2020/05/09

『新対話篇』東浩紀 ゲンロン

あずまんの能力の高さよ。対談相手が言いたいこと、言おうとしていることを要所要所でまとめてくれているが、それがとっても簡潔かつ、要領を得たもの。
通して読むと、みなさんが「日本的なもの」を探っていて、その何かに共通点というか、そういうものがあるようです。「歌」とか「植物」とか。
刺激されることが多く、ぼくは五木寛之さんの小説は一冊も読んだことないし、梅原さんの熱心な読者ではない。この『新対話篇』を読んだことで新しい展望が開けた感じ。

草木の生起する国 梅原猛
日本の思想の原理を「草木国土悉皆成仏」だという。あらゆる存在は煩悩をもり、仏性がある。植物中心の世界観。
世阿弥の「白楽天」の話がおもしろい。中国には詩があるが、日本には雨の音も風の音もある。人間だけがつくる詩よりもずっと上ではないか、と。
アリストテレスの動物学をセックスからみるのはなるほど。
「わたしも愛欲が強く、それに知識欲や創造欲がとても強い。……空海の言葉でいうと、世の中のひとは小欲で満足しているが、わたしは大欲を持っている。大欲と大日如来が衆生を思う心です。絢爛たる五色で表現される密教の世界は、欲望の輝かしい肯定だといえます。」

テロの時代の芸術 鈴木忠志
ぼくは鈴木忠志は名前しか知らなかった。個人的には鈴木さんの回が一番おもしろかった。
まず、鈴木さんは行政サービスと文化政策をきっちり分けていて、ぼくにとっては盲点だった。金を配るのは行政サービス、でもそれは文化政策ではないと。文化政策なら政治方針としてやらなければダメ、成果を納税者に還元するという考えではない。ぬおー。
芸術家はテロリストに近いという。共同体の価値観に否を突きつける時、意識的に積極的に差別される方法として芸術を選んでいると。
「わたしは地方に行ったんじゃない。利賀には東京支配の日本を捨てるつもりで行ったんだよ。その日本を構成している地域を含めて日本を捨てるために日本にいると言ったって、べつにぜんぜん矛盾じゃない。」
力がある言葉です。ぼくはダラダラと東京に居座っているけど、いつもそれでいいのかどうかと悩んでいるが、ああ、どうしよう。

SFから神へ 筒井康隆
ホントかウソかわからないけど「断筆宣言」は、休みたかったからとか、まじかよ。
「ぼくは戦争の悲惨さも知っているし、おもしろさもよく知っている」とは、いいこと言うな。『聖痕』をとりあげながら、去勢され欲望を失った貴夫は、欲望がないゆえに倫理を失ってしまっている。悪徳を悪徳と思うことがない。性欲がなくなった貴夫を食欲にむかう。そういえばそういう話でした。
東さんのまとめなんかも非常にいい。「筒井さんのメタフィクションは、神学的感性から来ている。登場人物が虚構内存在であることを自覚し、作者の意図や世界の描写について推測を巡らせる作風は、宗教的なモチーフから生みだされている」
「『モナドの領域』の主題は、メタフィクションやパラフィクションというより、モナドそのものです。モナドというのは、神のつくったプログラムという意味のライプニッツのことば、それがGOD。ぼくは、そのようなかたちの神様しか納得できない。プログラムなら納得できる」

種の慰霊と森の論理 中沢新一
ぼくは中沢さんの本はどうも体質にあわないから、きちんと読んだ本は一冊もない。全部途中で挫折している。
対談だとおもしろい。西洋思想のような「動物的追悼」ではなく、日本独特のイエにもとづいた「植物的追悼」。
「イエは大地の上に建つものであり、土地に根ざしています。つまり、一定の定住性を持つ「植物」のようなものです。植物は土地に根を張りながら、花粉や種を空中に飛散させていくこともできる。定住性だけでなく遊動性も備えていますが、種が存続するためには大地の存在が深けるです。」
植物そのものが神である、と。中沢さんは、サンクチュアリの例として明治神宮と吹上御苑をあげている。

文学と政治のあいだで 加藤典洋
「AかBかではなく、この二つを一体として受け止めよう、そうして生きていかなきゃならない」。二層構造への変化が起きている中で、私から公をつくる回路をどう作るのか。
テクスト論では書かれたものだけが相手で書かれていない秘密は扱えない。『観光客の哲学』をひきながら、「作者の像」「作者の幽霊」が残る。
「ふわふわ」とした世界とのつながりだけでなく、「『ギシギシ』と壊れたままかかわる別のかたちがありうる。」

