2020/07/24

『俺の妹がカリフなわけがない!』 中田考 晶文社

これを中田さんが書いている事自体が驚き。

野蛮な西洋の物質主義を粉砕しアジアを解放しなければならない。東洋の深遠な精神文明、民族と宗教の自治を認める多元的イスラーム法に基いて共存共栄王道楽土。んー甘美ですね。
愛紗がカリフを宣言して生徒たちを結婚させていくが、これがなかなかいいですね。
小津安二郎の映画なんかも、自由恋愛での結婚に反対、というかアンチテーゼを提示している。夫婦なんてお茶漬けの味だとかね。家族、夫婦というのは育むものなのです。
「結婚なんて理由はどうでもよいものです。取り敢えず手近なところで空いている者がいれば、順にくっつけていけばよいだけ」(230) 
「恋人と呼ばれる遊び相手を手に入れて《リア充》と呼ばれるこのシステム呪縛を逃れ、それより生まれた運命を受け入れるように、縁があって隣りにいる誰とでも半永続的共生関係になることを淡々と受け入れる結婚システム、人を幸せにする」(231)
衣織と田中が結婚して一緒にお弁当を食べるようになり、周りの生徒たちは、スクールカーストという呪縛から解放されていく。
ぼくらは知らず知らずに主体を見失っているわけです。フーコー的に言えば規律訓練が身に沁みていて、自己に配慮できていないわけです。
愛紗は主体を堅持しているわけで、だから
「ボッチになって、しょげている愛紗なんて、想像できるか? そもそもいきなり独りでカリフ宣言をして、自分のボッチ仮想空間を、この教室内からわざわざ15億人のイスラム教徒にまで広げた奴」(200)
となる。
JKがカリフになてもいい。なっちゃいけないなんていう常識を脱し自由になれ。でも自由ではない。限界がある。それに気づくいて諦めも悟る。
「日本人の女子高生だってカリフになれる。女子高生がカリフにならずして、何が自由だ、何が無限の可能性だ、何が夢だ?!」
ある種の極論ですが、そのためかえって現代日本の病が明確になる。

その他でもところどころでいいことが書いてある。
このコロナの中、イスラームがいかに日本の愚民どもを開眼できるか。所詮愚民だから無理だが。
「天地の主権は神に属します」
だからこそぼくらの移動は何人も妨げることは出いないのだ。


「主は仰せです。『たとえ堅個な要塞に籠もっていようとも死はお前たちを掴む』そこに居ようとも死ぬ時は来れば避けることは出来ないし、時が来なければ死ぬことはできないのですよ……」
ぼくら現代日本人はいつのまにか、くだらない死生観をもち、死を蔑みすぎている。黒澤明の『夢』は絵画的すぎて微妙なところもあるけど、「水車のある村」で笠智衆率いる村人たちが死者を音楽と踊りで見送るところは素晴らしい。嘆き悲しむではなく、喜びをもって送るのです。


「複雑性の縮減こそヒトが生きる宿命です。」
そうなのですね。ぼくらは複雑な事をあまりに無批判に受け入れすぎている。現代では情報が価値をもち、情報に遅れることに強迫観念をもたされている。そしてぼくらはせっせと新聞やテレビ、ネットをみる。答えはそこにないにもかかわらず。


「愛があっての恋人であり、なくなれば恋人ではないのです。恋人であるかないかは愛の《有》《無》による事実です。《事実的》なものである恋人同士に《抗事実的》な規範システムの一部である権利、義務は本来なじみません。でも田中君が、《恋人の権利と義務は?》という虚偽問題に、愛すること、浮気しないことと答えたように、恋人にも権利や義務があるとの漠然たる想いが社会に広く共有されているようにみえます」
無いときに《ある》という、抗事実的に《ある》と信じられること、それこそが権利と義務の本質であるという。んーいい感じ。


「虚偽による支配の権力関係、それこそ、不正な偶像崇拝の本質、スクールカーストとはそのようなものに思えます。」
にゃるほど、偶像崇拝がなぜダメなのかがよくわかる。

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