2021/02/05

『はじめてのウィトゲンシュタイン』 古田徹也 NHKブックス

とってもためになった。かなりわかりやすく書かれていて、入門書としてはいいかもしれない。ただ、ウィトゲンシュタインをある程度読んでいて、知っているからさくさく読めたのかもしれないけど。
本書と同時に『哲学探究』の新訳が出版されており、それと一緒に購入。『哲学探究』はもう10年以上前に全集版で読んでいるけど、もう一度読むにはいい機会かなと思う。
ウィトゲンシュタインは存在論などの形而上学に否定的だが、どうしても僕ら人間はアプリオリなものを検討したい衝動がある。僕は最近では倫理についてよく考えているけど、これなんか普遍的な善なんかをどうしても考えてしまう。そんなものはないのはわかっているけど。ウィトゲンシュタインが言うように、日常に落とし込んだ倫理を検討する必要があるのはわかる。
けれども、普遍性も考えないと、何が良くて何が悪いのか比較もできないのではないかとも思う。それでもウィトゲンシュタインのほうが正しいと思う。
『哲学探究』を読む前の復習と予習をかねて本書を読んだ。以下、まとめ。

ウィトゲンシュタインにとって、「好奇心」「知識欲」の類を美徳と見ていなかった。(113) 科学技術の向上による知識を増やすことよりも、この営みにでは語りえないものの見方に重きをおいた。論理実証主義のように形而上学を嘲笑することはせず、語りえないものを語ろうともがく人に対して深く敬意を払っていた。(114)

前期ウィトゲンシュタイン
世界が存在するとはどういうことか、なぜ世界は亜存在するかということを、我々は語りえない。
「世界が存在する」とうう記号列は有意味な命題ではない。
存在と論理はともに超越論的である。
「論理は、どんな経験にも――すなわり、何かがしかじかという仕方で存在するという経験にも――先立つ」(『論考』5.552)
「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」(『論考』5.6)

科学信仰について。すべてを自然法則で説明ができるという態度の結果は、神秘の喪失。「説明が尽きる地点を看過し、語りえないものを見失ってしまう。その意味で、現代人は古代人よりも明晰ではない。
「古代の人びとは説明が尽きる地点をはっきりと認めていた分、より明晰であった。」(『論考』6.372)

永遠の相。
「永遠の相のもとに世界を全体として直感する、という場合には、そこに因果的関係というものが入り込む余地はない。……現実の世界にかんしては、原因と結果という関係性のもとで、個々の事態の成立や、時間的に前後する個々の事態間の関係を機寿する必要がある。」(74)
神秘は神秘に過ぎず、奇跡は奇跡に過ぎない。そこから「よい」ということは帰着できない。
「無限定の世界全体を直感している私について語ろうとすれば、つまり独我論を語ろうとすれば、それはたとえば自己中心主義の主張に変質してしまう。同様に、世界が存在するという奇跡について語ろうとすれば、たとえば「宇宙に声明が存在するという奇跡」や「声明を育む地球という天体が存在するという奇跡」といった、経験的な内容にまつわる話に変質してしまう。だから、語ってはならない。神秘や奇跡は、沈黙において示され、保存されているということである」(84-85)
「彼の言う「現在に生きる」こととは、未来に背を向けて刹那的に生きる、などということではなく、世界に生じうる一切の事態を現在卿においてとらえつつ生きるということだ。言い換えれば、過去も未来もない、無時間的な生を生きるということにほかならない。」(85)

後期ウィトゲンシュタイン
像(Bild)
「(1)人がときに実際に頭に思い浮かべるイメージそれ自体(=心的な絵、映像、写真の類い)と、(2)何かのイメージで物事を捉えるということ(=何かになぞらえて物事を把握するということ)とはっきり区別するために、後者の(2)の方の意味で言われる「イメージ」を、本書ではこれから特に「像」という言葉で表していく。そして、あるイメージで物事を捉えることを、ある像のもとで物事でとらえる、とも表現していく。」(131)
「肝心なのは、像とは、物事の見方や活動の仕方を曖昧に――つまり、多様な仕方で、あるいは未確定な仕方で――方向づけるものだということである。まして、像がそれ自体で何事か意味のある内容を主張しているわけではない。にもかかわらず、人はしばしば、「人間の行動は自然法則に支配されている」とか「人間の行動は石の落下や天体の運行のようなものなのだ」などという記号列を口にし、その際に何らかの像を抱くだけで満足してしまう。なぜなら、そうした記号れるによって喚起される像が意味ありげだからだ。もう少し正確に言えば、その像が何かしら意味のある主張内容を示唆するからだ。しかし、それだけなのだ。像はそれ自体としては、人間の行動をどのように見るか、人間の行動に対してどのような探究や活動を行っていくか、その方向性を大雑把に示すだけなのである。」(136)

