2021/02/05

『はじめてのウィトゲンシュタイン』 古田徹也 NHKブックス

とってもためになった。かなりわかりやすく書かれていて、入門書としてはいいかもしれない。ただ、ウィトゲンシュタインをある程度読んでいて、知っているからさくさく読めたのかもしれないけど。
本書と同時に『哲学探究』の新訳が出版されており、それと一緒に購入。『哲学探究』はもう10年以上前に全集版で読んでいるけど、もう一度読むにはいい機会かなと思う。
ウィトゲンシュタインは存在論などの形而上学に否定的だが、どうしても僕ら人間はアプリオリなものを検討したい衝動がある。僕は最近では倫理についてよく考えているけど、これなんか普遍的な善なんかをどうしても考えてしまう。そんなものはないのはわかっているけど。ウィトゲンシュタインが言うように、日常に落とし込んだ倫理を検討する必要があるのはわかる。
けれども、普遍性も考えないと、何が良くて何が悪いのか比較もできないのではないかとも思う。それでもウィトゲンシュタインのほうが正しいと思う。
『哲学探究』を読む前の復習と予習をかねて本書を読んだ。以下、まとめ。

ウィトゲンシュタインにとって、「好奇心」「知識欲」の類を美徳と見ていなかった。(113) 科学技術の向上による知識を増やすことよりも、この営みにでは語りえないものの見方に重きをおいた。論理実証主義のように形而上学を嘲笑することはせず、語りえないものを語ろうともがく人に対して深く敬意を払っていた。(114)

前期ウィトゲンシュタイン
世界が存在するとはどういうことか、なぜ世界は亜存在するかということを、我々は語りえない。
「世界が存在する」とうう記号列は有意味な命題ではない。
存在と論理はともに超越論的である。
「論理は、どんな経験にも――すなわり、何かがしかじかという仕方で存在するという経験にも――先立つ」(『論考』5.552)
「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」(『論考』5.6)

科学信仰について。すべてを自然法則で説明ができるという態度の結果は、神秘の喪失。「説明が尽きる地点を看過し、語りえないものを見失ってしまう。その意味で、現代人は古代人よりも明晰ではない。
「古代の人びとは説明が尽きる地点をはっきりと認めていた分、より明晰であった。」(『論考』6.372)

永遠の相。
「永遠の相のもとに世界を全体として直感する、という場合には、そこに因果的関係というものが入り込む余地はない。……現実の世界にかんしては、原因と結果という関係性のもとで、個々の事態の成立や、時間的に前後する個々の事態間の関係を機寿する必要がある。」(74)
神秘は神秘に過ぎず、奇跡は奇跡に過ぎない。そこから「よい」ということは帰着できない。
「無限定の世界全体を直感している私について語ろうとすれば、つまり独我論を語ろうとすれば、それはたとえば自己中心主義の主張に変質してしまう。同様に、世界が存在するという奇跡について語ろうとすれば、たとえば「宇宙に声明が存在するという奇跡」や「声明を育む地球という天体が存在するという奇跡」といった、経験的な内容にまつわる話に変質してしまう。だから、語ってはならない。神秘や奇跡は、沈黙において示され、保存されているということである」(84-85)
「彼の言う「現在に生きる」こととは、未来に背を向けて刹那的に生きる、などということではなく、世界に生じうる一切の事態を現在卿においてとらえつつ生きるということだ。言い換えれば、過去も未来もない、無時間的な生を生きるということにほかならない。」(85)

後期ウィトゲンシュタイン
像(Bild)
「(1)人がときに実際に頭に思い浮かべるイメージそれ自体(=心的な絵、映像、写真の類い)と、(2)何かのイメージで物事を捉えるということ(=何かになぞらえて物事を把握するということ)とはっきり区別するために、後者の(2)の方の意味で言われる「イメージ」を、本書ではこれから特に「像」という言葉で表していく。そして、あるイメージで物事を捉えることを、ある像のもとで物事でとらえる、とも表現していく。」(131)
「肝心なのは、像とは、物事の見方や活動の仕方を曖昧に――つまり、多様な仕方で、あるいは未確定な仕方で――方向づけるものだということである。まして、像がそれ自体で何事か意味のある内容を主張しているわけではない。にもかかわらず、人はしばしば、「人間の行動は自然法則に支配されている」とか「人間の行動は石の落下や天体の運行のようなものなのだ」などという記号列を口にし、その際に何らかの像を抱くだけで満足してしまう。なぜなら、そうした記号れるによって喚起される像が意味ありげだからだ。もう少し正確に言えば、その像が何かしら意味のある主張内容を示唆するからだ。しかし、それだけなのだ。像はそれ自体としては、人間の行動をどのように見るか、人間の行動に対してどのような探究や活動を行っていくか、その方向性を大雑把に示すだけなのである。」(136)

記号列は文脈に依存する。意味あるような記号列も文脈によっては全く意味不明にもなる。
記号列は人間の行動に対するひとつの像を表しているだけある。
「像はときに我々をから「かう。我々は像に幻惑され、像の内実を探究することなく、像を表現する物言いがはっきりした意味を有していると思い込んでしまう。」(157)
自然法則を説明も比喩的な物言いであり、自然科学の発展という事実に促されて構築されているがゆえに、有意味な内容を語っているだけではなく事実を語っているという錯覚すら助長している。
「言葉が意味をもつのは、言葉とともに我々が行う実践の賜物なのである」(178)
「ではいったい、言葉の意味はそのつど何によって定まるのか。それは生活の流れだ。すなわち、記号が我々の生活のなかで使用され、特定の役割を果たすその具体的な状況こそが、その記号をまさに意味ある言葉にするのである。」(183)
ウィトゲンシュタインは「言葉と、それが織り込まれた諸行為の全体」(『探究』-1:7)を言語ゲームと呼ぶ」(185)
「「言語ゲーム」という用語はここでは、言葉を話すということが活動の一部分、あるいは生活形式(Lebensform)の一部分であることを際立たせるべきものである(『探究』-1:23)」(185)
「共通の本質なしに全体として一個のまとまり(カテゴリー、概念)を構成する類似性の連関を、比喩的に「家族的類似性」と呼ぶ」(188)
「言葉が織り込まれた我々の日々の実践は……多様なものであり、しかも常に生成変化を続けている。そして、ある実践と別の実践の間に見られる共通点は、また別の実践との間との間には見られず、代わりに別の共通点が現れる、という風にして、錯綜した類似性のネットワークが書く実践の間に張られている。そのネットワークを辿ることによって見わたされる複雑な連関の全体を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼ぶである」(189)
「日常」とは多様な文脈の寄せ集めである。

「連結項」は、「原型(諸事象の根源、共通の本質)」ではなく「像」に過ぎない。諸事象を一個の全体として秩序づける見方はひとつとは限らない。(212)
「理念は、現実の比較大正となる像、現実がどのようであるかを描写するために用いられる像であるはずだ。我々がその像に従って現実を歪めるような、そうした代物であったはならない。(『宗教哲学日記』1937.2.8)
「発話が身振りや表情や眼差しといったものと同様の振る舞いとしての側面をもつこと、反応(リアクション)である以上は自己感けるしたものであはありえず相手を必要とすること、空いてを動かし影響を与える行為としての側面をもつこと、等々である。」(216)

アスペクト。
「ゲームのアスペクト(相貌、側面)も次々に替わっていく。そうやって多様なアスペクトを渡り歩きつつ、個々のアスペクト同士を比較できること、それが「ゲーム」という言葉の意味を十分に把握できているということである。つまり、ゲームがまさにそうであるように、多様なアスペクトを見渡すことではじめてあるがままに捉えられる物事が存在する、ということだ」(224)
「あらゆる物事(物、現象、概念)は多様な見方に開かれており、無数のアスペクトをもちうる、というアプリオリな主張を行っているわけではない。むしろ彼は「ゲーム」であれ何であれ、常に特定の物事を取り上げ、それに対する別の見方を実地で具体的に提示することに徹している。それによって、その特定の物事に対して志向が硬直している者が「精神的痙攣」を解く手助けをすること、それが彼の目的なのだ。その意味で、後期ウィトゲンシュタインの活動はすぐれて臨床的である。」(231)
感覚にも感情にも、それを引き起こした原因が当然想定されるが、感情の場合にはそれを加えて理由も必要である。」(251)
「知っている」とは、知らない可能性があるときに使わる。しかし自分の痛みを「知らない」というのは意味不明となる。他者の心を知ることができるのか。懐疑論者は他者の心を知ることはできないというが、ウィトゲンシュタインは他者の心を知ることができる、という。つまり、「知っている」は自分の心ではなく他者の心について言われる事柄となる。
「私は自分がいま感じていることや考えていることを知っているわけではない。かといって、知らないわけでもない。つまり自分の心はそもそも「知っている」とか「知らない」という知識の概念が通常適用される事柄ではない」(256)
アスペクトの閃き。不規則なものに秩序を見出した時の、バラバラなものの集合に有機的なまとまりを認めたときのこと。同じものを見ているにもかかわらず、同じではなくなる。
ウィトゲンシュタインはこれを生理的、解剖学的な解明ではなく、「知覚や思考等にまつわるほかの多様な概念との関係をよくせいりすることによって答える」(281)
アスペクトの閃きそれ自体の家族的類似性の探求。地道な調査を抜きにして、この種の体験の全体をあるがままに見わたすことは不可能。
アスペクト盲は、知覚に障害があるのではなく、類似性や多義性に気づくことができないこと。

