2021/03/30

『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』 ジェームズ・C・スコット/立木勝訳 みすず書房

僕らは国家を基準にしか歴史を検討できない。国家管理が永続的なものだという幻想ももっている。
驚くべきことに、定住が行われはじめていた紀元前5000年、6000年では乾燥地帯ではなく湿地帯だったという。沖積層が現在の水準よりも10メートル以上低かった。乾燥地帯だったというのは現在を過去に投影したにすぎない。
初期の定住は沖積層で発生している。
湿地帯では大規模な灌漑整備を必要とせず、食物獲得においてのポートフォリオでは狩猟、漁労、採食、採集といった多様性に富んでいた。そしてこのような環境では単一の強権的な国家はできなかった。湿地では強権的に徴税する必然性もなく、穀物を備蓄すること、インフラの整備などにうおる労働集約を必要としない。湿地は共有資源だった。
スコット氏はここで氾濫農法(減水農法)を上げている。定期的な河川の氾濫は、土壌を豊かにし、農業で最も労働をさく施肥、耕作、種まきをコストゼロで達成できる。

農業が人類進化の一因だったかもしれないが、狩猟採集よりも当初は優れていたというわけではない。遅延リターンとして、農業が将来への投資としてい位置づけている説もあるが、狩猟採集でも保存食は作られるし、道具も必要となる。ある面では農業よりも複雑な協働と調整が必要になる。農業の有利であるわけではまったくない。
狩猟採集民は湿地、森林、サバンナ、乾燥地などを股にかけ食料をとるゼネラリストだった。国家の分業社会では、人間の生涯の貧困を見ている。

「ブロードスペクトラム革命」というのがあり、これは何かしらの理由で栄養価が低い資源を活用せざるを得ない状況になり、耕作農業、家畜の飼育という労苦に到達したというもの。また人口圧が高まったために以前より多くの者を周辺環境から採取する必要もでてくる。ここから集約的な作物栽培、家畜飼育が必要となっていく。
これにより疫病のリスクが成り立つ。都市化が郡性疾患を主な死因にした。狩猟採集民においては腸チフス、アメーバ赤痢、ハンセン病などの人間以外の生物が保有している宿主のものが主だった。フェロー諸島の麻疹の例が興味深い。これは『1493』に書いてあったか。ここから教訓をえるとすれば、感染病は全員がかかって集団免疫と免疫を持たないものが全員死ぬまで続くということであり、また感染病は波をもっていることだろう。ある程度の人口がいることで感受性の強い宿主が一定程度存在し、そしてこれらの人に感染して、恒久的な感染が維持される。

著者は農耕文明の隆盛にはまさに定住自体に答えを見いだしている。狩猟採集民のほうが労働時間は短く、栄養価では優れていたが、出生率は定住の方が高かった。たとえ定住の場合死産の割合が高くてても、多産であるため狩猟採集民よりも人口増に貢献した。これは長い年月、2000年とか5000年という歳月でみると大きな差として現れてくる。

本書における国家とは何か。それは税の査定と徴収専門として、単数もしくは複数の支配者に対して責任を負う役人階層を有する制度、としている。そしてさらに言えば、分業があり、階級社会となっていること。この条件当てはまる国家が紀元前3200年までに登場したウルクだった。
国家は穀物を税として徴収する。なぜなら運搬、保管、収穫の面で他の作物よりも国家にとって都合が良いからという。
国家が文字をもつ動機は、行政運営のためで、メソポタミアでは簿記目的以外で使用されるには、文字の出現から500年以上も経ってからとなる。ウル第三王朝のギルガメッシュ叙事詩は紀元前2100年まで遡れるが、楔形文字が商業や行政で使用されて方1000年もあとになる。文字は行政を強く連想させるものだった。
本書のおもしろい指摘は、国家が人口管理を基本としているということだ。これはフーコーの近代国家の生権力にも繋がるところ。
人は常に外部に流、死亡率も高かった。城壁は外敵から守ると同様に、内部の人間の外部への流出を防ぐためでもあった。死亡率や出生率が重要な要素となり、人口が減れば外部から調達する必要にがでてくる。それは戦争によって調達されていく。奴隷も同様に生産に従事させられていく。戦争の一番の目的は領土獲得ではなく捕虜の獲得だったといってもいい。

本書の最大の魅力はもう一つ、「崩壊」について語るところだ。中央集権の終わりは暗黒時代をもたらしたのではないということだ。
古代の国家は疫病や天変地異、気候変動や戦争、または環境破壊などにより非常に脆弱だった。ウル第三王朝が五代の王が引き継ぎ100年続いたことが異例中の異例だったという。
何かしらの理由で国家が崩壊しても、住民たちも一斉に消滅したり死んだりするわけではない。外部へと逃亡する。
国家の崩壊は必ずしも文明や文化も同時に消滅したことを意味していない。離散していった民衆たちは、文化を保持しながら生きていた。国家管理の時代よりも栄養面であったり労働面でも優れていたと思われる。
例えばイリアス、オデュッセイアは古代ギリシアの暗黒時代に語り継がれたものであり、それが後世に文字で残されたにすぎない。たんに暗黒時代には巨大な建築物やインフラ整備、生産活動が行われず、現代からは何も見えないことで、我々からすれば「暗黒」になるにすぎない。

定住と遊牧、狩猟採集の境界を明確に線を引くことができないのかもしれない。
国家が崩壊したあとの暗黒時代は暗黒であったかどうかは議論がある。狩猟採集民や遊牧民たちは、定住している集落や国を略奪することがあったが、しかしだからと言って常に略奪をしていたわけではない。そもそも集落や国家が少ないのだから、略奪するよりは交易をするほうがいい。また国家よりも遊牧民のほうが武力で優り、そのため交通の安全は遊牧民にかかっていた。遊牧民たちは、国家に交通の安全と引き換えに貢物を要求する。
このあたりの話は、モンゴルでもお馴染みになっている。

遊牧民たちは国家に手を貸していたが時代、それは彼らにとって黄金時代だったか、いつのまにか立場は逆転をしていく。彼らは国家の発展に手を貸し、自分で自分の首をしめていた。

2021/03/17

『晩年のカント』 中島義道 講談社現代新書

はじめて中島さんの本を読む。カントへのイメージが一変した。
食べ方とか汚いとか、なんか人間的でいい。決まった時間に散歩するというのも、若いころからしていた習慣ではなく、自分の家をもった63歳ごろで、病弱だったので健康のためにやっていたという。そして病弱なからだについて自己診断で自己流の療養法を行っていたという。ビールが嫌いで、誰かが病気になったとか死んだとかいうとビールのせいにしたらしい。
さらに女性観がひどいのなんの。女性が悪を避けるのは不正だからではなく、悪が醜いからだというのだ。女性に道徳心を認めていない。
本書にカントの草稿が載っているが、病的なほどびっしり書いている。

カントの「根本悪」という概念がおもしろい。真実性の原理と幸福の原理があって、人間は幸福の原理を選択する本性がある。なぜなら人間は感性的であり理性的だからだ。
そしてこれを必然的であるとはみなさない。というのも「べし」という普遍性と一般人が守っている経験的規則がある。そして必然性とは自然法則や道徳法則にかなったもの、理性にかなったものにしか使用してはならないという。つまり法則(理性)に反するものは必然的ではない。
よってすべての人に責任を帰すことができる、という結論になる。根本悪に陥ることが物理法則のように必然的だとすると、根本悪に陥る人間に責任を課すことはできない。つまり根本悪は必然的ではなく、選択しうるものである、となる。

「性癖」には三つある。1人間心情の脆さ。2人間心情の不純。3人間心情の悪性。
3は1と2で異なる構造をもつ。1と2は感性が理性にまさって陥ることで、3は理性が感性に引き起こすもの。
ここから人間は感性的存在者であり、かつ理性的存在者であることが導きかれる。根本悪はまさに感性的存在者にある理性が引き起こすものとなる。

『たんなる理性の限界内における宗教』が、物議をよび、カントは弁明をする。ここがまず素晴らしいところ。この弁明がが上記の根本悪と照らしてみると、まさにカントは根本悪をなしてしまっている。好意的にみてもそうなる。
そしてカントはスピノザのごとくキリスト教の有用性を説いたりしている。

カントの時間についてもいい感じ。
「時間の長さ」とは、過去を想起することから長さが生まれる。

んー他の中島さんの本を読んでみようか。

2021/03/16

『理論疫学者・西浦博の挑戦――新型コロナからいのちを守れ!』 西浦博/川端裕人 中央公論新社

僕は前提として西浦さんには批判的。
「3密」の誕生とあるが、正直そんなたいしたことではないと思う。まあ言葉としては巧みだと思うが。でもこれがいかに日本社会を歪めているかを理解しているのか。コロナウイルスが飛沫や接触で感染するのは別段格別な証拠が必要なのかと思う。
風邪ひいたら、近くに寄らないというのは、多くの人に同意が得られることだろうし、閉じられた空間は喚起が良くないのなんて、あたりまえだし、なんだかね。
この3密という言葉は社会を壊しかけていることを何も考えていない。

日本がクラスター対策を重視している理由は、感染の仕方が二通り考えられ、一つはインフルのように一人の感染者がきちんとふたりずるに感染させるというのと、SARSのような一部の人がたくさん感染させるというもので、西浦さんたちは後者のSARSに近いものと考えて、だからこそ重点的なクラスター対策をとっていたようだ。でも欧米予想外の拡がりとなったので、どうも違うとなる。

