2020/07/23

『夢遊病者たち 1――第一次世界大戦はいかにして始まったか』 クリストファー・クラーク/小原淳訳 みすず書房

んーほとんどの登場人物に馴染みがないから、誰だよこいつとなってしまう。この手の本ならば、主要な人物の一覧を載せておくべきです。一冊が高い本なんだから、それぐらいの労はとるべきでしょう。あとないものねだりながら、年表がほしかった。
第一世界大戦については教科書的なことしか知識がないので、調べながら読んでいたら結構時間がかかるが、よい復習にもなった。
この本のいいところは、第一世界大戦までの国際情勢が学べることで、新説を学べるかというと、日本人の多くは第一次世界大戦の世界情勢に疎いはずだから、新説も何もないわけで、一九一四年のサラエボ事件がどんな理由で起こったのかも日本人は詳細を知らないから、従来の説もなにもない。つまり日本人の場合、この本から第一次世界大戦を知る場合、これがスタンダードになる。
ふつう全体的に第一次世界大戦、第二次世界大戦でドイツは常に悪者として描かれることが多いかとも思うが、それがいかに偏っていたのかがわかる。もしかしてこれは歴史修正主義なのか! 著者のクラークさんはオーストリア人だし、日本の百田尚樹的存在なのか? とまあ歴史修正主義というレッテルは、非常に使い勝手がよくて便利。気に入らない学説には「歴史修正主義!」といえば簡単だし。かつての「封建的!」という言葉みたいな。
まあそれはいい。
本書ではサラエボ事件を焦点に合わせて、外堀を埋めていく。これから下巻を読んでいくが、なかなかいい構成だと思う。混沌とした国際情勢だけでなく、各国の民族主義や帝国主義のうねり、それが収斂していく点がフェルディナント大公へのテロとなっている。そしてこれがヨーロッパの没落を招く。