2021/02/04

『新プロパガンダ論』 西田亮介/辻田真佐憲 ゲンロン

2018年4月と言えばまだつい最近だけど、もういろいろと忘れている。
西田さんの「プロパガンダ」に対する距離感もよくわかる。西田さんはあらゆる政治的な広報をプロパガンダと手あかのついた言葉で表すことで、見るべきことが見えなくなることを危惧している。
でも辻田さんの「プロパガンダ」に対する警戒感というか認識もよくあかり、辻田さんは歴史との照合という観点から「プロパガンダ」を見ている。

政治プロパガンダの怖さは、「空気」を醸成していくことにある。プロパガンダではないが、辻田さんが述べるナチスの例で、あえて重要な指示は口頭で行い、曖昧にしていく。それによって指示されたものはあれこれ慮って行動を起こす。自主規制や相互監視はこの空気の醸成による。
プロパガンダの効果測定も難しく、実際に効いているのかどうかよくわからないともいう。
与野党の広報については、なかなか考えさせる。政治の広報というのはダサくて、見てられないものだったけど、安倍政権の広報はなかなかだと思った。芸能人との会食やバラエティ番組への出演。「Vivi」なんかは、ぼくは自民党支持者ではないけど、なかなか面白いことやっているなあと思った。
下からの「プロパガンダ」のようなものも、なかなか面白い事例があって、知らなかったけど、ゆずが「ガイコクジンノトモダチ」とかいう曲をかいていたとは。この手の下からの便乗なるものが、けっこう大きい影響はあるのかもと思う。

ただ一つ気になったのが、プロパガンダとは関係ないが、コロナの影響における経営悪化を「経営環境の変化」とする西田さんの認識で、困窮者や失業対策をしっかりしていれば、たとえ潰れても問題がより小さいものとしているところ。
僕はけっこう西田さんには好意的なんだけど、それを言っちゃおしまいじゃない、とも思う。新聞社の人材や取材網はいったんなくなれば再構築が難しいって言っているけど、それは他の商売でも同じ。メディアこそ「経営環境の変化」でしかなく、それによって影響を受ける情報の偏りや不正確さなども、世の中の「経営環境の変化」でしかない、といった感じになると思うわけで。さらに言えば大学のおける大学教授の不遇だって「経営環境の変化」でそれについていけない人は、ふるい落とされればいい的なことになりかねい。

いずれにせよ、どんなことも政府の広報がうまくいっていないことは、ぼくもなんだかなと思う。行政サービスを受ける側には、情報にアクセルするハードルが高いと思う。

数年後にまた読むと面白いかもしれない。コロナのところはまだ記憶に新しいこともあり、それほど感慨深いところはないが、2018年、2019年なんかけっこう年表を見ているだけでもあれこれ思い出す。売らずにとっておこう。

2021/02/03

20年ぶりの第九

去年のことながら、記録のために。
20年ぶりに第九のコンサートへ行く。

東京交響楽団 
ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調「合唱付」
指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:ジャクリン・ワーグナー
メゾソプラノ:カトリオーナ・モリソン→中島郁子
テノール:クリスティアン・エルスナー→笛田博昭
バスバリトン:リアン・リ
合唱:新国立劇場合唱団
会場:サントリー・ホール
日にち:2020年12月29歩日

コロナの影響で、メゾソプラノとテノールの歌手が変更となる。
第九は正直それほど好きな曲ではなく、全体を通しで聴くのですら、数年ぶりではきかず10年は聴いていない。今年、年末は何を聴きに行こうかと悩んでいたが、たまには第九もいいもんだろうと思ったわけで、でこれがかなり正解の選択だったと思われる。
第九ってこんなにいい曲だったけ、と思わずにはいられず。ジョナサン・ノットの曲運びは軽快で、あのフルトヴェングラーのような重々しさがない。僕はこの重々しさが好きではなく、だから第九を敬遠していたわけです。
しかし演奏は素晴らしかった。
第一楽章から第二楽章まで、ベートーヴェンの童貞臭さが抜けて、あか抜けた演奏だった。両楽章と明るい曲調ではないが、どこか天性的な明るさをもったものに仕上がっている。
第三楽章にしてもたっぷりと聴かせるアダージョではなくて、なめらかでどこかモーツァルトのような要素を含ませていたと思う。
第四楽章、ここはクライマックスでもあるので壮大にダイナミズムを持ってくるかと思いきや、やはりここでも洒脱な軽快さをもって合唱を終えていく。
曲全体で素晴らし統一感を持たせていて、曲が進むにつれてその統一感が増していく。第四楽章では、第一楽章から第三楽章までが序奏であるかのように、僕は第四楽章にこの曲の全体性を感じることができた。これはCDやレコードでは体験のしたことのないものだ。
んーまさかこんなに素晴らしいとは思わなんだ。

アンコールは「蛍の光」。これもこれで素晴らしいですねー。年末を心から味わうことができた瞬間。
拍手はやまず、ジョナサン・ノットは何度もカーテンコール。コロナで「ブラボー」の声はダメなので、紙に書いてきている方を複数見ける。多くの聴衆は立ち上がって拍手を送り続け、なかなかみんな帰らなかった。

2021/02/02

『クオリアと人工意識』 茂木健一郎 講談社現代新書

ううーむ。面白い内容だと思うのだけど、いまの僕は人工意識だとか脳科学だとかにあまり興味がなくて、あまり真剣に読めなかった。残念。僕の今のマイブームは歴史だから、少し時間をおいてもう一度読んでみることにしようと思う。
いちおうは、流し読みはしたのだけど、、、
また今度。

ただ、読んだ感想を簡単に残しておくと、クオリアという概念の難しさ。「質」を感じる以上の身体的、時間的な何かを内包しているのかと思うが、かなり難解。ふわっとしたイメージはできるけど。
茂木さんが言うように、意識を定義づけられなくても意識は存在する。同じようにクオリアを厳格に定義づけられなくてもクオリアはある。

2021/02/01

『罪と罰』 ドストエフスキー/江川卓訳 岩波文庫

んーやっぱりドストエフスキーはおもしろいですね。
『カラマーゾフ』ほどではないにせよ、ここでもやはり登場人物がみな精神疾患持ちのような連中ばかりで、会話劇がやばい。

スヴィドリガイロフの存在がこの小説において際立っている。
ドゥーニャを襲うとしながら、愛してもらえないことを聞いて、途中でやめる。
スヴィドリガイロフは大雨の中で少女を見つける。ベッドに寝かしてあげるが、彼は少女に性的なものをみつける。
ここのくだりは、現実と夢が錯綜しており、かなりカオス。
そしてスヴィドリガイロフが自殺をする。感動的だ。マルメラードフの子供を孤児院にいれ、ソーニャにはラフコリーニコフの懲役暮らしのためにお金をあげ、自分が結婚するつもりだった少女にもお金を与える。
いつの間にか、スヴィドリガイロフは聖人のようにふるまい、そして自殺をする。彼の葛藤は謎だが、行動は聖人めいている。
最後のセリフでアメリカに行ったことを伝えてくれと、守衛に言う。守衛にいったところで意味がないのに。
「ねえ。きみ、おなじことじゃないか。いい場所さ。あとから聞かれたら、アメリカへ行ったといっておいてくれや」

この小説も希望で終わる。
「ふたりは口をきこうとしたが、できなかった。涙がふたりの目に浮かんでいた。ふたりはどちらも青白く、やせていた。だが、この病みつかれた青白い青には、新しい未来の、新しい生活への復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた。ふたりをふっかつさせたのは愛だった。おたがいの心に、もうひとつの心にとっての尽きなることのない生の泉が秘められていたのだ。」
「思弁の代わりに生活が登場したのだ。」


2021/01/30

『日本の近代とは何であったのか――問題史的考察』 三谷太一郎 岩波新書

ウォルター・バジェットをヒントに日本の近代を解いていく。
バジェットにとってき近代とは「議論による統治」であり、前近代を自由な議論を可能にする積み重ねの時代とし、近代は一日にしてならずとした。
バジェットは「伝統や習慣から自由な人間の自己利益の認識能力に疑問をもち、それを駆使して把握したと信ずる自己利益を行動の発条とする同時代の功利主義的人間観に与し」なかった。
王権のような単純な統治ではなく、近代は「複雑な時代」であり、おもしろいのがバジェットは「受動性」を説く。性急な行動を妨げて入念な考慮による「議論による統治」。
そして「慣習の支配」から解放させるには、議論に委ねること、つまり議論されることは問題の脱神聖がなされていくという。
戦前の政党政治を加藤高明内閣(1924, 大正13年)から犬養毅内閣(1932年、昭和7年)までの8年としている。

複数政党制が成立することは世界史的にみて一般的ではない。しかし日本では明治憲法下で複数政党制が実現した。
それは日本が江戸幕府からもっていた権力分立制を引き継いでいるからという。江戸幕府では合議制によって政治が行われていた。これは支配者が専門家である有力官僚の恣意的な決定を防ぐためだった。行政の没主観性を達成するための合議制であった。そして日本では幕藩体制とともに相互監視機能が備わっており、あらゆる行政機構が複数性(合議制)であり、お互い牽制しあう制度が精密に出来上がっていた。
そして同時に、「文芸的公共性」が成立しており、政治的コミュニケーション以外の学芸の分野でのコミュニケーションが活発だった。(森鴎外の史伝、澀江抽齋、伊澤蘭軒、北條霞亭など)

