2020/05/22

「雑賀の舟鉄砲」司馬遼太郎短篇全集四

石山本願寺での戦いに参加していた雑賀市兵衛と平蔵は、顕如から播州三木城に義観とともに派遣されることとなる。
負け戦が濃厚なため、兵を鼓舞するためにも舟鉄砲という雑賀に伝わる神風戦法をやるように市兵衛は言われる。お鶴とは干し魚やするめをもらいながら体の関係を続け、お鶴からも舟鉄砲を催促される。
舟鉄砲を決行する前日にお鶴の逢瀬の場に行くとお鶴は不在のかわり義観がいて、土壁から干し魚やするめをほっていた。義観は市兵衛に舟鉄砲はやらなくてもいいと言われ、どうせよそ者なのだから命を懸けるほどではないと。
「城を強うするため、すべてを念仏の門徒にする。が、考えてみればこの仕事はあくどいな」。自らの悪の底の底を見極める、これが義観のいう菩薩行。

一向宗門徒の気味悪さがでていますね。義観は、一向宗のバカさ加減を知りながらも門徒に念仏ををとなえさせていく。領主よりも義観を信頼していく三木城の者たち、何がそうさせるのか。
やっぱりですね、司馬遼太郎は愚民思想をもっていて、そういうところがいいです。
市兵衛は念仏を嫌っているが、なんにも特にならない死をかけた舟鉄砲をする決心をしたり。
この合理的な説明を受け付けない感情を描くところ、司馬遼太郎は単純な合理主義者ではないことが判然としている。
司馬さんが描く戦国時代の武将らは、みな合理的に働き、部下も報償がほしいからよい働きをしていたとなっている。江戸時代の規範とは異なっている。
市兵衛も基本合理的なんだが、感情のどこかで非合理的な行動をとってしまう。その人間のおかしみとかなしみよ。

0 件のコメント:

コメントを投稿