法と同様、せいぜいのところ政治的現実のおおよその指針でしかなかった。(446)
日本では同盟を神聖なものと捉えがちだが、じつはそれほどでもないことがわかる。日ソ不可侵条約を犯したソ連ををあーだこーだ言ったり、ナチスドイツとソ連との不可侵条約に驚いたりするのは、ヨーロッパの外交がおそらく日本人が思っている以上に流動的で、利己的であるのだろう。信義を重んじるのは、あくまでも儀礼であり、裏では何をやっているのかわからないというのがあるのかな。
でも、それだけでは人間関係は不信感しかなくなるので、このあたり微妙なバランスがあったと思われる。

第6章 最後のチャンス
イギリスとロシアの関係はかなり微妙だったよう。ペルシャ、モンゴル、チベットでは衝突しており、英露協商の継続自体が危うい状態が続いていた。ペルシャ-インド間に鉄道を敷設するロシアの計画はイギリスの不信感を買っていたし、また日露戦争の敗戦によって、軍の改革が成し遂げられ、強力になっていた。
ヴィルヘルム2世の強硬な姿勢は、ベルリンでは受け入れられず、ベートマンが抑えていたし、ヴィルヘルム2世も正気にもどれば、戦争を回避しようとしていた。モルトケの予防戦争という路線もとられることもなく、アガディール危機も騒いだのは、フランスでもドイツでもなくイギリスだったという。ドイツはイギリスとの緊張緩和に努力していた。
よく言われるドイツのオスマン帝国やイスラーム圏への投資が協商国の反ドイツをまねいたという説明は、不十分であり、確かにアンカラバグラードへの鉄道敷設は計画は、フランスとの譲歩やイギリスへの管轄権の譲渡などで1914年6月時点で「平和的」な解決が進められていた。しかもドイツのアナトリア地方、メソポタミア地方への投資額にしろ輸出入にしろ、イギリスほど大きくなく、オーストリアよりも少なかった。
ロシアにとってはドイツのオスマン帝国への関与は恐怖だった。ロシアはボスファラス海峡は長年の懸案だったこともあり、ドイツが海峡の権益に関わることは無視できなかった。

んで、もうまとめるのがかなり面倒になってきたので一括することにする。
サラエボ事件ののち、オーストリアからすればセルビアを叩かないわけにはいかなかった。オーストリアがセルビアに突き付けた最後通牒は、本書の著者はそれほど過酷なものとして評価していない。エドワード・グレイは「最も恐れるべき文書」と評したようだが、著者はNATOがセルビア=ユーゴスラヴィアに提示板最後通牒より穏当なものだという。ただし、オーストリアがこの文章を作成するうえでセルビアが受け入れることはないことを前提にしていたことは間違いないようだ。
かなり込み入った話はおそらく忘れちゃうので、大枠としてはフランスもロシアもエ国家のエゴイズムを全面にだして動いていたことがわかる。そしてフランスもロシアも国内では意見がぶつかり合って、けっして首尾一貫した政策や戦略なんかがあったわけでもない。
イギリスとロシアとの関係ですら危うい状況であった。破綻する前にサラエボ事件が起こったにすぎない。イギリスの参戦自体も既定路線とは言い難かったようだ。
そして当時の政治家は引き起こされた戦争がいかにコストが高く、報酬が見合わなかったこと、そして短気で終わる戦争あると考えていた。確かにモルトケや他の戦略家は長期戦になると予想していたにせよ、よくわからなかったというのが本当のところだろう。
本書の要点は
単独で責任を負う国家を告発したり、あるいはそれぞれが分かち持つ戦争勃発への責任に応じて諸国家を格付けする必要が本当にあるのだろうか。……責任論を中心に据えた説明が問題なのは、ある集団に間違って責任をきするかもしれないという点ではなく、責任問題の周辺に作られた説明が先入観にもとづく推測を伴う点である。(830)

2020/08/21

『ビスマルク――ドイツ帝国を築いた政治外交術』 飯田洋介 中公新書

コンパクトにまとまっていていい。今さら分厚いビスバルクの評伝を読む気力もないので、ちょうどよかった。

ビスマルクとは
1848年のパリ二月革命のインパクトでプロイセン、オーストリアでも革命が起きる。オーストリアではメッテルニヒが失脚する。ベルリンでも自由主義的な内閣が発足するなどが起こる中、ビスマルクは反動ユンカー、反革命の闘士として登場してくる。さらにユンカーであるビスマルクは農場の利益団体である「土地所有利益擁護教会」の代表になり名を馳せ、さらに保守的な機関紙を刊行したりし、「近代的な政治手段」を使うことで政治的に注文くを集めていく。
ビスマルクは保守主義者ではあるが、それを原理原則にしていたわけではなく、

きわめて現実主義的・物質主義的な発想も備えていた。だからこそ革命という非常事態に直面して、彼は議会活動、プレス活動、結社活動という近代的な政治手段を躊躇うことなく利用することができたのである。彼はこのような考えをプロイセンという国家にも適用する。彼は、「至高なる自我」というべきか、その強烈な自意識・自尊心のゆえに、神への奉仕とプロイセン国家への奉仕を同一視し、さらに自分自身をプロイセン国家と重ね合わせている。彼にとって、大国としてのプロイセンの国益を保持・拡大することは、自身の権益を保持・拡大することを意味するため、……実現するためには、正統主義や保守反動的な理念などの原理原則に固執していてはならず、唯一の健全な基盤である「国家エゴイズム」に立脚しなければならない(52)

ビスマルクのなかで「革新」と「伝統」は融合していた。
ウィーン体制によるドイツ連邦の秩序を守るために、ナショナリズムを抑え込む必要がオーストリアという多民族国家にはあった。そしてそのためにもプロイセンの協力が必要であった。しかしビスマルクはあくまでもプロイセンの利益を重んじているため、ときには「ドイツ・ナショナリズム」にも傾き、時には社会主義者ラサールや、プロイセンにとって憎いナポレオンの甥ナポレオン三世にも近づき、反オーストリアの姿勢を見せたりした。
1862年、軍制改革を首相に就任したビスマルクは、当時においては期待されてはいなかったという。色物として見られていたようだ。

三つの戦争
1864年、プロイセンとデンマークとの戦争によって、シュレースヴィヒをプロイセン、ホルンシュタインをオーストリアが管理するとで決まるが、ビスマルクは両地方をプロセインが管理することを目指しており、そんなおりにオーストリアはイタリア統一戦争で失ったロンバルディアを奪還を目指し、プロイセンに支援を求めるがビスマルクはこれを拒絶する。とはいいつつ、ビスマルクはオーストリアとの戦争は望まず、くねくねと対応していた。
普墺戦争のきっかけはシュレースヴィヒ・ホルンシュタインでの反プロイセンの集会をオーストリアが許容したことで、ビスマルクは戦争目標を「北ドイツでのプロイセンの覇権確立」ではなく「小ドイツ主義に基づく国家統合」にし、国内にある同胞オーストリアとの戦争を嫌がる世論をナショナリズムへと誘導した。ビスマルクはイタリア、フランスに戦争に介入しない事を約束させ、戦争を短期間で終わらせる。プロイセンはこの戦争の勝利で、シュレースヴィヒ・ホルンシュタインだけでなく、ハノーファー王国、ヘッセン・カッセル選帝侯国、ナッサウ公国、自由都市フランクフルトを併合する。
スペイン継承問題でナポレオン三世をだしぬき、「エムス電報」によってフランスがプロイセンに不当な要求をしている印象を世論に与え、そして1870年普仏戦争が始まる。
プロイセンは、ナポレオン三世を捕虜とし、勝利する。多額の賠償金とアルザス・ロレーヌ地方の割譲を実現させる。まだパリ包囲戦が続いているなかで、ヴェルサイユ宮殿、鏡の間でヴィルヘルム1世はドイツ帝国の皇帝を宣言する。
トリビアで、このときバイエルン王のルートヴィッヒ2世にヴィルヘルム1世が皇帝になることを支持させるために、多額の資金援助を行うが、それを元手にノイシュバンシュタイン城を建てたり、彼の理想が実現していったらしいが、バイロイト祝祭劇場なんかもそうなのかもしれない。

ドイツ帝国誕生と内政
このドイツ帝国はビスマルクの伝統的、保守的なプロイセン主義とは異なったものであり、ビスマルクが嫌った自由主義的で、ナショナリズムの産物だった。
そして、おもしろいのが、ビスマルクはドイツ帝国を中央集権的なシステムに作らなかったことで、神聖ローマ帝国の伝統を引き継ぎ、そしてバイエルン、ヴェルテンベルク、バーデン、ヘッセンの南ドイツ4邦に配慮し帝国の主権者はドイツ皇帝ではなく、22の君主国の君主と3つの都市国家の参事会が保持するかたちをとった。
帝国議会とは普通選挙でえらばれることになっているが、ビスマルクは帝国議会に大きな権限を与えなかった。最終的な立法機関でもなく、外交問題も口を出せなかった。ここで思い浮かぶのが日本の帝国議会で、山県有朋なんかも帝国議会を嫌っていたし、山県もビスマルクと同様に毀誉褒貶が多く、掴みどころがない人物で、日本史上最も人気のない幕末志士あがりの政治家だが、しかし彼が近代日本の統治機構を作り上げたわけで。。。。
ビスマルクは、帝国ナショナリズムを維持するうえで、意識的に無意識にかはわかならいが、国家の敵をつくりだしていく。カトリック、社会主義者など。
ビスマルクが宰相であった時代、ドイツは工業化が急激にすすみ、1879年には保護関税を導入が決まり、ドイツが有していた自由主義的な雰囲気は衰え、保守的になっていく。ユンカーであるビスマルクも農業への保護を実現させていく。
興味深いのが、工業化がもたらした自由主義と社会主義を弾圧してきたビスマルクは、社会保障制度を成立させたことで、疾病保険、労災保険、年金制度など。現在から見れば不十分すぎる内容だったかもしれないが、後世への影響はすごいものだ。
とここで、このような社会保障制度というのは、本書でも書かれているが、当時の連邦制だったドイツでは各邦から中央集権的と批判され、国家社会主義者とまで批判されたという。
おもしろいですね。自由主義を重んじるとは何かが当時の人はわかっていた証拠かもしれない。社会保障制度は国家の強権化を招くという、悲しい現実も知らないとだめですね。コロナの中で給付金をだせだとか、もっと補償金を充実させとだとか、たしかに必要なこともわかるが、それによってもたらされる国家の強大化を無視すべきではないですね。事実、特措法改正賛成の雰囲気が醸成されつつある。

