2019/03/01

『「武蔵野」を読む』 赤坂憲雄 岩波新書

基本的には柄谷行人の『日本近代文学の起源』の風景論をもとにしているのかと思う。国木田独歩の「武蔵野」は名作とされているが、正直読むのはかなりしんどい。めちゃくちゃ退屈なわけ。
国木田は風景を発見する。その風景は、心象風景が投影したものでけっしてリアリズムの描写ではない。赤坂さんが、本書で論じているのは、国木田の「欺かざるの記」と「武蔵野」の関係だが、いまでは失わわれた武蔵野の雑木林が彼の心と折り重なっていると述べている。
風景論はあまり人気がないのか、それほど類書がない。でも、現在ではアニメの聖地巡礼(ブームは去ったかな)なんかもあり、アニメで描かれる風景なんかもけっこうおもしろいと思う。ジブリ作品をみて、多摩ニュータウンにいったりする人がけっこういるが、そこでみる風景はアニメのものとかけ離れている。なぜアニメの風景は、僕らを惹きつけるのか。絵がきれいで彩色豊かだとかもあるが、そこには現実の風景から取り除かれたものがあったり。
現在、玉川上水周辺で国木田独歩がみた武蔵野の風景はない。武蔵野はすでに武蔵野ではない。しかし、武蔵野の地にマンションが建つと「武蔵野」の風景を利用して入居者を募集したりもする。僕らは土地土地の風景をもっていて、その風景に自分の心象風景を重ねあわせる。
誰かこの問題をがっつり論じてくれないかな。
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