2020/07/12

『主体の解釈学 コレージュ・ド・フランス講義1981-82 ミシェル・フーコー講義集成11』を読む ④

私が言いたいのは要するに次のようなことです。権力の問題、政治権力の問題を、統治性という、もっと一般的な問題の中に置いて考え直してみましょう。……権力の諸関係の流動的で、変更可能で、逆転可能な側面に注目してみるならば、この統治性の概念は、主体という要素を、理論的にも実践的にも経由せずにはすますことができません。この場合の主体とは、自己の自己への関係として定義されるでしょう。制度としての政治権力の理論は、ふつう法的な主体の法律上の概念に基づいていますが、それにたいして統治性の分析――すなわち、逆転可能な諸関係の総体としての権力の分析――は自己の自己への関係によって決定された主体の倫理に基づかなければならないのです。……「権力」「統治性」「自己と他者たちの統治」「自己の自己への関係」、この四者は連鎖して網目のようにつながっていること、そして、これらの概念を中心にして、政治の問題と倫理の問題を連結することができなくてはならない(294−295)

主体の問題がいかなる射程をもっているのかが述べられている。主体という権力のありようが論じられていることがわかる。
残念ながら、主体の権力構造を論じていない。かなり青写真的な感じで終了。
以下、箇条書き風。まとめるのも面倒だから。

政治的なもの、カタルシス的なもの
ギリシア・ヘレニズム・ローマ時代、自己自身を救う、危険から逃れ、身体の牢獄から逃れ、世界の不純から逃れるだけでなく、都市を城塞で守るように、自身を武装し、警戒し、抵抗している自己を統御している状態。
そして救済とは主体が自分自身に行う恒常的な活動であり、自己に到達するために自己を救済すること。
プラトンにおいては、他者を救済し、都市を救済することの帰結として自己の救済があるが、後の時代になるとカタルシス的なものと政治的なものが逆転する。

友愛について
友愛とは自己への配慮に与えられた形式の一つで、自己へ配慮する人は友人を作らなくてはならない。

エピクテトスの見解
自分の娘が病気であることに心がかき乱される。そこでエピクテトスは娘の看病を他者である召使に委ねる。なぜか。娘を愛するがゆえに心が乱れるから。
エピクテトスはこの態度を批判する。家族愛は自然の要素であり道理であるが、問題は娘にのみ配慮したことであり、自己への配慮がなされていないことだ。自己に配慮すれば取り乱すことなく、娘の手当にも配慮できただろうと。

マルクス・アウレリウスの見解
職業としての主権。道徳的な構造や根本的原理はあらゆる職業で成し遂げられるものであり、それはマルクス・アウレリウスにとって自分自身であることであった。
そして彼が「自己自身に視線を向けよ」というとき、何から視線を逸らさなければならないのか。それは他者から自己へ向ける。

立ち返りと
ヘレニズム・ローマの立ち返りは、身体からの解放ではなく、自己の自己への適合。
キリスト教文化においては、悔悛であり、思考と精神(霊)の根本的な変化となる。
「立ち返る自己は、自己自身を放棄した自己です。自己自身を放棄した自己」となる。
キリスト教および修道院の文献では、「おまえの精神のなかに入ってくる可能性のあるさまざまな像、表象に注意せよ、誘惑の徴や痕跡を読み解くために、心の中に生ずる動きの一つ一つを絶えず吟味せよ、おまえの精神を訪ねるものを送りだしたのが、神なのか、魔物なのか、あるいはおまえ自身なのか、またおまえの精神を訪れる、見かけはこの上なく純粋な想念に、情欲の痕跡がひとつもないかどうか判別するよう努めよ。」(255)
ここのいはギリシア、ローマ・ヘレニズム時代とは違う
キリスト教では自己自信に帰るというのは自己の放棄する。

セネカの形式
セネカは自分自身への要求を少なくするようにいう。つまり労苦、商売、農作業などを自分に課すことで自分への要求を多くしてしまっている。
そして金銭のための労働や報いの価値から解放されること。悪徳から逃れ、自らを世界の高い位置まで上り、その瞬間、わたしたちは自然の最も奥深い秘密に分け入ることができる。
これは仮象の世界から真理へいくのではなく、主体の運動であり、神の理性の形式となっている。
世界に背を向けず、世界における自分自身を見ることを目的とする。
自然を認識することは、自分に対する視点をもつための必要条件となっている。