外交戦略
ビスマルクは、ヨーロッパの真ん中に位置するドイツの地政学的弱さを克服するために、周辺国の対独警戒心を緩めていく。領土的野心はないことをアピールし、とくにオーストリア、ロシアとの協力関係を築こうとしていた。対してフランスには強硬的に接したがフランスは戦争の敗北で国内の軍制改革を行い、強化されていった。そのためビスマルクは脅威に感じ圧力をかけるが、これが逆にイギリスとロシアの干渉を呼ぶことになった。
ビスマルクは、イギリスとロシアとのあいだで繰り広げられれているオリエントでの衝突に対して、仲介役たらんとしてようで、露土戦争によってその契機を得る。ロシアはバルカン諸国をオスマン帝国から独立させ、ブルガリアはトルコの自治領としながらもロシアの影響下にしようと画策していた。これにイギリス、オーストリアは反発し、とくにイギリスはマルタにインド軍を派遣し、戦争直前までいったところをビスマルクがベルリンで会議を開き、仲介役を引き受けそれに成功する。ビスマルクはそこで一切の報酬を求めず、逆に各国から警戒もされたようだ。
しかもロシアはこの調停を不満に思い、反ドイツ感情が醸成されていく。そこでビスマルクはオーストリアとイギリスに接近する。これがロシアへの脅威となり逆にロシアからドイツへ協定を打診してきた。そして1881年ドイツ、オーストリア、ロシアの三国協定ができる。ビスマルクはすごいじゃないですか。しかもこれはロシアとオーストリアとの争いも未然に防ぎ、フランスとドイツでの戦争があった場合、オーストリア、ロシアもドイツを支持するようにできている。
さらに1882年、イタリア、オーストリア、ドイツの三国同盟を実現させ、さらにオーストリア、ルーマニア、ドイツの同盟も実現させてしまう。これでドイツの安全保障が完成した。
ビスマルクは一時的に植民地政策に乗り出す。なぜか、という説にはいくつかあるようで、一、内政問題から世論の眼をそらさせるため、二、ヨーロッパの勢力バランスを保たせるためのあえて行った、三、皇位の継承でフリードリヒ・ヴィルヘルム(長男が後のヴィルヘルム二世)の妃はビクトリア女王の長女であり、イギリスとわざと緊張関係をつくり親イギリス勢力の力をそぐため、とある。しかし、なぜビスマルクは植民地政策に乗り出したのかの理由はよくわからないようだ。
そんななか、オーストリアとロシアはバルカン半島で険悪になっていき、そしてフランスも反ドイツに変わっていき、ビスマルクの外交努力が崩壊していく。そして再びビスマルクは急場しのぎの同盟関係を築いていく。それによって出来上がたたの複雑なヨーロッパ情勢とフランスの孤立だった。
そして、第一次世界大戦への道をビスマルクの外交政策が招いたかどうかについては、いろいろと意見があるようで、ビスマルクがロシアとフランスの接近を生み出した元凶であるというのもあるし、当時のヨーロッパ情勢が複雑怪奇ななかでビスマルクがとれる道はこれしかなかったし、それでつかのまの平和をもたらしていたことも事実なのだ、という、まあ意見はさまざまなようです。

ビスマルク引退と評価
ビスマルクは引退してからの方が人気があったようで、まあこれは政治家の常でしょう。ビスマルクの回想録は爆売れし、ナショナリズムの象徴にもなった。ビスマルク自体、権力へ執着激しく、新聞だとかに政府批判をしていたという。大衆はヴィルヘルム二世に疎んじられたビスマルクに同情しちゃうし、これっていつの時代もそうなんだねとしかいいようがない。我々はつい最近のことを忘れていく。その反動ももちろんあって、首尾一貫して批判する人もいる。でも、後者にしたってただの頭でっかちだったりする。
いずれにせよ、ビスマルクは大政治家であったことはたしかであり、第一次世界大戦は彼の引退して24年で起こる。まあ24年という長さはけっこう長い。現代で24年前といえば、1996年で、まだ中国は経済大国ではなかったし、東南アジアだって今のような現代的というよりも古き良き東南アジアの匂いが充満していた時代です。
19世紀末から20世紀初頭は発展途上国だったロシアが一気に強国に上り詰めていった時代だし、もはやオスマン帝国は存在意義をなくし、バルカン半島ではナショナリズム旋風が吹き荒れる時代になっていく。

感想
僕は研究者ではないから下手なこと言えないが、第一次世界大戦への道をビスマルクが敷いたという主張にはあまりに事後説明的すぎると思う。あらゆる歴史事象はあらゆる後世の事象に繋がるように歴史を描くことは出来るが、それはいつだって恣意的なものになる。しかし、歴史は物語であることも踏まえれば、それは致し方がないことなのかもしれない。
こうみてみると、国家における戦略というのは非常に場当たり的であることがわかる。首尾一貫した戦略はなく対症療法でしかない。ただし、それは非難されるべきことではなく、むしろ立派な戦略家であることを示している。
僕らは首尾一貫した戦略や政策を支持しがちだが、国内問題でも国際問題でも、日々変転おり、そのなかで何が最善かはその都度考えることでしかない。首尾一貫していることは、とても楽なことだし、重要なのはどのレベルで首尾一貫しているかなのだろう。
つまりビスマルクはプロイセン主義と国家のエゴイズムであって、それから抽出される行動は首尾一貫している。表面上はめちゃくちゃに見えても、本質ではぶれていないということだろう。常に反オーストリアを貫くだとか、反フランスを貫くといったレベルでは対処はできなかった。
首尾一貫した思想というのは、抽象度を上げれば上げるだけ柔軟性を持たせることができるというものですね。

2020/08/01

映画『新聞記者』について

Netflixで公開されていたので見てしまった。

◾新聞記者なんて大した職業ではありません。
なんとナイーヴな映画なのでしょうか。
新聞記者なる職業は、悪を暴き、正義の鉄槌を下すものだとでも思っているだろうか。
しきりに政府がメディア戦略をしていることを、陰謀めいた感じで描いていますが、つーかよ、政府がメディアを使って情報操作しようとするなんて、あたりまえじゃないか。政府とマスメディアの癒着なんて、今始まったことじゃないだろう。
どんだけ新聞記者とかいう職業にノスタルジックな想いを乗せているのよ。
そもそもジャーナリズムの本質は大衆に情報や主張をどれだけ膾炙させていくか、つまりどうしたって大衆迎合主義であり、ポピュリズムとは切っても切れない関係で、だから各国の政府は歴史を振り返れば、マスメディアやジャーナリズムを使って世論操作をしようとしているわけです。
しかし、だからといって政府が世論をコントロールできるわけではない。大衆とはつねに扇情的でわがままで気まぐれなものだからだ。
太平洋戦争だって、日本政府はそこまでアメリカと戦争はしたくなかった、でも世論を静まらなかったわけで、それを先頭をきって音頭をとったのはマスメディアだ。
もう一度言うが、マスメディアとは本質的にポピュリズムであり、そして日本だけでなくどの国家もマスメディアを使い、そしてマスメディアは意図的に使われ、大衆を扇動してきた。

加計学園問題ってそんななに巨悪なの?
そもそも加計学園のことって、そんなに巨悪な事件なのか。他に追求しなければならない事っていっぱいあるんですけど。まあそれはいい。
加計学園問題の真実なるものは、全く描かれない。ノンフィクションではなくあくまでフィクションの立場でもあるからですが。
映画では大学設置計画を止めたかった神崎は、自殺しちゃんだけど、んでなぜ自殺してしまったのか、なぜ大学計画を阻止しなければならなかったのか、この大学設置企画にどんな巨悪が潜んでいるのか、そう、巨悪がなんと政府は生物兵化学器の研究所を設立するためだったとか何とか。おっひょー。

一つ納得がいかないというか、おそらくはこの映画を見る人たちの多くが知らないことだろうが、レベル4の実験室を日本でつくるのが難しいのは、かなり危険な研究を行うから周辺住民から反対が起こったりする。たしかに僕の近所にこんな研究室ができたら嫌ですが。
この映画でレベル4であることが、なんか生物化学兵器と結びつくように描かれているが、まったくその通りだけれど、その研究自体は否定されるべきものではない。
戦争反対でも、戦争が何であるのかを研究する必要はあるし、生物化学兵器に反対でもそれに応じた研究がなければ、国民の安全も守れないのです。
この手の映画のよくないところは、つまらない正義をかかげすぎるところかな。そして悲しいのは新聞記者というジャーナリズムを推している割には、日本でのレベル4の実験室の設立の難しさ、それによってもたらされている日本の研究の遅れなどは無視され、陰謀論へと流されてしまっている。

この映画の存在論的ダメさ
新聞記者は「真実を追求すること」という前提があるが、この映画自体が「真実」が描かれない。この映画は、あくまで一人の新聞記者が巨悪に一人闘っていく、その姿を描く。
そして悲しいのは、加計学園を匂わせておいて、生物化学兵器と結びつけてしまうという、やっていることは映画にでてくる内調といっしょじゃないですかー。
この映画の存在自体が物語っているのは、メディアが単なる大衆操作の道具であることで、決して「真実を追求する」ことではないということだ。
そういう構造に気付かないダメさ加減よ。

