第三章 ヘブライ人たちの「お召し」について。また預言とは、ヘブライ人たちだけに独自に与えられた贈り物だったのかについて
注より、「お召し」とは、神に召し出されるkとで、それは救済に選出されること、預言者として選出されることの意ということ。広い意味で天職。
人間にとって本当の幸福は真実を知ること。他人と比べてどうのというのは、他人の不幸を喜んでいるのだから、悪意でしかない。ということは、ヘブライ人が神から選ばれたとか、ヘブライ人だけが神は存在を知らせてくれたとかいうことは、ヘブライ人自身、本当の幸福を知らなかったからだという。神が他民族に好意を寄せても、ヘブライ人への好意が薄れたりするわけがない。たしかにヘブライ人は他の民族よりも神から大量の軌跡を見せたことはたしかだが。
ヘブライ人が他民族より道徳や知識で勝っていたわけではない。神が他の民族よりもヘブライ人を選んだ理由とは何か。
その前に、いくつかの前置き。
神の導きとは、一定で変えられない自然の秩序のこと。万物が自然の諸法則によって生起する。神の導きと言おうが同じこと。
自然のあらゆることが発揮する力は、神の力そのもので。そして人間も自然の一部だ。神の力が人本来の声質を通じて働いているのか、人本来の声質の外部から働きかけているかの違いはある。
そして、神の選びとは、自然の秩序に反した働きは誰にもできないから、神の「お召し」だけが生き方を導く。運命とは神の導きにほかならない。そして神は外部の原因でもって人事を導く。
私たちが望むのは基本的に三つ。
物事の大元の原因を知ること
感情をうまく制御して特ある生き方を身につけること
安全に健康な身体で生きること
最初の二つは、人間本来の性質それ自体に含まれているから、私たちの力でなんとかなる。しかし最後のものは外部のものごとが決め手となる。
ヘブライ人が他の民族より勝っていたのは、生命を危険さらされるほどの苦難をうまく乗り越え、奇妙な縁で国家を獲得し、長く続けることができたことだ。それ以外では他民族とかわらず、神も万人に平等だった。
律法が約束したのは、服従と引き換えに国を絶えず繁栄させることだった。驚くに値せず、社会、国家は人々が安全に、快適暮らすことを目的に存在している。しかし、国というのは、同じ法で皆を縛る必要がある。律法を守るとはそういうことだ。
では、神は他の民族にも独自の法を定めたのか、といわれれば、スピノザはわからない、けど聖書にはその痕跡がある。そもそも聖書には万人に神は好意的なことが書かれている。にもかかわらずヘブライ人は自分たちは選ばれたと思っている。
聖書はヘブライ人のための物語であり、だから他民族が神から預言を授かったかどうかはわかるわけがない。
モーセは、神が他国民に好意を寄せたとしても妬むことはないだろう。モーセは自らの集団が危機的な状況で、存続させるためには外部の力が必要だった。それが神の助けであり、律法だ。
さらにパウロは万人が法と罪から逃れらないのだから、神は万人のためにキリストを遣わしたという。キリストはあらゆる人を律法への隷属から解き放つ。それは律法に従うのではなく、自分自身の決意に従い、よりよく生きてもらうためであった。ここはある種モーセの発展がキリストといった感じになっている。モーセはヘブライ人を救うために外部から律法をもたらすが、キリストはそれを普遍的な法でもって、ヘブライ人のための律法から人々を解き放ったということになる。
割礼だとかが、ユダヤ人のなかで続くことは、散り散りになった民族が再び国を打ち立てるだろう。しかしそれは知性と本当の徳とは関係がない。ただユダヤ人の国のことと安全のことのみにかかわるにすぎない。
以上、まとめてみたが、この章はけっこうシンプル。律法というのは、モーセによる単なる統治のための術だったと。
なんともユダヤ教の人が読んだら怒り心頭のような内容だが、実際のところ現代ユダヤ人にとって、この本はどういう位置づけ何だろうか。
そしてここでもスピノザはキリスト教を普遍的宗教として見なしている。そしてかなり好意的。
当時からユダヤ教の選民思想は嫌われていた模様。スピノザは他民族から嫌われることで、ユダヤ人の一致団結が存続すると。そして割礼など習慣が、彼らをまとめあげている。割礼は別に道徳的な行為でもなんでもなくて、単純にユダヤ人をユダヤ人たらしめ、法に服従させている証となっている。
