2021/05/25

『人口減少社会のデザイン』 広井良典 東洋経済新報社

 前提として日本の財務残高の対GDP比でみると、250%ぐらいあって大変と。

で、なぜこんなことになっているかと言えば、高度経済成長期の夢から醒めておらず、いまだ日本が蘇ると勘違いし、借金をしまくる。しかしそれが将来世代への負担になっている。
そして日本は他国に比べて社会的孤立が進んでおり、社会保障の面からいっても他人の無関心が、人々の支えあいを忌避させていると。

そこで将来の日本のデザインが大きく分けて二つ。
都市集中型シナリオ
地方分散型シナリオ
となり、前者は出生率の定価と格差を広げるが、政府の財政は持ち直す。
後者は出生率は持ち直し、個人の幸福感も持ち直すが、政府の財政は悪化する。
んーどうなのでしょうか。ぼくは基本的には都市集中型であるほうがいいのではないかなと思うのだけど。そもそも地方分散であれな出生率が上がるとか、幸福感が増大するって本当ですか。

まあいいとして、人口減少がもたらす帰結よりも、そんんあ社会をどうデザインするか公共政策経済社会システムの問題が重要。
東京の出生率の低さは際立っているにせよ、でもですね、これって東京は単身者が多いことを意味している。地方は単身者よりも家族が大いに決まっている。だから出生率が高い。
それに資本主義からの脱却的なことを述べているが、どうもね。言わんとしていることはよくわかるが。
クリエイティブ産業、つまり科学、文化、デザイン、教育が経済を牽引していくと。だからねー物を生みだすというのは、工業でもあって、たしかに3Dプリンターとかもあって、大量生産からの脱却というのはある程度達成できるけど。
なんか工場労働というのが非常によくないものという固定観念があるのではないかな。
まあ工場労働は非人間的なシステムだけど、そもそもクリエイティブ産業だって非人間的だ。
たしかに資本主義が単なる市場経済主義とは違うのはそのとおりで、そもそも国家による暴力と独占が富がさらに富を生むというサイクルになっている、これが資本主義の実体だろう。

でも全体のパイが限られてる世界で、とくに現代のように高度成長が望めない時代、そのパイの食いあいをする資本主義の倫理、つまり私利の追及が全体の幸福に繋がるというのは、イデオロギーにすぎないから、もっと違うあり方があるのかもしれない。
日本は「その場にいない人々」つまり将来世代につけをまわす社会になっている。
これはハンス・ヨナスの倫理、世代の責任を見ようとしない状況で、嘆かわしい。

社会保障には三つのモデルがある。税を財源とする普遍主義モデル、保険料で賄う社会保険モデル、民間保険そしてボランティアが主要な役割となる市場型モデル。

コロナ前の著作で、医療の問題も書かれている。勤務医の少なさと開業医の多さ。そして開業医の利権。なんだかね。

『誓願』 マーガレット・アトウッド/鴻巣友李子訳 早川書房

全体的に砕けた感じの、前作のような苦しいさのようなものがなくなる。
いくぶんニコールの存在が軽く、台詞もなんか微妙だし、ギレアデ潜入前の訓練なんかの描写が、ちょっと微妙でありましたね。ドラマシリーズもあるから、このあたりの影響かもしれない。どこかヤングアダルト的なところがあった。

現代社会の負のスパイラル。自然災害、戦争、経済問題、社会問題など。
「人々は不安になっていた。そのうち怒りだした。希望のある救済策は出てこない。責める相手を探せ。」(96)
そしてできあがるのが、全体主義的な社会。皆がお互いを監視しあう社会。今回のコロナ騒動で、はっきりいと身に染みた。

リディア小母も"Tomorrow is another day"と。言ったりしている。侍女の衣服は赤だし「スカーレット」だし。ニコールの養母はメラニーだし。
まあリディアも目的のために手段を選ばないリアリストであるし。

抑圧的な社会で、言説はコンスタンティヴなものではなく、意味がずれていく。信仰心のある言葉が機械的になり、発話者の行為と一致しなくなっていく。
リディア小母が信仰の言葉を発しても、そこに読者はリディアの信仰を見いだすことはない。どこか皮肉めいていて響く。
この現象はリディアだけでなく、全ての登場人物にあてはまり、全登場人物の言葉が行為と一致していかない。
ただし、そこに社会への反抗が読み取れる。リディアとジャド司令官とのやりとりは象徴的になってる。

生殖が機械的な作業であるべきものとして規定されているようだが、実際に存在するのは女性という存在なんだが、その存在を否定し、思弁的な存在として捉えていく社会。
神を信仰することは反理性であるようだが、しかしそこで行われる統治のテクノロジーは理性的だ。だからこそ女性を産む機械として見なす。女性とは、こうあるべきである、という定言命法がいかに人間性を剥奪していくかがよくわかる。

2021/05/19

『侍女の物語』 マーガレット・アトウッド/斎藤英治訳 ハヤカワepi文庫

一人称で進んでいく。
かなり閉塞感のある小説で、詳しい設定はよくわからないところもあり、ギレアデ共和国なるものがいかなる経緯で出来上がった国であるかなどは明確になっていない。
「日常とは、あなた方が慣れているもののことです」(72)。
んーそうなのだよね。日常が変わって、それに抵抗してもみんながその日常を受け入れた時、抵抗者は白い眼で見られる。
オブフレッドは、読者に語りかけていく。
オブフレッドは、いつの間にかギレアデ支配の生活をしていく。子供は奪われ、子供を産む機械としての女性でしかなくなっていく。
少しづつオブフレッドの周囲の雰囲気が変わっていく。司令官に個人的に誘われるようになることだけでなく、セリーナ・ジョイの口調が変わったり、けっこうみんな、ギレアデの体制の中で不満があって、でもそれを外には出さない。とりあえず日常を過ごしていく。
これってソ連の体制みたいなもので、みんなソ連体制の欺瞞を知っているけど、いちいちそれに反抗せず、日常を過ごしていく。
これって単なるフェミニズム文学なのだろうか。
たしかに女性が所有や人権などの権利を剥奪され、生殖に特価された存在とクローズアップされているけど、小母の存在やらもいるし女中もいる。女性社会が出来上がっている。
男も性の快楽を許されているわけではない。

気に入らないのは、解説に落合恵子を持ってきていること。なんでもかんでも従軍慰安婦だとか沖縄に結びつけちゃうバカじゃない。この解説もかなり的外れではありませんか。
「フェミニズムの視点から読むと、わたしには近過去、あるいはいまもって過去完了になっていない半過去の「地球の半分の思い」(女性側からの景色』を描いた作品にも読めるのだ」
まあですね、小説の読み方はある程度自由ではありますが、「近過去」とか「半過去」とかわけのわからないこと言ってないで、きちんと小説の解説をしたほうがよい。
小説で書かれる女性への抑圧を書いて、このディストピアは現在と重なると決まり文句を言って、申し訳なさ程度に男もつらいようだと書いて、んで最後にはみんなで異議申し立てをしましょうって終わる。
なんたる駄文。
この小説のテクストの魅力や一人称で描かれることの効果、さらにけっこう人間関係が複雑であることなど、語れることはいっぱいほかにもある。
「フェミニズム的臭いのする作品を忌み嫌い、矮小化することが特異な文学の世界」ってのはお前の頭の中だけだろ。ちゃんとアトウッドの作品は評価されているじゃないか。
まあですね2001年9月、まさに同時多発テロのときの文章でもあるし、まあいいでしょう。

2021/05/18

『謎とき『風と共に去りぬ』――矛盾と葛藤にみちた世界文学』 鴻巣友季子 新潮選書

『風と共に去りぬ』は映画も名作であることは間違いないが、小説はそれを遥かに越える世界を描き出していて、映画と小説ではストーリーは同じでも描かれているものは全く異なる。

"Tomorrow is another day"も小説を読むと、全く異なる響きがある。「明日には明日の風が吹く」という訳は現在の映画版の字幕では採用されていない。しかしかなり日本では人口に膾炙している表現となっている。そしてどこか希望が響く。本書ではこの訳が帝劇で舞台化した菊田一夫だという。スエレン役を演じたことがある黒柳徹子が「江戸職人みたい」と言ったようだが、言われてみればそうだ、「宵越しの金は持たない」みたいな。
鴻巣さんはこの言葉を、ある種のネガティヴシンキングとしてとらえれている。
そしてなるほどと思わされたのが、ヘミングウェイの『日はまた昇る』で、これも原題は"The Sun Also Rises"。これは旧約聖書「伝道の書」から引かれているとのことで、"The sun rises and the sun sets"だと。
"Tomorrow is another day"はマタイ福音書でも同様のフレーズがあり"take therefore no thought for the morrow: for the morrow shall take thought for the things of itself"「明日のことは思い悩むな。明日のことは明日が考える」となる。
これは人間が考えなくても、神がお与えになる的なことのようで、まあスカーレットの気質ともあう。
「たとえ、今日と代わり映えしなくても、つぎの一日がはじまる。そのなかでなんとか生き抜くしかないというある種の諦念がベースにあり、……だからこそ、何度も挫けながらも人生を新生させ前に進もうとするヒロインの意志がいっそう輝くのである。」(57)

