2019/08/06

序文――スピノザ『神学 政治論』

序文
人は簡単に迷信を信じてしまう。迷信は、さっきまで自分たちの支配者を神のように崇めていたかと思うと、今度は罵りるようにしむける。迷信は混乱をもたらす。
そのため、まともな宗教やそうでない宗教も、儀式や仕掛けで飾りたてようとしてきた。それに最も成功したのがトルコ人だという。
君主は国を統治するために人びとを騙し続けることでうまく統治してきたが、しかしこのような専制君主は、オランダのような国にはふさわしくなく、自由こそ愛すべきものであり、自由を認めても道徳心や国の平和は損なうことはない。
これを証明するために、過去の時代の奴隷根性の遺物や主権者の権利についての先入見を指摘する。このような過去の遺物を私物化し、宗教の名を借りて、迷信でもって群衆を再び奴隷状態にされてきた。
宗教は、愛、喜び、平和、自制心を公言しているくせに、いつのまにか諍いをはじめる。というのも、聖職者が特別立派なものであると見られるようになると、ろくでもないやつがでてきて、演説がうまいだけのやつが民衆を扇動しはじめる。そして争いがはじまる。
多くの宗教がもっている儀礼は外的なものだけ、つまり様式だけが残ってしまった。これは人が自由に判断することを妨げる。理性を軽侮するものたちは、神の光が与えられたと信じ込む、なんという皮肉か。少しでも神の光が与えられていたら、もっと慎み深く神を敬い、愛によって人びとの模範になっていただろう。
自然の光(人間の知的能力)は軽んじられ、それは不道徳の源と見なされる。聖書を神聖なものと決めかかる。そして哲学者たちと激しい議論が繰りひろげられてきた。
だから、聖書を自由な気持ちで吟味し、聖書が言っていないことは、聖書の教えではないと認めよう。
すると、聖書には知性に反することは一切ないことがわかる。預言者の言葉は群衆を神にその身を捧げるように仕向けるものにすぎなく、つまりは聖書は理性を放任している。すなわち聖書は哲学と共通するものを何も持たず、両者は別の固有の足がかりにもとづいている。啓示は神への服従以外の何物でもない知であり、哲学的な知とは違う。
だからものごとを判断する自由と信仰の根拠を自分の好きなように解釈する権利は、保証されるべきだ。信仰の良し悪しは、その人の行いだけを基準に決められるべきだ。そうすれば誰もが自由な心で神に仕え、そして正義と愛だけは誰からも重んじられるようになる。
啓示による神の法は、自由を認めている。そして自然権によって縛られる者は誰もいない、自然権を譲ることは自身をま持つ権利も他人に渡すことで、譲渡された至高の権力者は唯一の権利と自由の守り手である。そして至高の権力者は、法や権だけでなく、宗教上の法や権利についても守り手や解釈者の役を務めることになる。それは彼らだけが正不正、道徳不道徳を決める権利を持つ。
そして結論、権力者がこうした最上の権力を保つには自由に考える権利、そして考えたことを言う権利を誰にでも認めることである。

以上、序文のまとめ。
なんというか、けっこう真剣に読んでみると、なかなかおもしろい。
スピノザは宗教批判をしているかのように思っていたが、なかなか、そんな単純ではないようで。というより、宗教を肯定的に書いていると言ってもいい。宗教ではなくて迷信がよろしくないといっている。なんといっても宗教が儀礼を整備したことは、迷信を防ぐためとか。なにーー!
そして宗教と哲学を峻別している。まったく異なる基盤で成り立っていると述べている。宗教は従うことを教えているにすぎないと、しかし従うとは何に従うことなのか、神に、だという。ここでいう神とは何か。ちょっとこのあたりは読み進めていかないと、今のところはっきりしない。神の光が与えられていれば、模範的になれただろうと言っているが、これって宗教を肯定しているわけでしょ。でも宗教は従うことのみを教えているって、何よ。
そして権力者の話になっているが、ここ、論理的なつながりがいまいち把握できなかった。
ちょっと理解しにくい論理構造だけど、まあいいや。とりあえず読み進めていく。

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