日本と欧米の対策で、日本の優れているのは感染者の濃厚接触者に対するアプローチだけでなく、その場を共通の感染源となった場を見いだして、その場を共有した人たちをも追跡したことだという。

42万人という数字について、川端さんは二つの理由で西浦さんを擁護している。
一つは、西浦さんの計算はあくまでも「最悪の被害想定」であるということ、そして二つ目が被害想定の期間の問題で、終息までの期間なのだから、まだ42万人は有効期間内であるという。
そしてさらには42万人というのは、ファクターXの存在が明らかになり、仮に日本人が何らかの免疫をもっているなどが判明しないかぎりは、同様の関数となり、42万人という数字は変わらないという。マジかよ。これって科学というよりも神学ではないか。
ならば100万人でも1000万人でもいいじゃない。対策次第でゼロが一つも二つもとれていくってい、まあ至極普通のことを言っているけど、でもそれって多めに言っておけば成果が出やすいことでもある。
サラリーマンの社会でもまっとうな計算ではもっと少なくても、成果をでていることをアピールするためにも損を莫大に言ったりする。

基本的に西浦さんのロジックは、「感染症を止める」につきていて、それ以上でもそれ以下でもない。ウイルスの毒性云々はこの際どうでもいいような印象がぬぐえない。
またクラスター潰しが功を奏しているのかどうかも、正直どうなんでしょうね。

2021/03/15

『柳田国男――知と社会構想の全貌』 川田稔 ちくま新書

川田氏の著作は全般的に冗長だ。全体を俯瞰するのにはとても役に立つが、通読するのには骨が折れる。
書いてある内容で、特筆すべきところとしては、農務省時代の柳田国男の農業政策だ。地主制度の廃止、南方への移民の推進などは柳田の手軽に読める著作物では知ることはできない。
地方の人口増加によって、農民一人がもてる土地の面積が小さくなるから、南方に移民を考えていたというのも、けっこうショッキングではある。

柳田は民俗学を欧米のフォークロアでもエスノロジーでもないものとして確立しようとしていた。
柳田の著作を読んでいても、欧米の影響というのはよくわからないのだが、本書ではデュルケーム、マリノフスキー、フレイザーらの影響があることが論じられている。まあそうだな。

全体的には柳田国男の著作をある程度読んでいれば、さもありなんといった感想しかない。
とりあえず国家神道への批判や氏神信仰について書かれている。ある程度まとまっているので便利ではあるが、それ以上でもそれ以下でもないかなと思う。

2021/03/14

『感情史の始まり』ヤン・プランパー/森田直子 監訳 みすず書房

んーかなり微妙。普遍主義と構築主義を止揚しようとしているようだが、正直何をやっているのかわかりかねた。
感情というのは本能だ。しかしその現れ方は文化によって異なるし、時代によっても異なるだろう。
歴史上の人物にも感情があるなんて、そんなことふつうでしょうし、テキストを読むうえであたりまえのように考慮に入れることでしょう。怒りの文章でも、今の自分がもっている怒りの感情とは同質かどうかなんて、んなこと知るかよ、と思う。
神経生理学や解剖学的な知見だけではいけない、というのもそうでしょうよ。
アリストファネスでもアイスキュロスでもいいけど、読んでみれば、そこには現在と相通じるものがある。たしかに細かい機微まではわからないけど、同じように笑い悲しんでいたわけです。
いずれにせよ感情史とはなんだかよくわからない。

2021/03/13

『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 下』 ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳 筑摩書房

しかし酷いのなんの。どうしてここまで虐殺が起こるのか。
本書で、ユダヤ人大虐殺の見方が変わる。ぼくなんかそれほど知識ないから、ホロコーストといえばアウシュヴィッツのような強制収容所での虐殺だけを念頭においていたが、実際には大半のユダヤ人がモロトフ=リッベントロップ線以東で殺されている。
おそるべきはナチスのバルバロッサ作戦の失敗がユダヤ人の東への移送を不可能にし、その結果として大虐殺がおきていくということだ。
第一世界大戦から第二次世界大戦の終了まで、東欧の歴史はあまりに悲惨すぎる。

下記はメモ。

ナチスの対パルチザンとユダヤ人の殺害は同じものとして扱われた。パルチザンの活動は民衆やユダヤ人を助けた面もあるが、ナチスが民衆とユダヤ人を問答無用で殺害する動機にもなっていた。

ベラルーシ―などでパルチザンが結成されていくが、ある不安があった。ナチスを追い出した後にスターリンはパルチザン組織を弾圧するのではないか。ということでスターリンは共産主義の教義上、下から勝手に組織が出来上がることはよくないので、これらのパルチザンはナチスの手先として

ナチスは民間人の退避計画を組織できなかった。しかし軍はソ連に降伏するよりはイギリス、アメリカに降伏したほうがいいと考えて西に逃げていたという。ひどい話。それでソ連へに民間人の男は殺されるか強制収容所に送られ、女は強姦されていく。

ナチスの敗戦後、新生ポーランドが生まれる。共産主義政党はすべてのドイツ人を追放、排除することを決める。これはポーランドだけでなくチェコスロヴァキアでも起きた。ポーランド人にとっては共産主義は好ましい相手ではなかったが、土地を与え、ドイツから守ってくれるのがソ連だった。

「大祖国戦争」では、実際に戦地となり、勝利していったのは、ベラルーシ、ウクライナであり、死んでいった者たちもロシア人よりユダヤ人、ベラルーシ―人、ウクライナ人が多かった。しかし、スターリンはそれを隠し、ロシア人の勝利として扱っていった。ここで疑問なのだが、グルジア人であって、生粋のロシア人ではなかったと思うのだが、それでもロシア人に肩入れしたのはどういう理由なのか。マジョリティであるロシア人の顔色をうかがったのか?

ソ連にとってナチスがおこなったホロコーストをあまり宣伝材料に使いたくはなかったようで、というのもソヴィエト人の手を借りて膨大なユダヤ人を殺害していったからだという。

ユダヤ人虐殺ではアウシュヴィッツが象徴として取り上げられる。たしかにアウシュヴィッツは死の工場であったが、大量飢餓発生地域やトレブリンカのほうが虐殺の効率性はよかった。そしてアウシュヴィッツはユダヤ人コミュニティを形成していたポーランド、ソヴィエトのユダヤ人が多数殺された場所でもなかったアウシュヴィッツが中心的な死の工場となったころには、すでにポーランド、ソヴィエトのユダヤ人は殺害されていた。アウシュヴィッツは大量虐殺の最終章だったという。

モラルとは何か。ナチスもソ連も、これらはひとつのモラルだった。
ある目的のためには犠牲が伴う、という期待が現在の悪を将来の善であると信じていた。


2021/03/12

『アンナ・カレーニナ』4 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンはオブロンスキーに誘われて仕方なくアンナに会いに行く。そこでリョービンはアンナの女性としての魅力に惹かれていく。そして彼女の境遇をかわしそうだと思うようになる。アンナはリョービンをわざと籠絡しているのだが、リョービンはキティに指摘されるまで気づかない。キティに指摘されリョービンはアンナの誘惑に敗けたことを自覚はするが。
「およそ人間はどんな状況にでも慣れしまえるものだが、まして周囲の人が全部そんな風に暮らしているのだとわかっている場合はなおさらである。」(98)
キティの出産がはじまる。リョービンは理性的に考えれば神を会議するものと考えていたが、そんな判断さえも出産という事件では神に呼びかけることを少しも妨げるものではなかった。
「子供は? どこから、どうして現れたのか? そしていったい何者なのか?……彼はどうしてもわからなかったし、その考えに慣れることもできなかった。子供は何かしら無駄なもの、過剰なものと思われ、長いこと子供の存在に慣れることができなかったのである。」(122)

オブロンスキーはアンナの離婚を成立させるためにカレーニンを訪れる。そこでリディア・イワーノヴナ伯爵夫人とカレーニンの関係を知り、そしてランド―と呼ばれる怪しい占師、もしくは教祖のような存在がこの二人の心を支配していることを知る。キリスト教ではあるが、狂信的な教えのようでカレーニンもリディアも彼の言いなりで、ランド―が離婚を否定した。
アンナはカレーニンを愛しているが、ヴロンスキーを信じることができなかった。ヴロンスキーを冷たい人間であると、そしてアンナの絶望や孤独は全てヴロンスキーのせいにする。そして言い争いになると、アンナは自分を「不誠実な人間よりももとお悪い、心のない人間」と言う。ヴロンスキーはそんなアンナに我慢ができなくなく。
アンナはヴロンスキーの愛を強烈に欲していく。しかしアンナはヴロンスキーには愛がないと感がている。
アンナは自分の置かれた境遇、カレーニンの恥辱、息子の恥辱、そしてヴロンスキーへの復讐をするためには、死を選ぶしかない考えるようになる。
ヴロンスキーはアンナの我儘を極力聞いてあげている。しかしアンナはどんどんと自ら絶望へと走って行く。ヴロンスキーが母のところへ行くのも、ソローキン侯爵夫人の娘に会いに行くのだと思って、彼を追いかける。
鉄道の駅に向かう前にアンナはドリーに会いに行って、すべてを話そうとするしかしそこにキティがいた。アンナは露悪的な態度でドリーとキティに接する。彼女たちはアンナをかわいそうだと思い、同情していく。このあたりですでにアンナとキティたちの立場がまったく別のものになっている。