鴻巣さんの訳は本当によかった。岩波版と少し比較してみたが、岩波では括弧で独立してスカーレットやマミーの心情、まさに自由間接話法で書かれているところを、鴻巣さんは地の文のなかで簡潔させている。
「語りてからある人物の内面へ、また別の人物の内面へと、視点のさり気なく微妙な移動があり、それに伴う声の”濃度”のきめ細かい変化、そして、間接話法から自由間接話法、自由直接話法、直接話法に至るまでに、何段階ものグラデーションが存在している。」(154)
『風と共に去りぬ』という小説は、著者の意見というか思想がほとんど読み取ることはできない。小説でよくあるのは地の文で著者の意見や判断が書かれている。『風と共に去りぬ』はそれが見えない、わからない。
そしてこの翻訳でいいなあというのが、話の展開のコミカルさがよくでていることだ。
「シリアス一辺倒、悲劇一辺倒、感傷一辺倒にならず、その後に必ず軽妙、コミカル、あるいは話の腰をおるような反転が織り込まれるのだ」(159)

メラニーこそが母エレンであるというのは、まあそんな感じで、憧れの存在である母エレンになれないスカーレットの反発がメラニーへと向かっている。
メラニーはmelaniaで黒い、暗いの意味。スカーレットscarletは緋色。まさに「赤と黒」。タラの赤土でもあるし。いろいろと暗示的ではありませんか。
母エレンが死んだ時とレットがスカーレットを置き去りを決意した時が一緒なのではないか、という指摘はなかなかいい。
そしてこの小説ではスカーレットのエロスがほとんどないことだ。一度だけレットがアシュリーとスカーレットの噂に嫉妬し、ベッドに強引に押し倒しとたとき、性の悦びに目覚めたのか、と思わせなくもないが、ほんとこれぐらいしかエロスがない。だから、このこの話はまったく性的な嫉妬だとかで話が進まない。
鴻巣さんは『風と共に去りぬ』は単なる恋愛小説ではないという。ほんとうだよ。

蛇足。
スカーレット・オハラの名はもともとパンジーPansyだったという。でもこれは俗語で「ホモセクシュアルな男性、なよなよした男」といった意味があるようで、当時では南部にはまだこの俗語の意味が浸透していなかったらしい。
んで、Pansyだが、『How I met your mather』というシットコムがもうかれこれ10年前ぐらいに流行った。その第一話で、リリーがマーシャルの優しさを皮肉って、
"Please, this guy could barely even spank me in bed for fun. He's all like, "Oh, did that hurt?" and I'm like, "Come on, let me have it, you pansy!" Wow, complete stranger."
「ちょ、こいつはベッドでお楽しみの時でさえ私のお尻を叩くのがやっとで、「ねえ、痛くないかい」ってな感じなのよ。んで私は「カモン、もっとやりやがれ、pansy野郎!」オッオー、知らない人だったわ。」
とタクシー運転手に言うが、このPansyの意味がいまひとつよくわからなかったが、こんなところで長年の疑問が氷解した。んまあ「おかま野郎」ってなところでしょう。

2021/05/07

――エックハルトの神秘説と一燈園生活――『西田幾多郎講演集』 田中裕編 岩波文庫

「エックハルトは心の動きを三つに分けて居る。一つは五感の働き即ち感官と、今一つは考える力即ち理性である。……彼はその上に超理性的な能力(super rational faculuty)があるとした。それは心が一つになった状態であって、前述の感官の働きと理性の働き以外に、今一つの別の働きがあるのではなくて、それらが一つになったときに、純一になったとき、私のないとき、言葉を換えていえば我のいないとき、我を忘れたとき、火花のように現われるFunke(火花)である。この力によって、自分と人との区別がなくなり、自他一体、神と我と一致する働きがあるのである。それは感官あるいは理性で考えていえるのでなくて、それらを棄てたとき現れる光である。光という言葉は、前の時代からあってラチン語ではスチンテリア(scintilla)と言った。」(20)

「自分と他人が一つになり、神と自己が一つになるという、根本思想であり、この根本思想から種々の差別が生じ、物と我と、自分と人、いろいろと分けれてくる」(27)

「智識の奥に、もう一つの智識即ち超理性的ともいわれ、直覚ともいわるべき流れがある。それが我々に真実の智識を与え、我々の声明は、この心の奥に流れて居る智識によって、導かれて行くのである。」(31)

つまりは芸術家の技能は一つの智識ではあるが学問的な智識ではない。働くことによって得られる智識で、「どう描けばいいだろう」という問いに「考えてはいては駄目だ。まあ描いてみよ」というもの。

とまあ、やはり小難しいが、超理性的な能力というの、フロイトのエスとかそんなものとしても捉えられるのかな。無意識的な力。
意識の流れがここでは書かれている。んーいわば意識というのは邪魔な存在でもあり、例えばピアノを弾いていて、意識的に弾こうとすると間違いを犯してしまう。いい演奏をしたなと思う時は、意識的にピアノを弾いていない。
ここではピアノと自己が一致している状況であると考えられ、それは「直覚」の流れがあるということか。
んーむずい。

「草枕」 『漱石全集 3巻』 岩波書店

やはり「草枕」は難しい。漢語なんか、注釈を参照しても難しい。芸術論云々も難しい。
ただこの本はそういう難しいところをうっちゃって、流れに身をまかせながら読むと、いい小説。ターナーやミレーの絵画のような淡さが通奏低音となる。
那美の「憐れ」ってなんなのか。さっぱりわからないけど、いいんですね。
久一も野武士も満州へ行く。にもかかわらず、その現実があんまり現実感もなく描かれている。
坊主たや源兵衛たちの交流にしろ、なんとなく浮世離れしている。
東洋的詩情、ここに極めりといった感じか。

「芭蕉と云ふ男は枕元へ馬が尿するのをさへ雅な事と見立てゝ発句にした。余も是から逢ふ人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取りこなして見様」(12)

人間をなめている。

2021/05/05

――Coincidentia oppositorumと愛――『西田幾多郎講演集』 田中裕編 岩波文庫

「神は無限とはいっても、それは有限を否定した無限ではない。……有限と無限との一致した無限である、即ちCoincidentia oppositorumである。神は総ての反対の統一である。論理的に矛盾したものを統一したものであって、両立しないものの一致を神の性質と(クザヌスは)考えた」(10)

「我は我を知る。知る我と知らるる我とは同一である。……部分と全体とが同一でこれが真の無限であり、具体的には「自覚」がそれである。」(12-13)

論理の連鎖を辿るのではなく、偶然にも全体を直覚し、そこから論理を組み立てる。Coincidentia oppositorumは消極的であるが、愛いおいては積極的となる。

「我等が真に愛するということは自と他の矛盾の一致である。即他を愛するという事が自分を愛する事になる。かく愛の本質はこのCoincidentia oppositorumがもっとも純粋に顕われたものである。」(15)

愛は論理的には説明できないが、Coincidentia oppositorumが生活の愛で、一切の生活の、人間活動の基礎となっている。

なかなか興味深い話をしている。神の無限とは何かが明確に語られている。そしてそれが愛なんだという。ここはよくわからないが、ただ論理では説明できないものがあって、それは矛盾を内包しているというこの感覚はいい。

2021/05/04

『風と共に去りぬ』 第5巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

んー素晴らしい小説だった。今の今まで読んでいなかったのが悔やまれる。
スカーレットの"tomorrow is another day"の意味が、頻繁に困難なときに登場するが、この言葉の意味がその都度変化しており、単純に面倒なことは先送りというだけでなく、たまに諦念が入ったり。
ラストでこの言葉で終わるが、決して希望のある言葉ではないし、そして決して単に困難を先送りすることを意味しているだけでなく、スカーレットの生き様がまさに最後の言葉に凝縮されていて、リアリストで気性が激しく自己中心的な人物にぴったり。