主な登場人物【書きかけ。。。。】
セルビア
  • アレクサンダル1世:セルビア王。オブレノヴィッチ家。1903年6月、クーデターにより王妃ドラガとともに銃殺されて窓から投げ捨てられる。本書では窓から投げ捨てられる際はまだ生きていて欄干に手を掛けたりしたが、切り刻まれて死亡。このクーデターはベオグラードでは冷静に、満足に受け入れられたという。
  • ペータル1世:カラジョルジェヴィチ家。アレクサンダル1世が殺されて、セルビア王になる。ミルの『自由論』をセルビア語に翻訳するほどの信奉者だった。残念ながら、クーデターを起こした者たちの傀儡となる。
  • ミラン・ノヴァコヴィッチ:
  • ディミトリイェヴィッチ:「アピス」という名ももっており、アレクサンドル・オブレのヴィッチの三冊の指導者。セルビア王国軍人で民族主義者だった。すでに1903年春には「タイムズ」にもクーデターの噂を報道していよう。国王暗殺に関わった者たちは、その後の政府、宮廷で影響力をもつようになる。
  • ニコラ・バシッチ:建築技師だったバシッチは急進党の指導者として第一次世界大戦簿発までセルビア政治の強力な勢力だった。小農たちの支持基盤にもつ急進党を率いて1883年ティモク反乱を起こすが失敗しブルガリアに亡命。その後ミラン退位の際に恩赦となり、首相にもなるがミランとの確執で辞職、そしてサンクトペテルブルクに特別公使として派遣される。バシッチはロシアの後ろ盾をもってまたクーデターを企てるが、失敗し獄中へ。アレクサンドル1世は処刑しようとするが、オーストリア=ハンガリー政府から講義のため救われる。しかし、そうとは知らず暗殺計画の認めてしまい、アレクサンドル1世の暗殺まで政治から遠ざかることになる。
  • ミロヴァン・ミロヴァノヴィッチ:セルビアの外相。穏健派で過激な民族主義を抑制していた。公的な場では「ボスニア・ヘルツェゴヴィナの解放」などを叫び、「戦い」を主張している。
  • ガヴリロ・プリンツィプ:サラエボ事件を起こす。民族主義の英雄。
  • ミラン・シガノヴィッチ:フェルディナント大公のテロを手引した。
  • ボグタン・ジェライッチ:「統一か死か!」とナロード・オドブラーナに加入。オーストリアのボスニア提督に対する自殺テロをするが銃弾は全部はずれ、最後の六発目で自殺をする。死後、ヴラディミル・ガチノヴィッチの『ある英雄の死』によって英雄となる。
イギリス
  • エドワード・グレイ:曽祖父はアールグレイの名前のもととなった人物。もともと政治に興味がなかったが、ハーバート・アスキスとR・B・ホールデインとともに「レルーガスの盟約」を結び、内閣の要職を占めた。
  • ヘンリー・アスキス:1908年に首相となり、ロイド・ジョージとチャーチルとともに内政改革を行う。ドイツとの軍拡競争を行う。
  • ロイド・ジョージ:アスキス内閣の際には財務大臣。1916年、アスキス退陣後に首相になる。
  • エドワード七世:在位1901年〜1910年。
  • ジョージ五世:在位1910年〜1936年。
ロシア
  • ピョートル・ストイルピン:1906年〜1911年に首相。ゴムレイキンの後任。
  • ウラジーミル・ココツェフ:ゴムレイキン、ストイルピン内閣で財務大臣。
  • アレクサンドル・イズヴォリスキー:1906年〜1910年で外務大臣。その前には駐日大使。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合でオーストリアと争う。
  • サザーノフ:
フランス
  • ジュール・カンボン
  • ジョゼフ・カイヨー
  • テオフィル・デルカッセ
  • レイモン・ポアンカレ:1913年に首相。イギリス、ロシアと積極的に協力関係を結ぶが、ロレーヌ地方出身のためドイツに対しては不信感をもっていた。
  • アレクサンドル・ミルラン:社会主義の政治家として労働問題などの内政をやっていたが、ポワンカレの親友であったため陸相を務め、軍の統制を自由化し、わらに軍国主義的精神を広めた。
ドイツ
  • ベートマン・ホルヴェーク
  • ベルンハルト・フォン・ビューロ
  • ベルヒトルト
  • レーオ・フォン・カプリーヴィ
オーストリア
  • エーレンタール
  • ホーエンローエ
  • フリードリヒ・フォン・ホルシュタイン
  • フィリップ・ツゥ・オイレンブルク
  • ブロシュ・フォン・アーレナウ
  • ヴィルヘルム・フォン・ホーエナウ
  • アドルフ・フォン・ビーベルシュタイン
主な事件【また書きかけ。。。。。】
  • ハルデン=オイレンブルク事件
  • タンジール事件
  • アガディール事件
  • デイリー・テレグラフ事件
年表【これも書きかけ。。。。。】
1894年:露仏同盟
1904年:英仏協商
1904年2月~1905年5月:日露戦争
1905年3月:タンジール事件(第一次モロッコ事件)
1907年:ハルデン=オイレンブルク事件
1908年8月:青年トルコ革命
        ブルガリア独立
1911年7月~11月:アガディール事件(第二次モロッコ事件)
1911年9月~1912年10月:イタリア-トルコ戦争
*ローザンヌ条約:トリポリタニア・フェザーン・キレナイカをイタリアが獲得。バルカン戦争のために急遽ロシアの後ろ盾で終結させる。
1912年10月:第一次バルカン戦争(ロンドン条約)
1913年6月-8月:第二次バルカン戦争(ブカレスト条約、コンスタンティノープル条約)
1914年6月:サラエボ事件