アンナが死んだあと、リョービンの信仰について書かれていく。
ここにはリョービンが抱えもっている矛盾と調和が書かれる。
善い生き方をしているのはすべて信者であること、そして反宗教的な人は決してリョービンを納得させるようなことを言ってはくれない。
リョービンは「魂のために生きる」ことを言うようになる。
理性には理解できない、理性の外部にあるもの、しかし明確な認識、善は因果の連鎖の外にある。
理性が教えてくれるのは生存競争であり、自分の願望の成就だ。他者を愛せというのは理性からはでてこない。なぜなら不合理だから。理性は傲慢だ。(324)
リョービンはこのような認識を得て、これで自分も変われたと思ったが、実際彼は人にも腹をたてるし、議論もしてしまう。

この時代、露土戦争がおきており、ここでヴロンスキーが志願兵としてセルビアに行くことを愛国的と評価される向きがあったようだが、トルストイはリョービンとシチェルバルツキー老侯爵の口を借りて言う、いつのまにスラブ人であることを求められるようになった、けれども自分にはスラヴ人同胞に興味がなくロシアのことしか興味がわかないと言う。民衆はそれに戦争のことなんか理解していないという。民衆は意志表明をしないし、そもそも何に意思表明をしなければならないかもわかっていないと。(348)
ここでもリョービンは議論に負ける。しかし、それは重要な事ではなかった。議論は理性的な活動的しかないからだ。
キリスト教以外の宗教を信じている者たちは、キリストが教えてくれる最高の恵みを奪われているのだろうか、とリョービンは自らに問う。しかしリョービンはこのような問い自体、多種多様なことに一般的な表現を取り入れることを拒否するようになる。個人としての自分の心に理性では捉えられない知恵をはっきり示してもらっているのもかかわらず、理性と言葉を頼りにしようとしていた。(369)
「これからもおれはこれまでと同じように御者のイワンに腹を立て、同じように議論をとおして場違いなところで自分の意見を述べるだろうし、自分の胸のうちの神聖なるものと他人との間には、たとえ相手が妻であれ、壁があり続けることだろうし、相変わらず自分の恐怖感を妻への非難にすり替えては、それを後悔し、また同じくなんで自分が祈るのか理性で説明できぬまま、祈りつづけることだろう。だが今やおれの生が、おれの生活の全体が、わが身がどうなろうと関係なく、どの一分間をとっても、単にかつてのように無意味でないばかりでなく、疑いようのない善の意味をもっている。しかもその善の意味を自分の生活に付与する力が、おれにあるのだ!」(373)

2021/03/11

『アンナ・カレーニナ』3 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンは結婚する前に痛悔礼儀を受ける。リョービンは神の存在を疑っている。司祭から神の存在は世界を見れば自明であることを説かれる。子供が生まれたときに子供に世界の存在をどう説明するのかとも言われる。
リョービンは兄ニコライの見舞いに行くと、すでに死期が近いことを悟る。キティも一緒についてきて、リョービンが嫌々ながら兄に紹介する。するとキティはベッドのシーツや枕などのを変えたり、病人に必要なことを指示し、行っていく。一方リョービンは何もできずに呆然とするだけ。ニコライは臭いや汚らしさを嫌がることなく接してくれるキティに感銘をうける。ニコライとリョービンは互いにある瞬間で優しい気持ちをもち手を握り合ってったりするが、ときに不機嫌になったりするニコライに対してどう接していいかもわからなくなったりもする。
てきぱきと動くキティを「賢い」とリョービンは思う。リョービンは死にゆく者を恐れていた。
キティとアガーフィアは死にゆく者に身体的な苦痛を和らげる以外の何かを求めていた。
リョービンもキティもニコライが死ぬことを確信していた。しかしニコライはなかなか死なない。面白いのはトルストイはこのあたりでニコライの早い死を誰もが望んでいることを率直に書いていることだ。キティは身体的にも精神的にも看病に参っていた。ニコライは痛みから周りに当たり散らすようになる。
リョービンは死を神秘として捉え、そしてニコライの死は同時にキティの妊娠へと繋がっていく。

アンナとヴロンスキーはイタリアへ駆け落ちをする。セリョージャを置いて、ヴロンスキーを選ぶ。
しかし欲望を満たすことが幸せであることとは違うことを悟っていく。これをトルストイは人間のよくやる過ちとしている。
アンナはいろいろとめんどくさい女になっていく。ペテルブルクで社交界に勝手に行ったにもかかわらず、ヴロンスキーに愛しているなら、なぜ止めてくれなかったのかと責めたりする。

オブロンスキーが連れてきたヴェスロフスキーという脇役が登場する。感じのいい青年で、ドリーやキティに色目を使ったような態度で接したりして、服装もどこか気取っていた。リョービンはヴェスロフスキーを感じのいい青年として認めるも、自分の感情が不安定になるというので、家から追い出す。

リョービンはオブロンスキーと労働について議論をする。ここではリョービンは素朴に暴利を貪る人間、利権にしがみつく人間を嫌う。オブロンスキーはかなり自由主義的な発送で、銀行でも鉄道でも事業を行う人間が居なければ発展がないだろうという考えをもつ。
この違いは、かなり現在でも引きづっている。リョービンの考えは簡単に反論できるものではある。事実リョービンは簡単にやりこめられてしまう。しかしそれに納得できないのがリョービン。
オブロンスキーはそんなに不平等を間違っているというならば、領地を農民にくれてやるべきではないかと言う。リョービンは言う、農地を農民たちにくれてやる権利はないし、そして先祖代々の土地を守っていく義務があると言う。リョービンはここでも言語化がうまくできずにいる。
「所詮二つに一つなんだ。現存の社会体制を正当なものと認めて、自分の権利を守ろうとするか、それともこのぼくがしているように、自分が不当な特権を教授しているのを認めながら、その特権を喜んで教授するしかないのさ」(386)

リョービンは子供が生まれることは神秘であるべきである考えていた。そんんなかキティは細々とした実用的な準備を進めている。それをリョービンは苦々しく思っている。キティの人為的な作業がそれを冒涜していると感じている。

ドリーはアンナに会い行く。アンナとヴロンスキーの生活は驕奢で、イギリス風の家具を取り揃えていたりと何かとってつけたような幸せなところがあった。ドリーは現実の子育てや子供たちの未来、苦しい家計などに直面しており、アンナたちのような贅沢はできない。
しかし、アンナたちの生活を目の当たりにして、その窮屈さや堅苦しいさががまんできなくなり、むしろ現実的な生活のほうが懐かしく思うようになる。
ヴロンスキーはドリーにアンナが離婚をするように説得してくれるように頼む。しかしアンナはドリーに、自分の不幸と、自分の置かれた立場がいかに絶望的かを叫ぶ。
理性があるのだから不幸な子供を産まない、それは理性的な回答かもしれなかったが、ドリーはそれを理解できず、嫌悪感も覚えた。
ドリーは子供が欲しいが経済的にも子供をもてない、しかしアンナは今の状況で子供が欲っしてはいけないという状況というふうにアンナは理解していた。
なかなか難しいところだ。

2021/02/27

『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 上』 ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳 筑摩書房

んー凄まじい。
ポーランド、バルト地域、ベラルーシ―、ウクライナをブラッドランドと呼び、その凄まじい大量虐殺を書き出している。
1932年から1933年までスターリンの行った五ヵ年計画で工業化を目指して、集団化政策を行って、農作物を輸出して、機械類を輸入して、そしてウクライナが飢餓になって、人肉食までいく。なんなんだこの歴史は。しかもスターリンは意図して飢餓を起こしている。
フセヴァロド・バリツキーはNKVD支局長として、ウクライナの穀物収奪を正当化させていく。スターリンにはこの飢餓を民族主義者の陰謀として説明し、飢餓と処罰を組み合わせていた。
そしてこの集団化政策は階級闘争と位置づけていた。「富農(クラーク)」を抹殺することを意図していた。ではクラークとは何かと言えば、そんなものは国が勝手に決めていた。
グラーグと呼ばれる強制収容所へ農民を大規模に強制移住させ、集団化を行っていく。自由農民が奴隷農民となっていく。
飢餓はウクライナ人300万人だけでなく、ロシア人、ユダヤ人、ドイツ人、ポーランド人で30万人、そしてソヴィエト・ロシアでも150万人が死んだ。さらにカザフスタンでも飢餓が起こっており、130万にが死んでいるという。
この飢餓のによる大虐殺によってウクライナの人口動態が変わったという。しかも人口調査をした担当者を処刑までする。ひどい、、、

1937年、バリツキーはウクライナの飢餓を「ポーランド軍事組織」の陰謀にも結び付けていく。ドイツの侵攻でソ連に亡命した共産主義者はスパイとして処刑もされていく。バリツキーはウクライナで「ポーランド軍事組織」が再結成されたと主張したが、エジェフはそれをさらに誇大にしていき、モスクワ本部、そしてソ連全土にかかわる問題にしていく。そしてスターリンはバリツキーが「ポーランド軍事組織」を甘く見ていたとして免職になり、逮捕され、処刑される。なんなんだこりゃ。