西周は徳川慶喜のブレーンとして、三権分立を主張していく。これは幕府が行政権を最終的には握る算段だったという。すげーな。そして立法権は全国の大名たちらによる合議制をもって行おうとした。立法権と行政権の分離は、非幕府勢力を立法権の領域に封じ込めることだった。やっほー。
そしてさらに諸大名らの意見を「衆議」として、伝統的な合議制をめざし、それまで幕府を意味していた「公儀」の正当性が失われ、「公議」へと移行していく。ここには議会制の萌芽がみられる。

明治憲法は幕府のような覇府の出現を防止するために、権力分立制だった。つまり三権分立のみならず統帥権の独立は、そもそもが軍事政権のイデオロギーではなく、。権力分立のイデオロギーによってなされたもの。天皇の存在のために集権的、一元的国家と見られがちだが、実際には相互均衡が作動していた。そして明治憲法は反政党内閣の性格をもっているが、これも立法と行政の両機能をもってしまっている政党内閣の排除の志向性だった。
穂積八束はアメリカと同様に権力分立がなされている明治憲法を高く評価していたし、上杉慎吉は反政党内閣論者だが、明治憲法の権力分立制を強く主張していた。とくに立法権と司法権の独立を重視していたという。美濃部達吉はゆるやかな権力分立で立法権を優位にする学説をといていた。故に裁判所が議会でつくった法律を審議することはありえないことだった。なにーー。

明治憲法においうては内閣にしろ統制力は弱かった。内閣自体、国会の指名ではないので、議会の支持を得ずらかった。これは現在の内閣制とは異なる。
「日本の政治は、遠心的であり、求心力が弱かった」(72)
この分権的な体制を統合する非制度的な主体の役割を担っていたのが、藩閥のリーダーであり元老たちだった。とはいいつつも藩閥とは関係のない議会を掌握することは元老たちもできず、藩閥は政党の役割を担えなかった。
注意すべきは、立憲主義であることは民主主義であるということではない。五・一五事件ののちにできた斎藤實内閣は、専門家組織としての官僚内閣であり、これに蠟山正道は立憲主義の唯一も道として提言し、立憲的独裁へと日本の政体は変わっていく。

明治日本の経済政策は、やはり不平等条約とは切り離せない。明治政府は外国からの支配を警戒し、外国債に頼ることをしたくなかった。そこで、地租改正が行われていく。そして安定的な質の高い労働力の確保という観点から「学制」が取り入れられていく。
また外国資本に依存しないですんだのは、明治政府が四半世紀以上、対外戦争をしなかったこと、とくに日清戦争の回避が大きい。外債の危険性はグラント大統領が明治天皇にも具申したらしい。
そして明治27年の日清開戦までには、ある程度の不平等条約が是正されていき、外債募集へと舵をきることができるようになった。
自立型資本主義から、外債を受け入れることで国際資本主義へと転換していく。外資資本が入り、本格化するなかで日露戦争となっていく。
高橋是清と井上準之助の対比もおもしろく、高橋はドイツ・ユダヤ系の投資銀行クーン・レーブ商会と親密な関係があったが、井上はアングロサクソン系のモルガン商会と結びついていたという。
井上のモルガン商会とのつながりで、1920年に中国に対する米英仏日四国借款団にモルガン商会のラモントを加入させ、日本はますます国際金融とのつながりを強化していく。そしてこのながれはワシントン体制へと引き継がれていく。この四か国を第一次世界大戦後の戦後レジームとなる。

日本は帝国主義であったが、それは欧米諸国の帝国主義とは性格が異なるものだった。
欧米の帝国主義は「自由貿易帝国主義」であり、単純な拡大主義ではなかった。欧米の場合は軍事コストを植民地経営にあまりかけずに行っており、つまり植民地経営とは欧米とっては経済的利益の追求にあり、日本では山県の「利益線」「主権線」という言葉が表すように、軍事的安全保障の問題であった。
台湾、朝鮮の法と内地の法は異なっていた。その理屈が「異法区域」。植民地に憲法を適用できるかどうかなども議論される。美濃部達吉は立憲主義の範囲外として植民地を規定していた。

枢密院とは、憲法に規定された枢密顧問によって構成される天皇の最高諮問機関のことである。枢密院は帝国議会の貴族院と衆議院の上にある存在であり、明治憲法における日本の議会は三院制といっても間違えではない側面があった。

一般に日本の植民地経営についてのある種の誤解がある。それは、関東軍や関東都督府、総督府などの権力は集中的なものだったというもので、ある種のイメージとなっている。しかし実態は、分権的にしようとしており、悪く言えば縦割りにわざと仕組んでいる。そうすることで権力の分散を極力狙っている。

蠟山正道の「地域主義」はなかなか示唆的。「地域主義」は「国際主義」の修正版として提案されていることが重要。「地域主義」は「民族主義」「帝国主義」「普遍主義」の対立概念として登場する。
しかしこの考えが日本の「大東亜」という概念に利用されていく。
著者はここでおもしろいことを少しいっていて、竹山道雄『ビルマの竪琴』では「埴生の宿」「仰げば尊し」といった欧米の曲を原曲とする歌を使うが、最初はアジア共通で親しまれている旋律を選ぼうとしたようだが、結局はそんな日本とビルマで共通の旋律はなく、「埴生の宿」を選ぶしかなかったという。アジアを考える上でもなかなか示唆的な話。

日本をヨーロッパ化するのに上で、ヨーロッパのイメージを必要とした。そこで持ちだされたのが機能主義的思考様式。国民が主体的に動き、役割を果たすこと。
福澤諭吉、田口卯吉、長谷川如是閑、石橋湛山などもそうで、戦後では司馬遼太郎が代表。マルクス主義も当初は実用的な計画経済の理想として取り上げられていた。
鴎外の史伝はこの機能主義へに反対命題として明確に意識して著述されている。
近代日本が抱えていたヨーロッパ像は歴史的背景を排除されたものであり、永井荷風などはこのようなヨーロッパ像への批判があり、「近代」がすなわちヨーロッパであるという考えを一面的だとしていた。

教育勅語は天皇からの直接の公示ろなっている。当時から教育勅語と明治憲法の異質性があった。しかし、明治憲法はあくまでインテリ向けであり、教育勅語は庶民の規範となっていく。このあたりにも日本の政治の不安定さがあった。
教育勅語の成立過程で問題になっていたのは、宗教色をなくすこと、政治色をなくすことだった。
宗教色をなくすことは、道徳を天皇と結びつけるうえでも重要で、無用な宗教の対立産むことをさけるためだった。
そして政治色が強くなれば、世俗臭が強くなり、天皇からの勅語という神聖性を失いかねないというものだった。
教育勅語では、天皇は神などの絶対的超越者ではなく相対的超越者になっている。「皇祖皇宗」というのは、現実の君主の祖先というものを道徳の源泉としている。そしてこの徳は儒教思想が盛り込まれている。

とはいいつつ、「近代」も盛り込まれたものが教育勅語となっている。

2021/01/16

『民主主義とは何か』 宇野重規 講談社現代新書

前著の『保守主義とは何か』に引き続き、とってもためになる本でした。民主主義という漠然としたものの歴史がまとまっていてよかった。
僕自身は、それほど民主主義に期待していないのだけれど、というか現在の日本の民主主義が良くないってことに尽きるのかもしれない。いやそうではなく、一人の市民として自治体にも何も働きかけていないのだし、僕自身、かなり個人主義に毒された人間にすぎないことが痛感させられます。
まず、ポピュリズムも民主主義の現象であること。不満をもつ多くの市民の声を政治がすくい上げていくこなかった結果ともいえる。

合議制で決める政治は、特別なものではなく、ましてや起源を古代ギリシアに求める必要がないが、古代ギリシアでは民主制を発展させてきたこともあり、古代ギリシアの制度と歴史は民主主義を考える上でも出発点となる。
古代ギリシアにおいて、民主主義は第一に公共的な議論によって意思決定をすることが重要であるとする。そして第二に公共的な議論によって決定されたことについて、市民はこれに自発的に服従する必要があったが、強制されるものではなく、納得に基づく「自発的な服従」が重要であった。
古代ギリシアのソロン、クレイステネス、ペイシストラトスについては、
トゥキディデス『戦史』、モーゼス・フィンリー『民主主義 古代と現代』、橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』あたりを参照。
とはいいつつ、民衆の憎悪でソクラテスを失ったプラトンやクセノフォンからすれば民主制は、多数派が正しいとは限らないことを常に言っているしし、自己に配慮した哲人王を夢想していわけだが、まさにイデアだけにプラトンは理想主義者。アリストテレスにいたっては籤引きがいいといっている。
ここで重要なのが「共和制(res publica)」で、これはデモクラシーとは異なる。たしかプラトンの『国家(ポリテイア)』のラテン語訳はres publica。で、この共和制とは、「国家は市民にとって公共的な存在であり、それを動かす原理は公共の利益であるという理念」で、デモクラシーの「多数派の利益の支配」とは異なり、「公共の利益の支配」を含意する。共和制は代表制を取り入れた政治体制であり、間接民主主義をとおして選ばれた少数の市民が政府を運営することを意味している。
民主主義というのは、現在では金科玉条のようなものに仕立て上げられているが、歴史は必ずしも民主主義を肯定的に扱っていたわけではない。なんてたってアリストテレスからすれば理想的なポリスの大きさは5040人だとしているぐらいだから。

