2019/03/26

レコードとCDの音質について/J.S. Bach, 6 Partitas BWV 825-BWV830, András Schiff/バッハ 6つのパルティータBWV825−BWV830 アンドラーシュ・シフ



J.S. Bach
6 Partitas BWV 825-BWV830
András Schiff 
London Records, L56C-1814/5, 1983

CDでも持っているが、レコードでどうしても聴きたくて買ってしまった。
アンドラーシュ・シフのパルティータがすばらしいのは知っているのだが、レコードで聴くとやはり印象も異なる。レコードの音はどこか色っぽい。
「音がいい」という時、何を意味しているのか。僕らは「音がいい」というとノイズがなかったり、クリアであったりといった意味で使うことが多い。でも「音がいい」というのは、まず誰にとってなのか。それは人間にとってだ。
材料工学では純度がいいからものづくりで最適であるとはかぎらない。ものをつくる際にはいろいろな工程が入る。切削、折り曲げ、研磨などなど。金属学としては純度が高ければ高いほど品質が良いと考えられる。しかし、ものづくりの際にはわけがちょっとばかし違う。もちろん分野にもよるが、若干の不純物が入ることで、切削性が向上したり、耐熱性が向上したり、まあいろいろと特性が異なってくる。そこで問題なのが「品質がいい」というのは何を意味するのかだ。この言葉は工場の現場では非常に多義的となる。
ちょっといた不純物が、ものづくりの際に人間側に寄り添ってくることがよくある。ものをつくる人間にとって作りやすい素材であったり、ちょうどいい特性であったりと、それはあくまで人間にとって「いい」のだ。しかもここで重要なのが、その理由をはっきりと述べることができないということなのだ。材料の生産工場が異なるだけで、スペックは同じでもなぜか同じ特性がでなかったりと、わけのわからないことになることもある。「品質がいい」と「使える/最適」は違う。
「音がいい」という場合も同じで、オーディオをやっているといろいろなデータをみて客観的に音質を語ることがある程度できる。しかし決定的なところは神秘になる。
CDはとってもクリアな音をだす。しかしなぜか色っぽくない。プラセボだとしても、実際聴き比べると違うのだから仕方がない。レコードを愛するひとはレコードの音質の良さを実感している。もうこれは理屈ではないわけで。レコードは材料工学と同じで、純度が高ければいいという話ではない。不純物が若干入ることで人間の耳に寄りそう音が実現される。
レコードを聴いているというと、たまに「CDとの音質の差はわからない論争」に巻き込まれるが、もううんざりで、実際もしかしたらわからないかもしれない。でも、なんでもそうなんだが、人間の感性というのはなかなか複雑にできていて、同じもので環境が違えば、違うものになることはよくあること。回転寿司とカウンターの寿司で同じクオリティを提供されてもカウンターのほうがおいしいわけで、というのもそれは味だけでなく雰囲気も一緒に味わっているから。感性というのはそういうものでしょう。
人間は論理的な生き物ではない。「戦争はいけません」という言葉は誰がしゃべるかで重みが違う。僕みたいな若造がこの言葉をいうと「サヨク」になるけど、九十歳の老人がしゃべるといっきに言葉に重みが増す。同じ言葉でも喋る人が違えば、言葉の風景も異なる。そういうのを読み取るのが人間の感性なんだろう。
こういうことを理解しない人が、上記のようなくだらない論争をふっかけてくる。そしてなんちゃって理系をかじっている輩ほど数値を問題にしてくる。じっさいの実験現場や工場ではいろいろと「神秘」があるんだけどね。
最終的にはオーディオは科学ではなく神学に近いと極言してもいいと思うようになってきた。だからなんだというのか、と。

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