2019/09/30

第六章 奇跡について――スピノザ『神学 政治論』

人の理解力を超えた神のわざを人は見たいと思っている。なぜなら、それは神の存在証明だと考えるからだ。
その神のわざを人間の理性で理解しようとすると、神を否定しているかのように言われる。民衆は自然の力と神の力を別のものと考えている。

スピノザは以下を説明する。

1 自然に反するかたちで起きることは何もないこと。むしろ自然の永遠の、一定不変の秩序を保っていること。なぜなら自然の一般法則が神の取り決めであるならば、奇跡は神に逆らってることになる。

2 神の本質も存在も、ましてや摂理も、軌跡からわかることは何ひとつないこと。むしろこれらはみな、一定不変の自然の秩序を見たほうがはるかによい。
神の存在はそれ自体自明ではないから、あらゆる概念をもって論証する必要がある。その概念は確実なものでなければならない。しかし確実な概念は変化しうると考えると、それをもとにした論証には確証がなくなる。
そして自然がかなっているか反しているかは、自然の基本概念を見極めるしかない。だから奇跡は基本概念に反している。
となると、私達はそのようなことを不条理とするか基本概念を疑うか、どちらかになる。
つまり奇跡を自然に反することと考えるかぎり、神の存在が示されることにはならない。むしろ奇跡がなくても神の存在を確信できる。奇跡が神の存在を疑わしくする。
自然のさまざな法則は無限のものごとに及び、その法則は我々に認知され、さらに法則に従う自然は一定不変の秩序で進む。だからその限りで、神は無限である、永遠であり、不変であること示してくれるのは、むしろ自然の法則である。

3 神の取り決めや、意志や、したがってまた摂理とは、神の永遠の方から必然的にひきけつする自然の秩序そのものに他ならないこと。

感想
ここでもスピノザは神の存在を否定していない。また非常に人間をバカにしていて微笑ましい。
なぜ神はもっと明確に民衆に語りかけないのか、理性に訴えかけるように語らないのか。なぜ詩的な表現を使い、想像力に訴えかけるのか。
それは民衆にとって政治家のような語り口では納得しないし、心も動かされないという。
これは、アイロニーなのか?
神を仮に認めて、それで愚民どもの行動様式をバカにしているのか?
スピノザの神がなんであるのか、これは難しい。神=自然というふうにも思えるけど、でも神は民衆に語りかける存在とも書いているわけで、んじゃ一体何なのでしょうか。

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