民主主義を先導するアメリカ合衆国だが、そもそもこの国の成り立ち自体が民主主義を目標にしていたかが疑問で、むしろ表向きの単なる看板でしかないのかもしれない。アメリカで憲法を制定し、各州に批准させるために運動していたの「ザ・フェデラリスト」の憲法解説書。憲法案は妥協の産物で、連邦政府が全州にたいする統治と支配が中途半端であった。
そしてアメリカ合衆国は、民主主義ではなく共和制を志向していたし、実際建国の父たちは「民主主義」ではなく「共和制」を好んで使っていた。
トクヴィルは19世紀前半のアメリカをみて、アメリカを覆う「平等化の趨勢、さらにはそこで人々の思考法や暮らし方」を含めて「デモクラシー」と呼んだ。アメリカ社会が出すエネルギーを「デモクラシー」とみたという。
アメリカ東部では名もなき一般人が政治的見識をもち、自治や結社の活動をしていたことに感銘をうけたようで、そこにデモクラシーを感じたという。ここからそれまで否定的な色彩を帯びていた「デモクラシー」に脚光が浴び、多様な「デモクラシー」が含まれるようになる。
トクヴィルはデモクラシーをまず少数の小さな自治体レベルでのものとして考えていた。だからトクヴィルの本には代議制民主主義の話はほとんどない。アメリカにはまさに古代ギリシアで行われていたデモクラシーが自治体で行われていたことに驚いていた。
そしてトクヴィルはデモクラシーを平等化の趨勢のことを指してもいる。貴族、聖職者、地主などの封建制から脱していく過程やエネルギーをデモクラシーとみている。
そしてデモクラシーの裏面もみる。伝統を壊すことは、それは社会基盤をこわすことでもあり、個人主義をもたらしている。これはデモクラシーが引き起こしたものと言える。アメリカでは結社というもので伝統的な紐帯のかわりを担い、市民からの寄付で事業を行うようになる。

ジョン=スチュアート・ミルはベンサムの功利主義の影響のもとに、古典的な自由主義を追求していく。自由を自分自身の幸福の追求であり、他人に決定権はない。幸福の尺度はみんな違うのだから。しかし自由にも限界があり、他人を妨害しないかぎりにおいてという条件付きとなる。すなわち他者の自由を侵害するならば権力によって抑制されることになる。
ミルは代議制民主主義を最善としてる。なぜならこれこそが、官僚制や優れた人材の必要性を述べており、さらには彼らに投票数を二票、もしくはそれ以上を与えることを認めていた。
代議制の真意は、執行権ではなく立法権にあり、ということではない。ミルは国会での立法については懐疑的だった。専門性が高く、うまく運用できていないのは昔からだったようだ。では、ミルは代議制の何を見ていたのか。「代議制統治が意味するのは、全国民あるいは国民の大多数の部分が、自分たちで定期的に選出する代表を通じて、どんな国制でも必ずどこかにあるはずの最終的統制力を行使する、ということである」。つまり代議制の本義は統治の監視と統制にあり、立法ではない。ぬおーーーー。そして、議会が行うべきは審議であり、多数の意見を聞き、討論を行うこと、多くの、多様な国民の意見を表明する機関である。ぬおーーーーー。
よく言われる三権分立について、執行権(行政権)、立法権、司法権があるが、実際には執行権と立法権を分離することは難しく、多くの国で立法権は空疎化し、執行権が強大にある。
この執行権がちょっとした議論になる。ルソーは民主制は理想であり、現実的な制度ではないとみていたふしがあり、むしろ貴族政、寡頭政を良しとしたふうもある。ルソーにとっては重要なのは人民主権であり、つまり立法権となり、執行権については少数の人びとにゆだねることを主張する。
しかし重要なのは立法権というよりも、執行権であるといえる。というとだ、現在の日本の国会は、とりあえず立法府となっているので、与野党ともに法案がでないこと自体、もうすでに国会の機能は果たせていないといえて、これはミルの意見と同じだ。ということは日本の国会も立法府ではなく、行政府としての性格をもっと強くすべきなのかもしれない。
そしてアメリカではフランスの影響で建国が行われたこともあり、三権分立がきっちりなされているが、イギリスでは行政権と立法権があいまいなかたちで一体化がみられるという。なるほどねー。

ウェーバーの苦悩。第一次世界大戦後のドイツで「指導的民主主義」と打ち出す。大統領制というのは代議制民主主義とは異なり、人民投票で決まる。ヴァイマール政治体制の苦悩。
シュミットの独裁論。なかなかアクチュアル。「近代議会主義とよばれているものなにしも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして独裁は決して民主主義の決定的対立物でなく、民主主義は独裁への決定的な対立物でない。」んーいま現在、強いリーダーを欲する人民の心を代弁しているかのようなシュミット。
シュンペーターのエリート民主主義論。シュンペーターは人民は代表を選ぶだけで、あとは代表者が政治を自由に行えるようにすべきとする。個別案件での主張によって左右されてはいけない、代表者も競争によって選ばれるべきであるとする。
ロバート・ダールのポリアーキー。これはなかなかいい感じ。民主主義、民主主義とはいうけれど、この民主主義なる概念はあいまなでありすぎる。なので、ダールは民主主義をある種の理想として脇へ置き、ポリアーキーという複数の利益団体による権利獲得闘争として政治をとらえ直すという現実路線をとっている。民主主義を標榜する国家は先進国含めて数あれど、どこも「民主主義」を達成しておらず、いわば寡頭政治をしているにすぎない。痛いところです。だからこそ集団間の自由な競争によって望ましい結末を考え出せるような体制を考えることにしているようだ。ここには一元的な政府の支配もないい。ダールは面白そうだから、今度読んでみようかと思う。

その他参考文献は下記。
待島聡史『政治改革再考 変貌を遂げた国家の軌跡』 新潮選書
三谷太一郎『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』 岩波新書

2021/01/14

『牛と土――福島、3.11 その後。』 眞並恭介 集英社文庫

 「牛の経済的価値は失われ、もはや家畜ではない。ここにいれば被曝はするし、これから先も餌代はかかる、手間もかかる。そこになんの意味があるのか。それを見いださないかぎり、自分らのやっていることには意味がない」(68)
被曝した牛を、安楽死ではなく生かしす選択をした被災者を描く。
読んでいてつらいものがある。牛を放っておけば餓死をするし、もしくは人に家を荒らしてしまう。それに牛を生かしても被曝した牛に価値があるのかと、安楽死させる。政府もそれを言う。
安楽死させる選択は決して非難できるものではない。
安楽死を選択した人にとっては、牛を生かしている人を非難したくなってしまう。
誰が悪いって、政府と東電なのに、被災者同士がいがみ合う現実。
悲しいですね。
牛を生かす理由って、かなり根源的な生への問いかと思う。牛を農地で草を食わせて生かせておけば、農地もすぐに復活できる。でも、これはある種の方便なのかもしれない。
そうしないと行政も人々も納得させることができないから。

2021/01/13

『木村正彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也 新潮文庫

福島清三郎が舞鶴に左遷された石原莞爾を慕い、東亜連盟の活動をしていく。その会が義方会で、それに牛島辰熊がや曹寧柱が参加する。そこで木村政彦と大山倍達も出会う。なんと牛島は木村を使って、東條英機を暗殺しようとしていたという。しかし、しようとしたところ東條は総辞職した。
この時代、武道家と政治家や軍人との関係は現在では考えられないような緊密さをもっていたのはたしかで、植芝盛平も出口王仁三郎とともにモンゴルへ行っているし。
ここに収められている柔道一本で生きてきた男たちの悲哀がたまらない。阿部謙四郎は戦後イギリスで講道館柔道ではない柔道を広めていこうと奮闘するのが泣ける。
あと、解説にも書かれているが、オーバーワークにたいする批判が昨今うるさいが、オーバーワークってなんでしょうね。根性だとかなんとかみんな嫌いなのかな。
なんか決められた練習以外で練習するのはいけないみたいな論調もあるようで。バカかとしか言いようがない。
みんな強くなりたい、うまくなりたいからオーバーワークする。
はあ、オーバーワークごときで昭和の価値観として批判されるのはたまらんわ。

2021/01/12

『戦争調査会』 井上寿一 講談社現代新書

『戦争調査会事務局書類』(ゆまに書房)が出版されたのが2015年~2016年。かなり遅れたなあと思う。
敗戦直後、幣原喜重郎が「敗戦の原因及実相調査の件」ということで、戦争調査会が設置される。
三つの基本方針
1 戦争著境は「永続的性質」を帯びている。
2 戦争犯罪者の調査は「別に司法機関とか或は行政機関」が担当すべき。
3 歴史の教訓を後世に遺し、戦後日本は「平和的なる、幸福なる文化の高い新日本の建設」に邁進すべきである。
東京裁判との兼ね合いで、法的な戦争責任を問うことは除外されていた。
戦争調査会は結局は存続せず、調査記録が残っただけとなった。

ブロック経済だったのかという疑問があって、これはなかなか盲点です。
オタワ会議に代表されるような日本いじめがあるというが、渡邊鉄蔵はこれに反論する。日本がブロック経済ではなく開放的な通商貿易体制の国だったこと、そして日本の方が世界経済のブロック化に挑戦していたということ。事実、日本は保護主義に反対していた。そして輸入も拡大していた。そして経済摩擦を起こすまでになっていた。事実は、ブロック経済どころか輸出を拡大していた。日本は孤立化などしておらず、各国は排他的でもなかった。

ジャーナリストの馬場恒吾は敗戦の原因を追究すること、それは戦争をはじめたからという論理だったが、幣原は戦争自体を否定おらず、戦争は勝つこともあるとしている。だからこそ敗戦の教訓を遺す必要性を説く。しかし馬場は危うい発言でもあった。いわば勝てる戦争ならしてもいいという考えの微妙なバランスで成り立っていた。