スカーレットはいつになってもスカーレットのままで、何も学ばない。メラニーが死んで、メラニーしか友達はいなかったと悟っても、アシュリーが色あせても、レットへの愛を自覚しても、スカーレットはスカーレットのまま。
レットへ愛を語っても、どこか自己中心的だし、確かにレットとの会話で怒りを抑制してレットを少し驚かせたりもするけど、なんだかんだでタラへの思いは変わらない。
アシュリーへの愛が醒めても、たんにレットに乗り換えただけでもある。
この小説では、南部は敗北後にレット以外の男たちは皆、クー・クラックス・クラウンに参加する。しかしそんなことをしていても仕方がないと少しづつだが気づき始め、小説の最後のほうではKKKは解散していることが語られる。そしてみんなめいめいが必死に一日を生き言っていることが語られる。ただし、そこでは取り残された者と時代の変化に対応した者とがいた。かつては貴族然としてものが、パイのワゴン販売やら農作業に自らの道を見いだしていく。
物語は少しづつ様相を変えていくのだが、スカーレットだけ昔のままのスカーレットなのだ。
マミーはタラに帰り、メラニーは死んでいく。レットは愛をすりへらしイギリスに行くという。
最後の最後までタラとマミーなのだ。
んー素晴らしい。
フランクが死んだときもたしかに良心に目覚める。でも、そんなことすぐに忘れてレットを結婚してしまう。
アシュリーへの愛が醒めても、レットにすぐに乗り換えるし、レットから愛想をつかされても、タラに帰れば元気になる。
ただここで一番のスカーレットにとっての痛みはメラニーの死のようで、ここで始めてスカーレットは味方が誰もいなくなるのを知る。
実際そうなのだ。アンナ・カレーニナと同様に、周りに理解者がいなくなる。
つねにスカーレットを守るメラニーの存在が輝いている。メラニーも頑固な性格で、南部精神の鑑みたいなものなのかな。

訳者あとがきで自由間接話法について語っている。なるほど。最後にマミーが地の文で自由間接話法になったりしているところも、なかなかいい。(424-425) ここは本当に素晴らしいところで、これまで主にスカーレットの心情だったが、ここで突然マミーの心の声が登場する。ボニーの葬儀のことやレットの落ち込みよう、メラニーの高潔さ、これらが重なりながら、マミーの心が吐露されていく。こんな素晴らしいことはない。
地の文では、著者の味方が書かれているかと思いきや、登場人物の考えや心理描写になっている。
映画では、このあたりの表現はできないので、小説を読み終わった後に見返してみると、なんと映画版が薄いことか。映画では絢爛豪華な描写であったり、風景の美しさがメインになっている。映像美に徹しているといっていい。しかし、小説は風景描写はあくまでタラの美しさとアトランタの喧騒と猥雑さで、スカーレットの心理を描くための素材でしかない。



2021/05/03

『風と共に去りぬ』 第4巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

あまりのおもしろさに、ゆっくり読むつもりだったのが一気読みとなってきた。
スカーレットはフランクと結婚をして、タラの追徴税を支払う。そしてさらにはレットから金を借りて製材所を経営する。
スカーレットも南部が再び復興することを望んでいる。しかし、その達成方法が異なる。男どもは選挙や投票、KKKなど政治運動によってこれを達成しようとする。しかしスカーレットは金持ちになることで、自分を守り、家族を守っていくことができると考えている。
スカーレットは男どもをバカにしていく。

「男性って、どん底に落ちても目が覚めないのかしら?」
「どうやらそうらしい。けど、プライドだけは売るほどあるんだ」トミーはまじめな顔になった。
「プライドね! プライドって素晴らしく美味しいんでしょ。特にくずれやすいパイ皮みたいで、メレンゲをのっけて食べたら最高ね」(126)

きついお言葉で。
スカーレットというのは、なかなか複雑に描かれている。スカーレットは基本的に子供が嫌い。自分の子供にもあんまり感心がない。が、そんな彼女も子供達にはひもじい思いをさせたくない、幸せな、安全な生活を送ってほしいとも思っている。(95)

この小説の複雑さの一つは黒人奴隷問題の描き方で、南部はたしかに奴隷制であったし、貴族趣味をしていた地域。で、黒人に対する認識を、北部と南部の違いを書いている。

ヤンキーの女たちが子供の乳母がほしい、アイルランド人の乳母がほしいと考えている。でもスカーレットは黒人の乳母を勧めるが、ヤンキーの女たちは黒人に自分の子供を預けられるわけがない、と。スカーレットはマミーを思い出す。エレンに仕え、スカーレットに仕え、しまウェイドの世話を焼いている。スカーレットは思う、

「やさしい手。このよそ者たちは黒人の手のなにを知っているというのだろう。 彼らのてはどんな愛おしく、安らぎを与えてくれるか。その手はその時々で、やさしくなだめたり、ぽんとたたいたり、そっとなでたり、何をするにも間違いがない」(140)

そしてさらにピーター爺やまでも「ニガー(黒んぼ)」と馬鹿にしていく。ピーターはいまだかつて白人から「ニガー」と侮辱されたことはない。んでピーターのここでの回想がちょっとおもしろく、

「大佐は今わの際でわしにこうおっしゃたぞ。『ピーター、わたしたちの子どもたちの面倒を頼んだぞ。頼りないピティパットも世話してやってくれ』そう言われたのだ。『あればバッタ並みの分別しかないのだ』と。それ以来、ピティさまのことは、それは大事にしてきたのじゃ」(141)

オールド・ペットと侮辱されたピーターはなんかピティを逆にペットみたいに扱っている様子。
父ジェラルドが落馬で死んでしまった。スカーレットがその経緯をウィルから聞いていて、逆にスエレンを讃えたりする。

「十五万ドルですって」スカーレットはそうつぶやきながら、誓いへの抵抗感があっさり薄れていくのを感じた。すごい大金じゃないの! それは、合衆国連邦政府への忠誠を誓う書類にサインするだけで手に入るなんて。……そんなささいな嘘をつくだけで、こんな大金が手に入るなんて! そういうことなら、スエレンを責められないわね。やれやれ!」(206)

とここでもプライドを重んじる南部人を馬鹿にしていく。
フォンテインおばあさんのウィルとスエレンの結婚を認めるかどうかをスカーレットに確認して、スカーレットは確信をもって認めるところ、

「では、わたしに帰すをしなさい。……いままであなたのことをあまり好きになれなかったのよ、スカーレット。子どもの頃から、ヒッコリーの実みたいに頑固で、わたしは自分はさておき、頑固な女性は好かないからね。とはいえ、ものごとに向かい合うあなたの姿勢は買っているんだよ。どうにもならいと分かったら、どんな嫌なことでも、つべこべ騒がない。そうして腕のいい猟人みたいに、柵をみごとに越えてしまう」

ここのやりとりもみごとで、おばあさんはウィルとスエレンとの結婚をあたかも認めているかの口ぶりで、しかもウィルを非常に買っている。でも雑種とサラブレットの結婚を認めるわけがないと言ってスカーレットを面食らわせる。
このあばあさんは多くのことをリアリストとして見えていて、アシュリーが使い物にならない男であること、それをメアリーのおかげで成り立っていること。スカーレットにはヤンキーやクズ白人から絞れるだけ絞れとまで言う。
フランクやアシュリーの行動がスカーレットの責任であるというなかで、メラニーだけが彼女をかばう。

「スカーレットは悪くなんかありません。彼女はただ――すべきと思うことをしただけよ。同じように男性たちも、すべきと思うことをしたの。人間にはそれぞれ己のなすべきことがあるし、しなくてはならない。」(424)

さすがはメラニー。何か宗教的使命感を感じる。

2021/05/02

『11の国のアメリカ史――分断と相克の400年』 上 コリン・ウッダード 岩波書店

上巻では独立までの北アメリカの移民の状況が書かれているが、これがなかなかおもしろい。
11の国は独立13州のことではなくて、明確に線を引けない文化領域を指している。
エル・ノルテ
ニューフランス
タイドウォーター
ヤンキーダム
ニューネザーランド
深南部
ミッドランド
大アパラチア
レフト・コースト
極西部
ファーストネイション

まずsteteとnationの混同があることを指摘している。そしてアメリカは世界で唯一、独立国家としての地位statehoodと国民であることnationhoodとが交換可能な人々であるという。
stateとは国家であり、いわば国連だとかへの加盟資格をもつもののことで、nationは共通の文化、民族、言語、歴史を共有していると信じている集団をさす。
故に日本はネイション=ステイトとなる。クルドやパレスチナ、ケベックはネイションであるがステイトではない。うひょひょー

なかなか興味深い指摘なのが、北アメリカへ新たに移住してくる者たちは、何世代か経ながら同化していく。移民たちが移住地の文化を多少なにかしらの影響を与えなくもないが、みんなが折り合いをつけていく。
んで、僕は全くと言っていいほどアメリカ史に疎いんだけど、基本的にアメリカへの移住者はヨーロッパからのエクソダスした人たち、信仰の自由を得るために新天地を求めてきた人たちというイメージがあったが、必ずしもそうではないし、むしろもっと複雑だとわかる。

