2019/08/07

第一章 預言について――スピノザ『神学 政治論』

第一章 預言について
預言とは、啓示ともいうが、ある事柄について神が人間に示した確かな知のことである。普通の人は預言を確実に知ることができないから、それを信じるしかない。預言者はその啓示を通訳する存在のこと。
前述の預言の定義よれば、自然の知(人間が自然に備わった認識能力)も預言と言える。人間が自然の光によって知る事柄、煎じ詰めれば神が取り決めたことを知ることにほかならないからだ。例えば数学的な知にしろ、物理学的な知にしろ、だ。しかし、えてして自然の光はありふれたものだから、人間はあまりありがたがらない。超自然的な知にあこがれる。
自然の知は預言の知と違うが劣っているわけではない。預言の知との違いは、自然の知はある確かさを持っているが、預言の知は預言者を信じるしかない。
預言者たちの啓示は、言葉(声)か映像、もしくはその両方で示されてきた。そしてそれらは本物であることもあれば、預言者の想像の産物にすぎないこともある。モーセ以外の預言者たちは、神の本物の声を聞いたのではないのだという。なんと!!
神はモーセに声で啓示した。『出エジプト記』第二十五章二十二節の記述のみが、神の本物の声だった。サムエルやアビメレクらの預言とモーセのもとは別に考える必要がある、というのもモーセ以外の預言者は夢の中だけであったり、近くにいる人の声にそっくりだったというからだ。
モーセの律法は、神が姿形を持っていると述べていないし、そう信じろとも書いていない。ただ神を信じ、敬うことを説いている。
神は夢などを使わずに人間に直接伝えることもできるが、そのためには人間側が抜きん出た精神を持っている必要がある。それはキリスト以外にはいなかった。ぬおー! なんと。ここでイエスを褒めている。キリストの場合は言葉や映像ではなく、直接に啓示されたと述べている。ここはどういうことだ。「直接に啓示」というのは、キリストの精神を通じて使徒たちに言葉をもたらした。キリストの声はモーセと同じで神の声といってよい。モーセは神と対面し仲間同士のようだが、キリストの場合は心と心でつながっていた。
スピノザはここで聖書の言葉から、余計な脂肪をとっていく。「霊」と訳される「ルアハ」も文脈で別に「霊」の意味で用いるべきではないし、「神のなになに」と表現される場合、それは別に神の属性を述べているわけではなく、単純にでかいとすごいとかの意味でとるべきとする。
よくわからないことに「神の」と付けてきた。預言者は神の力を持つと言われるのも、なぜ預言者が啓示をうけるのか、よくわからないからだ。
そもそも知性の限界を超えたことを受けることができたはずだ。預言者たちは自然の知でもって多くを知ることができたはずだ。しかしそうなっていない。あるのは言葉と映像で構築された寓意や謎かけばかり。なぜなら、そのほうが想像力を発揮できたからだ。
と、ここで疑問が生じる。なぜ預言者たちはそんな想像の産物に確信をもてたのか。厳格な理論をもとにしていないにもかかわず。

まとめ終わり。
ここでの要点は、預言がモーセのもの以外、想像の産物といっていることで、ということは、モーセは本物で、モーセは神と向かい合ったということ、それはスピノザは神を認めているのか。
聖書にでてくる単語が、いつの間にかいろいろと尾ひれがついてくるってのは、仕方がないかな。陰謀論なんてのは、そんな尾ひればかりで、ノストラダムスの予言なんかの解釈なんか百家争鳴でありまして。たいした意味でもないのに、多くの意味をそこに読みとってしまう人間の性よ。
預言は信じるしかないものと言っていて、やはり宗教は哲学とは違うとここでも述べられている。ただし、この「信じる」という行為自体、スピノザは否定していない。
驚くべきは、イエス・キリストを立派な精神の持ち主とほめてることで、しかもイエス・キリストをモーセと相並ぶ人物として見なしている。なんだ、どうなっているのだ。スピノザはキリスト教が好きなのか。
ちょっと疑問。旧約聖書を批判的に読み解いているが、これまで培ってきた、もしくは生きながらえたテクストの読み方はダメだというのはわかるけど、それだとたんなる宗教批判にすぎない。しかしスピノザは宗教を否定しているわけではない。いったいここで論じられている旧約聖書の解釈などを、スピノザは迷信と考えていたのかどうか。旧約聖書は宗教の名に値するものとしてしまっていいのかどうか。
あと「言葉と映像」と「精神」というのは、対立する概念として扱っているのか。

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