注より、「お召し」とは、神に召し出されるkとで、それは救済に選出されること、預言者として選出されることの意ということ。広い意味で天職。
人間にとって本当の幸福は真実を知ること。他人と比べてどうのというのは、他人の不幸を喜んでいるのだから、悪意でしかない。ということは、ヘブライ人が神から選ばれたとか、ヘブライ人だけが神は存在を知らせてくれたとかいうことは、ヘブライ人自身、本当の幸福を知らなかったからだという。神が他民族に好意を寄せても、ヘブライ人への好意が薄れたりするわけがない。たしかにヘブライ人は他の民族よりも神から大量の軌跡を見せたことはたしかだが。
ヘブライ人が他民族より道徳や知識で勝っていたわけではない。神が他の民族よりもヘブライ人を選んだ理由とは何か。
その前に、いくつかの前置き。
神の導きとは、一定で変えられない自然の秩序のこと。万物が自然の諸法則によって生起する。神の導きと言おうが同じこと。
自然のあらゆることが発揮する力は、神の力そのもので。そして人間も自然の一部だ。神の力が人本来の声質を通じて働いているのか、人本来の声質の外部から働きかけているかの違いはある。
そして、神の選びとは、自然の秩序に反した働きは誰にもできないから、神の「お召し」だけが生き方を導く。運命とは神の導きにほかならない。そして神は外部の原因でもって人事を導く。
私たちが望むのは基本的に三つ。
物事の大元の原因を知ること
感情をうまく制御して特ある生き方を身につけること
安全に健康な身体で生きること
最初の二つは、人間本来の性質それ自体に含まれているから、私たちの力でなんとかなる。しかし最後のものは外部のものごとが決め手となる。
ヘブライ人が他の民族より勝っていたのは、生命を危険さらされるほどの苦難をうまく乗り越え、奇妙な縁で国家を獲得し、長く続けることができたことだ。それ以外では他民族とかわらず、神も万人に平等だった。
律法が約束したのは、服従と引き換えに国を絶えず繁栄させることだった。驚くに値せず、社会、国家は人々が安全に、快適暮らすことを目的に存在している。しかし、国というのは、同じ法で皆を縛る必要がある。律法を守るとはそういうことだ。
では、神は他の民族にも独自の法を定めたのか、といわれれば、スピノザはわからない、けど聖書にはその痕跡がある。そもそも聖書には万人に神は好意的なことが書かれている。にもかかわらずヘブライ人は自分たちは選ばれたと思っている。
聖書はヘブライ人のための物語であり、だから他民族が神から預言を授かったかどうかはわかるわけがない。
モーセは、神が他国民に好意を寄せたとしても妬むことはないだろう。モーセは自らの集団が危機的な状況で、存続させるためには外部の力が必要だった。それが神の助けであり、律法だ。
さらにパウロは万人が法と罪から逃れらないのだから、神は万人のためにキリストを遣わしたという。キリストはあらゆる人を律法への隷属から解き放つ。それは律法に従うのではなく、自分自身の決意に従い、よりよく生きてもらうためであった。ここはある種モーセの発展がキリストといった感じになっている。モーセはヘブライ人を救うために外部から律法をもたらすが、キリストはそれを普遍的な法でもって、ヘブライ人のための律法から人々を解き放ったということになる。
割礼だとかが、ユダヤ人のなかで続くことは、散り散りになった民族が再び国を打ち立てるだろう。しかしそれは知性と本当の徳とは関係がない。ただユダヤ人の国のことと安全のことのみにかかわるにすぎない。
以上、まとめてみたが、この章はけっこうシンプル。律法というのは、モーセによる単なる統治のための術だったと。
なんともユダヤ教の人が読んだら怒り心頭のような内容だが、実際のところ現代ユダヤ人にとって、この本はどういう位置づけ何だろうか。
そしてここでもスピノザはキリスト教を普遍的宗教として見なしている。そしてかなり好意的。
当時からユダヤ教の選民思想は嫌われていた模様。スピノザは他民族から嫌われることで、ユダヤ人の一致団結が存続すると。そして割礼など習慣が、彼らをまとめあげている。割礼は別に道徳的な行為でもなんでもなくて、単純にユダヤ人をユダヤ人たらしめ、法に服従させている証となっている。
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