エルノルテでは、スペイン人とインディアンとの混血も進んでいたし、そのためエルノルテでのカースト制も崩壊していく。エルノルテはメキシコの封建的な中心部とは異なる。自給自足的、勤勉かつ能動的で、暴政を容認しない人々であるそうだ。しかし政治的なものはスペインの影響をうけており、農奴なんかも制度として存在した。また家父長的でもあったし、宗教にも熱心もある。

ニューフランスはだいたいいまのケベックで、ここは現代においても寛容な社会を築き上げている。ド・モン公ピエール・ドゥグアとサミュエル・ド・シャンプランで二人はフランスでの宗教戦争にも疲れ、ユートピアを建設するために新世界へとやってきたという。とはいいつつも彼らが描いていたのはフランスと同様の封建制であったようで。しかし宗教には寛容でプロテスタントにも入植が許されていた。インディアンとの関係も良好にたもっていた。

タイドウォーターは現在のバージアニ周辺。ここはまずジョン・スミスがジェームズタウンをつくり開拓していくが、これは大勢の死者をだす事業だったよう。これは『1493』でも書かれていた。その後イングランドの王党派がやってきて、インデアンを追いやり巨大なタバコのプランテーションをやり始める。ということもあり、タイドウォーターでは貴族的な寡頭政治が主流になる。小作人や奴隷をつかってプランテーションを営んでいく。
んで、ワシントン、ジェファーソン、マディソンなどの建国の父たちはバージニア州出身でみなプランテーションの領主だった。だから彼らは決して民主主義者ではなく、古典的な共和主義者だったということだ。古代ギリシャ・ローマに範をとっていたつーことだ。
タイドウォーターでは街の建設ではなく、農村社会が出来上がっていた。
タイドウォーターでは非常に中世的な紳士像が残っており、何かあれば決闘もするし復讐もする。

ヤンキーダムはピルグリムにはじまる。彼らはイギリスの王党派のような理念を嫌っており、新しい社会、実践的宗教ユートピア、カルヴァンの教えに基づく神政国家の建設を目指していた。彼らピューリタンたちは自分たち以外の宗派に非常に非寛容であった。
そして迫害されて新世界にやってきたと思われがちだが、事実そういった面もあるが、多くは宗教的実践を徹底させるために移住してきたという。
彼らには使命感があった。そしてこの使命感、アメリカ例外主義、「明白な運命」をもたらしてきた。
そしてヤンキーたちはタイドウォーターのようなノルマン人のもつ文化を嫌っていた。

ニューネザーランド。つまりは現在のニューヨーク市。ニューヨークがまさにオランダ西インド会社が治めていた当初から貿易で賑わっていた。通商の自由が優先課題であり、さまざまな民族がひしめき合っていたよう。
多様性、寛容、社会的上昇志向、個人的企業心など現代ニューヨークらしさがすでにできあがっていた。
経済でも科学でも政治でも哲学でも、最先端の国だったオランダ。当時のオランダの文化の影響を受けていた。
とはいっても支配層はエリートであり、さらに言えば、タイドウォーターや深南部に奴隷を輸出していたのは、ここの商人だった。だから南北戦争のときも当初はヤンキーにつくつもりはなかったとかなんとか。

深南部への移民たちはバルバドスからやってきており、バルバドスのやり方をそのまま踏襲してプランテーションを作り上げていく。そして自分たちはタイドウォーターと同様にノルマンの末裔としてアングロサクソンやケルトを見下していた。
そして最もアメリカらしさの原型がミッドランドだという。すなわりペンシルヴァニアであり、フィラデルフィア。クェーカというヒッピー的、平和主義、アナーキズムなどイカレタ連中だったようだ。だから政治がまったくできなかったようで・・・。

大アパラチア。ボーダーランド、つまりはイングランドとスコットランドの境で戦争に耐え忍んできた人々が入っていく。彼らは貧しく、教養もなく、刹那的で。何か財産をもつこともせず、牛などの牧畜で生計をたてたりしていく。誰かに服従するのを嫌い、奴隷制にも嫌悪していた。他のネイションからはたんに怠惰な人たちに見えたようで。彼らの感心ごとは富ではなく、強制からの自由の極大化であった。ボーダーランドの人々はインデアンに溶け込んだり、白人インデアンになったり、婚姻をむすんだりしていく。

ということで独立戦争。これもなかなか解釈が難しいところで、みんながみんな独立したかったのではなく、イギリスが結構強硬路線で、妥協なんかしないでやってきたから戦争になってしまったところがあるようだ。
そもそも北部ヤンキーが反王室でもあるが、お茶を沈めた事件だってボストンだ。ミッドランドでは革命には興味ないし、アパラチアではそもそも統一的な見解なんかなく、イギリスの方が自分たちに自由を与えるならイギリスだしといった基準。
という感じで統一的ではなかった。憲法は妥協の産物であり、オランダ的な権利章典もあり、南部の選挙人のようなまさに共和主義の思想、拡張主義のヤンキーや南部を抑えるために州権の強化などなど。とりあえず全てが妥協の産物ではじまっている。

どうも独立戦争によってアメリカはイギリスの軛から逃れることができたが、統一国家ではないと言える。

2021/05/01

『風と共に去りぬ』 第3巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

だんだんおもしろくなって参りました。
タラにようやく戻ったスカーレットたち。スカーレットは過去を二度と振り返らないことにする。エレン・オハラの教えを振り払い、手に豆をつくりながら生きていく。それでもタラへのスカーレットの思いは変わらなかった。
スカーレットは泥棒に入ったヤンキーを銃で撃ち殺すし、ヤンキーどもがタラの屋敷から略奪しにきたときも毅然と対応していく。メラニーに対してもどこか親近感を抱く。
スカーレットは相変わらず現実主義者で、ケネディ・フランクがやってきてスエレンと結婚は経済的に迎える用意ができてから結婚することをスカーレットに伝えるが、スカーレットは一人口減らしになると期待していたのにとがっかりしたりする。
死んだと思われたアシュリーの帰還したときが、またおもしろい。メリーがアシュリーに抱きつき、スカーレットも有頂天になってアシュリーに抱きつこうとすると、ウィル・ベンティーンがスカートを掴んで止めるところ。(213)。とってもコミカル

スカーレットがアシュリーに金策を相談にしにいくと、アシュリーは自分には助けられないことを伝えるところ。ここはなんだかんだ、いい場面で、アシュリーという内気な性格の持ち主が、戦後の南部におかれた現実になかなか向き合えない状況が述べられる。スカーレットのような現実主義者とアシュリーのような内腔的な人物とで、戦後の生き方が明確に分かれていく。

「ぼくはずっと人付き合いを避けて生きていたろう。よくよく選んだ友人とだけ付き合っていた。しかし戦争に教えられてが、あれは夢の人々が済む自分だけの世界を築いていたということだ。人間が実際にどんなものかも戦争に教えられたが、彼らとどうやって暮していくかは戦争も教えてくれなかった。これからも分からないままじゃないかと思うんだ。とはいえ、今後、妻子を養っておくには、自分と似ても似つかない人たちばかりの世界でやって行かざるを得ないようだ。スカーレット、あなたは世の中の角をつかんで、自分の思うようにねじ伏せてしまえる人だ。でも、ぼくはこの先、世界のどこに居場所があると言うのだろう? だから怖いと言っているんだよ。」(240)

んー、よくわかりますよ。ぼくも自分がしている仕事がいかに自分の精神世界とあっていないか、常に苦痛を感じ生きている。まだぼくは生易しい世界で生きているからいいものを。
アシュリーは自分には何も残っていないが、スカーレットには赤土が残っていることを伝える。
スカーレットはそこで決心をする。

「一度は必死で追いかけた人だもの、家族ともどもひもじい思いをさせるわけには行かないわ。もうこんなこと二度と起こらないし」(254)

スカーレットはレットに結婚もしくは愛人になるためにアトランタへ行く。しかしレットは助けることができないことを伝えて、意気消沈した帰り道にケネディ・フランクに会う。そこでスカーレットは標的をレットからフランクに帰る。スカーレットはレットの助言をそのまま言うことを聞く。男を誑しこんでいく。フランクは経験不足でスカーレットの罠にはまっていく。スエレンの婚約者を奪おうとする。
マミーはスカーレットの選択を全面的に指示をする。マミーはなにもかも理解した上で黙ってスカーレットを手助けしようと端から決めている。マミーとスカーレットのやりとりなんかも非常にいいんですよね。

「おまえなんか、とっとと〈タラ〉へお帰り!」
「「無理に〈タラ〉へ帰そうとしたって駄目ですよ。あたしはいまや自由の身なんです」(399)

んーなかなかおもしろい。マミーは奴隷の身から解放されているが、それでもオハラ家に、スカーレットの傍にいることを決めている。
南部の敗北はどこか共感をしてしまうのが日本人の性でしょうか。