深刻ぶってるバカたち
とはいっても、僕がモデルである望月衣塑子氏に批判的でもあるし、そもそも新聞やテレビ報道も嫌いだし、だから見る前から批判的だったのでフェアな感想ではないけどね。
だけどさー、主人公は何もしないで、情報が入ってきて、一件落着だけど、タイトルに「新聞記者」とあるわりには、取材だとかの描写が貧弱です。
スクープが一面にのることができ校了。新聞が印刷され、各地にはトラックで運ばれ、喫茶店、コンビニ、家庭に届けられていくシーンとなる。「真実」が全国に広まるイメージだね。
ちょっと心を動かされる描写ではあるけど、翻ってみれば、結局は「真実」なんかどうでもよくて、映像によって視聴者を動かそうとしているわけです。
ジャーナリズムとはなんでしょうかね。
また不明なのが最後、杉原が呆然と憔悴しきった感じになってるけど、次は俺の番だ的ななにかでしょうか。意味深で終わる。
はっきり言って、転職すりゃ―いいじゃん。何を思い詰めてんだよ、バーカ。

総論
この程度の内容で、ヤバイ映画扱いされているって、それこそヤバいですね。メディア関係者はこの程度のクソ生ぬるいストーリーですら、政府批判のやばい内容な映画として扱い、よく作れたな―とか言ってるようじゃ、安倍政権云々以前に、お前らダメなやつらじゃん。
そして、この程度の映画が日本アカデミー賞をとってしまう闇の深さよ。
安倍政権反対を叫べば、それが正義であり、ジャーナリズムであるという錯覚。
穿った見方をしますと、日本が世界報道の自由ランキングで低い順位になればあるほど、この日本で一部のジャーナリストが英雄みたいになっていくというこの逆説よ。日本の報道はいろいろと障害あるんですよーと叫べば叫ぶほど望月さん一派は真のジャーナリストになっていくわけです。
言わせてもらえば、日本では報道の自由はかなりある。それを行使していないだけだろう。安倍政権のせいじゃないよ。
最近、「ジャーナリズム信頼回復のための6つの提言」なるものが、黒川テンピン麻雀事件をきっかけに、ジャーナリストや大学関係者(きもいな)が発起人となり、賛同者を集めているようですが、なんだかね、なんか声をあげれば賛同者は集まりますが、発起人の面子をみれば、賛同する輩の質が透けて見えますし、あと腹が立つのが署名を集めれば運動したことになったり、声をあげたことになることです。
この件でのちのち、私はあの時声をあげました的なことだけは言ってほしくない。
いつまでこんなくだらない署名活動をしているのでしょうかね。

2020/07/31

『選択の自由――自立社会への挑戦』 ミルトン・フリードマン、ローズ・フリードマン/西山千明訳

フリードマンの経済思想は有名なのでなんとなく知っていたけど、読んでみるとなかなかいい。
日本では政治や行政への不信感が強いにもかかわらず、なぜかお上が言うことを変に信じてしまう傾向がある。政府や行政が決めたことが、なぜか「信用」になっちゃうんだから、どうなっているのか。
政府が万能であればいいけどそういうわけではない。
とくに有事になれば人間の判断力では予測できない事柄が常に起こるし、コントロールなんかもできない。戦争中の政府だって、基本的に手探りで戦っていて、どの国家の政府も「きちんと」なんか対応できないもの。
日本では、東日本大震災やコロナ騒動で十二分にわかったことで、別に政府が悪いというのではなくて、単に人間なんてしょせんそんなもんだということでしょう。
有事で敵に勝つには、どれだけ失敗を抑えることができたか、で決まるという。人間の認知能力や判断能力を過信してはいけないのですね。

産業の保護という愚策
ぼくは職業柄、日本のエレクトロニクス業界なんかでも仕事してるが、経産省の多額の税金が補助金として企業にぶち込まれる。それも日本では斜陽な事業に対して日の丸産業として維持しようとして。
でも、僕が知る限りではそういうのは全て失敗している。例外なく。それでぼくの飯の種の一部ではあるが、ふざけてるなと思うわけです。
フリードマンが本書で述べているように、経産省や企業側の言い訳は、雇用を守る、技術を守る、安全保障のためといったもので、でも最終的には頓挫する。
10年ぐらい前か、SAMSUNGががんがん世界で営業をし始めたとき、日本でも政府と一丸になって日本製製品を世界売り込もうとする機運があった。SAMSUNGの強みは、韓国政府とSAMSUNGが一枚岩になって世界へ進出しているから云々と言われていた。
でもですね、日本では国の援助がほとんどない状況でエレクトロニクス製品が世界を席巻した時代があったわけで、日本企業が韓国企業に負けていくのは時代の流れなわけですよ。国と一体になってやればいいだなんて、その残骸が日本でどれほど多く散らかっているか。どれだけ国と一緒にやることで流動性もなくなり、技術革新が遅れていったか。
こういうことでも、政府が市場に参入することがいかに駄目であるかがわかる。

関税の撤廃
いつの時代もそうなのかあと思う。関税が必要かどうかってのは結構難しい問題のようだけど、実のところは
どのグループも利己的な利益をむき出しに主張したりはしない。どのグループも例外なしに「公衆の利益」のためといったことや、国家の安全保障を促進するためにとか、雇用を意志しなければならないからといったことを表向には掲げる(66)
ああーそのとおりだ。ここでも産業を保護する名目で使われる言い訳と一緒だ。
米や乳製品の関税が日本は高い。いかがなものかと思う。結局これも産業を守るのではなく、単に利権を作っているにすぎない。
外国産の食品が日本に大量に入ってくれば、さらに日本の食文化は豊かになると思うのだけどね。関税が消費者の利益を損ねているのは明白です。
小野善康さんなんかは、関税を撤廃してそれで損害を被る業界には現実的な対応策として補助金をだす、という。これもありですね。

社会保障は倫理的か
社会保障についてはフリードマンはほとんどを否定する。おもしろいことに、社会保障制度が人間の倫理にも影響することを述べていることで、実際のところ日本では社会福祉は政府がやるものだという意識が強くって、保障されても、まだ足りない、もっとよこせ、という結果になってしまっている。
本書で提案されている「負の所得税」は、ベーシックインカムよりもいい制度だと思うし、ベーシックインカムの考えとも矛盾はしない。
求められる平等とは何なのか。それは「機会の平等」であるべき。「機会の平等」とは、「能力に応じて開かれている人生」というもの。ただ「結果の平等」が声高に叫ばれる。
誰が「公平」を決定するのか。生産物でそれが決定されないとするならば、何で決まるのか。こういう状況で職業の選択にどんな意味があるのか。
誰をどの職業につけるか、誰かがそれをやれば、それは脅迫でしかない。
「公平な分け前」という理念の先駆でもある「すべての人にその必要に応じて」という理念と「人格的自由」の理念との間には基本的に矛盾がある(217)
個人の決定に対して政府の介入が増えることを許容すれば、個人の自由は侵害され、責任もとれなくなる。家が洪水にあってそこに補償することは、その人が自己の責任においてその土地を選び、家を建てた自由と責任を侵害することになる。
フリードマンの指摘で示唆的だったのが、「平等」を求めている社会では犯罪率が高くなるというもので、というのも誰しもが個人の倫理意識が低くなり、法が軽んじられるようになる。また社会も低迷する。結果が同じならば何もしないにこしたことはない。

他人が他人のために使う
社会保障を自由という観点からとらえ直すべき。
上位90%が底辺の10%のために課税を投票でももって受け入れることと、上位10%に課税して底辺10%を助けることを80%の人が投票で決めることは、「自由」という信念からは支持できない。他人のために他人の金を使うことは、「自由」を侵害している。
まず隗より始めよ。
他人の金から徴収することをする前に、自らの所得と周りの水準を考えて、水準以上のものは誰かに自ら分配にまわせばいい。もしそんなことしても大海の一滴でしかないと考えるならば、それは他人から徴収しても各人の分担金も大海の一滴にすぎない。それに自らの選択でどこに寄付するかを決めるほうが価値があるだろう。
自発的に行うのと強制的に行うのでは、社会の構造が異なり、そして各個人の倫理も異なる。
なるへそ。
ぼくはリベラリストだけど、「リベラル」ではない。ぼくがいつも「リベラル」に感じる違和感の一つがこのあたりで、彼らは概して政府に何かしらの補償や援助を求めがちだが、でもなぜ個人レベルでそれをやらないのかが不思議だ。
確かに個人の寄付だなんて雀の涙かもしれないが、やるべきだとつねづね思っている。んで、ぼくの知っているある程度所得水準の高いインテリリベラルは、誰も寄付をポケットマネーからはしない。
大学教授より所得がぜんぜん低いぼくですら、たいした金額ではないが寄付や援助をしているというのにだ‼ ふざけたやろうだよ。

政府の非効率性と権威
行政が引き起こす悪影響は、担当している役人が悪いわけではない。一人ひとりの役人は有能であり献身的であるが、社会的、政治的、経済的圧力が省庁の運営を及ぼす。だからよく言われる役人悪人説や役人個人への非難はあまり意味がない。
問題は「制度」にある。
「市場の失敗」は起こるが、それを改善できるのが政府であると考えるのは誤っている。被害や利益の評価をなぜ政府が正当にできると思えるのか。
深刻な害を及ぼす、予期しなかった副作用を起こす薬を認可を与える場合、多くの命を救うし副作用がない薬を認可しなかった場合、前者を犯せばバッシングにあるが、後者をしても世に知られないので問題ない。認可制は政府のお墨付きを与えるため一気に広がる。もし認可制でないならばゆっくりと広がり、またその過程で副作用がわかるので、被害も少ないだろうと。
また、あらゆる職種で免許制があり、その言い分は「消費者を保護するため」というが、そんなわけがない。
商品の信頼はどこで担保されるのか。それは消費者が判断する必要はない。小売業者が個別で商品の質を判断できる。品質の保証してくれる機関でもある。

