2019/08/16

第四章 神の法について――スピノザ『神学 政治論』

まとめ
法lexは端的に解すれば、個体がみな従っているはずの何か。それが自然の必然性によるものか、人々の合意によるかどちらかとなる。
後者について。人びとが自然に持っている権利の一部を放棄したり、放棄するように強いられたりして、自分の特定の生活様式に縛り付けられている場合、その基礎となっているのは人びとの間の合意である。二つの理由がある。(ここムズイ)
一、人間も自然の一部で、人間の本性上の必然から帰結することは、自然それ自体から帰結していると言えるということは、必然的ではあるが、人間の力によって生じている。だからこの種の法を建てることが、人びとの合意に基づくと言っても問題ない(???)。というのもこのような法がたてられるかどうかは人間精神の働き次第だから、だからこそ、ものごとを真偽の観点から見分けようとする場合、人間精神はこの種の法がなくても明らかに成り立つ。これに対して、自然の法に服さない人間精神というのはない。ぬおー、言っていることがよくわからん。
二、こうした法が人びとの合意に支えられていると言ったのは、ものごとの定義や説明は一番近い原因を介して行うべきだから。何か具体的なことを考察する場合、一般的考察は役に立たない。そしてものごとのつながりはどうなっているのかは全くわからない。だからうまく生きるためにはものごとを可能的な(必然的ではない)ものとして考えることが有益であり、欠かせない。何言ってやがるのだ、こいつは。
法とは、人間の力を一定の制限のもとに仕切るもので、人が自分や他人にたいして何らかの目的のために課す生活規則と、考えられている
しかし法の本来の目的は違っていて、賢い立法者は法を法本来の性質からはかけ離れた目的に置いた。つまり法を守れば、世間で望まれているものを与え、犯せば恐怖で脅す。
このことで、法は生活規則のように扱われ、このような規則を守ることが法に服していると言われるようになった。
しかし、刑罰を恐れて規則を守ることは正義ではない。法(律法)に服しているから義なのではない。
神の法は、最高善を、神を知ることや愛することと関わる。知性を完成させることは最高善であるはずで、その知や確信の支えは神を知ることにほかならない。神なしにはどんなものも知り得ない。自然を知れば知るほど神の本質を知ることになり、神を知ること、愛することが最高善の内実なのだ。
神の観念は私たちの精神に内在している。私たちのあらゆる営みの目的は、神の命令といってもいい。
それではここから求められる生活規則、最善の国家の基礎は何か。
それは神を最高善として愛すること、この営みが最終目的であり、このことは神の観念から導かれる。再考禅はもっぱら思索活動や清らかな精神に存する者だから、「肉の人」にはこうしたことがわからない。
つまり、神を愛すること以外を目標に置いた法は、みな人間の法である。
しかし、啓示によって制定された法である律法はこの限りではない。
ということはモーセの立法も神の法といってよい。たとえそれが普遍性を持ち合わせていないにせよ、だ。
当時ヘブライ人は律法を、永遠の真理として受けとっておらず、そしてモーセも律法を永遠の真理ではなく取り決めや指図として受けとった。そして神の法として民衆に課した。
預言者たちはみな啓示を神の法として受け取っていた。
キリストの場合は、神の口といったほうがよく、法を説いているのではない。


自然の法の声質とはなにか。
1 普遍性があるか、人間の本性から導きだせたものか。
2 歴史物語を信じることは求められない。歴史物語は有益だが。
3 特定の儀礼をおこなうように求められることはない。
4 神の法への報いは、まさにこの神の法そのもの。

神の意志と神の知性は区別されない。というのも三角形の三つの角の角度の合計が二直角に等しいいという取り決めは、神の意志と言おうが、神の知性といおうが一緒のことだから。
神は立法者だとか支配者だとか言われるが、それは民衆の理解力のなさのせいで、じつは神は必然的に働き、永遠の真理である。
そして聖書は自然の光や、自然の法について、知らないでは済まされないもの、無条件で推奨されるものとされ、無知は言い訳にはならない。

以上、まとめ終了。
まあ言わんとしていることはわかる。神の法と人間の法を峻別していて、神の法を宗教の側にもっていって、人間の法を宗教から世俗へと切り離そうとしている。
と思いきや、啓示による法は神の法であるとも述べる。
どゆこと。
神を知ること、愛することが神の法だというのに、モーセの立法も神の法となる。というのも当時の民衆は神を知る手がかりは、律法しかなかったからだと。
んー、とりあえずよくわからないので、おいておこう。

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