「敗戦してなお敗北を知らず、打ち砕かれてなお決然と背をのばして立つ人々だ。じつのところは、叩きのめされて無力な、支配下の人々だ。自分たちの愛する国が敵に蹂躙され、悪党たちが法を嘲笑い、かつての奴隷に脅かされ、男性たちは選挙権を奪われ、女性たちが侮辱されるのを、なすすべもなく見ているしかない。つまりは、記憶を堆積した墓場のようなものだ。」(414)

「旧世界のあらゆるものは変わってしまい、残るは形式だけだった。かつての慣習はいまも続いており、続けていかなくてはならない。いまの彼らに残されているのは、そうした形式だけなのだから。」(415)

そんななかでスカーレットはわが道を行くことを決心する。

2021/04/30

『荘子――古代中国の実存主義』 福永光司 中公新書

本書は荘子を実存主義に近づけて論じているが、必ずしも荘子が実存主義として扱っているわけではない。

「それぞれの人間が現実の痛苦と死とに直面して今という時間を生きている事実であり、問題はただ、それぞれの人間が現実の痛苦と死とに直面した今という時間をどのように生きるかである。荘子の哲学はこのような精神の極限状況から出発する」(7)

人間の存在それ自身は善悪の価値批判を超えている。そしてこの世のに必然によって投げ出された自己に対してだけ責任をもてはよい。
荘子の哲学を徹底した現実主義、現世主義をとる。
人間は寄る辺もない孤独を曠野のなかで彷徨している「一匹のこぶた(獣偏に屯)」のようなものだと。
荘子は人間存在をその上限からとらえるのではなく下限からとらえる。人間は生まれながらにして「身体障碍者であり、醜き者、貧し者、虐げられた者である。しかし全ての存在は必然的な理由をもって存在している。人間存在を全宇宙的規模で把握する。

「人間の声明のいとなみは常に一つの有機的な全体であり、そこでは全体を全体としてとらえる叡智が何よりも重要だからである。(17)

抽象的な思考ではなく、どこまでも現実的であり具体的であり、そして全一的である。
曰く、「生命なき秩序よりも生命ある無秩序を愛する。彼らにとって大切なのは理論そのものではなく現実であり、法則そのものではなくて生きることであった。」(18)

2021/04/21

『風と共に去りぬ』第2巻 マーガレット・ミッチェル/鴻巣友季子訳 新潮文庫

南北戦争勃発とアトランタの荒廃、そして南部の敗北。
かなーりおもしろい。スカーレットの自己中心さが暗い話に花を添える。
本書では南部の武器の貧しさが書かている。北部では最新式のライフル銃なのにもかかわらず、南部ではマスケット銃だったり。バトラー曰く、南部には戦争するにも武器は綿花と傲慢さしかないとか(16)、ひどい言われよう。医療品もなく、軍需物資もない。食料は先細りしていき、アトランタでの生活も日増しに悪化していく。

スカーレットはメアリーに内緒でアシュリーの手紙を読むが、興味があるのはアシュリーが事細かに書いてくる戦争の状況や戦争のバカさ加減ではなく、あくまでもアシュリーのメアリーへの愛の言葉だとかそんなことばっかり。
しかも戦争がまだアトランタから遠いときは、スカーレットはその状況を歓迎し楽しんでいた。戦争は人を享楽的にするし平時のような礼儀作法もすっとばすものがあるようだ。看護しながらスカーレットは傷病兵に色目を使う。

レットは完璧なまでにリアリストで、ミード医師との言い争いでは、

「戦争というのはいずれも神聖なものでしょう。戦いに出される人々にとってもは。もし戦争を始めた人たちが神聖化しなければ、どこの馬鹿がわざわざ戦いにいきます? しかしながら、闘う阿呆たちに演説屋がどんな掛け声をかけようと、戦争にどんな気高い目的を付与しようと、戦争をする理由はひとつしかありません。それは、金です。」(55)

んーこのあたりもこの小説が単純な戦争ロマンティシズムを描いているわけではないがよくわかる。
本書が出版されたのが1936年、まだまだイギリス、フランスがドイツに宣戦布告するまであと三年、日本の真珠湾攻撃までまだ五年ある。アメリカにおける戦争忌避がけっこう率直に書かれているのかもしれない。
メアリーなんかもバトラーの味方をする。アシュリーが不毛な戦争だと言っていたことなんかを述べたりする。メアリーは大義だとかを信じている割には、こんなことを言う。なかなか複雑な人間のようだ。
アシュリーもバトラーも良識があるが、違いはバトラーはリアリストであるが、アシュリーは現実に苦悩するタイプであることだ。

バトラーの台詞がいい。スカーレットが帽子の代金を少しばかりだそうとすると、
「頂いたところで、どぶに捨ているようなものですよ。あなたの魂のためを思えば、そのぶんの丘ねでミサをしてもらってはいかがです。あなたの魂は何度かミサの必要があるんじゃないかな」(85)
スカーレットは、バトラーの言葉にいちいち魅力を感じ、反発を感じる。でも最終的にはキスしちゃう。
「愛人ですって! 愛人なんて、子どもをぞろぞろ生んでおしまいじゃないの!」(291)
ひどい。スカーレットの子供に対する態度はひどい。ウェイドにも愛情を感じていないし、むしろメラニーが子供を生んだときに抱きながら、アシュリーの子供ということで自分の子供だったらよかったのにとまで思ってしまう。

アシュリーのつかの間の帰還のとき、スカーレットは再び愛の告白をする。アシュリーは節度を守る範囲でスカーレットの愛を受けとめる。

戦争は日増しに悪化していき、スカーレットの幼馴染たちも死んでいく。すでにあの頃には戻れないような状況になっている。老兵たちまでもが駆り出され、死んでいく。
アトランタ脱出のとき、ようやくプリシーが活躍する。プリシーがなかなかな狂言回しでいい。スカーレットに急かされなきゃ、のろのろと動くし、基本的にやる気がない感じ。
バトラーは老いた馬をくすねてきて、それでスカーレット、メラニー、メラニーの赤ん坊にウェイド、そしてプリシーをのせて逃げようとする。途中、少年兵がふらふらと崩れ落ち、その少年を他の兵が肩で担ぎ上げて歩き出そうとすると、少年はおろせと怒りだす。その光景をみてバトラーは変わる。スカーレットたちをタラへ連れて返すつもりだったが、軍に入隊するといってスカーレットに後は任せて去ってしまう。
アトランタでまだ平和だったとき、北西の方角にあらわれた黒雲はみるみる大きくなって強い嵐となり、スカーレットの世界をなぎ倒し、彼女の生活を吹き飛ばした。
「〈タラ〉は無事だろうか? それとも、ジョージアを席捲した風と共に去ったのだろうか?」(414)
「風と共に去りぬ」のタイトルは19世紀のイギリス詩人アーネスト・ダウスンの詩「シナラ」からとられているという。

スカーレットはなんとかタラに着く。そして母が死に、父は憔悴して、妹たちは腸チフス、奴隷はマミーとディルシー、ポーク以外みんな逃げた。
スカーレットはなんだかんだで責任感があり、アシュリーとの約束は守るし、タラに残されている家族や奴隷たちを背負うことを決心する。
「子どもとして大切にしてもらえるのも、今夜が最後になるだろう。スカーレットは大人の女になった。青春時代はもうおしまいだ。ええ、そうよ、父方の親族にも母方の存続にも頼るわけにはいかない。頼るものすか。オハラ家の人間は他人の情けを受けたりしない。オア原家の人間は自律して生きていく。自分の重荷は自分で背負う。」(466)
ジェラルドはスカーレットにかつて言ったように、スカーレットは赤土の土地タラで生まれ、養分を吸い上げ、留まるのが運命となった。

2021/04/20

『ソークラテースの思い出』 クセノフォーン/佐々木理 訳 岩波文庫

やはり詭弁を弄しているとしか思えないこともない。
これを読むとプラトンの初期の著作は、けっこうソクラテスの言葉を正直に伝えているのではないかと思えてくる。クセノフォンの描く対話、勇気について、正義についてなど、プラトンのものとあまりかわらない。
「国家」にいたると、おそらくはプラトンの考えが相当色濃く入るようになっているようだ。
いずれにせよ、プラトンがソクラテスに見いだす哲学、クセノフォンがソクラテスに見いだしたものは、同じものだったと思われ、しかし時間が経つにつれ、プラトンは抽象的な物言いをするようになっていく、といった感じか。

「世間の人々は世間一般の人が知らぬことについてあやまつ人間を気狂いとは呼ばず、大多数の人が知っていることに間違いを犯す人間を気狂いと呼ぶのであった。」(152)