限定的な政府の役割
自由市場資本主義は、持たざる一般大衆に豊かさをもたらした。
貧弱な製品やサービスのすべては、政府や政府の統制下にある産業によって生産されたものだ(306)
例として、郵便、鉄道、学校を上げている。
高等教育の必要性は国家の利益と一緒に論じられたり、労働生産性やイノベーションなどいろいろと語られる。これらは主張は正しいが、「高等教育に対して政府が助成金を与えることを正当化するような打倒な理由はけっしてない」(285)と言う。だからクーポン券であれば、納税者も自ら学校を選択できるようになり、税金と私立学校への費用という二重の重荷を背負わなくてもすむ。
貧困者に不利だというが、貧困者だって子供によい教育を受けさせたいと考えて、より良い選択自らできればいいし、多少出費が増えてもそれを払ってでも質の高い教育を受けさせる機会を奪うべきではない。

政府の市場への介入は許すな
政府はあんまり口出ししすぎると碌なことがない。
供給過剰を起こすならば、「政府にその財貨の最低価格を設定させ、この最低価格の水準をそうでない場合に発生したに違いない価格の水準より高い水準に置くようにさせればよい」(348)
供給不足お起こすならば、「政府にその財貨に対する最高価格を立法化させ、その価格がそうでない場合に発生したであろう価格の水準よりも低い水準になるようにすればよい」(348)
多くのことで、これはまかり通っていて、労働者の賃金にもある。最低賃金だ。しかしフリードマンはこの最低賃金を批判する。
最低賃金の設定は、弱者への二重の差別であるという。雇用者は高い賃金でスキルのない労働者を雇うことはしない。だから結局、弱者に労働市場が開かれない。
そして労働者の権利を謳う労働組合たちも勘違いしている。
ほんとうのところは強い労働組合がその組合員に対して獲得する賃上げは、主として他の労働者の犠牲においてである(371)
賃上げは必然的に就業人数を減らすことになり失業率を上げることになる。

結局は、みなさん、自分の利益しか考えていないわけで、ある意味「自由」に自らの利益のために動いた結果、利権やくだらない法律、規則が生まれていく。
フリードマンが言う「自由」を守るのは非常にしんどいことであるのがわかる。



2020/07/24

『俺の妹がカリフなわけがない!』 中田考 晶文社

これを中田さんが書いている事自体が驚き。

野蛮な西洋の物質主義を粉砕しアジアを解放しなければならない。東洋の深遠な精神文明、民族と宗教の自治を認める多元的イスラーム法に基いて共存共栄王道楽土。んー甘美ですね。
愛紗がカリフを宣言して生徒たちを結婚させていくが、これがなかなかいいですね。
小津安二郎の映画なんかも、自由恋愛での結婚に反対、というかアンチテーゼを提示している。夫婦なんてお茶漬けの味だとかね。家族、夫婦というのは育むものなのです。
「結婚なんて理由はどうでもよいものです。取り敢えず手近なところで空いている者がいれば、順にくっつけていけばよいだけ」(230) 
「恋人と呼ばれる遊び相手を手に入れて《リア充》と呼ばれるこのシステム呪縛を逃れ、それより生まれた運命を受け入れるように、縁があって隣りにいる誰とでも半永続的共生関係になることを淡々と受け入れる結婚システム、人を幸せにする」(231)
衣織と田中が結婚して一緒にお弁当を食べるようになり、周りの生徒たちは、スクールカーストという呪縛から解放されていく。
ぼくらは知らず知らずに主体を見失っているわけです。フーコー的に言えば規律訓練が身に沁みていて、自己に配慮できていないわけです。
愛紗は主体を堅持しているわけで、だから
「ボッチになって、しょげている愛紗なんて、想像できるか? そもそもいきなり独りでカリフ宣言をして、自分のボッチ仮想空間を、この教室内からわざわざ15億人のイスラム教徒にまで広げた奴」(200)
となる。
JKがカリフになてもいい。なっちゃいけないなんていう常識を脱し自由になれ。でも自由ではない。限界がある。それに気づくいて諦めも悟る。
「日本人の女子高生だってカリフになれる。女子高生がカリフにならずして、何が自由だ、何が無限の可能性だ、何が夢だ?!」
ある種の極論ですが、そのためかえって現代日本の病が明確になる。

その他でもところどころでいいことが書いてある。
このコロナの中、イスラームがいかに日本の愚民どもを開眼できるか。所詮愚民だから無理だが。
「天地の主権は神に属します」
だからこそぼくらの移動は何人も妨げることは出いないのだ。


「主は仰せです。『たとえ堅個な要塞に籠もっていようとも死はお前たちを掴む』そこに居ようとも死ぬ時は来れば避けることは出来ないし、時が来なければ死ぬことはできないのですよ……」
ぼくら現代日本人はいつのまにか、くだらない死生観をもち、死を蔑みすぎている。黒澤明の『夢』は絵画的すぎて微妙なところもあるけど、「水車のある村」で笠智衆率いる村人たちが死者を音楽と踊りで見送るところは素晴らしい。嘆き悲しむではなく、喜びをもって送るのです。


「複雑性の縮減こそヒトが生きる宿命です。」
そうなのですね。ぼくらは複雑な事をあまりに無批判に受け入れすぎている。現代では情報が価値をもち、情報に遅れることに強迫観念をもたされている。そしてぼくらはせっせと新聞やテレビ、ネットをみる。答えはそこにないにもかかわらず。


「愛があっての恋人であり、なくなれば恋人ではないのです。恋人であるかないかは愛の《有》《無》による事実です。《事実的》なものである恋人同士に《抗事実的》な規範システムの一部である権利、義務は本来なじみません。でも田中君が、《恋人の権利と義務は?》という虚偽問題に、愛すること、浮気しないことと答えたように、恋人にも権利や義務があるとの漠然たる想いが社会に広く共有されているようにみえます」
無いときに《ある》という、抗事実的に《ある》と信じられること、それこそが権利と義務の本質であるという。んーいい感じ。


「虚偽による支配の権力関係、それこそ、不正な偶像崇拝の本質、スクールカーストとはそのようなものに思えます。」
にゃるほど、偶像崇拝がなぜダメなのかがよくわかる。

2020/07/23

『夢遊病者たち 1――第一次世界大戦はいかにして始まったか』 クリストファー・クラーク/小原淳訳 みすず書房

んーほとんどの登場人物に馴染みがないから、誰だよこいつとなってしまう。この手の本ならば、主要な人物の一覧を載せておくべきです。一冊が高い本なんだから、それぐらいの労はとるべきでしょう。あとないものねだりながら、年表がほしかった。
第一世界大戦については教科書的なことしか知識がないので、調べながら読んでいたら結構時間がかかるが、よい復習にもなった。
この本のいいところは、第一世界大戦までの国際情勢が学べることで、新説を学べるかというと、日本人の多くは第一次世界大戦の世界情勢に疎いはずだから、新説も何もないわけで、一九一四年のサラエボ事件がどんな理由で起こったのかも日本人は詳細を知らないから、従来の説もなにもない。つまり日本人の場合、この本から第一次世界大戦を知る場合、これがスタンダードになる。
ふつう全体的に第一次世界大戦、第二次世界大戦でドイツは常に悪者として描かれることが多いかとも思うが、それがいかに偏っていたのかがわかる。もしかしてこれは歴史修正主義なのか! 著者のクラークさんはオーストリア人だし、日本の百田尚樹的存在なのか? とまあ歴史修正主義というレッテルは、非常に使い勝手がよくて便利。気に入らない学説には「歴史修正主義!」といえば簡単だし。かつての「封建的!」という言葉みたいな。
まあそれはいい。
本書ではサラエボ事件を焦点に合わせて、外堀を埋めていく。これから下巻を読んでいくが、なかなかいい構成だと思う。混沌とした国際情勢だけでなく、各国の民族主義や帝国主義のうねり、それが収斂していく点がフェルディナント大公へのテロとなっている。そしてこれがヨーロッパの没落を招く。