そのほか項目【本当に全部まとめきれるのか】
  • 「統一か死か!」:「黒手組」として知られ、アピス他王殺しに関係者によって設立された。全セルビアの統一を目指す過激な民族主義思想をもっていた。
  • 急進党(セルビア):立憲主義とバルカン半島の統一
セルビアの亡霊たち
ミラン・ノヴァコヴィッチ大尉は王殺しに異議を唱え、アピスらの解任を求めるなどしたが不可解な死をとげる。ベオグラードは1914年まで情勢が不安定であった。
ロシアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合をオーストリアに進言する。オスマン帝国とロシアとの確執もあったし。それでセルビアは抗議したいけど、ロシアがつくわけがない。
バルカン戦争によってセルビアはコソヴォを含め領地を拡大する。これらの土地のセルビア統治は差別と不平等をもたらしイスラームの文化財の破壊もおこなわれた。
バルカン戦争後、セルビア政治は再び穏健派と過激派に分かれていく。アピスはフランツ・フェルディナンド大公を標的にする。フェルディナンドはスラヴ地域に自治権をする改革を支持していたが、それだとセルビアの過激派からすれば、大セルビア統一という夢は果たせなくなる。そのため過激派の真の標的は穏健派となるのは世の常。
テロの実行者は、トリフコ・グラベジェ、ネデリコ。チャブリノヴィッチ、ガヴリロ・プリンツィプだった。
この計画を手引したのが、ミラン・シガノヴィッチで、かれは黒手組であり、彼らの射撃の訓練などもおこなったという。
セルビア政府のバシッチはこの陰謀を知っていたようだが、オーストリアへの警告をしたかどうかは議論がるよう。したとすればするでバシッチも仲間だと見られかねないし、陰謀に加担していないと一貫して主張も合理的。オーストリア自身も警告を受けたことを認める可能性が低く、知っておきながらなぜ守れなかったのかと言われる。
しかし、警告はあったという証拠もあるようだが、真剣に検討された形跡がないという。
テロが行われたとして、オーストリアはセルビア政府の関係性を証明できないだろうし、オーストリアから攻撃されたロシアや同盟国からの支援も期待できた。
バシッチは、陰謀の成功を望んでいるわけではなかったが、ただそれもセルビア民族の試練とも考えてていたのかもしれないと。
おもしろいなと思うのは、陰謀を企てている場所がカフェだったという。
けっこう当時のセルビアは混迷していてなかなか興味深い。

特性のない帝国
オーストリア=ハンガリー帝国が多民族国家として第一次世界大戦まで繁栄していた。セオドア・ルーズベルトがこの帝国を参考にしようとしていたという逸話がおもしろい。
サルデーニャ軍との戦いと普墺戦争の敗北で二重帝国となっていおり、アウスグライヒによって西側のツィスライタニエンとマジャール人が支配するトランスライタニエンに分かれる。
マジャール側の支配はけっこう民族主義的な色が濃かったようで、少数民族を無視するかのような政策が行われていたという。「マジャール化」を政治、行政、教育で推奨されており、マジャール語が話せなければならないような状況だったという。
逆にツィスライタニエンでは、諸民族の権利は保証され、統治、教育、公衆衛生、福祉、法の支配、インフラなどでハプスブルク帝国の記憶が残り続け、そしてハプスブルク・コモンウェルスの価値を多くの人は認めるものだった。
当時のチェコ民族主義的歴史家のフランチシェク・パラツキーも、ハプスブルク帝国解体がチェコ人の解放ではないことを認めていて、ロシアやドイツという存在がある以上、ハプスブルク帝国の存在意義は失わない。この包容力を体現していたのが皇帝フランツ・ヨーゼフだった。
1908年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した。これについては歴史的にも意見が分かれるようで、セルビア側からすればオーストリアへの恨みが募り、だがオスマン帝国時代から続く諸制度を斬新主義と連続性で統治していくことは、当のボスニア・ヘルツェゴヴィナに住む住民からすれば悪くはない。
民族、宗教の違いがあっても相互での寛容と敬意が維持され、政治は公正さと平等が市民に適用されていた。
ロシアはこの件を指示することと引き換えに、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡の航行権の支持をオーストリアに約束させようともしたり、ロシア外相のイズヴォリスキーとオーストリア外相のエーレンタールとでこの合意があったようだが、いざ併合が告知されるとヨーロッパ外交の複雑さから、両外相ともに口をにごしたり、被害者を装ったりしていたようだ。
フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフという帝国軍の参謀総長は、常に他国との戦争を主張していたようで、著者はそれを「あらゆる他者を犠牲にして自己の安全を求めなければならない諸国家間の永久闘争という、荒涼たるホッブズ的世界観」と表現している。帝国は指導者たちはまっとうなので、みんなコンラートの要求を拒否していたようだが。
フランツ・フェルディナンドはチェコ人の貴族女性と結婚するが、これはハプスブルク家の規則では許されることではなかったようで、しかしヨーゼフは折れ、しかし生まれてくる子供には皇位継承権がないことを約束もさせた。んーなんとも複雑です。
フェルディナンド大公は、帝位についたら帝国の改革をすることを隠さず、「大オーストリア合衆国」という壮大な計画をもっていたようだ。これは時代遅れとなったアウスグライヒからの脱却で、オーストリアが立ち直る可能性があったのかもしれないという。
フェルディナント大公はなかなか有能だったようで、孤独な宮廷のなかで基盤をつくるために有能な人材を登用していったようで、その一人がアレクサンダー・ブロシュ・フォン・アーレナウで、そもそも軍事から内政や情報収集などシンクタンクとしての役割りをもつようになる。ハンガリー王国での少数民族のネットワークを作ったりもしているよう。
エーレンタールののちに外相になったのが、レオポルト・ベルヒトルトで彼はまだエーレンタールの部下だったときにロシアとの関係を修復しようとする。フェルディナント大公とともに新外相としてセルビアとの関係緩和を目指すが、バルカン戦争によるセルビアの増長やロシアとの関係悪化などがおこるが、それでもセルビアとの戦争という現実は遠いものだったという。