「小さいことに間違いをする人は狂気とは思わない、けれども、強度の願望を愛念と呼ぶごとく、大きい迷妄を人は狂気と呼んだのであった。」(153)

「彼はまた「よい食事で暮す」euocheisthaiという言葉はアテーナイ語ではただ「食べる」の意味になっていると言っていた。そしてここの「よい」euは、精神も身体も苦しめることがなく、かつ手に入れることのむずかしくないところの食べ物を、食べる意味で付け加えてあるのだと言った。こうして彼は「よい食事をする」の語もまた、節制ある生活をする人々のことに、用いたのである。」(174)

エウテュデーモスとのやりとり。ソクラテスは自分の優れた気質に自惚れているエウテュデーモスを笑いものにす。(178) 誰かに何かを習うことを避けて、自らの心に湧いてくることに従うよう勧めるエウテュデーモス。対してソクラテスは医術を持ちだして、エウテュデーモスがもし誰かからも何も医術を学ばず、頭に浮かんできたとおりに医術をしたい、実験台になってくれと言っている、と言ってエウテュデーモスを笑いものにする。

エウテュデーモスとソクラテスのやりとりで、正義と不正についてを論じている箇所がある。(184)。

「無自制は飢えも渇きも肉欲も眠気も、これを我慢することを許さない、ところがこれができてこそうまく食い、うまく飲み、性愛も心地よく、休息も睡眠もはじめてたのしいのであり、よく待ちよくがまんしてこそ、それらにひそむかぎりの最大の快味が生まれるのであって、無自制はもっとも本然の、もっとも継続的な快楽を、真正に楽しむことを妨げるのである。ただ自制のみが、よく上述のことをがまんせしめて、ひとり上述のことにおいて言うに足る快味を楽しませるのだ。」(216)
ソクラテスは自制こそ快楽の活用で重要であると述べ、ここからさらに、自己修養、家政の切り盛り、友人関係、そして国家運営、戦争など、あらゆるこに楽しむことの本質をここでは説く。


2021/04/18

『社会心理学講義――〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉』 小坂井敏晶 筑摩選書

んーいい感んじ。
「理論の正しさを確かめるために実験をするのだと普通信じられていますが、その発想自体がつまらない。逆に、理論の不備を露わにすることで、慣れ親しんだ世界像を破戒し、その衝撃から、さらに斬新な理論が生まれるきっかけを提出することこそが実験に本来きたいされるべき役割です。」(51)

「科学とは実証である前に、まず理論的絞殺です。」(51)というのはなかなかな至言であります。

本線とは異なるが、先進国欧米というのはやはり虚構ですね。『責任という虚構』でもいろいろ書かれていて、フランスのウトロー事件にしろ、フランスではホメオパシーは保険適用だったり、というのも保険が効かなくなれば、もっとやばい代替医療に走り、全体の健康を害する可能性があるからという合理的な判断だとか、まあおもしろい。さらにフランスでは最近まで再審請求ができなかったとか。その理由が市民の意志が真理だからだとか。フランス革命からの伝統だとか、EUになって喧々諤々の議論があったとゆう。おっもしろーい。

下記はメモ。

ふつう相関関係と因果関係は違うことは重要なこととして知られているが、実際のところこの二つを明確に分けることができるのか。

ピグマリオン効果

同じ刺激にたいして各個人は違った現れ方がする。これを態度概念。

フロイトのエスについて。
意識の単なる欠如としての前意識ではなく、無意識を一種の意識の近接概念として位置づけている。それは意識に対して力動的関係を保ちつつ機能する、質的に異なったもう一つの能動的契機として無意識は理解される。
無意識とエスは自我とは別の存在者であり、我々の知らないところで操る他者。

認知不協和理論について。
報酬が高額だと嘘をつくことに大きな矛盾がない! 報酬額が高い場合よりも低い方が、行った作業をより楽しく感じると。
ある教団でお告げがはずれるとき、孤立状態の人はそのまま教団をさるが、集団でそのお告げが外れたことをわかると、周りに影響されて、さらに布教活動を始めたり、信者を増やそうとする。というのも認知不協和の低減がはかれるから。
フェスティンガーは、ここで「維持」を説明するために認知不協和理論を用いている。つまりこの理論は集団維持の理論。
外部の環境が行動を促し、意識ではその行動を正当化する、適応させていく。

個人主義的とは、外部情報に依存しても、その事実に無自覚だという意味にすぎません。何らかの行為を行った後で、「何故このような行動をとったのか」と自問する時に、個人主義者ほど自らの心の内部に原因があったのだとろうと内省し、自らの行動に強い責任を感じやすい。そのため行動と意識との間の矛盾を緩和しようと自らの意見を無意識に変更する。こうして個人主義者こそ、強制された行為を自己正当化しやすい、したがって認知不協和をかんわするために意見を変えるという逆説的な結論が導かれます。」(194)

普遍主義の立場は現実に差異があっても、それを本質的なものではない見なされる。この時認知環境では差異化が充分に働かず、他者がいかなる価値観をもっているかは、自分の自己同一性を脅かさない。

他民族。多文化主義ではは、外部と内部で境界があり、両者の誘導は阻止されるが、外部においては馴致される。(212)
これはおもしろ指摘ですね。

多数派からの影響は受けやすく同調していくが、多数派の影響がなくなると同調をやめていく。しかし社会は多数派に影響受けない事には成り立たない。

しかし少数はの影響というものがある。これは無意識に影響を受け、知らずに自らの行動や考えを変えていく。権力や権威への追従は長く継続させるのは難しい。少数派の影響は、「自ら自分の考えを変えた」と意識するところが違うわけだ。

「社会が閉じた系ならば、そこに発生する意見・価値観の正否はシステム内部の論理だけで決められます。規範に反する少数派の考えは否定され、多数派に吸収される。これが機能主義モデルです。それに対し発生モデルは開かれた系として社会を捉えます。システムの論理だけでは正否を決定されない攪乱要素がシステム内に必ず発生する。攪乱要因は社会の既存規範に吸収されず、社会の構造を変革してゆく。これがモスコヴィッシ理論の哲学です。」(264)

「犯罪の原因を社会の機能不全に求め、共同体内の利害調整が失敗する結果として犯罪を捉える限り、自由虚構と社会維持装置とが構成するダイナミックな循環プロセスは析出されない。悪い出来事は悪い原因から生ずるという思い込みが、そもそも誤りです。社会がうまく機能しないから犯罪などの悪い出来事が起きるのではない。社会が正常に機能するから、必然的に問題が起きるのです。

「日本は支配されなかったにもかかわらず、西洋化したのではない。逆に、支配されなかったからこそ、西洋の価値を受け入れた。日本の社会は閉ざされているにもかかわらず、文化が開くのではない。逆に社会が閉ざされてるからこそ、文化が開く。」(341)

同一性は変化に気づかなければその同一性は維持される。

「未来予測を不可能にする要素、あるいは不確実性の厳選、これが時間の本質です。」(377)

「いかし人文・社会科学の世界では新しい発見など、そうありません。……人文・社会科学はなんにも役に立ちません。しかしそれでよいではありませんか。……どうせ人文・社会科学を勉強しても世界の問題は解決しません。自分が少しでも納得するために我々は考える。それ以外のことは誰にもできません。社会を少しでも良くしたい、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学や心理学を研究すると宣う人がいます。正気なのかと私は思います。そんな素朴な無知や傲慢あるいは偽善が私には信じられません」(392-393)

2021/04/17

『増補 責任という虚構』 小坂井敏晶 ちくま学芸文庫

んーおもしろいですねー、自由があるから責任があるんではなくて、責任や罰を誰かに帰さなけれならないから自由がつくられる。
人権、自由、責任なんてのは、いまさらながら虚構ではあるが、この社会はこの虚構で成り立っている。いわゆる社会構成主義の立場。
以下はメモ程度の書きなぐり。かなり脈絡なくまとまている。

小坂井氏は人間を「外来要素の沈殿物」だという。いつ、どこで、だれが親でかは選べずに人間は生まれる。
意識は行動の原因ではなく、行動を正当化する機能をもつ。行動が意識をかたちづくる。
ベンジャミン・リベットの研究が紹介されている。