主な登場人物【書きかけ。。。。】
セルビア
  • アレクサンダル1世:セルビア王。オブレノヴィッチ家。1903年6月、クーデターにより王妃ドラガとともに銃殺されて窓から投げ捨てられる。本書では窓から投げ捨てられる際はまだ生きていて欄干に手を掛けたりしたが、切り刻まれて死亡。このクーデターはベオグラードでは冷静に、満足に受け入れられたという。
  • ペータル1世:カラジョルジェヴィチ家。アレクサンダル1世が殺されて、セルビア王になる。ミルの『自由論』をセルビア語に翻訳するほどの信奉者だった。残念ながら、クーデターを起こした者たちの傀儡となる。
  • ミラン・ノヴァコヴィッチ:
  • ディミトリイェヴィッチ:「アピス」という名ももっており、アレクサンドル・オブレのヴィッチの三冊の指導者。セルビア王国軍人で民族主義者だった。すでに1903年春には「タイムズ」にもクーデターの噂を報道していよう。国王暗殺に関わった者たちは、その後の政府、宮廷で影響力をもつようになる。
  • ニコラ・バシッチ:建築技師だったバシッチは急進党の指導者として第一次世界大戦簿発までセルビア政治の強力な勢力だった。小農たちの支持基盤にもつ急進党を率いて1883年ティモク反乱を起こすが失敗しブルガリアに亡命。その後ミラン退位の際に恩赦となり、首相にもなるがミランとの確執で辞職、そしてサンクトペテルブルクに特別公使として派遣される。バシッチはロシアの後ろ盾をもってまたクーデターを企てるが、失敗し獄中へ。アレクサンドル1世は処刑しようとするが、オーストリア=ハンガリー政府から講義のため救われる。しかし、そうとは知らず暗殺計画の認めてしまい、アレクサンドル1世の暗殺まで政治から遠ざかることになる。
  • ミロヴァン・ミロヴァノヴィッチ:セルビアの外相。穏健派で過激な民族主義を抑制していた。公的な場では「ボスニア・ヘルツェゴヴィナの解放」などを叫び、「戦い」を主張している。
  • ガヴリロ・プリンツィプ:サラエボ事件を起こす。民族主義の英雄。
  • ミラン・シガノヴィッチ:フェルディナント大公のテロを手引した。
  • ボグタン・ジェライッチ:「統一か死か!」とナロード・オドブラーナに加入。オーストリアのボスニア提督に対する自殺テロをするが銃弾は全部はずれ、最後の六発目で自殺をする。死後、ヴラディミル・ガチノヴィッチの『ある英雄の死』によって英雄となる。
イギリス
  • エドワード・グレイ:曽祖父はアールグレイの名前のもととなった人物。もともと政治に興味がなかったが、ハーバート・アスキスとR・B・ホールデインとともに「レルーガスの盟約」を結び、内閣の要職を占めた。
  • ヘンリー・アスキス:1908年に首相となり、ロイド・ジョージとチャーチルとともに内政改革を行う。ドイツとの軍拡競争を行う。
  • ロイド・ジョージ:アスキス内閣の際には財務大臣。1916年、アスキス退陣後に首相になる。
  • エドワード七世:在位1901年〜1910年。
  • ジョージ五世:在位1910年〜1936年。
ロシア
  • ピョートル・ストイルピン:1906年〜1911年に首相。ゴムレイキンの後任。
  • ウラジーミル・ココツェフ:ゴムレイキン、ストイルピン内閣で財務大臣。
  • アレクサンドル・イズヴォリスキー:1906年〜1910年で外務大臣。その前には駐日大使。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合でオーストリアと争う。
  • サザーノフ:
フランス
  • ジュール・カンボン
  • ジョゼフ・カイヨー
  • テオフィル・デルカッセ
  • レイモン・ポアンカレ:1913年に首相。イギリス、ロシアと積極的に協力関係を結ぶが、ロレーヌ地方出身のためドイツに対しては不信感をもっていた。
  • アレクサンドル・ミルラン:社会主義の政治家として労働問題などの内政をやっていたが、ポワンカレの親友であったため陸相を務め、軍の統制を自由化し、わらに軍国主義的精神を広めた。
ドイツ
  • ベートマン・ホルヴェーク
  • ベルンハルト・フォン・ビューロ
  • ベルヒトルト
  • レーオ・フォン・カプリーヴィ
オーストリア
  • エーレンタール
  • ホーエンローエ
  • フリードリヒ・フォン・ホルシュタイン
  • フィリップ・ツゥ・オイレンブルク
  • ブロシュ・フォン・アーレナウ
  • ヴィルヘルム・フォン・ホーエナウ
  • アドルフ・フォン・ビーベルシュタイン
主な事件【また書きかけ。。。。。】
  • ハルデン=オイレンブルク事件
  • タンジール事件
  • アガディール事件
  • デイリー・テレグラフ事件
年表【これも書きかけ。。。。。】
1894年:露仏同盟
1904年:英仏協商
1904年2月~1905年5月:日露戦争
1905年3月:タンジール事件(第一次モロッコ事件)
1907年:ハルデン=オイレンブルク事件
1908年8月:青年トルコ革命
        ブルガリア独立
1911年7月~11月:アガディール事件(第二次モロッコ事件)
1911年9月~1912年10月:イタリア-トルコ戦争
*ローザンヌ条約:トリポリタニア・フェザーン・キレナイカをイタリアが獲得。バルカン戦争のために急遽ロシアの後ろ盾で終結させる。
1912年10月:第一次バルカン戦争(ロンドン条約)
1913年6月-8月:第二次バルカン戦争(ブカレスト条約、コンスタンティノープル条約)
1914年6月:サラエボ事件

そのほか項目【本当に全部まとめきれるのか】
  • 「統一か死か!」:「黒手組」として知られ、アピス他王殺しに関係者によって設立された。全セルビアの統一を目指す過激な民族主義思想をもっていた。
  • 急進党(セルビア):立憲主義とバルカン半島の統一
セルビアの亡霊たち
ミラン・ノヴァコヴィッチ大尉は王殺しに異議を唱え、アピスらの解任を求めるなどしたが不可解な死をとげる。ベオグラードは1914年まで情勢が不安定であった。
ロシアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合をオーストリアに進言する。オスマン帝国とロシアとの確執もあったし。それでセルビアは抗議したいけど、ロシアがつくわけがない。
バルカン戦争によってセルビアはコソヴォを含め領地を拡大する。これらの土地のセルビア統治は差別と不平等をもたらしイスラームの文化財の破壊もおこなわれた。
バルカン戦争後、セルビア政治は再び穏健派と過激派に分かれていく。アピスはフランツ・フェルディナンド大公を標的にする。フェルディナンドはスラヴ地域に自治権をする改革を支持していたが、それだとセルビアの過激派からすれば、大セルビア統一という夢は果たせなくなる。そのため過激派の真の標的は穏健派となるのは世の常。
テロの実行者は、トリフコ・グラベジェ、ネデリコ。チャブリノヴィッチ、ガヴリロ・プリンツィプだった。
この計画を手引したのが、ミラン・シガノヴィッチで、かれは黒手組であり、彼らの射撃の訓練などもおこなったという。
セルビア政府のバシッチはこの陰謀を知っていたようだが、オーストリアへの警告をしたかどうかは議論がるよう。したとすればするでバシッチも仲間だと見られかねないし、陰謀に加担していないと一貫して主張も合理的。オーストリア自身も警告を受けたことを認める可能性が低く、知っておきながらなぜ守れなかったのかと言われる。
しかし、警告はあったという証拠もあるようだが、真剣に検討された形跡がないという。
テロが行われたとして、オーストリアはセルビア政府の関係性を証明できないだろうし、オーストリアから攻撃されたロシアや同盟国からの支援も期待できた。
バシッチは、陰謀の成功を望んでいるわけではなかったが、ただそれもセルビア民族の試練とも考えてていたのかもしれないと。
おもしろいなと思うのは、陰謀を企てている場所がカフェだったという。
けっこう当時のセルビアは混迷していてなかなか興味深い。

特性のない帝国
オーストリア=ハンガリー帝国が多民族国家として第一次世界大戦まで繁栄していた。セオドア・ルーズベルトがこの帝国を参考にしようとしていたという逸話がおもしろい。
サルデーニャ軍との戦いと普墺戦争の敗北で二重帝国となっていおり、アウスグライヒによって西側のツィスライタニエンとマジャール人が支配するトランスライタニエンに分かれる。
マジャール側の支配はけっこう民族主義的な色が濃かったようで、少数民族を無視するかのような政策が行われていたという。「マジャール化」を政治、行政、教育で推奨されており、マジャール語が話せなければならないような状況だったという。
逆にツィスライタニエンでは、諸民族の権利は保証され、統治、教育、公衆衛生、福祉、法の支配、インフラなどでハプスブルク帝国の記憶が残り続け、そしてハプスブルク・コモンウェルスの価値を多くの人は認めるものだった。
当時のチェコ民族主義的歴史家のフランチシェク・パラツキーも、ハプスブルク帝国解体がチェコ人の解放ではないことを認めていて、ロシアやドイツという存在がある以上、ハプスブルク帝国の存在意義は失わない。この包容力を体現していたのが皇帝フランツ・ヨーゼフだった。
1908年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した。これについては歴史的にも意見が分かれるようで、セルビア側からすればオーストリアへの恨みが募り、だがオスマン帝国時代から続く諸制度を斬新主義と連続性で統治していくことは、当のボスニア・ヘルツェゴヴィナに住む住民からすれば悪くはない。
民族、宗教の違いがあっても相互での寛容と敬意が維持され、政治は公正さと平等が市民に適用されていた。
ロシアはこの件を指示することと引き換えに、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡の航行権の支持をオーストリアに約束させようともしたり、ロシア外相のイズヴォリスキーとオーストリア外相のエーレンタールとでこの合意があったようだが、いざ併合が告知されるとヨーロッパ外交の複雑さから、両外相ともに口をにごしたり、被害者を装ったりしていたようだ。
フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフという帝国軍の参謀総長は、常に他国との戦争を主張していたようで、著者はそれを「あらゆる他者を犠牲にして自己の安全を求めなければならない諸国家間の永久闘争という、荒涼たるホッブズ的世界観」と表現している。帝国は指導者たちはまっとうなので、みんなコンラートの要求を拒否していたようだが。
フランツ・フェルディナンドはチェコ人の貴族女性と結婚するが、これはハプスブルク家の規則では許されることではなかったようで、しかしヨーゼフは折れ、しかし生まれてくる子供には皇位継承権がないことを約束もさせた。んーなんとも複雑です。
フェルディナンド大公は、帝位についたら帝国の改革をすることを隠さず、「大オーストリア合衆国」という壮大な計画をもっていたようだ。これは時代遅れとなったアウスグライヒからの脱却で、オーストリアが立ち直る可能性があったのかもしれないという。
フェルディナント大公はなかなか有能だったようで、孤独な宮廷のなかで基盤をつくるために有能な人材を登用していったようで、その一人がアレクサンダー・ブロシュ・フォン・アーレナウで、そもそも軍事から内政や情報収集などシンクタンクとしての役割りをもつようになる。ハンガリー王国での少数民族のネットワークを作ったりもしているよう。
エーレンタールののちに外相になったのが、レオポルト・ベルヒトルトで彼はまだエーレンタールの部下だったときにロシアとの関係を修復しようとする。フェルディナント大公とともに新外相としてセルビアとの関係緩和を目指すが、バルカン戦争によるセルビアの増長やロシアとの関係悪化などがおこるが、それでもセルビアとの戦争という現実は遠いものだったという。

