2019/08/08

第二章 預言者について――スピノザ『神学 政治論』

第二章 預言者について
預言者はべつに並外れて優れた精神の持ち主ではなかった。想像力に秀でた人は、純粋に知的に理解するのが苦手だ。知識に想像が混ざってしまえば台無しになる。だから聖書で知恵を付けようなんてのは完全に間違っている。
まず、預言自体が預言者の気質や想像力でまちまちで、預言者も神から預言を授かったからと言って賢くなるわけではない。
ただの想像力には確実性は認められない。預言者たちも神からの啓示を、啓示そのものから確信をしたわけではない。なにか「しるし」があったからこそ確信したわけだ。預言者はしるしを求めた。
この点でも自然の知とは違うことがわかる。自然の知は、知それ自体に確実性が認められる。預言の確実性は気持ちの上でのものでしかない。
となると、預言と迷信は何が違うのか。
道徳心に満ちた人や神自身が選んだ人を、神はけっして欺かない。だから預言に確実性をもたせることができる。なんじゃそりゃ。ここでは、あくまで聖書の読解であって、聖書の論理構造からそうだと言えるとなる。だから預言者が新しい神々を布教し始めたら、そのしるしや奇跡如何に問わず、死罪にせよとモーセは言っている、としている。これは聖書から演繹されることなのだ。
預言の確実性は三つの要素からなる。
一、啓示が生き生きと感じられる。
二、しるしによる裏付け。
三、預言を受けたと自称する者が、正しい心をもっていること。
預言者は自らの預言が本当かどうかは、本当に起こってみるまで確信を得られなかった。つまり預言者の確信というのは、単に気持ちの問題だった。ということは、その確信というのは、預言者の考え方や理解力に応じて与えられた。
神は遍在していて、全てを予知している。しかし預言者たちはそれを知らなかったし、神に対して無知だった。かのモーセですら、神の性質を憐れみ深いとか、怒りっぽいとかしか表現していない。そして、この存在者は万物の製作者として至高の権力を持ってヘブライ人を選んだ。他の民族や地域については他の代役に一任する。だからイスラエルの神だとかエルサレムの神とか表現されていて、他の神々は他の民族の神々と呼ばれている。
モーセは神の住まいがあると信じたり、神を見ることができるとも信じていた。実際は見ることができないが。
神はモーセに啓示を与えたが、イスラエル人は神について無知だった。モーセは哲学者としてではなく、立法者としてイスラエル人に啓示を教えた。それは自由な心で生きることではなく、法に従うことを教えた。それは隷属の延長だった。ただ神の法を愛し、そして服せと命令したのだ。ということは、イスラエル人が徳の素晴らしさや本当の幸福を知らなかったことは確実となる。
神が預言者に接するやり方は、キリストが頑固なパリサイ人に対するのと同じように、聞き手の裁量によって異なっていた。つまりは、方便を使っていたのであって、真理を語っているわけではなかったのだ! そういえば使徒たちも同様に相手の理解力によって語り口を変えている。そうなのだ、方便なのだ。

以上、まとめてみたけど、かなりこんがらがってきた。
スピノザが言う想像力ってのは、なかなか興味深い。というか、この時代想像力ってのはどんな評価だったのか。この本を読んでいる限りだと、知的作業とは反対の意味で使われているようにみえる。
スピノザは、預言は想像力の産物というけど、でも一方で預言は神から授けられるものであるという。また確信は気持ちの問題だと言っておきながら、神が預言者の理解力に応じて与えるものだと言っている。
これは一体どういうことだ。聖書の中だけで論じれば、預言は想像の産物に過ぎないが、預言者からすれば神から授かっていると感じ、そして確信は持てないけど、聖書のなかでは預言者ごとにその確信の持ち方はまちまちだったということか。
啓示には一貫性がない。ということは啓示は方便なのだ。唯一絶対の真理を語っているかのように聖書を思われてきたが、仏教と同じで書かれていること語られていることは、方便に過ぎないのだ。しかし、方便とはいっても、正しい道を行くためになされるもので、その正しい道がなんなのか、それが問題だ。

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