マルクス・アウレリウスの世界
マルクス・アウレリウスは私たちが精神に持ち、ひとつの結合すべき諸原理に関係する霊的な訓練をみている。
霊的訓練とは、定義を与えること、論理学や意味論の用語で定義するのと同時に、事物の価値を定めること。
そして定義したあと「記述」をしなければならない。それは事物の形式と諸要素の直観的な内容を細かくみること。
霊的な訓練とは定義と記述であり、精神に現れるすべてものに対して行われなければならない。
表象の流れをとらえ、この自発的で無意思的な流れに対して、意志的な注意を向けることです。この意志的な注意の機能は、この表象を客観的な内容を決定することなのです(337)
これによって時間における存在の脆弱さを把握できる。
メロディや舞踏よち強くなり、それに打ち勝とうと思うなら――それらが持つ魅惑や追従や快楽を前に、自己を支配しようと思いなら――こうした優位を保とうと思うなら、……メロディに抵抗し、自分の自由を保とうと思うなら、それらを瞬間ごとに、音ごとに、運動ごとに分解すればよい……現在という瞬間に与えられるものだけが、主体にとって実在的だということです(347)
このあたりは仏教的。フーコーは分解しても因果関係までは論じていないところからして、大乗仏教と通じている。
マルクス・アウレリウスの場合、セネカとは異なり、平面に人間の存在をおいていて、視線は存在している場所を起点としている。

「自己の自己に対する訓練としての修練」アスケーシス。
ギリシア・ヘレニズム・ローマ時代、アスケーシスは法への従属の結果ではない。修練は、自己放棄、禁止、細かい規則はあるが、法への従属への結果ではない。真理の実践である。
主体を霊的な様態化すること。
賢者と格闘家を根本的に区別することはできない。

パレーシアとは
語る技法や文通というものの意味が、時代で異なっていく。ヘレニズム時代までは鍛錬であり、他者への指導は自己にも与えれるものだったが、キリスト教において、自己について真実を語ることが主体の自分自身との関係の基本原則になった瞬間、主体と真理の関係は大きく変わり、共同体への個人の帰属のために必要な要素となった。それは告白、告解というかたちになり、それをしなければ破門となった。
パレーシアとは、弟子の沈黙の義務に対する、師の側からの応答にほかなりません(414)
それは誘惑的であってもいけず、弁論術でもない。弟子の沈黙から、弟子の主体性がみずからものにできるような言説でなければならない。
パレーシアとは反追従であり、自身の魂の真理を他者に応答、開くことである。
パレーシアは指導者の言葉に本質的な形式で、規則から自由で弁論術からも自由である。
そして指導者は言表行為の主体とみずからの行為の主体一致として現前している。「私が君に語る真理、それを君は私の中に見る」(461)
古代ギリシア・ローマ人の精神の中では、規則への従属、あるいはそもそも従属そのものは、美しい作品をなすものではないのです。美しい作品とは、ある種のフォルマ(ある種の様式、ある種の生の形式)の理念に従うものです。おそらくこうした理由によって、哲学者の「修練的なもの」において、キリスト教にあるような、人生の各瞬間あるいは一日ごとになすべき訓練の厳密なカタログのようなものはまったくみられないのでしょう(476)
かなーりおもしろい指摘。

セネカの生と統治
セネカは辛抱する身体、耐える身体、節制する身体を課し、生の様式を形成していった。それは禁止を規則づけるのではなく、たとえば少なく食べることは飢えをしのげる量をたべるという原則からである。
美しい少女への欲望をを節制する、中立的な精神を保てる境地へいたるためには、美しい少女への欲情を考えないように訓練する。
ソクラテスもアルキビアデスへの欲望を自己抑制していた。
欲望それ自体は肯定されている。欲望するがままだ。
さらにセネカは一日を振り返るとき、過去を振り返るとき、凌振の吟味を行うが、それはキリスト教的なものとは違い、技術的な過失の点検となっている。セネカは自分自身の批判をしない。過去を振り返る歳、裁判官の態度をとるが、自分を罰することはしない。ただ次は繰り返してはならないと自分自身に言うだけだ。
哲学すること、それは心構えをすることだ(543)
ビオスとテクネー、そして『精神現象学へ』
ビオス(生)がテクネー(技術)の相関物であることをやめたとき、西洋思想特有の主観性の形式が構成される。ビオスは自己の試練の形式となってしまった。
世界はテクネーをとおして認識されるようになる。ビオスはテクネーの対象でなくなり、試練、経験、訓練の相関物となる。
ヘーゲルの『精神現象学』がいかなる書物であったか、と問いかけて終了。

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