1905年のセルビアはブルガリアとの関税同盟がウィーンとの関係を悪化させたという。ベオグラードからすればこの同盟自体どうでもいいものだったが、セルビアの民族主義的熱狂が情勢を盲目にした。オーストリアからすればこの同盟がバルカン半島国とセルビアの「連合」の第一歩に見なしていた。


ヨーロッパの分極化 一八八七〜一九〇七
かなり当時のヨーロッパ情勢がカオスで、正直まとめることなんかでいきない。ただドイツがイギリスに非常に気を使っていたことがわかる。ビスマルクの時代にはけっして帝国主義的な政策をしなかったし、あくまでもドイツ帝国をヨーロッパのなかで確固たる地位をしめるためだけに力を注いでいた。
しかもドイツがヴィルヘルム二世のもと海軍力を増強しようとしても、イギリスとの海軍力は当時ドイツと比べてギャップが大きかった。ドイツの海軍の増強が国際関係のなかでのバランスを崩すものとして批判されることがあるらしいが、イギリスの存在自体が脅威でもあり、イギリス自体がドイツのさまざまな圧力をかけていた。だからドイツだけを悪者にするのは不当だよね。
そして「世界政策」と呼ばれる、内実がよくわからない方針も表明されるが、これ自体が第一次世大戦の原因の一つとされているが、世界政策というもの自体が大したものではなく、しかもこの政策自体が国民の結束と社会民主主義を抑え込み、産業や政治に重心をおくために行われたという。

フランスのテオフィル・デルカッセ外相は、イギリスとの協力でモロッコを獲得する。モロッコは国際条約による地位の変更が可能という合意ができていたが、フランスはドイツに相談もなくモロッコの権益を拡大してしまう。ヴィルヘルム二世はそれに対して突然のタンジール市訪問を行い、モロッコの独立を訴えたことでフランスは国際会議をせざるを得なくなる。

そしてイギリスもロシアからドイツを脅威としてみるようになる。日露戦争でのロシアの敗北によってロシアの脅威度が下がったのが大きい。イギリスとロシアの関係も英露協商によってペルシャ、アフガニスタン、チベットの問題も先送りし良好なものへとなっていた。

このようなことで、ドイツはいつのまにかビスマルクの時代とは違う状況に置かれていき、20世紀初頭にはすでに外交上の自由を失っていた。1907年以降のドイツは国際関係は不利な状況になった。
イギリスやフランスがなぜドイツを敵視するようになったのか。ドイツが他国に比べてやり方が酷かったからなのか、といえばそうではない。各国、自らの利益のためならむしろドイツよりえげつない。イギリスの場合、1890年まではフランス、日露戦争まではロシア、そしてつぎに標的になったのがドイツということで、結局そういうこと。
ドイツはたしかにヨーロッパで脅威になっていた。工業力や経済力、消費量など全ておいて20世紀に入るとイギリスと並ぶか追い抜くほどだった。いわば、そういうことだ。
日露戦争でのロシアの敗北は、ドイツにとってはさらないイギリス、フランス、ロシアの結束を高め、ドイツが孤立していく。

三国同盟、英露協商、英仏協商、露仏同盟など、教科書的に言えばドイツの包囲網として結ばれたものであり、ドイツを抑え込むためのもののように、そして第一世界大戦への伏線として語られるが、当事者たちにとっては別にドイツの孤立を狙っていたわけではない。これら一つ一つが個別の問題を含み、そして関係緩和されてもお互いの国が完全に信頼できるようになっているわけではなく、たんに一時期のデタントでしかない。
約言すれば、将来は運命づけられていなかった。一九一四年に戦争へと向かった三国協商はなおも、ほとんどの政治家たちの精神的視界の外にあった。一九〇四年〜一九〇七年の大いなる転換点は、大陸規模の戦争が実現可能となった構造の現出を説明するには役立つ。しかし、これでは戦争が起こった具体的な理由を説明できない。

喧々囂々のヨーロッパ外交
考えてみれば、第一次世界大戦までのヨーロッパはフランス以外では君主制だったというのは、なんとも日本の左翼どもも見過ごしているかもしれない。
そして、各国の君主たちは好き勝手に政治をやっていたわけではなくて、ロシアでは日露戦争の敗北で官僚に主導権がもっていかれるし、専制君主っぽいヴィルヘルム二世にしたって、内政も外交も皇帝の意に沿わせることはできなかった。
おもしろいことに、各国ともに君主制であるから普通に考えればすべての責任は王にあるはずだが、実際は複雑な行政機構となっており、権力関係を覆い隠していたという。誰が軍を統べるのか、誰が外交の主導権をもっているのか。
大陸のすべての君主国に似たりよったりの状況を確認できるーー、国王や皇帝はばらばらの指揮系統をまとめ上げる、唯一の結節点であった。もし君主が統合機能を全うできなければ、もし彼がいわば国政の不備を埋められなければ、体制は未完成のままであり、ばらばらになる可能性があった。そして、大陸諸国の君主たちはしばしばこの役割りを果たし損ね、それどころかそもそもこの役割りを演じるのを拒否した(288)
んー、かつてのどこかの国と一緒ではありませんか。
とにかく、君主を含め足の引っ張り合いやら、過剰なレトリック、派閥主義が横行していたという。

シュリーフェン計画が、なんと「戦争計画」ではなく、単なる予算獲得のためのプランだったとわ。それが開戦時にどうも本当の計画になったようで。そもそも原案自体がありえない数字の師団数で練られたものだとうい。えーー。

各国の指導者たちは、当時から報道にかなり気を配っていたようで、民衆の熱狂を煽ったり、抑え込もうとしたりしていた。当然ながら各国政府は報道機関に金を配り、都合のいい情報や報道をするように促していた。
まあさもありなん。日本の世界報道の自由ランキングが低いことが話題になるけど、ランキングの高い北欧諸国や欧米諸国の報道が、実際どれほど政府との癒着がないかなんてわからない。でも、なぜか日本では世界は自由な報道と報道機関が政府から独立した機関だというロマンティシズムに走る。困ったものだ。
とはいっても、政府が完全に報道をコントロールできたわけでもないし、またある報道があらぬ方向に向かってしまうこともあったようで、報道はあくまで政治の道具だったという。
各国、どれが官製報道なのかどうかも見極めが難しかったようだ。だからそれが影響して、各国の外交政策も混迷していってしまう。
リップマンの『世論』なんかも読んでみようかな。リップマンはこの本を1922年に出版しているし。

戦前のヨーロッパ諸国の外交を形成し運営していたのは、統一的で、一貫した目的を使命とする小規模な執行機関だったと仮定したところで、他のすべての国との関係に言及せずには二国間の関係を十分に理解できないのだとすれば、こうした関係を再構成する作業は、なおも気後れするようなものとなろう。しかし一九〇三年〜一九一四年のヨーロッパでは、現実は「国際的な」モデルが示唆するよりも複雑であった。君主の混沌に満ちた干渉、文民と軍隊の曖昧な関係、そして大臣や内閣の一体性の弱さを特徴とする体制の内部における重要政治家たちの敵対関係が、安全保障をめぐる断続的危機や緊張の高まりを背景にかつてない不安定さをもたらしていた。(366-367)

2020/07/12

『主体の解釈学 コレージュ・ド・フランス講義1981-82 ミシェル・フーコー講義集成11』を読む ④

私が言いたいのは要するに次のようなことです。権力の問題、政治権力の問題を、統治性という、もっと一般的な問題の中に置いて考え直してみましょう。……権力の諸関係の流動的で、変更可能で、逆転可能な側面に注目してみるならば、この統治性の概念は、主体という要素を、理論的にも実践的にも経由せずにはすますことができません。この場合の主体とは、自己の自己への関係として定義されるでしょう。制度としての政治権力の理論は、ふつう法的な主体の法律上の概念に基づいていますが、それにたいして統治性の分析――すなわち、逆転可能な諸関係の総体としての権力の分析――は自己の自己への関係によって決定された主体の倫理に基づかなければならないのです。……「権力」「統治性」「自己と他者たちの統治」「自己の自己への関係」、この四者は連鎖して網目のようにつながっていること、そして、これらの概念を中心にして、政治の問題と倫理の問題を連結することができなくてはならない(294−295)

主体の問題がいかなる射程をもっているのかが述べられている。主体という権力のありようが論じられていることがわかる。
残念ながら、主体の権力構造を論じていない。かなり青写真的な感じで終了。
以下、箇条書き風。まとめるのも面倒だから。

政治的なもの、カタルシス的なもの
ギリシア・ヘレニズム・ローマ時代、自己自身を救う、危険から逃れ、身体の牢獄から逃れ、世界の不純から逃れるだけでなく、都市を城塞で守るように、自身を武装し、警戒し、抵抗している自己を統御している状態。
そして救済とは主体が自分自身に行う恒常的な活動であり、自己に到達するために自己を救済すること。
プラトンにおいては、他者を救済し、都市を救済することの帰結として自己の救済があるが、後の時代になるとカタルシス的なものと政治的なものが逆転する。

友愛について
友愛とは自己への配慮に与えられた形式の一つで、自己へ配慮する人は友人を作らなくてはならない。

エピクテトスの見解
自分の娘が病気であることに心がかき乱される。そこでエピクテトスは娘の看病を他者である召使に委ねる。なぜか。娘を愛するがゆえに心が乱れるから。
エピクテトスはこの態度を批判する。家族愛は自然の要素であり道理であるが、問題は娘にのみ配慮したことであり、自己への配慮がなされていないことだ。自己に配慮すれば取り乱すことなく、娘の手当にも配慮できただろうと。

