2019/08/17

第五章 さまざまな儀礼が定められた理由について。また歴史物語を信じることについて。つまり、そういう物語を信じることはどういう理由で、また誰にとって必要なのかについて――スピノザ『神学 政治論』

儀礼とは
神の法は、普遍的なもので、人間本来のあり方から導き出された法だから、人間精神に内在する。
儀礼はそのようなものではない。旧約聖書にみられる儀礼はヘブライ人に定められたもので国家体制に合わせてできている。社会が実行するもので、個人が実行するものではない。
だから、儀礼は神の方には含まれたない。そして幸福や徳のにも役に立つものではない。
つまりご霊は一時的なものでしかなく、物質的な幸福と国の安定だけを念頭においている。国が存続している間しか利益になりえなかった。
モーセ五書も神の法ではなく、ヘブライ人の理解力に合わせて定められた方にすぎない。
たとえば「殺すことなかれ、盗むことなかれ」という戒めは教育者として預言者としてユダヤ人に説いているのではなく、むしろ立法者、支配者として命じている。そして法を犯したものは罰を受けることにも鳴っている。
さらに「姦淫することなかれ」というのも共同体、国の利益のための法となっている。しかしキリストは姦淫を行うことを心で思うこともしてはならないと説いている。こkれは普遍的な法となっている。
キリストは魂について説くが、モーセの場合は即物的な約束をする。

儀礼の意味
ではなぜ儀礼というものがユダヤ人たちの国を維持し安定させるのにどのようなに、なぜ必要だったのか。
社会とは、敵から守られて安全に暮らすためだけではなく、多くの事柄について便宜を図るためにも有益で、なくてはならない。分業を通して社会は成り立つものである。
人間は理性的でもないし、欲望に駆り立てられることも、感情に支配されることもある。だからこそ、法が必要となる。
その一方で、絶対的な強制を受けることは本来のあり方からして耐えられないようにできている。そして一旦認めた自由をひとびとから再び取り上げ得るほどこてゃ難しい。
ここから帰結するのは、国の支配というものはできることなら社会全体が一丸となって行うべきだということで、そうするれば、みなが自分自身に奉仕していることであり、自分と同等の他人に仕えるよう義務付けられていないことになる。
そして国を法は、恐怖よりも希望に訴えかけるほうがよい。義務に自ら望んで果たすべきである。
そして法はみんなの同意に基いて定められる社会では、服従はありえない。彼らは他人の権威ではなく、自分自身の同意に基いて行為することになる。
しかし、たったひとりの支配者による国の法は、人は嫌々従うことになる。
エジプトから脱出したヘブライ人は、悲惨な奴隷生活が長かったため、民主的な法ではなく、モーセという支配者に委ねる必要があった。
一方でモーセは恐怖ではなく自発的に法に従わせるように心がけた。なぜなら、人びとは頑固で簡単に従うものではなかったし、戦争が近かったため刑罰を控え、励ます必要があったからだ。
モーセは人びとに心から奉仕するようにしむけていく。恩恵を施し、神の名で厳しい法は定めなかった。

儀礼の効用
そしてモーセは宗教を持ち込んだ。
さらに、モーセは「自らの権利の下にありえない民衆」が支配者の言うことを聞くように、隷属になれた人たちを、勝手な振る舞いをさせなかった。畑を耕す、身にまとったり、髭をそったり、なんでも法に定めた。
彼らに自らの権利のもとにあるのではなく。完全に他の者の権利の下にあることを思い知らせるためだった。
つまり儀礼というものは幸福に何ひとつ貢献しない。

聖書を学ぶことについて
そして聖書の歴史物語を信じることことの理由はなにか。
明白でないことを納得させるためには、知性の能力と知的理解の正しい手順によってだけ導かれるが、そのような作業は脂質がなければ普通は難しい。
だから経験によって教えられることが好まれる。
そして知的な作業によって論理を構築したり、難解な概念をもちこむこともしてはいけない。
つまり民衆の理解力にあわせて説明する必要がある。そのために聖書の歴史物語は必要なのだ。
さらに言えば、一般民衆が神の存在を否定したり、神の行いを信じないことは不道徳である。しかし、神の存在などを自然の光によって知っており、ほんとうの生き方を知っているならば、聖書を知らずともその人は幸福であり、一般民衆よりも幸福である。
そして何も聖書をすべて知る必要もなく主要な物語だけで十分。もしすべて知らなければならないならば、一般民衆にとって聖書は手に余る物になってしまう。民衆が知っておくべき物語は、心の服従と奉仕に駆り立てる物語だけでよい。
しかし民衆は物語の教訓を判断できない。民衆は教訓よりも奇跡などの珍しさに心惹かれてしまう。だから宣教師や教会、代弁者も必要となる。
聖書を読む際に、教えを理解しようとしないで、好奇心からよむならば、それは戯曲やコーランを読むのと同じことで意味がない。
そして聖書を読まずとも徳をもって生きているひとは幸いなのである。

結論
儀礼というものが、単なる社会的な慣習でしかないことを述べていて、そこには人間の幸福は含まれていない。国家や社会を維持するためのものでしかないという。
ただ、一般民衆はバカだから、理性でもって論理的に徳を考えたりできないし、自然を理解しようとも、理解もできない。だからそんな理屈や論理は無視して、聖書を信じること、それが聖書の役目であって、聖書はその点で言えば、非常に有益で、聖書は神への服従と奉仕を教えてくれる点、それだけの点では非常に優れた書物となっている。かといって、教訓を知ったからといって幸福になれるわけではないが。

まとめ終了。
この章はなかなか宗教にたいして手厳しい。宗教的儀礼の脱神秘化で、たしかに怒られる内容だとは思うけど、でもそれほど過激でもないとは思う。
スピノザはけっして宗教を否定しているのではない。その意義をきちんと認めている。
彼の難しさは、神に服従、奉仕している人たちを、迷信深いやつらだとバカにしているわけではないというところかと思う。
そんな単純ではないと思う。

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