ソ連はインターナショナリズムを謳っているの嘘ではなかった。だからエジェフにしろ、民族問題として取り上げていたのではなく、あくまでスパイ行為として罰せられていく。
1939年9月17日にドイツについでソ連はポーランドへ侵攻する。
そしてモロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)によってポーランドは分割される。知識人は虐殺されていく。ソ連によるカティンの森大虐殺など。
ドイツでもポーランドを「浄化」するために、ユダヤ人だけでなくポーランド人も強制移住させられ、餓死していく。ヒトラーもスターリンもポーランドの知識人階層の抹殺を意図的に行っていた。そいて従順な大衆だけを残し統治をしやすくしようとしていた。

ヒトラーもスターリンもイギリスを気にしていた。帝国主義の存在はスターリンにとっての共産主義の存在を、世界革命という目標を成り立たせてくれるものだったし、イギリスという巨大な悪の存在があるからこそヒトラーとも手を結ぶことができた。ヒトラーはイギリスを超える帝国主義国家を目指していた。
ヒトラーもスターリンもイギリスの存在から導きだした答えが、拡張主義だった。食料、鉱物を豊富に持ち、自給自足の社会を作り上げるには領土を増やすことをよしとした。
そこでヒトラーもスターリンも目につけたのがウクライナだった。そして驚くべきことに、ナチスドイツはドイツ国内の食糧問題を解決するために、ウクライナを餓死させることを計画する。大量餓死と植民地化がセットになった政策だった。
ナチスドイツは占領したソ連領で捕虜収容所をつくるが、ここで飢餓政策がなされ、カニバリズムが起こる。*ドゥラーク(一時収容)、シュラーク(下士官用)、オフラーク(士官用)
ドイツのソ連への攻撃が行われて、ソ連は報復処置としてヴォルガ川に住むドイツ人をカザフスタン以に強制移住させていく。これがナチスドイツとは違い、非常にうまくスムーズに行ったようで、スターリンが作り上げた官僚国家の効率の良さがわかる。
リトアニア、ラトヴィア、ルーマニア、などでもユダヤ人の虐殺がなされていく。
モロトフ=リッベントロップの東側では銃殺によ大量虐殺、西側ではガス殺でユダヤ人が殺されていく。

この本を読んでいると、改めて20世紀前半のヨーロッパの歴史の酷さが目につく。いたるところで虐殺が起こり、多くの場所で虐殺の碑がたつのも頷ける。どこでもかしこでも虐殺が行われている。
バビ・ヤールの虐殺で思い出したが、ショスタコーヴィチの交響曲13番がこのバビ・ヤールを題材にしている。聞いたことはないけど。

2021/02/26

『アンナ・カレーニナ』2 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンとコズヌィシェフの対比。コズヌィシェフは都会人として農民を愛し、農民を知っていると自認している。リョービンはそんなコズヌィシェフの態度を気に入らない。
リョービンにとって農民は共同の仕事の主な参加者でしかない。リョービンも農民を敬い、愛を持ち、彼らの力、つつましさ、公平さに感嘆する。しかし、農民たちのずぼらさや嘘つきっぷりにも怒っている。リョービンは農民を愛しかつ憎んでいた。
コズヌィシェフにとっての田舎生活は都会生活の正反対のものとしてあった。
コズヌィシェフはリョービンがゼムストヴァに参加せず、公共の福祉に寄与しようとしないことを非難する。教育、医療、インフラなどこれらを共同に管理、経営することの素晴らしさをコズヌィシェフは言うが、リョービンは農民に教育は必要ないし、そして医者も自分には関係のないことだと言う。
リョービンはキティに振られてから、さらに偏屈になっていく感じがあり、ドリーが子供たちにフランス語でしゃべることに欺瞞的だと思うようになっている。ドリーはその欺瞞を承知でフランス語を使用しているのだが。
トルストイはロシアの精神性について、けっこう辛辣。「わが国の農民は、経済的にも精神的にもきわめて低い発展段階にとどまっているますから」(258)とか書いているし。
とは言いつつ、リョービンはある計画を考えている。
「おれの個人的な事業ではなくて、公共の福祉に関わる問題だから。農業全体が、なによりも全農民の境遇が、一変しなくてはならない。貧困のかわりに、共同の富と満足が、反目のかわりに利害の調整と一致が必要なんだ。ひとことで言えば、無血革命を、ただし大いなる革命を起こすのだ。はじめはうちの郡の小さな範囲に過ぎないが、だんだんそれが県に、ロシアに世界全体に広がって行くのだ。そうだ、これこそ働き甲斐のある目標だ。」(277)
兄のニコラスがリョービンを訪ねてくる。リョービンは兄の死を予見する。
そこで共産主義を論じる。(292) リョービンは私有財産などを否定することではなく労働の調整を考える。そしておもしろいのがすでにトルストイは共産主義を初期のキリスト教のようなものとして述べている。兄は共産主義を合理的で未来のある運動と一定の評価を与えている。
ニコライとの対話では、リョービンはきちんとした言葉で語ることできずにいる。
リョービンはニコライと別れたあと死がつきまとう。自分の事業が地球規模から考えてちっぽけなものだと思うようになっている。(353)

カレーニンはこれまで通りの生活をすることを決意する。アンナにもその旨を手紙で知らせる。アンナはこれを受けて、さらに気がふれる。アンナは当初の魅力がなくなり、ヒステリックな女性へと変わっていった。ヴロンスキーもアンナに初めて会った時のような感覚は失せたが、それでもアンナが自分を愛していることに、愛を感じたりする。すでに引き返せないと悟っている。(312)
同僚のセルプホフスコイが昇進し、その自信を目の当たりにし、ヴロンスキーはそれでも自ら昇進を辞退したこと、そのことに焚いて自分は自由気ままな人生を送る人間と装うこと、これではまずいという本音などが書かれている。
ヴロンスキーは、ある国の皇太子に街を案内しているときに、皇太子のふるまいに自分自身の卑しさをみて嫌気がさす。
アンナとヴロンスキーは同じ夢を見る。ぼうぼうにひげを生やした小さな百姓が身をかがめて袋をごそごそといじっている夢。死の予見させる。
オブロンスキーはカレーニンと会い、晩餐に誘う。リョービン、コズヌィシェフ、キティらが一堂に会する。そこでリョービンはキティと再会し、お互い許しあい、愛を語る。
ドリーはカレーニンに離婚しないように説得するが、カレーニンはドリーが語るきれいごとに嫌気がさす。敵を愛せ、、、
カレーニンはペテルブルグでアンナの容態が悪いことを聞き、家に戻ると娘を産んだ後に産褥熱にかかる。
アンナはうなされながら、カレーニンに許しを請う。アンナはカレーニンを高潔な人物とみなす一方でそんな高潔さを憎んでいた。
カレーニンは、アンナの病状を目の当たりにして、死に直面したアンナのすべてを許すことにした。しかしアンナは回復してしまう。カレーニンの誤算。
アンナはカレーニンを恐れ、オブロンスキーはそんな夫婦関係を見て、ヴロンスキーに離婚を勧める。いったんは離婚を決意していたヴロンスキーは、アンナを許したにもかかわらず、再び離婚を決意することがなかなかできなかったが、オブロンスキーに説得され、離婚に踏み切るも、アンナは離婚をせずにヴロンスキーと一緒に国外にでる。

2021/02/22

『遠野物語 山の人生』 柳田国男 岩波文庫

「遠野物語」の良さは、やはり簡潔な文章にある。
収集した説話を無駄なものを付け加えずに残している。常民の研究が日本の精神史、宗教史をつまびらかにする。文章で残っている「古事記」「日本書紀」などだけでは日本の歴史を語れない。いまでも柳田のような研究を下品なものとして脇に追いやることがままある。とくにナショナリストによる歴史はそうだ。柳田が書くように、そういう人たちは「いつまでも高天原だけを説いているがよい」(264)

「山人考」で説かれているように、東北には神社が少ない。これは大和の支配圏がせいぜいいっても関東程度であったことで、「風土記」の編纂も常陸までしかない。
東北地方では、おそらく大和のもつ文化的宗教的侵襲を、平泉平定ごろまで拒んでいたふしがある。
とはいいつつも東北地方だけでなく、全国で常民の宗教の残滓を垣間見ることができる。「山の人生」はそれを見せてくれる。
かつては神を扱われたものが妖怪として恐れられたりする。もともと天狗や山人と集落の者たちとの交流があった。
「始めて人間が神を人のごとく想像しえた時代には、食物は今よりも遥かに大なる人生の部分を占めていた。」(253) その象徴が餅で、古来より神に餅を捧げるのは、まさに餅を供えることで神は人間の手助けをしてくれた時代があったのだ。角力も現在のような天皇を頂点とするヒエラルキーの中で行われていたわけではない。土地土地で山人と角力によって交流がなされていた説話が多く残っている。

柳田が残した説話から常民たちの宗教史なるものが浮かび上がる。この宗教というのは、仏教やキリスト教やイスラム教などのようなたいそうなものではない。
明治の三陸地震の津波の話が残っている。
「夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。……男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今この人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したり人と物いうとは思われずして、悲しくて情なくなりたれば足元をっみてありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。」(64)
よく柳田はこの話を残したと思う
このようなことは、簡単に幻覚だとか夢だとか、ウソだとかと言っていい話ではない。かなり現実的な話で、東日本大震災のあとも同様の話がいくつもある。