戦争の原因をどこまで遡ることができるのか。
明治維新まで遡る議論が当時かあるが、平野義太郎はこのような運命論を拒絶する。人口過剰のため領地拡大をしたという説もあったが、実際は日本から満州、朝鮮、中国へと移民がほとんど行われていたなかった。人口問題は非軍事手段で解決は可能だった。そして資源問題についても戦争を正当化できるものではなかった。日露戦争前後までには日中戦争、太平洋戦争の原因を見いだすことは難しいとする。
徳富蘇峰は戦争賛成ではあったが、必ずしも日本のやり方を擁護していたわけではない。とくに日中戦争については、日本側の中国に対する認識を批判していた。
興味深いのは、第一次世界大戦が終わって、軍縮と平和の時代が到来するが、それによって軍人への蔑視感情がでくる。そんななか、大正デモクラシーの雰囲気の中で、世相の頽廃を難じ、反動が起きる。華美な社会と成金の台頭によって、一部から世直し運動がはじまる。右翼テロが起きる。
永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次らのバーデンバーデンの盟約でgは国家総動員による戦争準備を約すが、これも大正デモクラシーの反動であり、もう一ついお形だった。軍部と国民の一体化を唱えている。しかし満蒙問題は話されていない。大正デモクラシーのなかで国
総動員と国家主義が醸成されていく。
ロンドン海軍軍縮会議において統帥権干犯問題が起きる。軍縮に調印するとなると統帥権に侵犯となるが、天皇自身が批准しているのだから問題ないとする。驚くべきは侵犯している主張したのは浜口雄幸だということ。なかなか興味深い。
戦争調査会で共有されていた見方としては、満州事変をすっぱりやめて、満州国への投資がきちんと行われていれば、日中戦争は起きなかったという。
日中戦争の和平についても、宇垣、石射猪太郎は国民党の周仏海の努力も、近衛の無駄な好戦的な声明などでチャンスを逃す。
戦争回避の転換点は、南部仏印への進駐で、これによってアメリカの態度がいっきに硬直化する。対日全面禁輸の措置となる。そしてこの措置は予測不可能だったとの見解もあるが、南部仏印への進駐が外交的に多大な影響を予想はできた。
とはいっても、まだ戦争回避の可能性があった。野村駐在大使によるアメリカ政府との交渉によって日米の妥協点をもって戦争回避もできた。しかし松岡外相による外交政策によってアメリカの心象を悪くする。しかし、野村、松岡に共通する認識は、雨いr化が強硬路線をとってきたことであり、松岡からすれば三国同盟を結ぶことでアメリカへの牽制すう意図があった。
下記、面白うそうな参考文献。
石井修『世界恐慌と日本の「経済外交」』(勁草書房)
井上寿一『線全日本の「グローバリゼーション」』(新潮選書)
籠谷直人『アジア国際通商秩序と近代日本』(名古屋大学出版会)


2021/01/11

『人口減少と社会保障――孤立と縮小を乗り越える』 山崎史郎 中公新書

社会保障の4分野は社会保険、公的扶助、公衆衛生、社会福祉となっている。そして自助、相互扶助、公助が基本となっている。
1950年代に日本では社会保障を整備し始めて、1995年一応の充実したものができたが、その後の日本経済の悪化と家族構成の変化により、それまでの社会保障も変化を要請される。
当初は、終身雇用、2世代3世代での家族同居、経済成長が前提となっていたが、これらが崩れていったのが、90年代からの日本の状況となっている。
社会保障の財源をどこから調達するかで、仕組み自体も変わっていく。税か保険かで、予算のたてかたも変わってくる。ここはなるほどと思った。
保険で賄えば、徴収した保険料は必ず目的に使われるが、税から賄う場合は、予算を組むために、必ずしも十分な予算を確保できるわけではない。そのため保険で社会保障を支えることは、財源の確実な確保という観点からはいい。かつては介護サービスは税金で賄われていたこともあり、予算の制限がかなり効いていたために、低いサービス状況だった。
そして保険で賄うことで国民に、制度を支えあっているという意識を植え付けることにもなる。
しかし、社会状況が変化し、非正規社員の増加、失業者の増加、高齢化によって、社会保障が十分に機能しなくなってきた。
教育や子育てへの支援が少ないのは、やはり予算の制限があるからなのだろう。であるから、結局寂しい支援になっている。
今後、人口減少と高齢化社会をむかえるにあたって、多様なニーズに対応できるような社会保障が必要になっていく。
2016年における開度保険の財源構成について、50%が公費で、残りの半分が保険料。全体の22%が65歳以上の保険料で、のこりの28%が40~64歳の保険料で賄われている。けっこう重要なところで、若年層からは保険料がとられれいないこと。たしかに税金から補填されているとはいえ、社会保険を細かくみていくとなかなか興味深い。

2021/01/07

『ミシンと日本の近代――消費者の創出』 アンドルー・ゴードン/大島かおり訳 みすず書房

めっぽう面白い。ミシンは和服には適さず、洋服向けというのは知っていたが、にしても西洋式と日本式をいう「二重生活」が議論されていたりしていたとは。

良妻賢母は、教育を身につけ、必要とあらば就職して稼ぐ努力をすることによって、家族と社会に奉仕する。家庭での役割をしっかり果たすことは、公共的義務であると理解されていた(29) 
裁縫とミシンは、家族と国民と帝国に奉仕する良妻賢母という理想像の普及努力にきわだったはたらきをみせた(29)
現在、家族観が騒がしいけども、家族観は時代でかなり違うもので。現在の見方から過去の家族観を問題にする際には注意が必要。左派の問題は、新しい家族観が提示できていない事かと思う。ぼくは新しい家族観を提示することはとっても重要だと思うんだな。保守側にはそれなりにあるわけ。だから彼らは強い。

ミシンの価格は月給の2か月分。割賦販売が行われていて、明治、大正期にシンガー社はPRと割賦販売で売り上げを伸ばしてきた。当時からローン払いがいいのか悪いのかの論争があって、ローンを組むことはよく言われるように、借金でもあるし、ある種の貧乏人や算術に弱い女をだます商売だという言説とは逆に、ローンを組むということは、家政をきちんと仕切る能力を要求するからよいという意見など、時代が違っても人間は変わらないなーと。

PRで気取った経済学語彙を使ったりしていたことも書かれている。ここでは「償却」。「御宅デシンガーヲ御使用ニナレバ數ケ月ニチヤントミシン代ヲ償却あし得ラレマス」(89)
んー、今ではカタカナ語なのかな。ここで「償却」という言葉を使うことで、科学的、合理的、論理的な雰囲気を創りだしている。
ミシンは二つの近代性を象徴しているという。一つは合理的な投資という近代性、もう一つは、自由と、生活スタイルと、西洋と結びついた快楽の追究という近代性の象徴だという(92)。洋服の自由さと倹約が統合されている。

知らなかったが、シンガー社のセールスマンだった遠藤政次郎と、裁縫学校をしていた並木伊三郎が現在の文化服装学院が設立さえれる。

雑誌「婦人倶楽部」などでは、ミシンを使っての成功物語が掲載されていった。余暇をつかって洋服をつくって貯金ができましたといった話など。んーなんか現在の株投資に似ている。
裁縫をはじめる動機が職業訓練に限定されず、近代を世コロコンで受け入れる日本文化の、特徴となる美徳だとみらていたという。(120)

手縫いかミシン縫いかの是非、服装における二重生活の功罪をあれほどさかんに議論した人びとは、能率と合理性の価値、ときには自由と個性の価値を、問題なく受け入れていた。彼らは同時に、近代の到来が不可避で不可逆であること、そして、近代における日本らしさ、もしくはその道徳的次元を検討せずに、近代を論するのは不可能であることをも肯定していたのである。(132)

「女袴」なんかも、考えてみれば近代の風景であることを思いもしなかった。20世紀初頭、大正期ごろ、女袴自体がモダンだっというのも思いを馳せることだろう。女学生はこの改革を喜び、女性のからだの解放と美的見地からも喜ばしかったという。そしてこれは「女学生」という特権的身分のしるしとなっている。

「日本」と「西洋」は複雑に絡み合いながら文化は醸成されていった。日本と西洋を固定的なものとして理解することを当時からあり、それに対しての批判も当時からあった。今和次郎の例がでており、西洋ファッションの広がりに可能性を感じていた。それは単なる帝国主義的な文化侵略面のものだけでなくグローバルな近代文化の受容の喜びだったという。
1941年に厚生省主導で国民の標準服プロジェクトが発足され、家庭で仕立てることができることが一つの基準にもなっていた。そしてモンペの受容史も興味深く、農業作業用のモンペが普及していったことに、穿きにくく醜悪であるという批判があったらしい。淡谷のり子は「絶対モンペをはかなかった」と語っていたという(219、『洋服と日本人』より)
モンペは今では強制的に着用されるようになったように思っていたが、どうもそうでもないようだ。どこかの時点で大多数を占め、モンペを穿かなければ非国民と言われる時点があったとは思うが。

