2020/07/11

『いのちの初夜』 北條民雄 角川文庫

全編にわたり身体と精神について語られる。
「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。……あの人たちの「人間」はもう死んで亡んでしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は滅びるのです。死ぬのです。……けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然藾者の生活を獲得するとき、再び人間として生き復るのです。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。……あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を探し求めているからではないでしょうか」(40-41)
ここにあるのは言葉の論理だとかではなくて、
患者たちは決して言葉を聴かない。人間のひびきだけを聴く。これは意識的にそうするのではない、虐げられ、辱められた過去において体得した本能的な嗅覚がそうさせるのだ。(127)
登場人物たちは、みな死を望んでいる。自殺をしたり、死にきれなかったり。
肉体が亡んでいく中で、健全な精神をもって生きることとは何か。
肉体と精神の関係を切り離そうと試みるが、どうもうまくいかない葛藤があって、癩病になったからそう考えるのか、それともそもそも人間というのはそういうものなのか。

いま身体と精神との関係というのは、哲学だけでなく医学や心理学などでもよく言及されている。
しかし癩病者にとっては、それは現実的に拒否すべき問題であり、克服し新しい哲学を構築しなければならないことになる。それは精神至上主義的なものになる。

北条民雄にとって文学は二番目だったと。まず第一番に考えることは、癩病のことであり、死であり、苦痛であると。
文学でもあり、一つのルポでもある。
『癩家族』は、なんとも言い難い。父親は自身が癩病だと知っていて結婚して子供をつくってその子供が皆癩病を発症する。
「わたしは、の、佐さあん、お前のお父さんにだまされて、それで一緒になったのだよ。あの人は、わたしと一緒になる前から病気だったのだに、わたしはだまされて――」
「お母さんは、なんで僕にそんなこと教えるんです!」
 ラストは印象的で、一番下の弟が収容病院にきたとき、父と姉に会う。
彼は初めて姉に気付いたように、はっとした表情であった。そして微笑を浮かべようとしたらしかったが、それは途中で硬直したようにただ顔が歪んだだけだった。これが姉だったのか、と佐太郎は思ったに違いないとふゆ子は、自分の眉毛のない顔を思い、つと一歩後ずさった胸の中でじいんと何かが鳴るような思いだった。
『望郷歌』でも、癩患者の家族の苦悩が描かれる。孫を殺そうとした祖父。ばばさんから教えてもらった歌を太市が歌い、もうどこにも帰るところがない、もう病院しか居場所がない。誰も悪いわけではないけど、みんな自分を責めていく。
『吹雪の産声』は、連綿と続く生命が描かれている。癩病院では患者たちが歓喜し、生命を尊ぶ。

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