1905年のセルビアはブルガリアとの関税同盟がウィーンとの関係を悪化させたという。ベオグラードからすればこの同盟自体どうでもいいものだったが、セルビアの民族主義的熱狂が情勢を盲目にした。オーストリアからすればこの同盟がバルカン半島国とセルビアの「連合」の第一歩に見なしていた。


ヨーロッパの分極化 一八八七〜一九〇七
かなり当時のヨーロッパ情勢がカオスで、正直まとめることなんかでいきない。ただドイツがイギリスに非常に気を使っていたことがわかる。ビスマルクの時代にはけっして帝国主義的な政策をしなかったし、あくまでもドイツ帝国をヨーロッパのなかで確固たる地位をしめるためだけに力を注いでいた。
しかもドイツがヴィルヘルム二世のもと海軍力を増強しようとしても、イギリスとの海軍力は当時ドイツと比べてギャップが大きかった。ドイツの海軍の増強が国際関係のなかでのバランスを崩すものとして批判されることがあるらしいが、イギリスの存在自体が脅威でもあり、イギリス自体がドイツのさまざまな圧力をかけていた。だからドイツだけを悪者にするのは不当だよね。
そして「世界政策」と呼ばれる、内実がよくわからない方針も表明されるが、これ自体が第一次世大戦の原因の一つとされているが、世界政策というもの自体が大したものではなく、しかもこの政策自体が国民の結束と社会民主主義を抑え込み、産業や政治に重心をおくために行われたという。

フランスのテオフィル・デルカッセ外相は、イギリスとの協力でモロッコを獲得する。モロッコは国際条約による地位の変更が可能という合意ができていたが、フランスはドイツに相談もなくモロッコの権益を拡大してしまう。ヴィルヘルム二世はそれに対して突然のタンジール市訪問を行い、モロッコの独立を訴えたことでフランスは国際会議をせざるを得なくなる。

そしてイギリスもロシアからドイツを脅威としてみるようになる。日露戦争でのロシアの敗北によってロシアの脅威度が下がったのが大きい。イギリスとロシアの関係も英露協商によってペルシャ、アフガニスタン、チベットの問題も先送りし良好なものへとなっていた。

このようなことで、ドイツはいつのまにかビスマルクの時代とは違う状況に置かれていき、20世紀初頭にはすでに外交上の自由を失っていた。1907年以降のドイツは国際関係は不利な状況になった。
イギリスやフランスがなぜドイツを敵視するようになったのか。ドイツが他国に比べてやり方が酷かったからなのか、といえばそうではない。各国、自らの利益のためならむしろドイツよりえげつない。イギリスの場合、1890年まではフランス、日露戦争まではロシア、そしてつぎに標的になったのがドイツということで、結局そういうこと。
ドイツはたしかにヨーロッパで脅威になっていた。工業力や経済力、消費量など全ておいて20世紀に入るとイギリスと並ぶか追い抜くほどだった。いわば、そういうことだ。
日露戦争でのロシアの敗北は、ドイツにとってはさらないイギリス、フランス、ロシアの結束を高め、ドイツが孤立していく。