戦後において、ミシンのイメージは、性的魅惑、近代科学、家政学が重なり合っている。
実質的な面でも、戦争未亡人が手に職をもって生活をしていくことをPRしていく。1960年代ぐらいまでは服装学校では職業訓練の面が強かったかが、70年代ごろから花嫁修業の一環になっていき短期コースができあがっていく。
専業主婦というのは現在ではマイナスのイメージしかないが、専業主婦はプロフェッショナル主婦でもあり、必ずしも現在ほどのマイナスなイメージがあったわけではない。
大宅壮一の文章が引用されている。これが秀逸。
いいドレスを着たい、美しくなりたいという欲望だけでなく、ネコもシャクシもという流行の心境だけでもない。「ふつうせいぜい県庁の下っぱ役人に稼ぐところ……主任か係長クラスのところにゆける」。自立精神をもって系坐雨滴独立のためにドレスメーカーとして働くか、自分の店をもつか、さらには夫や子供に自分が作った服を着せたいとか、このような気風は「ドライだのウェットだのでは割り切れぬ。ニッポンムスメがふむミシンの音は、ダイナミックな複雑だ(300)
ミシンが織りなす社会史は豊穣だ、
ミシンは近代世界の女性にとっての、かなり幅ひろい理想と役割の正当性を立証したのであって、その幅は、教養を求める者や、グローバルな渦となったスタイルとファッションの世界へのしあわせな参加者から、規律あり技能をもつ消費者にして家庭経営者たる者や、自活できることを誇りとする内職者まで、多岐におよんでいたのである(332)

2020/12/28

『天皇と東大――大日本帝国の生と死 下』 立花隆 文藝春秋

本書を読んでいくと、学力があるインテリたちが右翼イデオロギーを傾倒していき、テロを起こしたり、言論統制をしたりとなかなかすごい。
筧克彦、上杉慎吉、平泉澄らは、活動家に思想を提供するが、彼らはけっして活動家のような極端なテロや言論活動まではしていないようだ。これは左翼とは異なるところで、共産主義の場合は、活動家と思想家はイコールであることが多い。
例えば平泉の皇国史観は陸軍に影響を与えたにせよ、平泉自身は天皇親政を主張していたにせよ、クーデターを肯定をしているわけではない。
国粋主義がいかにバカげたものであろうと、戦前戦中の時期は一般民衆にまでその思想が受け入れられ、天皇主義に普遍性をもたせようとした狂気の時代でもあった。
かつて、竹内洋と佐藤優が立花隆の蓑田の描き方が、極端に一面的で、狂人でしかない愚か者としてしか書かれていないことを批判していた。
んーまあそのとおりでもある。
本書だけを読むと、平泉も上杉も蓑田も筧も、みんなイカレタ思想家としてしか読めない。だから本書では、なぜ当時のインテリたちが右翼イデオロギーにはまっていったのかは書かれていない。これが本書の限界でもある。
ただこれをテーマに書くことはかなり難しい。下手をすると、かなりの飛躍をして個人の生い立ちと結びつけてしまうことにもなる。上杉の薫陶をうけた蓑田にせよ、なぜ過激な言動をしたのか、これを理解なんて端からできるはずもない。予想しようとすれば飛躍が起きるし、ありもしない憶測を並べ立てることになる。このあたりは佐野眞一的な偶然や強引なこじつけになりかねない。
だいいちぼくが現在のように左翼から保守自由主義に転向していること自体、どう説明したらいいのか自分でもできないし、ましてや他人にもできやしない。
とまあ、とりあえず下記はメモ。

滝川事件。当時の文部大臣であった鳩山一郎が京都帝国大学の滝川幸辰の辞職を求めた。
客観主義刑法と主観主義刑法。滝川は客観主義刑法。で、「国家否認」「大憲否認」につながるとして、非難される。
トルストイの『復活』における刑法観。人間が人間を裁くことはできない。キリスト教的な見方。社会が人間を犯罪に走らせているという考え。
治安維持法が成立したときは、法律家からは評判が悪かった。私有財産制を否定すること自体は問題にすること自体が問題となる。というのも私有財産制を撤廃する現実的な知からがないならば不能犯であり、これは犯罪にはならない。
滝川の理論はマルクス主義的だとして非難を浴びる。滝川自身、マルクス主義者ではないが、当時の進歩主義はマルクス主義でもあったので、当然その思想の影響がある。

筧克彦。「神ながらの道」。自然主義的ナショナリズム。神道自由主義。国粋主義とは違う。そのためか公職追放にはなっていない。蓑田胸喜は一時期筧に傾倒する。いわば本居宣長を継承しているという。

上杉慎吉が生きていた時期は、まだ左翼の勢力が強く、上杉率いる右派はあまり人気がなかった。

明治憲法ができて東京帝大に憲法の講座が作られるが、担当したのは穂積八束。穂積は天皇絶対主義であり、伊藤博文の憲法観とは異なるものだった。どうしてそんな穂積が憲法の講座を受け持つことができたのか。謎。穂積のあとを継いだのが、上杉慎吉。

天皇機関説。明治憲法の前文は祝詞でできていて、伊藤は立憲君主制と前近代的な王権神授説が残っているものになっている。明治憲法には議会制度や内閣制度は述べられておらず、あいまいなままだった。内閣と軍、統帥権などあいまいなため、天皇機関説問題で問題となっていく部分があった。

右派の蓑田らの歴史観では、明治維新は「革命」で、美濃部は合法的に行われた政権移譲として捉えていた。
美濃部は、右派が主張するロンドン軍縮会議は統帥権干犯であるというのはあたらないとする。兵を戦場で動かすのは統帥権にかかわるから政府は関与できない。しかし、軍の規模や予算は政府が決めるべき問題であり、条約を調印するかどうかも政府の問題。
また天皇もロンドン軍縮条約に批准したのだから、それを批判すること自体不敬であると。
天皇機関説、それは「天皇は国の元首である」というのと同じ意味であり、君主と国家の関係を述べているにすぎない。君主は国家ではない。君主は国家の一部であるが、君主は元首であること。国がなければ君主もない。

陸軍パンフレット事件。「国防の本義と其強化の提唱」。英米との戦争に備えよ、そのために国民一丸となり、利己的個人主義を排し、国家社会主義を提唱する内容。
一木喜徳郎枢密院議長。どうも、天皇機関説事件は政治権力闘争の面もあった。真崎、荒木ら皇道派は、平沼騏一郎が設立した国本社に属しており、天皇機関説を糾弾したものたちの多くがこの結社に属していた。平沼は一木を排除し、自分が議長になろうとしていた。それによって、軍部としても権力を手に入れることができる。本丸は美濃部ではなく一木となる。ただし平沼は昭和天皇や西園寺公望にそのファシズム気質を嫌われていた。平沼が内閣総理大臣になる際も、国本社を解散したことを述べてから就任している。
美濃部の著作が発禁になったのは、天皇機関説ではなかった。というのも天皇機関説は当時の定説でもあり、これを否定してしまえば、多くの書籍が発禁になり、混乱を免れない。「社会の安寧秩序妨害」という理由。

二・二六事件が日本を軍国主義を完成させる一歩。まだ当時の軍には例えば渡辺錠太郎陸軍大将は天皇機関説を支持していた。そのため二・二六では狙われた。

平泉澄。平泉の皇国史観。平泉の歴史観では、大化の改新、建武中興、明治維新といった天皇親政こそが日本の精神。それ以外は暗黒時代。国体の自覚と天皇への絶対忠誠こそが、臣民の忠であると。祭政一致を¥という天皇教えお国教と宗教国家を目指していた。
東條英機は平泉に傾倒しており、平泉に陸軍士官学校に平泉の門下生を送りこんで、将校を教育してほしいと頼んだ。そのことで平泉の思想は陸軍に浸透していく。のちのち8月15日皇居占拠を行った青年将校大も平泉の影響下にあるものであったし、当時の陸軍大将であった阿南陸相も平泉に傾倒していた。
北畑親房や楠木正成のような非業の死、天皇への忠義による死を、「忠義の美学」として称揚した。
平泉の門下生の黒木博司は、人間魚雷「回天」の発案者。恐ろしいことに、日本の起死回生と位置づけていたし、血書で嘆願書を提出した。物量ではかなわないが「士魂」では負けていない、という。狂気。海軍も海軍で昭和19年8月に採用してしまう。黒木は回天の訓練中に事故死するが、平泉への礼の言葉を書き残していたという。

二・二六事件の際に昭和天皇を退位させ秩父宮に替わって天皇になってもらおうという動きもあったという。そして皇族内閣を目指していた。秩父宮自身は、たしかに平泉と交流があり、ファッショ的な人物でもあったが行動は起こさなかった。それは平泉自身が昭和天皇退位を主張していたわけでもなく、むしろ皇室が二つに分かれることを恐れていた。平泉は反乱軍に切り込むつもりでもいた。立花氏は保阪正康の平泉が秩父宮を説得して決起させようとしたという説を異論を唱えている。

平泉は、二・二六事件に批判的だったとしても、彼の思想がファシズムにつながるとして、湯浅倉平や西園寺公望からは嫌われていた。そして二・二六事件以降はそれまで親交があった木戸幸一からも距離をとられていく。
平泉の門下生には、宮城事件をおこした畑中、井田、古賀、椎埼がいた。阿南陸相も平泉に心酔していた。ポツダム宣言を受諾するという昭和天皇の決断に、彼らはたとえ天皇でも道を明らかに謝るようなら、それを正すべきとする。「「承詔必謹」であるべきではないとする。吉田松陰の「諫死論」。そして、昭和天皇が心変わりしないようなら、皇太子に天皇に替わってもらおうと、阿南にも持ちかけていたという。阿南はうなずかなかったようだ。
クーデターを起こす際に彼らは平泉に相談しにいったが、平泉は押し黙っていたという。
義勇兵役法の冒頭の上論を書いたのは、平泉だった。そこには平泉美学である、忠君愛国、七生報国、国体護持の思想が忌憚なく書かれている。