柳田は夏目漱石、森鴎外が作り上げた文学の流れにある。鴎外も柳田も官僚であった。彼らは国家と人間の関係を常に意識した作品となっている。それは田山花袋、芥川、太宰とは異なる系譜をつくりだしている。

2021/02/21

『「色のふしぎ」と不思議な社会――2020年代の「色覚」原論』 川端裕人 筑摩書房

んー脳内革命。
日本では先天的色覚異常が男性では5%いるという。それを「異常」としていいのか。だから日本遺伝学会では、色覚異常を「異常」とせず多型として、1%未満を変異と、概念を変えている。頻度の高いものはすでに定着しているという考え。もちろん1%には根拠はなく目安としている。
色覚異常をもっている人々への差別というのは、正直ピンとこなかった。自分自身が「正常」の範囲であるからでもあるが、かつては結婚差別まであり、現在でも職業差別がある。かつては色覚異常がある場合は理系に進むこともできなかった時代があるとは。
2014年に色覚検査の復活がなされたという。というのも、今の社会において、職業選択の際に前もって自分の色覚について知っておくことは、後で知るよりもメリットがあるからというものだ。これを日本眼科医会が推しているという。とはいえ日本眼科医会も別に差別するために色覚異常を見つけ出すことを目的にしているわけではない。あくまで個人が認知していることの重要性を説いている。
ただ、ここで問題が起きているようで、川端さんがいうように、石原表によるスクリーニングが適切なことなのかどうかということだ。
川端さんは石原表でのスクリーニングは基準を満たしていないという。
この問題は興味深くて、眼科医と色覚の研究者では、視点が異なっていることだ。

あのドットで数字を見る検査表を石原表と呼ぶとは知らなかった。しかも戦前に陸軍で作られ、世界に広まったとは。そしていまなおスクリーニングにおいて有用性があると認知されているとは。
ただし、アメリカ軍でもイギリスの民間航空会社でも、石原表ではなく、別の基準を設けて色覚検査を行い、適正を測っている。そして石原表では異常となりパイロットもしくは整備しにはなれなかったかもしれない人々が、別基準では採用がなされていく。
石原表とは何なのか。しかも感度と特異度がきちんと調査されていないという。なんだそれ。
結局、石原表でスクリーニングにひかっかても、異常ではなく正常にもなる。
問題はスクリーニングにひっかかってもその後の確定診断にいたる過程が確立されていないことだという。
ちなみに石原表には色覚異常ではないと読み取れない票があり、正常な色覚だと読めないものがあるという。もはや正常と異常が何を意味するのかがわからなくなる、そもそもアンビバレントを孕んでいるようだ。

色覚を調べるのに糞のサンプルから遺伝子のDNAを拾うというので驚く。
色覚の2型、3型などがあり、人間は3型が多数を占めるが、必ずしも3型が有利であるというわけでもない。人間がどうして2型、3型、と多様なのかもよくわかっていないようだ。
ただ2型の方が、一般的に明るさのコントラストや形状の違いに敏感で、自然界で昆虫を採取したりなどの条件では有利に働く。ただし3型は森の中で緑の背景で果実の赤を見つけ出すのが有利だったりするらしい。
ただし、こういう有利不利も経験からその差異は埋められていき均されていく。
「色の弁別」と「色の見え」は違うというのは、まったくもって納得。色覚異常であるから色の弁別ができないわけでもない。見え方が違う。ただし、それがどのように見えているかは検証する術がない。
色の見え方は、証明の明るさや波長でも異なっていく。ザ・ドレスを参照。
「色覚は健全な錯視である」
結局、異常と正常の明確な境はない。スーパーノーマルの存在が明らかなように、正常自体が人間が作り出した幻想でしかない。
色覚では、明確な線が引けない。
「軽いほど危険」というフレーズそのものに危険が潜んでいる。気づかないぐらいの色覚だと知らないうちに日常生活で不利益を被るというものだが、そもそもとして正常と異常がはっきりと区別できないことがわかっている状況で、この言説を指示できる根拠がなくなっている。

驚くべきは魚類で、多様な色覚を獲得しているようで、緑型、青型という哺乳類、霊長類がもっていない錐体オプシンをもっているとのこと。すごい。
猫を飼っているが、やつらは多様な色を見分けられないとバカにしていたが、じつはそうではなくて、猫からしてみれば色覚が2型であることで闇夜でコントラストと輪郭をはっきりさせて、生存してきたということであって、まさに多様性なのだな。


2021/02/20

『アンナ・カレーニナ』 1 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

一人ひとりの登場人物がどんな思想をもって、発言し行動しているのかがうまく描かれている。
オブロンスキーは新聞はリベラルなものを読んでいたが、彼はノンポリであくまで都市的な教養としてリベラルを装っている。そして彼は他人に対して非常に外交的で、多くの人が彼に魅了されていく。

「きみはまた人間の行動にはいつも目標があり、愛と家庭生活が常にひとつであることを願うだろうが、そうばかりではないのさ。人生がこんなにも多様で、魅力的で、美しいのも、すべて光と影の両方があるからなんだよ」(110)

オブロンスキーのこの発言なんかも、非常にバランスのいいもので、そして包容力がある。人生をどこか達観している。他の登場人物とはちょっと違った視点を提供する。

アンナの登場の描写も素晴らしい。おそらくはトルストイの恋愛経験から書かれているかと思う。ヴロンスキーがアンナをはじめて会ったときの描写、

「全身から漂っている優雅さや淑やかさのせいでもなくて、相手の人文の脇を通り抜けるときのその愛らしい表情に、なにかしら特別にやさしく暖かいものが感じられたからであった。」(156-157)

このあとの描写でもアンナは自分の優雅さや美しさを自覚している。それを武器にして社交界で生きている。素晴らしい。

結婚観がとっても面白く、恋愛結婚を旧習なものだとヴロンスキーが述べ、理性による結婚こそが幸福であることとを主張する。
アンナとカレーニンの結婚は理性による結婚の象徴であるのか。ドリーが感じるアンナとカレーニンの生活感のなさや、節度をもったお互いの不干渉など、アンナもカレーニンも理性的。
にもかかわらず、アンナもヴロンスキーも恋愛にはまっていく。

リョービンは貴族として農場を経営する。農民たちは言うことをきかない、そんなときリョービンは得体のしれない「自然の力」と戦う意欲がわいてくるらしいのだ。まさに民衆、農民などは「自然の力」なのだ。意志をもって対峙する相手となっている。
当時にすでに「田舎の解放感」が求められていたようで、オブロンスキーもリョービンを訪ねたさいに、田舎を満喫する。
しかし田舎はある意味で都市の幻想で、田舎には現実がある。そしてその現実に疎いオブロンスキーは自分の土地を、リョービンから言わせれば安い価格で手放しています。
キティはドイツに慰安のために滞在中に、ワーレニカに出会う。キティは彼女と出会い心の平安を得て、さらに滞在先でワーレニカの真似をしながら、善行を尽くそうとする。
そこに父が登場し、さらにワーレニカの義母であるシュタール夫人とのやり取りを目の当たりにすることで、キティはシュタール夫人にどこかうさん臭さを見いだし、ここでおもしろいのが父親の存在で、彼はキティに言う、

「しかしね、事前をするのなら、むしろ誰にたずねても誰もしらないという形でしたほうがいいのだよ」(576)

父の街での振舞いやシュタール夫人にたいする態度から、キティが求めていた神々しさのめっきが剥がれていく。

2021/02/14

『代議制民主主義――「民意」と「政治家」を問い直す』 待鳥聡史 中公新書

代議制民主主義を委任と説明責任で解き明かしている。まあそうだよね、この世の中分業だもの。
それよりか民主主義、共和主義、自由主義の枠でもっと書いてほしかった。
共和主義の特徴を
「「市民的徳性」が持つ政治的意義を強調したところにある。市民的特性の持ち主、すなわち他者よりも倫理的、道義的に優れており、それに基づいて社会的事柄に関して的確な判断ができる人物こそが、政治的影響力を持ち、公益あるいは公共善を追求すべきだということ」(25)
と書いている。起源をマキャヴェリと書いていることから、参考文献にあるとおりポーコックあたりがベースか。
共和主義は君主や貴族を否定しているわけではなく、徳性さえあれば別に君主でもよい、とするからで目的は公共善といったところ。
自由主義については二つに大きく分けて論じている。ロック的自由主義とマディソン的自由主義。
ロック的自由主義は経済的自由、君主から財産権の擁護。
マディソン的自由主義とは、党派間で競争させ、お互いを抑止させていくもので、エリート間での相互抑制でもあった。多様な政治勢力たちが勝ったり負けたりすることで、個々の判断が過剰でも全体として妥当に落ち着くという「多元主義」としている。
自由主義にせよ、共和主義にせよ、ブルジョワジーやエリートによる支配という見方は拭えない。しかし民主主義は「多数者の専制」でしかない。
このあたりのバランスは各国で調整しながら運営されていっている。
現在、ミャンマーの軍事クーデターが話題になっているが、ミャンマーでの民主主義とはいかなるものかを論じられていないし、さらに言えば民主主義だからいいというわけでもないのに、ああだこうだ言いすぎている。残念至極。
ということで下記、参考文献から