三国同盟、英露協商、英仏協商、露仏同盟など、教科書的に言えばドイツの包囲網として結ばれたものであり、ドイツを抑え込むためのもののように、そして第一世界大戦への伏線として語られるが、当事者たちにとっては別にドイツの孤立を狙っていたわけではない。これら一つ一つが個別の問題を含み、そして関係緩和されてもお互いの国が完全に信頼できるようになっているわけではなく、たんに一時期のデタントでしかない。
約言すれば、将来は運命づけられていなかった。一九一四年に戦争へと向かった三国協商はなおも、ほとんどの政治家たちの精神的視界の外にあった。一九〇四年〜一九〇七年の大いなる転換点は、大陸規模の戦争が実現可能となった構造の現出を説明するには役立つ。しかし、これでは戦争が起こった具体的な理由を説明できない。

喧々囂々のヨーロッパ外交
考えてみれば、第一次世界大戦までのヨーロッパはフランス以外では君主制だったというのは、なんとも日本の左翼どもも見過ごしているかもしれない。
そして、各国の君主たちは好き勝手に政治をやっていたわけではなくて、ロシアでは日露戦争の敗北で官僚に主導権がもっていかれるし、専制君主っぽいヴィルヘルム二世にしたって、内政も外交も皇帝の意に沿わせることはできなかった。
おもしろいことに、各国ともに君主制であるから普通に考えればすべての責任は王にあるはずだが、実際は複雑な行政機構となっており、権力関係を覆い隠していたという。誰が軍を統べるのか、誰が外交の主導権をもっているのか。
大陸のすべての君主国に似たりよったりの状況を確認できるーー、国王や皇帝はばらばらの指揮系統をまとめ上げる、唯一の結節点であった。もし君主が統合機能を全うできなければ、もし彼がいわば国政の不備を埋められなければ、体制は未完成のままであり、ばらばらになる可能性があった。そして、大陸諸国の君主たちはしばしばこの役割りを果たし損ね、それどころかそもそもこの役割りを演じるのを拒否した(288)
んー、かつてのどこかの国と一緒ではありませんか。
とにかく、君主を含め足の引っ張り合いやら、過剰なレトリック、派閥主義が横行していたという。

シュリーフェン計画が、なんと「戦争計画」ではなく、単なる予算獲得のためのプランだったとわ。それが開戦時にどうも本当の計画になったようで。そもそも原案自体がありえない数字の師団数で練られたものだとうい。えーー。

各国の指導者たちは、当時から報道にかなり気を配っていたようで、民衆の熱狂を煽ったり、抑え込もうとしたりしていた。当然ながら各国政府は報道機関に金を配り、都合のいい情報や報道をするように促していた。
まあさもありなん。日本の世界報道の自由ランキングが低いことが話題になるけど、ランキングの高い北欧諸国や欧米諸国の報道が、実際どれほど政府との癒着がないかなんてわからない。でも、なぜか日本では世界は自由な報道と報道機関が政府から独立した機関だというロマンティシズムに走る。困ったものだ。
とはいっても、政府が完全に報道をコントロールできたわけでもないし、またある報道があらぬ方向に向かってしまうこともあったようで、報道はあくまで政治の道具だったという。
各国、どれが官製報道なのかどうかも見極めが難しかったようだ。だからそれが影響して、各国の外交政策も混迷していってしまう。
リップマンの『世論』なんかも読んでみようかな。リップマンはこの本を1922年に出版しているし。

戦前のヨーロッパ諸国の外交を形成し運営していたのは、統一的で、一貫した目的を使命とする小規模な執行機関だったと仮定したところで、他のすべての国との関係に言及せずには二国間の関係を十分に理解できないのだとすれば、こうした関係を再構成する作業は、なおも気後れするようなものとなろう。しかし一九〇三年〜一九一四年のヨーロッパでは、現実は「国際的な」モデルが示唆するよりも複雑であった。君主の混沌に満ちた干渉、文民と軍隊の曖昧な関係、そして大臣や内閣の一体性の弱さを特徴とする体制の内部における重要政治家たちの敵対関係が、安全保障をめぐる断続的危機や緊張の高まりを背景にかつてない不安定さをもたらしていた。(366-367)

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