2019/11/23

第七章 聖書の解釈について

「聖書は神の言葉であり、ひろびとに本当の幸福、つまり救済に至る道を教えてくれる。と口ではみんな言うけれども、実情は全く違う。それはひとびとがしていることを見ただけで露骨に分かる。聖書の教えに従って生きることほど、民衆が気にかけていないことはないように思われるし、またわたしたちの見るところでは、ほとんど誰もが、自分の思いつきにすぎないものを神の言葉と一割っている。彼らが目指すのは他でもない、宗教を口実にして、自分たちと同じ考えをもつように他人を強制することなのだ」(301)
神学者たちは、神の権威をまとわせて、聖書の解釈を自分勝手にしている。自分たちの考えや行い、思いつきを擁護するために聖書を使う。
さらにわけの分からない箇所を研究して、聖書に深遠な教えや秘密があると夢想もする。
だから聖書解釈は、確かなデータた原則をもとに、正しい帰結をたどって聖書作成者の精神をを導きださねばならない。
そして聖書の教えというものは聖書そのものから導き出されなければならない。
「先入見に頼らずに聖書の神聖さを裏付けたいのなら、聖書の説く道徳がまともなものであることを、聖書だけを頼りにして明らかにしなければならない。聖書の神聖さを立証する決めては、これしかないからである。」(306)

聖書研究とはいかなるものであるべきか。
1 書かれている言語の本来的の性質や固有の性質の解釈が必要。ヘブライ語の研究は聖書解釈では必要。
2 聖書にでてくる発言をとりまとめ分類すること。なぜなら同じような発言をすぐに見つけられるようにするため。同時に発言の矛盾点もまとめておくこと。
3 預言者たちの書き伝えられた背景を突き止めること。いつ、どこで、誰に向けて書いたのか。

スピノザは聖書のなかで、有益で永遠の教えとして、神の実在、隣人を愛せよ、は聖書のどこでも明らかであるという。これは、聖書の中だけなのか、それとも本当に実在している、と言っているのか。
ただし、神がどんな存在か、ということになると聖書ではさまざま書かれていて、神の教えとしてはよろしくない。
さらに聖書は時代背景も重要であり、たとえばキリストが不道徳な者も許せ、という場合、それはキリストの時代が圧政の時期だったkらで、正義が行使されよい国には通用しないという。

しかし、聖書解釈では自然の光では理解できないものがあるというものがいて、さらに超自然の光について、熱心な信者だけが神から授けられるものだというものがいる。しかし聖書を解釈するのに自然の光では不十分で、しかもその超自然の光が多くの人に持ち合わせていたになら、なぜモーセは律法を制定したのか。みなに理解できるようにモーセは制定したのだから、超自然の光は必要ない。
文字通りの解釈が理性に反するならば、いくら文字通りの意味が明らかでも、違おう意味で解釈すべきであるとマイモニデスは主張する。
そしてマイモニデスの方法では、聖書の真意を聖書から確定することができなくなる。
この方法は聖書を恣意的に解釈することを言っているにすぎない。
聖書は哲学者や頭のいい人でなければ理解できない書物ではない。

感想
スピノザのこのような聖書を考証学的、考古学的に解釈する考え方は、いつごろからあるのだろうか。
この当時、聖書を神学から切り離し、歴史的背景から聖書を読み直すという作業はどうだったんだろうか。
いまではスピノザの方法論は目新しくもないし、さもありなんと言った感じだけども。


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