田中秀夫『アメリカ啓蒙の群像』名古屋大学出版会
ポーコック『マキャヴェリアン・モーメント』名古屋大学出版会

ポーコックは昔読んだけど図書館で借りたからもっていない。もう一度さらっとおさらいしたいけど、高いし、置く場所ないし、図書館で借りるしかない。
しかし蛇足ながら、待鳥さんは素晴らしい実績もあって、他の著作はよかったけど今回は微妙でしたね。なんか焦点が定まっていなくってふわっとしていた。

2021/02/13

『性の歴史IV 肉の告白』 ミシェル・フーコーフ/レデリック・グロ編/慎改康之訳 新潮社

やっぱり一回だけ読んで理解できるような代物では全くなかった。けっこう難解な内容。どう整理していいかもわからない。
この『肉の告白』がどのように現代の問題と結びつくのか、結びつけられるのかがよくわからない。内容自体は興味深いものばかりで、知的好奇心は満足できるものではある。
んーだれかこの主体性やら欲望の系譜学とやらで、現代と結びつけながら論じてくれる人はいないものか。

以下はメモ。
古代ギリシアから離れ、ようやくキリスト教における欲望の系譜学を描き出す。ここでフーコーが抽出しているのは、単純な宗教的禁欲ではない。禁欲や節慾がもつ意味となる。
まず、アレクサンドリアのクレメンスによる『訓導者』を読み解いていく。
「我々が我々の訓導者から学びつつあるキリスト教徒の生は、<ロゴス>に適う行動の一式である。<ロゴス>の教えを断固として実行すること、これがまさしく我々が信仰と呼んだものである。」
クレメンスは適切な振る舞い(カテーコンタ)はロゴスから解読する。ロドスが人間行動の正しい道徳感覚を与え、救済するとなる。
初期キリスト教において、性交や結婚、それ自体は正真正銘の悪としては扱われない。人間の子作りの行為は<天地創造>の力能を関係しており、キリストの再生、受肉にも関連付けられている。

悔い改め
「悔い改めの実践と収斂的な生の務めは、「悪をなす」ことと「真を語る」こととのあいだの諸関係を組織化し、規範の厳しさの増減よりもおそらくはるかに新しくはるかに決定的な一つの様態において、自己、悪、真に対する諸関係を束ねる。実際、問題となtっているのは、主体性の形式である。自己の自己に対する務め。自己の自己による認識。調査および言説としての自己自身の構成。自己の解放と浄め。自己の奥底にまで光をもたらし、最も深いところにある秘密を贖罪のための現出の光へと導く操作を通じて得られる救済。このとき練り上げられたのが、一つの経験形態――自己への現前の様態であると同時に自己の変容の図式であるものとしての経験形態――である。そして、経験形態こそが「肉」の問題を、徐々に自らの装置の中心に据えるようになったのだ。そして、正しい生の一般的規則に統合されるものとしての、性的関係ないしアフロディシアをめぐる規定に代わって、生の全体を貫き生に課される諸規則の基盤をなすものとしての、肉の根本的関係が現れることになるのである。」(68-69)
「悔い改めは、自己の客体化よりもむしろ、自己の現出化に結びついている。」(85)
「メタノイアはこうして、心理に知王辰しようとする魂の動きであるとともに、その動きの現出化された真理でもあるような、複雑な一つの業を構成するのである。

他者の意志に服従するのは、他者が服従を欲しているから。
従順とは、他者との関係のみならず、生存の方法である。修道士が従わなければならないのは、まさに従順に達するためとなる(172)。従順とは自己との官益の一形態であり、指導は内面化し自己が自己自身の指導者へとなっていく。指導されるものは自分の意志に代えて他なる意志を際限なく受け入れる立場におかれる。「指導は、もはや欲しないようにしようとする熱意という逆説に依拠している」(175)
なかなか興味深いのが、初期キリスト教思想において、神の力添えなしに、人間の思慮分別は不可能であるとしてることだ。頼みの綱は神の恩寵であると。
自らの行為に間違いがないかどうかの検討をしても、自己自身を欺くこともある。それを払いのけることはできない。だから告白が必要となる。
「自分の心を苛むいかなる思考も偽りの羞恥によって隠されないようにすること、そうした思考がうまれたらすぐにそれを上長に現しだすこと」(カッシアヌス『共住修道制規約』/189)

なぜ告白が検証の役割を担うのか。上長の経験が優っているから助言が適格である、というのもあるが、カッシアヌスは言語による外在化に清めの効力を認める。
告白には羞恥がともなう。
自己を検証することで、「真を語る」ことと絶えず結び、神の恩寵が作動する。神は清らかな思考のみを迎えていく。
フーコーは自己に責任があると認める行為を「法陳述」ではなく、自己自身も知らない秘密に関する「真理陳述」としている。
「清らかさは逆に、自分自身のあらゆる意志の決定的な棄却」とし、「真理陳述」は自己の棄却と結びついている。
処女・童貞性の価値。禁欲や節慾が論じられながら、「個人の自分自身との関係、つまり、個人の自分の思考、自分の魂、自分の身体とのあいだに打ち立てる関係を」定義するようになる。処女・童貞性の推奨は、姦通の禁止の延長線にあるのではなく、非対称であり、異なる本性に属するという。(211)

オリュンポスのメトディオス『饗宴』
処女・童貞性には単に節慾の重要性や困難さを言っているのではなく、霊的な意味が与えられる。
結婚には肯定的な意味が与えられている。ただし、それは処女・童貞を守ることができない弱い人々に対する譲歩としてという。
清らかさは神の賜物なのである、腐敗から人間を守ってくれるという。
「永遠」「この生を超えた世界の彼方」。プラトン的。

アレクサンドリアのクレメンス曰く、結婚は過酷な試練を受けていることになるようだ。結婚は処女・童貞と同じように道徳的価値が与えられる。結婚には多くの危険がある。
処女・童貞を選ぶことは強い人々だけであり、少数の人のためのもの。結婚はみんなのためのもの。
「処女・童貞性は、天指摘生存を開くのだ。処女童貞性は、いまだ我々とともにあり続けている人々を非腐敗と不死性にまで上昇させる。」
「似た躯体的に自発的去勢者となることは、功徳がないだけではない。そのようなことをするものは、自らの魂の処女性を自分自身で確固たるものとすることを拒絶しているゆえに、つまり行為を自分にゆるさないとしても欲望には同意しているゆえに、罪びとともなされるべきである。」(287)とバシレイオスは言う。
結婚の目的は子づくりではない。というのもこの言明は夫婦と性的関係を義務としている。(355)そうではなく姦淫を避けるために、妻をもち夫をもつ。節慾のため。
子づくりは結婚の本質ではない。というのも「神の意志がなければ、結婚がそれ自身によって大地を人々で満たすことなどできないだろう。子づくりについて言えば、神は、結婚も身体の結びつきも減ることなくそれを保証することが完全にできるだろう」(356)とクリュソストモスは言う。
「産めよ、増やせよ」は身体的な生殖活動を言うのではなく、霊的な生殖を意味する。結婚は堕罪に結び付けられる。
処女・童貞性は義務ではないが、結婚は義務であり、法であるという。(361)。情欲のエコノミーにかかわる義務。

アウグスティヌスは、教会が処女・童貞を特別視していてもキリスト教共同体に帰属するための条件として、処女、結婚、節慾を求める必要がないという。(384)一つの共同体において統一される。
アウグスティヌスとって「性的関係は、堕罪の帰結でもなければその原因でもなく、創造の御業そのものによって人間の自然本性のなかに組み入れられているのだ。性的関係は、したがって、過ちからも情欲からも解き放たれいる」(397)
「結婚は<天地創造>の一部となす。。教会は結婚を保証する。なぜなら教会を構成する霊的諸形態の一部であるから。だから結婚は善なのだ。(404)
アウグスティヌスはさらに情欲に支配された、小罪を侵す人々に過度に義務をかすべきではなく、寛容さを説く。(421)
「リビドーとは、過ち、堕罪、「不従順の報い」の原理によって性行為と総合的なやり方で結びつけられた一つの要素なのだ。この要素を明確に定め、メタ歴史におけるその出現地点を決定することによってアウグスティヌスは、性行為とそれに内在する危険とが思考される際に拠り所とされていた「痙攣性のひとかたまり」を解体するための根本的条件を立てる。彼は一つの分野領野を開くのであり、そしてそれと同時に、政敵官益を回避するかそれともそれを(多少とも自らの意志にもとづく譲歩によって)受け入れるかという二者択一とは全「別の様態において振舞いを「統治」する可能性を素描するのである」(447)
アウグスティヌスとって情欲は意志に逆らう非意志的なものではなく、意志そのものに属する非意志的なもので、情欲なしでは意志は意欲しえない、しかし恩寵があれば情欲の弱点がのぞけるという。
「情欲の「自律性」、それは、主体が自分自身の意志を欲するときの主体の法であるということ。そして主体の無力、それは、情欲の法であるということ。これが、帰責性の一般的形式――というよりもむしろ、その一般的条件――なのである。」(454)
「情欲のことを人は「罪」と呼ぶが、「ある種の言葉の綾で」そう呼ぶ」(455)
「古代世界における性行為は、「発作性のひとかたまり」として、つまり個人がそこで他者との関係の快楽のなかに沈潜し、死を模倣するに至るような、痙攣性の統一体として考えられていた。そのひとかたまりについて、それを分析することは問題とならず、それを快楽と力の全般的エコノミーのなかに置き直すことが必要とされていただけであった。そのひとかたまりが、キリスト教においては、生活規則、自らを導き他者を導くための技法、検討の技法、告白の手続きによって、また、欲望、堕罪、過ちなどに関する一般的教義によって、解体されてしまった。しかしながら、もはや快楽と関係を中心としてではなく、欲望と主体を中心として、一体性が組み立て直された。その一体性は、回折がのこるようなやり方で、そしてそこで分析が可能となるようなやり方で組み立て直された。理論や思弁の形態のもとで、そしてまた他者もしくは自己自身による個別的検討という実践的形態のもとで、分析が可能となる。そしてそれらの形態のもとで、分析は、ただ単に[推奨される]だけでなく、義務とされるのだ。このようにして、発作性の快楽のエコノミーを中心とするのではなく、情欲の主体の分析論と呼びうるようなものを中心とする組み立て直しがなされた。そこでは、性、真理、法権利が、我々の文化が緩めるどころかむしろ強固な絆によって結びつけられているのである。」(474)