正義は剰余から生まれる 國分功一郎
萱野稔人さんを評しているところ。哲学で突破できない状況に直面し、最近保守派に近いことを言っている。それに対して
「ポストモダン系の学者が彼を単純に転向者とみなしてバカにするのは非常に腹が立ちますね。ドゥルーズ=ガタリを使って革命がどうこう言うのが政治なのか、と。萱野さんの選択は、現実の政治を哲学的に考えることの必然的帰結なのかもしれない。ぼくの政治参加は小平での住民投票までにとどまっていますが、あれ以上やると保守派にならざるをえないという気持ちもあるし、実際すこしそうなっている。」
んーこれはまさにそうです。ぼくもどれほど友人が離れていったか。社会にコミットすると脊髄反射的なコレクトネスでは対処ができないことがほとんどで、非常に苦しい思いをする。
憐れみ=仁は、主体を前提するのではなく、「動物的」な位相で作動するもので、主体の想像力以前の動物としての本能、合理的=現前的な「正しさ」に対するノイズとして機能する。
国分さんが言う、アーレントは民主主義者なのか、勝利者の意見にもとづいた合意形成がアーレント的政治の概念だが、このパターナリズムには想像力が欠如していて敗者が勝者に配慮を求めるのではなく、話し合い説得される過程が必要だと。。ここで東さんとは意見が異なっている。アズマンは正義や憐れみは必要だけど、集団的に使えない、つまり多数決かパターナリズムしかない、と。
東さん曰く、エビデンスが一意に収斂されることはないし、「過去の再解釈」への欲望は諸刃の剣であり、歴朱修正主義しかり、「#metoo」しかり。国分さんが言う、「証言」を「信じる」こと。これもどっちが正しいとかの次元では語れないことでしょう。

デラシネの倫理と観光客 五木寛之+沼野充義
五木さんの平壌での経験が歌や音楽とつながっていて、五木文学の基調をなしている。正邪の倫理判断を超えたもの。そして五木さんには念仏も歌ととらえる。歌の感動は二度味わうことはできない。古典テクストを背景までふくめて感動を理解することは不可能と五木さん。
宗教と観光との観点もおもしろい。ぼくはブラタモリで「講」を知ったけど、宗教が観光をつかって一大テーマーパークをつくっていく。
トスカ(暗愁)が、故郷を喪失したデラシネが抱く感情、それを受け止めよう。

歴史は家である 高橋源一郎
国体の変化とジェンダー 原武史
上記二篇はすでに「ゲンロン10」で最近読んでいるのでとばす。

生きることとつくること 飴屋法水+柳美里
飴屋法水という方を存じ上げませんでした。箱の中で24日間すごすとかいうパフォーマンスをしたなんて、どうかしてる。排便は1回しかなくて、そこから人間も冬眠ができるとかなんとか。
飴屋さんの印象的な言葉、劇の内側/外側の区別がつかない、ということ。
「くるみの身体はもちろん現実でしょうが、彼女とぼくが家族だというのは、信じてるから信じてる虚構です。」
「ぼくがくるみに対し、血縁という言葉に値するような感覚、あえて信じる必要がないほどの現実感を持ってないです。信じてるので信じる、みたいな虚構性だけがある。新幹線で大阪に着くこと、みたいに、信じてるんですよね。」
「小劇場に行くと最初に制作の方とかが出てきて、「携帯をお切りください」みたいなことを言う。あれは劇の外側なのか。そもそも劇場自体、客席の壁、舞台上の照明機材やスピーカー、あれらは劇の内側なのか外側なのか」
柳美里さんの言葉
「石に泳ぐ魚」の裁判で、『命」までの小説は事実と虚構の線を意識せずに書くことができなかったという。「コーヒーにコーヒーフレッシュを入れて掻き混ぜるんじゃなくて、あえて撹拌しないで渦巻模様を残すみたいな?」。当事者の証言をそのまま記憶するなんてことはできない、記憶というのはありこちに散らばった断片。
柳さんが言う、虚構を経由することで、例えば慰安婦の話、政敵な描写を紛れ込ませたりで、だれにも言えないことを内尾あけることができる。物語の器、虚構の器があれば、そこに現実を盛りつけることができる。

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