『ムツゴロウの青春記』 畑正憲 文春文庫
断捨離中につき、懐かしい本の再読をする。かれこれ二十年も前、高校生の頃に読んで感銘を受けて、ほぼすべてのエッセイを読んだはずだ。どこにいったかはわからないけど、手元に残っているのは数冊のみ。もしかしたら図書館で借りて読んだのかもしれないが、もう覚えていない。
ぼくは畑正憲に影響をうけること甚大で、細かい内容はあんまり覚えていないけれども、端々で心に常に残っている。そしてそれが生きる上での糧になっている。ぼくの思想の百分の一は畑正憲でできている。百分の一といっても、ぼくは多くの人に影響を受ける中の百分の一なのだから、かなり大きい比重であるはずだ。
若いころ、線を引っ張っているところがあるから、それを書き出しておく。
再読して思い出した。高木貞治の『解析概論』もこの本で知ったのだった。そして読んだその足で本屋に駆け込んで買ったのだった。畑さんがあとがきで書いてあるように、そこらへんの高校生では読み通すことも理解することも難しく、当時のぼくはまさに畑さんが勧めるように『解析概論』は「お守り」と化してしまった。
線を引っ張ったところを見てみると、そうだそうだ、ぼくの原点だと再発見した気持ちで、「”スポーツは走ることなり” それを信じたのである。」というのは、「信じる」というところに感動した。というのも、この単純に「信じる」という行為がいかに人を前進させるかをなんとなくではあるが知っていて、畑さんはそれをずばり言ってくれたからだ。
この「信じる」は「宗教を信じる」とかの意味ではなく、「熱意」を表していて、そして初心者の心構えを説いている。人が何かを挑戦したりするとき、周りの人は、スポーツだったりすれば、怪我をするから慎重にとか無理しないでとかいうが、そういうことが人の行動を停滞させる。まずは行動を起こし、怪我をしたらしただ。スポーツには怪我がつきものであり、怪我をしたからこそ学べることがある。骨董にのめり込むにしろ、だまされるとかの助言は不必要。騙されてなんぼなのだ。
畑さんは「死ぬべくして死に、それでよかった」と書く。これほど優しい言葉があるか。人間いろいろ、人間社会は多種多様で、悩みもそれぞれ、人生いろいろ。にもかかわらず、あまりに無責任な意見が多く、少しは他者を重んじ、尊敬しろと思う。
畑正憲の本はあと数冊あるから読んでしまおう。んで、ここらで、人生もう真ん中あたりだから、一度いろいろと整理したいから、古本屋に売ろう。
断捨離中につき、懐かしい本の再読をする。かれこれ二十年も前、高校生の頃に読んで感銘を受けて、ほぼすべてのエッセイを読んだはずだ。どこにいったかはわからないけど、手元に残っているのは数冊のみ。もしかしたら図書館で借りて読んだのかもしれないが、もう覚えていない。
ぼくは畑正憲に影響をうけること甚大で、細かい内容はあんまり覚えていないけれども、端々で心に常に残っている。そしてそれが生きる上での糧になっている。ぼくの思想の百分の一は畑正憲でできている。百分の一といっても、ぼくは多くの人に影響を受ける中の百分の一なのだから、かなり大きい比重であるはずだ。
若いころ、線を引っ張っているところがあるから、それを書き出しておく。
「息子に夢を託すというのは、生活の放棄であり甘えである。」(55)
「売春のことだが、人間が人間らしく生きている社会にも売春はあるだろうが、とりたてて禁止する必要もないだろう。他が健康だから目立つに違いないが、実害は少ない。」(61)
「純子は決して世間並の美女ではなかった。美女コンテストに出場すれば確実に落選しただろうし、ファッションモデルにもなれなかっただろう。粗末な服に身を包んだごく普通の女学生だった。しかし、私にはたとえようもなく美しかった。」(83)
「”スポーツは走ることなり” それを信じたのである。」(109)
「人を規制しているのは、病気への恐怖や知識ではない。もっと別のものだ。」(140)
「徹夜?
それは気違いがやるものだ。
先生?
それは教壇の飾りじゃないか。
学校?
それはたむろそて遊ぶ所だ。
試験?
それはヒステリーの治療薬だ。
勉強?
それは日常の施策と行動にある。」(169-170)
「当時私は、あの手紙を貰ってすぐSの元に行き、いろいろと話をすれば救えたのじゃないかと自責の念を覚えたりしたが、とんでもない思いあがりであったろう。今になって、はっきりそれがわかる。死ぬべくして死に、それでよかったのだと思う。」(190)
再読して思い出した。高木貞治の『解析概論』もこの本で知ったのだった。そして読んだその足で本屋に駆け込んで買ったのだった。畑さんがあとがきで書いてあるように、そこらへんの高校生では読み通すことも理解することも難しく、当時のぼくはまさに畑さんが勧めるように『解析概論』は「お守り」と化してしまった。
線を引っ張ったところを見てみると、そうだそうだ、ぼくの原点だと再発見した気持ちで、「”スポーツは走ることなり” それを信じたのである。」というのは、「信じる」というところに感動した。というのも、この単純に「信じる」という行為がいかに人を前進させるかをなんとなくではあるが知っていて、畑さんはそれをずばり言ってくれたからだ。
この「信じる」は「宗教を信じる」とかの意味ではなく、「熱意」を表していて、そして初心者の心構えを説いている。人が何かを挑戦したりするとき、周りの人は、スポーツだったりすれば、怪我をするから慎重にとか無理しないでとかいうが、そういうことが人の行動を停滞させる。まずは行動を起こし、怪我をしたらしただ。スポーツには怪我がつきものであり、怪我をしたからこそ学べることがある。骨董にのめり込むにしろ、だまされるとかの助言は不必要。騙されてなんぼなのだ。
畑さんは「死ぬべくして死に、それでよかった」と書く。これほど優しい言葉があるか。人間いろいろ、人間社会は多種多様で、悩みもそれぞれ、人生いろいろ。にもかかわらず、あまりに無責任な意見が多く、少しは他者を重んじ、尊敬しろと思う。
畑正憲の本はあと数冊あるから読んでしまおう。んで、ここらで、人生もう真ん中あたりだから、一度いろいろと整理したいから、古本屋に売ろう。
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