天皇機関説事件の際、美濃部を東大の教え子たちは見捨てた。見捨てなかったのは、矢内原忠雄と河井栄次郎だけだったそして両人のボーイズラブ。
矢内原忠雄は、満州国の批判、天皇問題を取り組んでいく。(373)
津田左右吉『古事記及日本書紀の研究』。大正13年に出版され、岩波の再販を機に、蓑田らによって津田の思想は日本の東亜における新秩序とは乖離しているとして糾弾されていく。右翼学生らが津田の講義に押しかけたりした。
平賀譲による経済学部の粛正。平賀は軍艦建造における神様とされていたとのことで東大で工学部で教えていた。
田中耕太郎は経済学部の、河合派、大内派、土方派の争いを解決するために平賀に担ぎ上げる。喧嘩両成敗。
田中耕太郎は『世界法の理論』を昭和9年に出版れるが、これも「原理日本」グループに攻撃される。田中まだ世界確立されていなかった世界奉を考察していた。田中の専門は商法だが、まさに商取引が世界奉の発展してきた側面がある。
この時期世界公法というものが生まれるる遭った時代でもあり普遍的な社会を構築する機運があった。

「国体を明徴にせよ」。原理日本は多くの知識人を標的にしていった。日中戦争も大東亜戦争も「国体明徴戦」だという。アジア全体を天皇の統治のもとひとつの共同体にすることを主張していった。
満蒙開拓団の指導者加藤完治は筧克彦の信奉者であり「神ながらのみち」を実践していく。満州では伊勢神宮の分社が作られていく。筧は溥儀にも「神ながらの道」を講じたという。当時の天皇主義とは右翼国粋主義にとっては世界を統一する思想であった。
河合栄次郎は、なかなか面白い人物で、戦中に抵抗することで戦後に活躍することを目論んでいたという。彼はヨーロッパ型の社会民主主義者であった。

『きけ わだつみこのこえ』について、東大協同組合出版部から出版されたさいは、皇国思想、戦争賛美のものは削られた状態だった。

戦後の東大総長になった南原繁の紀元節式典のスピーチのテキストが載っているが、そこには民族の永続性とかの言葉が載っていて、現在のサヨク諸君は驚くだろう。
南原は天皇を慕っていたが、天皇が法的、政治的責任はないが、道義的な責任があるから退位するだろうと考えていた。南原は学徒出陣で学生らが自ら出征していくことを止めることができなかった。東京大空襲を契機に南原繁、高木八尺、田中耕太郎、末信三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄で密かに終戦工作を行う。どこまで影響があったかは不明のようだが。
戦後、GHQによる財閥解体が行われたが、それを終戦直後の破綻した経済を救う経済政策を立案していったのは、マルクス経済学者たちだった。インフレ政策、財閥解体、軍人恩給停止論、戦時利得税設定論など。日本の敗戦によって、マルクス経済学が勝利し東大経済学部の主流となっていく。

2020/12/18

『ゲンロン戦記――「知の観客」をつくる』 東浩紀 中公新書ラクレ

一気読み。おもしろかったー。あずまんがエクセルに領収書の金額を打ち込んで、人生は地道に生きねばならないと悟るところなんかいい感じ。
でも、ちょっと冷静に考えると、いたって普通のことで、経理や総務をきちんとやりましょう。請求書、領収書の管理をしっかりしましょう、歳出歳入もしっかりね、っていうのはあたりまえなこと・・・・・・あずまんのえらいところは、その重要性をようやく知ったことを正直にしゃべっていることだ。みんなそんな勇気ないでしょ。
会社の本体は事務にあります。研究成果でも作品でもなんでもいいですが、「商品」は事務がしっかりしないと生みだせません。研究者やクリエイターだけが重要で事務はしょせん補助だというような発送は、結果的に手痛いしっぺ返しを食らうことになります。(32)
よく経理や総務という俗世間を馬鹿にしがちになる。ぼくもそうだったし。左翼思想にかぶれ、左翼運動に片足をつっこんでいたときは、簿記や法律事項なんかを蔑視し、自らの精神はこれら俗世間から分離すべきものと考えていた。あずまんもこれらを補助でしかない認識だったと告白している。
ただし、実際は会社に就職し、生活者として生きていくと、必然的に地道な経理、事務、管理などがいかに重要であるかを知る。
ぼくの場合、こういったことを学びはじめて、左翼からは離脱した。あまりに生活者としてなっていないのが、ぼくが属していた左翼界隈だった。
現在でも、コロナ騒動で、GoToを止めて、直接給付を声高に叫んでいるのは左派系の連中だが、こういうのも正直言って生活者をわかっていないと思う。
仕事なくてもお金を配ってあげればいいでしょ、という浅はかすぎる考えが根底にあって、でもそれは人間の生活を無視していると思う。労働をして、社会とつながる重要性がわっかっていないんだと思う。えてして、そういう連中は大学人と学生に多い。これは仕方がないのかと思うけどね。

あずまんの失敗を読むと勇気が湧いてきます。失敗の仕方は人それぞれだけど、人間は何度も失敗するようで、「学び」なんて本当にできるのかなぁといつも考えます。
で、あずまんが代表を下りたのは、その失敗を繰り返す原因が自分にあることがわかっているからであり、おそらくまた繰り返すという念もあるからだと思う。
ぼく自身、同じ失敗を繰り返して、気づいたのは、どうもぼくは失敗には気づくけど、それを矯正できるほど自己に厳しい人間ではないということで、なので、同僚にぼくを監視してもらう役をお願いしたことがある。そしたら、いい感じで、仕事がスムーズにいくようになった。

「ぼくみたいなやつ」を集めることをやめて、「孤独」を選ぶというのもいい感じ。何かを継続させるための本質がここにあるような気がする。

「知る→わかる→動かす」という一見合理的なサイクルは、じつは幻想で知れば知るほど動けなくなる」というのは、至言で本当に動けなくなる。そして保守的になっていくのだ。

ゲンロンのロゴの焼き印が押された「ゲンロンカフェ特製ホットドッグ」なるものが、あったのがほほえましい。

2020/12/17

『哲学の誕生――ソクラテスとは何者か』 納富信留 ちくま学芸文庫

古典を読むうえで難しいの時代背景でしょうか。何が当時問題となっているのかを知らないと、何を読んでもあまり感銘をうけないものです。ぼくが高校生の頃にプラトンや孔子を読んでいた時、何が面白いのかがよくわからなかったものです。
本書でもでてくる「無知の知」なんて、だから何?的な感じでしたし。
当時の世相を知っていくと、面白くなっていくわけです。
以下、簡単にまとめ。
人間の生は、競技会に赴く人々に似ている。ある人は競技で勝利して名誉をえることを求め、またある人はそこで物を売って利益を得ようとする。しかし、もっともすぐれた人は、競技を観るためにやって来る。そのように、人生においても、名誉や利益のような奴隷的なものを求める生き方に対して、真理を観照し愛求するフィロソフォスの生こそがもっとも望ましいのである。(キケロ『トゥスクルス荘対談集5・3・8-9から要約)(本書22)
 んーいい感じ。ピュタゴラスの言葉らしいが、筋肉至上主義にたいする精神的勝利。
プラトンを読んでいて難しいなあと思うのが「想起(アナムネーシス)」これは不在のものの現在化と捉え、竪琴や衣服を見てその持ち主である恋人を思うことといった感じのよう。プラトンは書くと言うこと自体が一つの想起として位置付けていたようで、それは哲学者ソクラテスの記憶、つまり不在の過去の遡及で、像から実在へいたる運動となっている。(128)

クセノフォンにしろプラトンにしろ、同時代の反ソクラテスの人たちへの反論としても著作は位置づけることができる。例えばポリュクラテス『ソクラテスの告発』。この著作は現在は失っているが、内容はソクラテスが不敬神であったことには触れておらず、若者を堕落させていたったことへの告発だった。とくにクリティアスとアルキビアデスの二人はポリス最大の悪をなした人物としても名高い。ソクラテスを語るプラトンもクセノフォンもエリート主義であり、政治はテクネー(技術)であるとする。そしてその技術を養うために、「善き生」の吟味を必要とした。それは民主制への鋭い批判ともなる。

ソクラテスは民主制の基盤でもある「パレーシア(言論の自由)」で行使していたにすぎないが、それが逆に民衆の怒りをも買う結果となっている。

三十人政権について。ペロポネソス戦争後にアテナイではクリティアスを首領に寡頭政治が行われ、粛正が行われていった。クリティアスは実際にはスパルタ式の政治を展開していこうとしていた。それまでの民主制の弊害に対する政治変革の意味もあった。
クリティアスがソクラテスから「言論の自由」を奪おうとしたが、ソフォクレスが描くソクラテスが秀逸。単なる屁理屈を通り越してかなり滑稽さがあっていい。