そもそも責任概念を支える自律的人間像がいかに脆弱であるか、社会心理学の実験から明らかになっていく。

分業社会は近代社会にとって必要なことではあるが、これによって、自分自身が何かに加担しているという感覚が薄らいでしまう。組織が行う全体的な行動が各人では見えにくくなり、残虐行為が可能になっていく。通常、人が人を苦しめることや殺すことはかなりストレスがあるが、分業はこのストレスを緩和していく。
ユダヤ人の拷問や強姦に多くのドイツ人は苦しむケースがあった。指導層はこのストレスの緩和のため、ヒューマニズムの観点から虐殺のストレスを緩和すべく、効率的で合理的な殺害方法をつくりだしていく。
ここから導かれるのは、反ユダヤ主義がホロコーストの原因というのではなく、虐殺の結果が反ユダヤ主義であるかもしれないということだ。
ホロコーストの分業体制と現在の日本の死刑制度の類似点も論じている。
ぼくは死刑制度に賛成ではあるのだけれど、本書を読んでみて、んーたしかに全て隠されているなかで、自ら手をください卑劣さを見いだしてしまった。
ぼくは死刑制度は、抑止効果とは考えておらず、たんに報復措置として捉えている。
まあそれはいい。
責任を因果関係で理解すると、責任と運の両概念が相容れない。もし自分がナチスドイツの政権下で生まれた場合、はたして自分はどうだっただろうと考える。正しい行為を選択できたのか。道徳状況が運命に任されていく。これは不合理だ。責任とは自由であるから発生するもののはずだからだ。
責任概念と因果関係は論理矛盾を抱える。(230)
1 自らの行為に対して道徳的責任を負うのが、行為者自信が当該行為の原因をなす場合である。
2 だが、どんな存在も自らの原因ではありえない。
3 したがってどんな存在も責任を負えない。
犯罪の原因は何なのかという発想自体に問題あるという。行為者は行為の最終原因と見なされ、行為者を超えて因果関係を遡らない。なぜか因果関係は無限に続くからだ。

行為とは「する」ことだけでなく「しない」ことも行為であるはずだ。
しかし「しない」は意志がないことではあるが、「殺さない」という場合は意志があるということでもある。
意志と行為のあいだにの因果性ではなくて、意志と責任を負うべきあいだの因果性が「自由による因果律」となる。「事後的に「その行為の原因として(過去の)意志を構成するのだ」(234、中島義道孫引き)
意志は行為の原因として認められる、これが近代的発想の誤謬である。意志がの有無は原因になりえない。それでは意志と願望の区別はなにか。それは行為が起きた事実しかない。

「自由だから責任が発生するのではない。百に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない」(244)

社会規範は集団の相互作用によって生みだされる。超越論的な何かが支えているものではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれる。
小坂井氏は犯罪は多様性の同意語だという(258)。逸脱行為は社会でかならず生じる。均一性が高ければ逸脱行為は減少し、多様性が高まれば逸脱行為が増加する。
ゆえに「正常な社会現象として犯罪を把握するとはどういう意味か。犯罪は遺憾だが、人間の性質が度し難く邪悪なために不可避的に生ずる現象だと主張するだけに止まらない。それは犯罪が社会の健全さを保証するバロメーターであり、健全な社会に欠かせない要素だという断言でもある(258、デゥルケーム孫引き)
小さな逸脱行為に敏感になる共同体では、些細な逸脱が犯罪の烙印をおしていく。

集団犯罪を社会が糾弾する一方で、しばしば犯罪者当人は責任を自覚しない。
なぜか。
近代的意味での道徳責任主体に集団はありえない。例えば日本の戦争責任を認めとという場合でも否認する場合でも同じ論理の誤りを犯している。
個人に責任を還元するならば、道徳的意味での集団責任は無駄な概念だ。しかし集団に主体概念を認めるかどうかが問題となる。国家の場合は論理が違うのでおくとして、集団として民族の責任はありえるのか。
小坂井氏はここで責任が「気軽さ」もって集団に認められてきたことを指摘する。イギリスの植民地、アメリカの先住民、トルコのアルメニア人の虐殺、これらが「気軽に」認められてきた。
責任は因果関係によって意味をもつ。しかし、現代に日本人と第二次世界大戦時の日本人では因果関係が認められない。

そこで同一化が問題となる。
責任の感覚は心理的同一化に依存する。不断の同一化という虚構が、集団的責任をもたらす。
動物や植物を裁判にかけていた時代がある。また当人だけでなく家族や部族全体を処罰対象になったこともある。後者は現代でもある。
それは現代が責任を自由に結びつけているからだ。因果関係をもとめることが原因となる。

犯罪者が捌かれるのは端的に言えば行為者が目立つからにすぎない。犯人と犯罪が密接に結びつきやすい。「責任と罰は表裏一体の概念をなす。責任があるから罰せられるのではなく、逆に書っ罰が責任の本質をなす」(296)
社会を安定させるために「けじめ」が必要で、責任のつじつま合わせで精神科医や臨床心理学者が起用される。
動機は本当に存在するのか。小坂井氏は犯罪時の記憶が物語として創られていくという。このあたり興味がある。
正義という信仰は人に正当化を与える。天は理由なく賞罰を与えない、徳をなせば必ず報われる、このような信仰で他者の不幸が正当化されていく。
データを解釈、判断することで、正しい戦略がなされるかというとそうではない。ある個人がデーターから下した判断が後に誤りだとわかったとしても、すでにその言説は再生産をされ個人の手から離れ集団行為へと移っていく。誤りだとわかっていてもすでに時は遅い。それが集団行為というものとなる。
なかなか興味深い。実体はよくしらないが北欧では快適な牢獄ライフが犯罪者には待っていて、しかも再犯率が低いという。ぼくはこの件をはじめてしったとき、ある種の嫌悪感みたいのを覚えた。やはり犯罪者はたとえ再犯率が高くなろうとも罰を受けるべきだと。しかし、頭の片隅には犯罪とは何かという疑問をもった。んーたしかに責任が虚構であるならば、北欧の刑務所は新しいパラダイムを開いているのかもしれない。

道徳も法も根拠なんかない。根拠をもとめてもそれは虚構でしかない。しかしその虚構を社会は必要としている。そしてこの虚構に従わせるために暴力が必要となる。
個人への制限は政治思想において、必要なものではあるが、捉え方が異なる。ホッブズは必要悪としてみているが、ルソーにいたっては一般意思によって住民を従わせ真の自由を獲得する。市民の利益はそのまま個人の利益となると考えている。

正義論の無知のヴェールについても簡単に触れているが、これは小坂井氏の言うとおりだ。無知のヴェールをルソーの一般意思と同じものとして考えていいという。そりゃそうだ。
遺伝、遺産、能力は個人差があるが、ロールズはそれを失くす必要はないと考える。これらの個人差は個人の責任ではないが、格差をつけることで社会の生産力は向上する。そうすれば下層の人々も必然的に生活があがる。自由と機会が平等に与えられさえすればよいとロールズは考えている。
しかし、人間はそこまで単純ではない。人間は妬む。だから階級闘争がおこる。また平等になればなるほど不満も増大する。
自由が前提の社会では、平等に機会を与えられても、能力は平等ではない。故に下層の人はこの能力差を自分の責任として引き受けがちになる。
ロールズの公正さは、誰もが納得するものであるべきとするが、しかしそれによって格差を是認することになる。しかも現実の世界ではロールズのような仏は存在しない。
人間の悲しさは、近い所得や近い能力の人間たいして強い羨望を抱くことだ。天才に対しては諦めがつくが、近い存在にたいして妬みをもつ。

万人が競争することが自由で平等な社会であると錯覚するが、それは階級を分けていた境界がなくなったことを意味しているわけではない。不平等が常識であれば、上昇志向がなくなるので、不平等に気づかない。平等であるべきという考えが不満をおこす。
ロールズの場合は格差を無能な自分のせいとなる。それはロールズの示すシステムがそうさせる。だがロールズが劣等感をもつことはない、それは本人の責任ではないからだといいう。しかし自由が担保されているにもかかわらず責任がないとはこれ如何に。

「人間が営む夥しい相互作用から生成される集団現象が人間から遊離し、<外部>として現前するおかげで根拠が構成される。真善美は集団性の同意語だ。無から根拠が生まれる錬金術がここにある。神のような超越的存在を斥けながら同時に遺伝子や物質的所与への還元主義をも否定した上で、それでも人間世界に意味が現れる可能性をこの認識論が保証する」(385)
そしてこの無根拠なこと、全くの恣意性は隠蔽される。
因果関係は社会制度が作り出す表象である。(402)
「近代は自由と平等をもたらしたのではない。格差を正当化する理屈が代わっただけだ。自由に選んだ人生だから貧富の差に甘んじるのではない。逆だ。貧富の差を正当化する必要があるから、人間は自由だと近代が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だち宣言する。……近代は神という外部を消し去った後、自由意志なる虚構を捏造して原因や根拠の内部化を目論む。その結果、自己責任を問う脅迫観念が登場する。」(419)
そして、
「構成主義の最も重要な功績は、世界の恣意性の暴露ではない。恣意性が隠蔽される事実の認定だ。」(435)