記号列は文脈に依存する。意味あるような記号列も文脈によっては全く意味不明にもなる。
記号列は人間の行動に対するひとつの像を表しているだけある。
「像はときに我々をから「かう。我々は像に幻惑され、像の内実を探究することなく、像を表現する物言いがはっきりした意味を有していると思い込んでしまう。」(157)
自然法則を説明も比喩的な物言いであり、自然科学の発展という事実に促されて構築されているがゆえに、有意味な内容を語っているだけではなく事実を語っているという錯覚すら助長している。
「言葉が意味をもつのは、言葉とともに我々が行う実践の賜物なのである」(178)
「ではいったい、言葉の意味はそのつど何によって定まるのか。それは生活の流れだ。すなわち、記号が我々の生活のなかで使用され、特定の役割を果たすその具体的な状況こそが、その記号をまさに意味ある言葉にするのである。」(183)
ウィトゲンシュタインは「言葉と、それが織り込まれた諸行為の全体」(『探究』-1:7)を言語ゲームと呼ぶ」(185)
「「言語ゲーム」という用語はここでは、言葉を話すということが活動の一部分、あるいは生活形式(Lebensform)の一部分であることを際立たせるべきものである(『探究』-1:23)」(185)
「共通の本質なしに全体として一個のまとまり(カテゴリー、概念)を構成する類似性の連関を、比喩的に「家族的類似性」と呼ぶ」(188)
「言葉が織り込まれた我々の日々の実践は……多様なものであり、しかも常に生成変化を続けている。そして、ある実践と別の実践の間に見られる共通点は、また別の実践との間との間には見られず、代わりに別の共通点が現れる、という風にして、錯綜した類似性のネットワークが書く実践の間に張られている。そのネットワークを辿ることによって見わたされる複雑な連関の全体を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼ぶである」(189)
「日常」とは多様な文脈の寄せ集めである。

「連結項」は、「原型(諸事象の根源、共通の本質)」ではなく「像」に過ぎない。諸事象を一個の全体として秩序づける見方はひとつとは限らない。(212)
「理念は、現実の比較大正となる像、現実がどのようであるかを描写するために用いられる像であるはずだ。我々がその像に従って現実を歪めるような、そうした代物であったはならない。(『宗教哲学日記』1937.2.8)
「発話が身振りや表情や眼差しといったものと同様の振る舞いとしての側面をもつこと、反応(リアクション)である以上は自己感けるしたものであはありえず相手を必要とすること、空いてを動かし影響を与える行為としての側面をもつこと、等々である。」(216)

アスペクト。
「ゲームのアスペクト(相貌、側面)も次々に替わっていく。そうやって多様なアスペクトを渡り歩きつつ、個々のアスペクト同士を比較できること、それが「ゲーム」という言葉の意味を十分に把握できているということである。つまり、ゲームがまさにそうであるように、多様なアスペクトを見渡すことではじめてあるがままに捉えられる物事が存在する、ということだ」(224)
「あらゆる物事(物、現象、概念)は多様な見方に開かれており、無数のアスペクトをもちうる、というアプリオリな主張を行っているわけではない。むしろ彼は「ゲーム」であれ何であれ、常に特定の物事を取り上げ、それに対する別の見方を実地で具体的に提示することに徹している。それによって、その特定の物事に対して志向が硬直している者が「精神的痙攣」を解く手助けをすること、それが彼の目的なのだ。その意味で、後期ウィトゲンシュタインの活動はすぐれて臨床的である。」(231)
感覚にも感情にも、それを引き起こした原因が当然想定されるが、感情の場合にはそれを加えて理由も必要である。」(251)
「知っている」とは、知らない可能性があるときに使わる。しかし自分の痛みを「知らない」というのは意味不明となる。他者の心を知ることができるのか。懐疑論者は他者の心を知ることはできないというが、ウィトゲンシュタインは他者の心を知ることができる、という。つまり、「知っている」は自分の心ではなく他者の心について言われる事柄となる。
「私は自分がいま感じていることや考えていることを知っているわけではない。かといって、知らないわけでもない。つまり自分の心はそもそも「知っている」とか「知らない」という知識の概念が通常適用される事柄ではない」(256)
アスペクトの閃き。不規則なものに秩序を見出した時の、バラバラなものの集合に有機的なまとまりを認めたときのこと。同じものを見ているにもかかわらず、同じではなくなる。
ウィトゲンシュタインはこれを生理的、解剖学的な解明ではなく、「知覚や思考等にまつわるほかの多様な概念との関係をよくせいりすることによって答える」(281)
アスペクトの閃きそれ自体の家族的類似性の探求。地道な調査を抜きにして、この種の体験の全体をあるがままに見わたすことは不可能。
アスペクト盲は、知覚に障害があるのではなく、類似性や多義性に気づくことができないこと。

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