マルクス・アウレリウスの見解
職業としての主権。道徳的な構造や根本的原理はあらゆる職業で成し遂げられるものであり、それはマルクス・アウレリウスにとって自分自身であることであった。
そして彼が「自己自身に視線を向けよ」というとき、何から視線を逸らさなければならないのか。それは他者から自己へ向ける。

立ち返りと
ヘレニズム・ローマの立ち返りは、身体からの解放ではなく、自己の自己への適合。
キリスト教文化においては、悔悛であり、思考と精神(霊)の根本的な変化となる。
「立ち返る自己は、自己自身を放棄した自己です。自己自身を放棄した自己」となる。
キリスト教および修道院の文献では、「おまえの精神のなかに入ってくる可能性のあるさまざまな像、表象に注意せよ、誘惑の徴や痕跡を読み解くために、心の中に生ずる動きの一つ一つを絶えず吟味せよ、おまえの精神を訪ねるものを送りだしたのが、神なのか、魔物なのか、あるいはおまえ自身なのか、またおまえの精神を訪れる、見かけはこの上なく純粋な想念に、情欲の痕跡がひとつもないかどうか判別するよう努めよ。」(255)
ここのいはギリシア、ローマ・ヘレニズム時代とは違う
キリスト教では自己自信に帰るというのは自己の放棄する。

セネカの形式
セネカは自分自身への要求を少なくするようにいう。つまり労苦、商売、農作業などを自分に課すことで自分への要求を多くしてしまっている。
そして金銭のための労働や報いの価値から解放されること。悪徳から逃れ、自らを世界の高い位置まで上り、その瞬間、わたしたちは自然の最も奥深い秘密に分け入ることができる。
これは仮象の世界から真理へいくのではなく、主体の運動であり、神の理性の形式となっている。
世界に背を向けず、世界における自分自身を見ることを目的とする。
自然を認識することは、自分に対する視点をもつための必要条件となっている。

マルクス・アウレリウスの世界
マルクス・アウレリウスは私たちが精神に持ち、ひとつの結合すべき諸原理に関係する霊的な訓練をみている。
霊的訓練とは、定義を与えること、論理学や意味論の用語で定義するのと同時に、事物の価値を定めること。
そして定義したあと「記述」をしなければならない。それは事物の形式と諸要素の直観的な内容を細かくみること。
霊的な訓練とは定義と記述であり、精神に現れるすべてものに対して行われなければならない。
表象の流れをとらえ、この自発的で無意思的な流れに対して、意志的な注意を向けることです。この意志的な注意の機能は、この表象を客観的な内容を決定することなのです(337)
これによって時間における存在の脆弱さを把握できる。
メロディや舞踏よち強くなり、それに打ち勝とうと思うなら――それらが持つ魅惑や追従や快楽を前に、自己を支配しようと思いなら――こうした優位を保とうと思うなら、……メロディに抵抗し、自分の自由を保とうと思うなら、それらを瞬間ごとに、音ごとに、運動ごとに分解すればよい……現在という瞬間に与えられるものだけが、主体にとって実在的だということです(347)
このあたりは仏教的。フーコーは分解しても因果関係までは論じていないところからして、大乗仏教と通じている。
マルクス・アウレリウスの場合、セネカとは異なり、平面に人間の存在をおいていて、視線は存在している場所を起点としている。

「自己の自己に対する訓練としての修練」アスケーシス。
ギリシア・ヘレニズム・ローマ時代、アスケーシスは法への従属の結果ではない。修練は、自己放棄、禁止、細かい規則はあるが、法への従属への結果ではない。真理の実践である。
主体を霊的な様態化すること。
賢者と格闘家を根本的に区別することはできない。

パレーシアとは
語る技法や文通というものの意味が、時代で異なっていく。ヘレニズム時代までは鍛錬であり、他者への指導は自己にも与えれるものだったが、キリスト教において、自己について真実を語ることが主体の自分自身との関係の基本原則になった瞬間、主体と真理の関係は大きく変わり、共同体への個人の帰属のために必要な要素となった。それは告白、告解というかたちになり、それをしなければ破門となった。
パレーシアとは、弟子の沈黙の義務に対する、師の側からの応答にほかなりません(414)
それは誘惑的であってもいけず、弁論術でもない。弟子の沈黙から、弟子の主体性がみずからものにできるような言説でなければならない。
パレーシアとは反追従であり、自身の魂の真理を他者に応答、開くことである。
パレーシアは指導者の言葉に本質的な形式で、規則から自由で弁論術からも自由である。
そして指導者は言表行為の主体とみずからの行為の主体一致として現前している。「私が君に語る真理、それを君は私の中に見る」(461)
古代ギリシア・ローマ人の精神の中では、規則への従属、あるいはそもそも従属そのものは、美しい作品をなすものではないのです。美しい作品とは、ある種のフォルマ(ある種の様式、ある種の生の形式)の理念に従うものです。おそらくこうした理由によって、哲学者の「修練的なもの」において、キリスト教にあるような、人生の各瞬間あるいは一日ごとになすべき訓練の厳密なカタログのようなものはまったくみられないのでしょう(476)
かなーりおもしろい指摘。

セネカの生と統治
セネカは辛抱する身体、耐える身体、節制する身体を課し、生の様式を形成していった。それは禁止を規則づけるのではなく、たとえば少なく食べることは飢えをしのげる量をたべるという原則からである。
美しい少女への欲望をを節制する、中立的な精神を保てる境地へいたるためには、美しい少女への欲情を考えないように訓練する。
ソクラテスもアルキビアデスへの欲望を自己抑制していた。
欲望それ自体は肯定されている。欲望するがままだ。
さらにセネカは一日を振り返るとき、過去を振り返るとき、凌振の吟味を行うが、それはキリスト教的なものとは違い、技術的な過失の点検となっている。セネカは自分自身の批判をしない。過去を振り返る歳、裁判官の態度をとるが、自分を罰することはしない。ただ次は繰り返してはならないと自分自身に言うだけだ。
哲学すること、それは心構えをすることだ(543)
ビオスとテクネー、そして『精神現象学へ』
ビオス(生)がテクネー(技術)の相関物であることをやめたとき、西洋思想特有の主観性の形式が構成される。ビオスは自己の試練の形式となってしまった。
世界はテクネーをとおして認識されるようになる。ビオスはテクネーの対象でなくなり、試練、経験、訓練の相関物となる。
ヘーゲルの『精神現象学』がいかなる書物であったか、と問いかけて終了。

2020/07/11

『いのちの初夜』 北條民雄 角川文庫

全編にわたり身体と精神について語られる。
「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。……あの人たちの「人間」はもう死んで亡んでしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は滅びるのです。死ぬのです。……けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然藾者の生活を獲得するとき、再び人間として生き復るのです。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。……あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を探し求めているからではないでしょうか」(40-41)
ここにあるのは言葉の論理だとかではなくて、
患者たちは決して言葉を聴かない。人間のひびきだけを聴く。これは意識的にそうするのではない、虐げられ、辱められた過去において体得した本能的な嗅覚がそうさせるのだ。(127)
登場人物たちは、みな死を望んでいる。自殺をしたり、死にきれなかったり。
肉体が亡んでいく中で、健全な精神をもって生きることとは何か。
肉体と精神の関係を切り離そうと試みるが、どうもうまくいかない葛藤があって、癩病になったからそう考えるのか、それともそもそも人間というのはそういうものなのか。

いま身体と精神との関係というのは、哲学だけでなく医学や心理学などでもよく言及されている。
しかし癩病者にとっては、それは現実的に拒否すべき問題であり、克服し新しい哲学を構築しなければならないことになる。それは精神至上主義的なものになる。

北条民雄にとって文学は二番目だったと。まず第一番に考えることは、癩病のことであり、死であり、苦痛であると。
文学でもあり、一つのルポでもある。
『癩家族』は、なんとも言い難い。父親は自身が癩病だと知っていて結婚して子供をつくってその子供が皆癩病を発症する。
「わたしは、の、佐さあん、お前のお父さんにだまされて、それで一緒になったのだよ。あの人は、わたしと一緒になる前から病気だったのだに、わたしはだまされて――」
「お母さんは、なんで僕にそんなこと教えるんです!」
 ラストは印象的で、一番下の弟が収容病院にきたとき、父と姉に会う。
彼は初めて姉に気付いたように、はっとした表情であった。そして微笑を浮かべようとしたらしかったが、それは途中で硬直したようにただ顔が歪んだだけだった。これが姉だったのか、と佐太郎は思ったに違いないとふゆ子は、自分の眉毛のない顔を思い、つと一歩後ずさった胸の中でじいんと何かが鳴るような思いだった。
『望郷歌』でも、癩患者の家族の苦悩が描かれる。孫を殺そうとした祖父。ばばさんから教えてもらった歌を太市が歌い、もうどこにも帰るところがない、もう病院しか居場所がない。誰も悪いわけではないけど、みんな自分を責めていく。
『吹雪の産声』は、連綿と続く生命が描かれている。癩病院では患者たちが歓喜し、生命を尊ぶ。

2020/07/07

Fauré, ELEGIE, Quintette pour piano et cordes no 2, Tyssens-Valentin, le quatuor de la R. T. F., CHARLIN, CL11, STEREO/フォーレ、エレジー、ピアノ五重奏曲第二番、ティッサン=ヴァランタン、フランス国営放送四重奏団



Gabriel Urbain Fauré
ELEGIE
Quintette pour piano et cordes no 2
Tyssens-Valentin, piano
le quatuor de la R. T. F.
Jacques Dumont, violin
Louis Perlemuter, violin
Carles Marc, alto
Robert Salles, cello
CHARLIN, CL11, STEREO