2021/04/16

『風と共に去りぬ』 第1巻 マーガット・ミッチェル/鴻巣友李子訳 新潮文庫

滅法面白い。
スカーレットが無教養な箇所の描写なんかもよくって、バーベキューでレット・バトラー初登場の際にアシュリーがバトラーを評して、ボルジアみたいな人だというけど、スカーレットはなんだかわからない。それにチャールズは嘘だろこいつ的に飯能するが、無教養を装っているのかもしれない、淑女のたしなみ、みたいに勘違いしたりする。
スカーレットは、周りの女たちを見下しているから、同性の友人がいない。そして男たちを誑かすことに喜びを見いだし、結婚する気もないのにインディアに入れ込んでいたスチュアートを落したりする。自分がどう見られ、人をどう扱えば自分に好意を与えてくれるかが完全にわかっている人間として描かれている。
第1巻では、スカーレットの失恋と、自暴自棄のチャールズとの結婚、そして夫の死。この死も滑稽で戦死ではなくて病死。ひどい。さらにひどいのがチャールズとの子供をじゃけんにしているこっと。アトランタでの日々でバザーでレット・バトラーとの再開。
このバトラーとの再開は素晴らしい。バトラーの魅力はよくわかる。無頼で正義なんて信じていなくって、金儲け主義者と思わせるが、どこか筋の通っており、なにか真理めいたものを持っている人間。アシュリーやメラニーは逆にどこか偽善を感じるわけで。
「ほかの女性たちは結局なにも考えずに、郷土愛だ大義だと言って騒いでいるだけなのではないか。男性たちも死活問題だ州権だと騒いでいて、同じく目もあてられない」(380)
そしてスカーレット自分自身だけが良識をもっていると思っている。
スカーレットは男性にせよ女性にせよ、たらし込む術をよく心得ていて、そのういうときは謙虚を装うこともできる。
アトランタに来て、スカーレットは<タラ>の赤土を懐かしんだりする。結局、ジェラルドが言ったようにスカーレットは<タラ>しかないのだと言った感じ。
バザーでメラニーを含めて皆が大義だとかを口にしているなかでスカーレットだけが冷めて周囲をバカにしている。スカーレットは傷病病院での仕事に嫌気がさしていたが、メラニーは天使のように看病をしている。このあたりスカーレットが悪女のように思わされるが、逆にメラニーの態度が逆に何か奇妙なものを思わされるなにかがある。それは偽善の溢れる世の中で象徴であるかのように。
メラニーもピティ叔母もスカーレットを誤解している。
スカーレットが指輪を寄付するところなんかも、ストーリテラー的な感じで読ませるおもしろさ。で、バトラーがメラニーの指輪だけを買い戻してあげるなんかも、よくできている。
スカーレットとレット・バトラーとの再開でダンスを踊ったことが、<タラ>にまで聞こえ、ジェラルドが連れ戻しにアトランタに来るが、ここのやりとりもいい。スカーレットが泣くのをなだめ、バトラーに会いに言ったと思ったらポーカーで大負けして大いに酔っぱらう。
スカーレットはジェラルドがポーカーで大負けしたことをエレンに黙ってあげるかわりに、<タラ>に戻らなくていいことを約束させる。
ここはなんかお約束事のような展開だが、ジェラルドの滑稽さがよくでていていいし、バトラーの「悪さ」もでていていい。
南部の工業力の脆弱さもきちんと指摘していて、しょせんは綿花王国でしかないみたいな、ことが書かれている。だから北部に負けるのは必然であると。
んーどこかで聞いた話みたい。
素晴らしい小説。各登場人物のキャラがよくできているし、軽快なストーリー運び。
んーいい。

2021/04/07

『ジャックポット』 筒井康隆 新潮社

どうなんでしょうか。最後の「川のほとり」は息子の死を思い書かれているので、きちんとした文章になっている。
しかしその他の作品はすべて言葉遊びを徹底しているものになっている。まあたまーに読む分には楽しめるんだけど、収録されている作品のほとんどが言葉遊びだと、さすがに疲れるし、飽きてくる。
とはいいつつも全体的にはまあまあおもしろかった。80歳超えてもなお新鮮な言葉遊びができて、諧謔をわすれず、アイロニーもある。「ジャックポット」なんかまさにね。コロナの氾濫。
超高齢にもかかわらず今だ若さを感じる文章を書いているので、☆三つ。


2021/04/06

ピアノ・レッスン(1日目)

高校卒業以来、ほとんどピアノを触らずに生きてきて、電子ピアノを、しかも結構いいやつを購入したので、もう一度ピアノを弾こうとと思ったが、全然指が動かないし、楽譜の読み方も忘れてしまっている。
暗譜している曲なんかは、ミスはありつつも弾けるのだが、新しい曲となると指と頭がリンクしていないのか、全然ダメになっていおり、簡単な曲でも初見で弾けなくなってしまった。
なかなか感覚ももどらないから、もう一度初歩からやり直すつもりで、
『バッハ演奏へのアプローチ はじめてのバッハ 「インヴェンション」のまえに』(高木幸三校訂・解説/全音楽譜出版社)
を購入して、まさに初心者としてピアノをやり始めることに。
一曲目は「コラール ヘ長調 (満ち足りて心安らかたれ)(BWV510)」
この曲は「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」からのもので、大バッハの三男のヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハの作かという説があるが、よくわからない模様。
曲そのものは素朴で悪くない。
一発目ということもあり簡単ではあるが、それでも指使いに苦戦するし、間違えずに弾けなかったりと、かつてはショパンのエチュードだって弾けたのに、と悔しい思い。
とりあえず、この曲を1時間ちょいずっと繰り返し弾いていた。どうにか間違えずに弾けるようにはなった。指使いは心許ないが。
練習中、どこかの時点で昔の感覚を取り戻したところがあった。指の動きと打鍵にかつての確かさのようなものを覚えるようになった。その瞬間から、旋律をきちんと把握して弾いている感覚が戻ってきて、身体で覚えていた曲を弾くのとは違うものを感じた。

とりあえず一日目であもあるので、まあこんなところかという感じで終わりにして、明日の課題は、BWV510の復習と二曲目「無題の曲 ヘ長調(BWV Anh131)を練習する。この曲も「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」の一曲で、バッハの作曲ではないようだ。

2021/04/05

『言語の七番目の機能』 ローラン・ビネ/高橋啓訳 東京創元社

デリダとサールが死んじゃう。なんか暗示的ではあるが、よくわからない。デリダは猫を論じていたが犬は論じていないと思う。サールは自殺しちゃうけど、これはなぜだ。
かなり笑える小説となっている。ソレルスが扱いのひどさ、フーコーの王様のような態度と浮世離れした言葉。ポスト構造主義の思想家が勢揃いであるが、ビネはおそらくウンベルト・エーコーのことは好きなよう。
ベルナール・アンリ・レヴィなんかかなり印象悪い感じだ。
アルキビアデスのような若者に始終しゃぶらせているフーコー。
バイヤールとジュディス・バトラー、スピヴァクの3P。
シモンとビアンカの解剖台の上でのマシーンのようなセックス。
いろいろと酷い。
いつおう史実に基づいているが、これらの解釈というかなんというか、それが違ったりする。アルチュセールの妻の絞殺は書類を捨てたことで頭に血が上ってしたことになっている。ボローニャ駅のテロなんかも絡ませている。この事件は詳しく知らない。
他にもクリステヴァがブルガリア人スパイの嫌疑があったこと、傘の柄に仕込んだ暗殺がブルガリア人スパイが実際にやっていたということ、など。

ロラン・バルトの死が1980年3月で、エーコーの『薔薇の名前』も1980年9月。どうも中世普遍論争を大陸哲学と分析哲学の確執とダブらせているようとのこと。
衒学的な文章もエーコーを思わせるものだし、<ロゴス・クラブ>でのバカみたいな議論、ゴシックとクラシックとか、本当にどうでもいい議論が続くが、エーコーはそのクラブのテッペンの人。
ソレルスは負けて陰嚢がちょん切られてしまうし。去勢だ。

言語の七番目の機能とは何か。魔術的機能。
これはよくわからん。でも最後シモンがそれを実行したのは確か。シモンはミッテランの宣伝広報を受け持つようになる。

そういえば読んでてヤコブソンが1980年にはまだ生きていたというのも、そうだったのかとバイヤールだけでなく僕も驚くばかりで、このあたりもビネのふざけているところ。
生きているのに、ヤコブソンの言語学に関する切れ端とかテープとかをみんなで追いかけまわっているのだから。おそらくこれもビネの仕掛けの一つ。ある種の哲学談義の空疎さを揶揄しているとも思える。実在しているものに周辺でなんのかんのと騒いでるだけっていう感じでしょうか。

石田さんのUchronieユークロニーについて指摘がおもしろい。次の著作ではインカ帝国がヨーロッパを支配したら、という話らしい。いいじゃないですか。