2021/02/05

『はじめてのウィトゲンシュタイン』 古田徹也 NHKブックス

とってもためになった。かなりわかりやすく書かれていて、入門書としてはいいかもしれない。ただ、ウィトゲンシュタインをある程度読んでいて、知っているからさくさく読めたのかもしれないけど。
本書と同時に『哲学探究』の新訳が出版されており、それと一緒に購入。『哲学探究』はもう10年以上前に全集版で読んでいるけど、もう一度読むにはいい機会かなと思う。
ウィトゲンシュタインは存在論などの形而上学に否定的だが、どうしても僕ら人間はアプリオリなものを検討したい衝動がある。僕は最近では倫理についてよく考えているけど、これなんか普遍的な善なんかをどうしても考えてしまう。そんなものはないのはわかっているけど。ウィトゲンシュタインが言うように、日常に落とし込んだ倫理を検討する必要があるのはわかる。
けれども、普遍性も考えないと、何が良くて何が悪いのか比較もできないのではないかとも思う。それでもウィトゲンシュタインのほうが正しいと思う。
『哲学探究』を読む前の復習と予習をかねて本書を読んだ。以下、まとめ。

ウィトゲンシュタインにとって、「好奇心」「知識欲」の類を美徳と見ていなかった。(113) 科学技術の向上による知識を増やすことよりも、この営みにでは語りえないものの見方に重きをおいた。論理実証主義のように形而上学を嘲笑することはせず、語りえないものを語ろうともがく人に対して深く敬意を払っていた。(114)

前期ウィトゲンシュタイン
世界が存在するとはどういうことか、なぜ世界は亜存在するかということを、我々は語りえない。
「世界が存在する」とうう記号列は有意味な命題ではない。
存在と論理はともに超越論的である。
「論理は、どんな経験にも――すなわり、何かがしかじかという仕方で存在するという経験にも――先立つ」(『論考』5.552)
「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」(『論考』5.6)

科学信仰について。すべてを自然法則で説明ができるという態度の結果は、神秘の喪失。「説明が尽きる地点を看過し、語りえないものを見失ってしまう。その意味で、現代人は古代人よりも明晰ではない。
「古代の人びとは説明が尽きる地点をはっきりと認めていた分、より明晰であった。」(『論考』6.372)

永遠の相。
「永遠の相のもとに世界を全体として直感する、という場合には、そこに因果的関係というものが入り込む余地はない。……現実の世界にかんしては、原因と結果という関係性のもとで、個々の事態の成立や、時間的に前後する個々の事態間の関係を機寿する必要がある。」(74)
神秘は神秘に過ぎず、奇跡は奇跡に過ぎない。そこから「よい」ということは帰着できない。
「無限定の世界全体を直感している私について語ろうとすれば、つまり独我論を語ろうとすれば、それはたとえば自己中心主義の主張に変質してしまう。同様に、世界が存在するという奇跡について語ろうとすれば、たとえば「宇宙に声明が存在するという奇跡」や「声明を育む地球という天体が存在するという奇跡」といった、経験的な内容にまつわる話に変質してしまう。だから、語ってはならない。神秘や奇跡は、沈黙において示され、保存されているということである」(84-85)
「彼の言う「現在に生きる」こととは、未来に背を向けて刹那的に生きる、などということではなく、世界に生じうる一切の事態を現在卿においてとらえつつ生きるということだ。言い換えれば、過去も未来もない、無時間的な生を生きるということにほかならない。」(85)

後期ウィトゲンシュタイン
像(Bild)
「(1)人がときに実際に頭に思い浮かべるイメージそれ自体(=心的な絵、映像、写真の類い)と、(2)何かのイメージで物事を捉えるということ(=何かになぞらえて物事を把握するということ)とはっきり区別するために、後者の(2)の方の意味で言われる「イメージ」を、本書ではこれから特に「像」という言葉で表していく。そして、あるイメージで物事を捉えることを、ある像のもとで物事でとらえる、とも表現していく。」(131)
「肝心なのは、像とは、物事の見方や活動の仕方を曖昧に――つまり、多様な仕方で、あるいは未確定な仕方で――方向づけるものだということである。まして、像がそれ自体で何事か意味のある内容を主張しているわけではない。にもかかわらず、人はしばしば、「人間の行動は自然法則に支配されている」とか「人間の行動は石の落下や天体の運行のようなものなのだ」などという記号列を口にし、その際に何らかの像を抱くだけで満足してしまう。なぜなら、そうした記号れるによって喚起される像が意味ありげだからだ。もう少し正確に言えば、その像が何かしら意味のある主張内容を示唆するからだ。しかし、それだけなのだ。像はそれ自体としては、人間の行動をどのように見るか、人間の行動に対してどのような探究や活動を行っていくか、その方向性を大雑把に示すだけなのである。」(136)

記号列は文脈に依存する。意味あるような記号列も文脈によっては全く意味不明にもなる。
記号列は人間の行動に対するひとつの像を表しているだけある。
「像はときに我々をから「かう。我々は像に幻惑され、像の内実を探究することなく、像を表現する物言いがはっきりした意味を有していると思い込んでしまう。」(157)
自然法則を説明も比喩的な物言いであり、自然科学の発展という事実に促されて構築されているがゆえに、有意味な内容を語っているだけではなく事実を語っているという錯覚すら助長している。
「言葉が意味をもつのは、言葉とともに我々が行う実践の賜物なのである」(178)
「ではいったい、言葉の意味はそのつど何によって定まるのか。それは生活の流れだ。すなわち、記号が我々の生活のなかで使用され、特定の役割を果たすその具体的な状況こそが、その記号をまさに意味ある言葉にするのである。」(183)
ウィトゲンシュタインは「言葉と、それが織り込まれた諸行為の全体」(『探究』-1:7)を言語ゲームと呼ぶ」(185)
「「言語ゲーム」という用語はここでは、言葉を話すということが活動の一部分、あるいは生活形式(Lebensform)の一部分であることを際立たせるべきものである(『探究』-1:23)」(185)
「共通の本質なしに全体として一個のまとまり(カテゴリー、概念)を構成する類似性の連関を、比喩的に「家族的類似性」と呼ぶ」(188)
「言葉が織り込まれた我々の日々の実践は……多様なものであり、しかも常に生成変化を続けている。そして、ある実践と別の実践の間に見られる共通点は、また別の実践との間との間には見られず、代わりに別の共通点が現れる、という風にして、錯綜した類似性のネットワークが書く実践の間に張られている。そのネットワークを辿ることによって見わたされる複雑な連関の全体を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼ぶである」(189)
「日常」とは多様な文脈の寄せ集めである。

「連結項」は、「原型(諸事象の根源、共通の本質)」ではなく「像」に過ぎない。諸事象を一個の全体として秩序づける見方はひとつとは限らない。(212)
「理念は、現実の比較大正となる像、現実がどのようであるかを描写するために用いられる像であるはずだ。我々がその像に従って現実を歪めるような、そうした代物であったはならない。(『宗教哲学日記』1937.2.8)
「発話が身振りや表情や眼差しといったものと同様の振る舞いとしての側面をもつこと、反応(リアクション)である以上は自己感けるしたものであはありえず相手を必要とすること、空いてを動かし影響を与える行為としての側面をもつこと、等々である。」(216)