このレコード、録音が素晴らしい。申し分ない。
「エレジー」は初めて聞くけど、フォーレらしい曲で。ただ、いかんせん小曲でもあるし。

んでメインのピアノ五重奏曲第2番も素晴らしいとしか言いようがない。
なんでしょうね。フォーレの曲は「静謐」という言葉だけでは語れず、熱量の大きい音楽を作曲していることは確かです。
単純に静かに流れるような曲なんて世の中にいっぱいあるが、フォーレは語ることのできないものを作曲してくれている感じがよくでている。
文学は語れない何かを語るのが文学であるし、音楽も語れない何かを語るのが音楽でもある。
だからショパンの曲というのは、どこか単純に聴こえてしまう。ショパンは語れるものをピアノで語ってしまっている感じがするからだ。
それはベートーヴェンの交響曲なんかもそうで、だからって悪いわけではないが、人間とは複雑な生き物でもあり、愛だとか恋だとか怒りをそのまま表現されても、感情に多くの要素が詰まっていて、そうそう表現できるものではない。
多くの作曲家は単純にしすぎているわけです。でもそれがウケるのも事実だし、それはそれでいい。
ベートーヴェンは後期になればなるほど音楽性がよくなっていき、音楽で音楽を語ることをしていく。つまり抽象度が高くなり、まさに単純さから抜け出していく。
フォーレはまさに音楽で音楽を語る人だったと思われ、「芸術」という言葉自体が近代の発明ではあるが、その体現者がフォーレといってもいい。
バッハのような「技術」ではなく、ショパンのような「単純なロマンティシズム」ではなく、「感性」に訴えかけてくる音楽を作り続けてたと思う。

ピアノ五重奏曲第2番を語ろうとしても語れないわけです。美しいとかしか言えないわけです。フォーレを語ろうとすると常に陳腐な言葉を並べざるを得ない。
この曲が作曲された1919年から1921年というのは、第一次世界大戦が終わり荒廃した状況で、「ヨーロッパの危機」でもあって、フッサールの「生活世界」が喪失していく時代でもあるわけです。
ベルクソンも同時期の人だし、ベルクソンの思想と直接的にフォーレと関係していると思えないが、同時代を生きた両人に共通するのは「意識と時間」の把握の仕方で、持続と緊張が折り重なりあう実存が表現されている。

演奏はティッサン=ヴァランタンと国営放送の四重奏団。
まあつらつらとジャンケレヴィッチ的に書いたけど、いい曲だよ。文句ない。

2020/07/06

『主体の解釈学 コレージュ・ド・フランス講義1981-82 ミシェル・フーコー講義集成11』を読む ③

興味深いことに、ここで「自己への配慮」の変化について、かなり慎重に検討している。
「帝国が成立するこの事故に、なにか急激な、突然の出来事が生じて、その結果自己への配慮が急に、一挙に新しいかたりをとるようになった、ということではありません。」
『言葉と物』などでは、「断絶」があり、エピステーメの突然変異を主張していたが、フーコーもまるくなったということでしょうか。
「主体の系譜学」を読み解いていく。非常に興味深い。
基本的に、ここからは現代批判だとかの要素はなく、あくまで歴史家フーコーとして文献を読み解いていく。

ヘレニズム、キリスト教普及の時代。
この時代、自己に配慮することは無条件の原則となり至上命令となる。そして他者の統治とは関係がなくなる。ギリシアでは自己への配慮は、自己と同時に都市への配慮と関係していたが、それが変わってきている。
自己への配慮が単なる認識の活動から自己の実践が問題になっていく。それは生の技法、生存の技法へひろがっていく。
ソクラテスは自己への配慮を青年期の終わりから教えていくことを語っているが、プラトン以後自己への配慮は生涯続けていく恒久的な義務になる。(エピクロスやセネカなどストア派)
ルキアノス『哲学者の売り立て』というテクストでは、壮年期の終わりに自己への配慮の中心を移している。自己への配慮が成人活動にたいする批判要素を含み、矯正の役割がでてくる。そして他者の生活への批判へになっていく。
「いったん固まってしまったとしても、自らを訓練しなおし、矯正し、あるべき姿、しかし一度もそうであったことのなかった姿になることができるようにするための手段」が自己への実践となる。

医術と哲学
医術と哲学の概念の枠組みの同一性がみられる。
ギリシア語のテラぺウエインtherapeueinとは、治療、命令に従事する、そして礼拝を行うことを意味する。
アレクサンドレイアのフィロン『観想的生活について』。
「治療者(テラペウタイ派)」とは、医者は身体と同時に魂も手当てすると主張する。そして存在の崇拝をしているという。
哲学の学校とは何だろうか。哲学の学校、それはiatreion(施療院)である。哲学の学校をでるとき、ひとは楽しんできたのではなく、苦しんできたのでなくてはならない。なぜならあなたは健康であるという理由で、そして実際健康でありながら哲学の学校に来たわけではないからだ。

自己への配慮は自分の魂と身体に同時に配慮すること。老年であることの価値。
ギリシアでは老年であることは、たしかに尊敬の対象ではあったが望ましいものというわけではなかった。老年になることは性欲に煩わされないですむ、といったアイロニーを含む(ソフォクレス)。
セネカは人生を区分し年齢に応じて固有の生活様式をとるべきとする。そしてそれは老年にむかっていく連続的な運動の統一性をなしている。老年は生の終わりではなく、反対に生の極をなすものとして肯定する。老いるために生き、そこではじめて静けさの中、隠れ家で、自己の享受(享楽)を見出すことができる。

他者との関係
知識や技芸の領域に属することを学ぼうとするときには、つねに訓練が、つねに師が必要である……しかしながら、そうした領域(知識や学問、技芸)においては、悪い習慣がつくということはない。たんに知らないというだけのことだ」(152)
無知から知へ移行するには師が必要で、そしてそれは迷妄から抜け出すこと。師は弟子の健康を矯正していく。迷妄stultitiaとはまだ自己の世話をしていないもののこと。
その媒体者こそが哲学者であり、案内人となる。
哲学者とは自己だけでなく他者をも統治したいと思う統治者のことで、弁論術もその一種。弁論によって代謝に働きかける。

フィロデモスのパレーシア
エピクロス派では案内人がおらず、教えるものと教えられるものとの関係は強い感情的な関係、友愛の関係で行わエれていた。
パレーシアとは心を額ていること、二人のパートナーが互いに考えていることを包み隠さず、率直に話し合うことの必要をいう(160)
エピクロス派にとって、一般的に思われている師弟関係ではなかった。どちらかが優れているとかではなく、それは技術の問題となっている。指導の作業が終わると、いずれも同じ水準ものになるという。
ローマになるとそれは顧客の関係、非対称的な関係へと変化している。それは「生存の忠告者」というべきもの。
哲学者は政治的な行動をするようになる。紛争、暗殺、処刑、反乱。
そのとき、日常生活や政治活動の外部の機能が失われていき、忠告や意見と哲学者が同化していく。そして非職業化していき、哲学の厳密な意味での機能を失っていく。それは状況に応じた忠告というかたちとなり、日常の存在様式に同化していく。

2020/07/05

Beethoven, Streichquartett cis-moll op.131, Koeckert-Quartett, Deutshe Grammophon, LPM 18187, MONO/ベートーヴェン、弦楽四重奏曲第14番、ケッケルト弦楽四重奏団



Ludwig van Beethoven
Streichquartett cis-moll op.131
Rudolf Koeckert, 1 violine
Willi Buchner, 2 violine
Oskar Riedle, viola
Josef Merz, violoncello
Koeckert-Quartett
Deutshe Grammophon, LPM 18187, MONO

ケッケルト弦楽四重奏団によるベートーヴェン弦楽四重奏第14番。
んーやはりいいですね。このモノラルがたまらないですね。残念なのは、盤質があまりよくないて歪みがいっぱいでちゃってる。
全体的に、まっとうな演奏です。変な捻りや過剰な解釈はいっさいなく、ゆえに退屈だとも言えるかもしませんが、バランスがとれており、安心して聴くことのできる稀な演奏となっていると思う。
第四楽章もかなりゆるやかで、流れるような演奏というか時間が止まったようなような演奏で、いい意味で眠くなってきます。
最終楽章も模範的といってよく、落ち着いて聴いていられる。
盤質が悪いのが、ほんとうに残念。

2020/07/04

Mozart, Piano Concerto A Major K.488, C Minor K.491, Solomon Cutner, Herbert Menges, Philharmonia Orchestra, HIS MASTER'S VOICE, ALP 1316, MONO/モーツァルト、ピアノ協奏曲23番、24番、ソロモン・カットナー、ハーバート・メンゲス



Wolfgang Amadeus Mozart
Piano Concerto A Major K.488
Piano Concerto C Minor K.491
Solomon Cutner, piano
Herbert Menges, conductor
Philharmonia Orchestra
HIS MASTER'S VOICE, ALP 1316, MONO

ソロモン・カットナーによるモーツァルトピアノ協奏曲23番と24番。指揮はハーバート・メンゲス。
音質は少しよくないですが、ただですね、これがですね、とっても素晴らしい演奏となっています。
僕は23番の第二楽章ってあんまり好きじゃなかったのですが、ソロモンが弾く第二楽章は美しいです。いやーなんか理知的なんですよね。なんかピアノのうまさが滲みでてくるというか、そんな感じ。
24番は短調の曲なので、あんまり聴かないのですが、すげーいいんですね、この24番。驚くべきものです。初めて24番がいい曲だと思えた。
まず導入のオーケストラが堂々としていて聴かせてくれます。
ピアノは少し奥まって曇った感じで録音されてしまっているが、それでも流れるような半音階のスケールがオーケストラとうまく絡み合ってます。
23番も24番も第二楽章のような緩やかな曲調のとき、ソロモンのピアノが光る。
肩の力が抜けていて、妙に冷静な感じを受ける。