アスペクト。
「ゲームのアスペクト(相貌、側面)も次々に替わっていく。そうやって多様なアスペクトを渡り歩きつつ、個々のアスペクト同士を比較できること、それが「ゲーム」という言葉の意味を十分に把握できているということである。つまり、ゲームがまさにそうであるように、多様なアスペクトを見渡すことではじめてあるがままに捉えられる物事が存在する、ということだ」(224)
「あらゆる物事(物、現象、概念)は多様な見方に開かれており、無数のアスペクトをもちうる、というアプリオリな主張を行っているわけではない。むしろ彼は「ゲーム」であれ何であれ、常に特定の物事を取り上げ、それに対する別の見方を実地で具体的に提示することに徹している。それによって、その特定の物事に対して志向が硬直している者が「精神的痙攣」を解く手助けをすること、それが彼の目的なのだ。その意味で、後期ウィトゲンシュタインの活動はすぐれて臨床的である。」(231)
感覚にも感情にも、それを引き起こした原因が当然想定されるが、感情の場合にはそれを加えて理由も必要である。」(251)
「知っている」とは、知らない可能性があるときに使わる。しかし自分の痛みを「知らない」というのは意味不明となる。他者の心を知ることができるのか。懐疑論者は他者の心を知ることはできないというが、ウィトゲンシュタインは他者の心を知ることができる、という。つまり、「知っている」は自分の心ではなく他者の心について言われる事柄となる。
「私は自分がいま感じていることや考えていることを知っているわけではない。かといって、知らないわけでもない。つまり自分の心はそもそも「知っている」とか「知らない」という知識の概念が通常適用される事柄ではない」(256)
アスペクトの閃き。不規則なものに秩序を見出した時の、バラバラなものの集合に有機的なまとまりを認めたときのこと。同じものを見ているにもかかわらず、同じではなくなる。
ウィトゲンシュタインはこれを生理的、解剖学的な解明ではなく、「知覚や思考等にまつわるほかの多様な概念との関係をよくせいりすることによって答える」(281)
アスペクトの閃きそれ自体の家族的類似性の探求。地道な調査を抜きにして、この種の体験の全体をあるがままに見わたすことは不可能。
アスペクト盲は、知覚に障害があるのではなく、類似性や多義性に気づくことができないこと。

2021/02/04

『新プロパガンダ論』 西田亮介/辻田真佐憲 ゲンロン

2018年4月と言えばまだつい最近だけど、もういろいろと忘れている。
西田さんの「プロパガンダ」に対する距離感もよくわかる。西田さんはあらゆる政治的な広報をプロパガンダと手あかのついた言葉で表すことで、見るべきことが見えなくなることを危惧している。
でも辻田さんの「プロパガンダ」に対する警戒感というか認識もよくあかり、辻田さんは歴史との照合という観点から「プロパガンダ」を見ている。

政治プロパガンダの怖さは、「空気」を醸成していくことにある。プロパガンダではないが、辻田さんが述べるナチスの例で、あえて重要な指示は口頭で行い、曖昧にしていく。それによって指示されたものはあれこれ慮って行動を起こす。自主規制や相互監視はこの空気の醸成による。
プロパガンダの効果測定も難しく、実際に効いているのかどうかよくわからないともいう。
与野党の広報については、なかなか考えさせる。政治の広報というのはダサくて、見てられないものだったけど、安倍政権の広報はなかなかだと思った。芸能人との会食やバラエティ番組への出演。「Vivi」なんかは、ぼくは自民党支持者ではないけど、なかなか面白いことやっているなあと思った。
下からの「プロパガンダ」のようなものも、なかなか面白い事例があって、知らなかったけど、ゆずが「ガイコクジンノトモダチ」とかいう曲をかいていたとは。この手の下からの便乗なるものが、けっこう大きい影響はあるのかもと思う。

ただ一つ気になったのが、プロパガンダとは関係ないが、コロナの影響における経営悪化を「経営環境の変化」とする西田さんの認識で、困窮者や失業対策をしっかりしていれば、たとえ潰れても問題がより小さいものとしているところ。
僕はけっこう西田さんには好意的なんだけど、それを言っちゃおしまいじゃない、とも思う。新聞社の人材や取材網はいったんなくなれば再構築が難しいって言っているけど、それは他の商売でも同じ。メディアこそ「経営環境の変化」でしかなく、それによって影響を受ける情報の偏りや不正確さなども、世の中の「経営環境の変化」でしかない、といった感じになると思うわけで。さらに言えば大学のおける大学教授の不遇だって「経営環境の変化」でそれについていけない人は、ふるい落とされればいい的なことになりかねい。

いずれにせよ、どんなことも政府の広報がうまくいっていないことは、ぼくもなんだかなと思う。行政サービスを受ける側には、情報にアクセルするハードルが高いと思う。

数年後にまた読むと面白いかもしれない。コロナのところはまだ記憶に新しいこともあり、それほど感慨深いところはないが、2018年、2019年なんかけっこう年表を見ているだけでもあれこれ思い出す。売らずにとっておこう。

2021/02/03

20年ぶりの第九

去年のことながら、記録のために。
20年ぶりに第九のコンサートへ行く。

東京交響楽団 
ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調「合唱付」
指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:ジャクリン・ワーグナー
メゾソプラノ:カトリオーナ・モリソン→中島郁子
テノール:クリスティアン・エルスナー→笛田博昭
バスバリトン:リアン・リ
合唱:新国立劇場合唱団
会場:サントリー・ホール
日にち:2020年12月29歩日

コロナの影響で、メゾソプラノとテノールの歌手が変更となる。
第九は正直それほど好きな曲ではなく、全体を通しで聴くのですら、数年ぶりではきかず10年は聴いていない。今年、年末は何を聴きに行こうかと悩んでいたが、たまには第九もいいもんだろうと思ったわけで、でこれがかなり正解の選択だったと思われる。
第九ってこんなにいい曲だったけ、と思わずにはいられず。ジョナサン・ノットの曲運びは軽快で、あのフルトヴェングラーのような重々しさがない。僕はこの重々しさが好きではなく、だから第九を敬遠していたわけです。
しかし演奏は素晴らしかった。
第一楽章から第二楽章まで、ベートーヴェンの童貞臭さが抜けて、あか抜けた演奏だった。両楽章と明るい曲調ではないが、どこか天性的な明るさをもったものに仕上がっている。
第三楽章にしてもたっぷりと聴かせるアダージョではなくて、なめらかでどこかモーツァルトのような要素を含ませていたと思う。
第四楽章、ここはクライマックスでもあるので壮大にダイナミズムを持ってくるかと思いきや、やはりここでも洒脱な軽快さをもって合唱を終えていく。
曲全体で素晴らし統一感を持たせていて、曲が進むにつれてその統一感が増していく。第四楽章では、第一楽章から第三楽章までが序奏であるかのように、僕は第四楽章にこの曲の全体性を感じることができた。これはCDやレコードでは体験のしたことのないものだ。
んーまさかこんなに素晴らしいとは思わなんだ。

アンコールは「蛍の光」。これもこれで素晴らしいですねー。年末を心から味わうことができた瞬間。
拍手はやまず、ジョナサン・ノットは何度もカーテンコール。コロナで「ブラボー」の声はダメなので、紙に書いてきている方を複数見ける。多くの聴衆は立ち上がって拍手を送り続け、なかなかみんな帰らなかった。

2021/02/02

『クオリアと人工意識』 茂木健一郎 講談社現代新書

ううーむ。面白い内容だと思うのだけど、いまの僕は人工意識だとか脳科学だとかにあまり興味がなくて、あまり真剣に読めなかった。残念。僕の今のマイブームは歴史だから、少し時間をおいてもう一度読んでみることにしようと思う。
いちおうは、流し読みはしたのだけど、、、
また今度。

ただ、読んだ感想を簡単に残しておくと、クオリアという概念の難しさ。「質」を感じる以上の身体的、時間的な何かを内包しているのかと思うが、かなり難解。ふわっとしたイメージはできるけど。
茂木さんが言うように、意識を定義づけられなくても意識は存在する。同じようにクオリアを厳格に定義づけられなくてもクオリアはある。

2021/02/01

『罪と罰』 ドストエフスキー/江川卓訳 岩波文庫

んーやっぱりドストエフスキーはおもしろいですね。
『カラマーゾフ』ほどではないにせよ、ここでもやはり登場人物がみな精神疾患持ちのような連中ばかりで、会話劇がやばい。

スヴィドリガイロフの存在がこの小説において際立っている。
ドゥーニャを襲うとしながら、愛してもらえないことを聞いて、途中でやめる。
スヴィドリガイロフは大雨の中で少女を見つける。ベッドに寝かしてあげるが、彼は少女に性的なものをみつける。
ここのくだりは、現実と夢が錯綜しており、かなりカオス。
そしてスヴィドリガイロフが自殺をする。感動的だ。マルメラードフの子供を孤児院にいれ、ソーニャにはラフコリーニコフの懲役暮らしのためにお金をあげ、自分が結婚するつもりだった少女にもお金を与える。
いつの間にか、スヴィドリガイロフは聖人のようにふるまい、そして自殺をする。彼の葛藤は謎だが、行動は聖人めいている。
最後のセリフでアメリカに行ったことを伝えてくれと、守衛に言う。守衛にいったところで意味がないのに。
「ねえ。きみ、おなじことじゃないか。いい場所さ。あとから聞かれたら、アメリカへ行ったといっておいてくれや」

この小説も希望で終わる。
「ふたりは口をきこうとしたが、できなかった。涙がふたりの目に浮かんでいた。ふたりはどちらも青白く、やせていた。だが、この病みつかれた青白い青には、新しい未来の、新しい生活への復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた。ふたりをふっかつさせたのは愛だった。おたがいの心に、もうひとつの心にとっての尽きなることのない生の泉が秘められていたのだ。」
「思弁の代わりに生活が登場したのだ。」