「ソクラテスが二人にこう尋ねる。「もし命じられたことの何かを知らないとしたら、尋ねて構わないでしょうか。
二人はそれをよしとした。
「では私は法律に従うようにしてきました。ですが、知らないがゆえに法にはんすることを気づかずにすることがないように、このことをあなた方からはっきりと学びたいのです。
言論の技術とは、正しく語られたことを伴うのか、それとも正しくなく語られたことを伴うのか、どちらを考えてそれを避けるように命じられているのでしょうか。というのは、もし正しい言論をともなうもののことであれば、正しく語ることを避けるべきなのは明らかですし、他方、もし正しくない言論をであれば、正しく語るように努めるねきなのは明らかです。」
カリクレスは彼に腹を立ててこう言った。「ソクラテス、君は知らないのだから、分かりやすいように、このことをわれわれは命じる。若者たちと一切対話しないように。」
するとソクラテスは、「では、私が命じられたこと以外をする疑念がないように、何歳までの人間を若者と考えるべきか、規定してください。」
「カリクレスは、「審議に加わることが認められない時期だ。まだ十分に思慮がないという理由で。……
「では、もし私が何かを買う時、売り手が三十歳より若かったら、いくらで売るかを尋ねてもいけないのですか。」
「そのようなことは、よい」
……
「もし若い人は私に質問をして、私が知っていても、答えてはいけないのですか。カリクレスがどこに住んでいるかとか、クリティアスがどこにいるかとか?」
「そんなことは、よい」(175-176)

プラトンの場合は「思慮深さ」という言葉でクリティアスとソクラテスの関係を語っていく。「思慮深さ」はスパルタの徳目の一つであったから。「思慮深さ」とは程遠くクリティアスは政治を行った。プラトンはここに哲学と政治の根本問題を見る。
クリティアスの政治は自己の欲望を満たすためのものではなかった。プラトンの『カルミデス』を参照。ここに「思慮深さ」の本質が語られる。
ソクラテスはたしかにレオンの逮捕に関与しなかったが、積極的に助けもしなかった。民主派からすればソクラテスの態度は三十人政権を擁護しているように見えた。ここはプラトンやソフォクレスの苦しいところでもあった。
ちなみにこの「レオン」は将軍レオンのことなのか、「サラミス人レオン」なのかははっきりわからないよう。

アルキビアデスは当時、かなり話題な人だったようす。アルキビアデスはソクラテスと仲違いの描写がソフォクレス『思い出』にもあり、さらにアルキビアデスをソクラテスの影響の悪しき若者の例として用いている感じがあるようだ。
面白い指摘だったのが、『饗宴』でのアルキビアデスの演説が、彼のソクラテスとの出会い、改心、そしてソクラテスと疎遠になったあとのアルキビアデスの生き方を映しだしているというところで、ソクラテスへの屈折した思いが書き込まれているという。そこに愛(エロース)が宿っているという。

ここで「不知」について書かれている。ぼくが高校生のころに初めて『ソクラテスの弁明』を読んだとき、「無知の知」というのを、巷で言われている「知らないことを知っている」というふうに捉えていた。そのため、そんなこと別に哲学的でもなんでもないと思っていた。謙遜は世界共通の美徳であり、ソクラテスが言ったから徳になっているわけでもないわけで、つまらない本だと、なぜこれが哲学書として崇められているのかとか不思議に思ったものだ。
「知らないことを知っている」という態度自体が、傲慢であり、「知らないこと」をどう「知る」ことができるのか。
では「無知の知」はどこから来たのか。高橋里美がそれをクザーヌスの「不知」の否定神学と重ねあわされたという(docta ignorantia)。昭和初期にこの「無知の知」が成立したと考えられ、大正時代の『岩波哲学辞典』の「無知の知」の項目ではdocta ignorantiaが紹介されているが、ソクラテスと関連付けられていないという。そして高橋の教え子である教育学者稲富栄次郎は著作で「無知の知」をソクラテスと重ねて商会していき。人口に膾炙していったと考えられるという。

2020/12/08

『おもかげ』 浅田次郎 講談社文庫

んー、なんかとっても微妙な感じ。娘婿の言葉遣いとかわざとらしいし、とっても単純な人間として描かれている。
ただ主人公やかっちゃんが、場面場面で若返ったりするのはなかなかいい。『おもひでぽろぽろ』的な感じがするし。
僕には地下鉄をそこまでノスタルジックに思えるほどのものではないのが残念。ただ地下鉄が記憶を掘り起こすというメタファーは悪くはない。地下に潜っていくというのは、ある種の記憶の回帰だし。

浅田さんは文章がうまいから、一つ一つの場面の状況が目に浮かぶようなんだけどね。
浅田さんのえらいところは、主人公の不遇を具体的に描かずに読者の想像にまかせているところでしょう。人間、生きていれば嫌な思い出があり、それと浅田さんの小説と重なり合ったりして、感情移入がしやすい。いわば、日本の土壌に慣れ親しんだ者でなければ、この小説を楽しむことはできない。サラリーマンの悲哀だとかね。こういうのを言葉や文章にしないで、わかるだろ、と迫ってくるように書かれている。なかなか憎いやり方です。
だいいち冒頭で、主人公の同期入社で社長になった堀田がきちんと登場するのは、最初だけ。そのあとはほとんど登場しない。これもなかなかいい演出。いろいろと想像をめぐらせることができるし、現代のサラリーマン諸君にも心当たりがあるだろうし、こういうのを下手に具体的な回想だとか、交流だとかを描くと、逆に感情移入を阻害するものになってします。
良くも悪くも、浅田次郎の小説というのは抽象性によって成り立ち、なんら具体性のない世界観を提示している。だからこそ多くの人の心をうつものでもある。
ただ浅田次郎はやっぱり短篇にかぎるなあと改めて思うわけです。浅田さんの長編はいくつも読んでいるけど、どれも途中でお腹いっぱいになる。北方謙三的な感じで、感動のインフレーションが起こっており、陳腐になっていく。短篇であれば、感動もハイパーインフレを起こさずに、コンパクトにまとまり、読後感のさっぱり。

ラストは過去と和解する。浅田さんは、とっても優しい方でどうぢようもない状況に立たされた人に手をさしのべていく。峰子の境遇は悲惨であるが、子供を地下鉄に置き去りにすることで、救われる。これはつまらない道徳からすれば、唾棄すべきことのように思うが、それでも子供は育つというもので、もし捨てなければ親子ともども死んでしまう。
未来を選択するというのは、そういうこともあるんだと。

2020/11/27

『天皇と東大――大日本帝国の生と死 上』 立花隆 文藝春秋

出版されてすぐ購入してすぐ読んだけど、売ってしまった本。今さらながら、書籍というのは売らない方がいい。いずれまた読むこともあるし、確認したいことなどもでてくる。十年ぐらい前に、蔵書を大量に売っぱらったことを後悔する。
現在、学術会議問題が盛り上がっている。大学の独立、学問の自由ということで、とりあえず戦前においては学問の自由はとりあえず保証されていたところもあるが、やっぱりあんまり不穏当なことはダメということで、発禁処分にあったり、釈明させられたり、免職させられたり。
学術会議問題については、とくに感想もなにもない。世には、世間が無関心であることが政府の横暴を招いたというような論調もあるが、何をいいやがる。学術会議以外でも重要な案件はあるが、それを無視し続けているのも学術会議ではないか。野党も野党だ。学術会議の任命拒否を政治問題化していったこと自体が問題だろうよ。まあいいです。
東大では戦前において、国体主義者、自由主義者、マルクス主義者などが混在している空間だったが、時代と共に国体主義、皇道主義一本となっていく。戦後は国体主義者は公職追放となり、マル系なんかが主流となっていく。
栄枯盛衰です。
以下、メモ程度で箇条書き。

民主主義の根本的な難しさは、政治がたとえ民主主義であっても、有司専制主義であることだ。情報公開が完全に行われることはなく、そのため物事を判断する上での情報を国民が持つことが難しい。というか、市井の人々が法律やらを読んでいちいちあーだこーだするなんてこと自体がありえない絵空事だ。

この理屈が、明治のころも有効であり、民権派の板垣退助、副島種臣、後藤象二郎らが民選議員設立の建白書をだしたとき加藤弘之は反対する。山県有朋もしかり。

悲しいことに日本の制度は明治のころのものを引き継いでおり、勅任官、奉任官、判任官の身分がそのまま残っているという。キャリアとノンキャリの区別は明治にできた。

東大における法学部優位が明治のころからのものだという。というのもの明治政府は近代国家として法治主義と近代法を整備するために、法律の専門家を養成することを急務としていたためだ。つまりは東大というのはそもそもが官僚養成機関だった。

福澤諭吉も大隈重信も私立大学を東大にような官僚養成機関として位置付けなかった。そして大隈の下野に多くの東大の学生が、大隈の立憲改進党に参加した。それによって官僚を目指さず、政党へと流れ込む現象が起きる。そのため、政府は法学部を卒業した者は完了になる私見を免除する優遇制度を与えたりした。

北里柴三郎が留学から帰ったとき、政府はポストを与えることもしなかったことに福沢諭吉は怒り、私立の伝染病研究所をたてる。ここに志賀潔も参加する。その後内務省管轄の国立となったが北里の知らないところで文部省に移管される。それにおこった北里以下研究員が全員が辞職したらしい。

とういうのも北里の伝染病研究所は抗血清、ワクチンの販売に成功しており、この製造所を手に入れるためだったようだ。北里はその後、また研究所をつくり、それが現在の北里大学となる。

内村鑑三の不敬事件教育勅語御親署を排する際、。どうも信仰のため頭を下げたくなかったと思っていた。しかしどうもそうではないらしい。内村はよく、仕方なくにせよ、偶像の天皇の御真影にお辞儀していたという。しかし、その日は御真影ではなく御真筆に対してで戸惑っていて、少しはお辞儀をしたらしい。だが、学生たちがお辞儀がたらないと騒いでことが大きくなった。

南北朝正閏問題について。北朝が正統なはずなのに、心情的に南朝に向かい、大学の講義でも「吉野朝時代史」と改められる。どういうこっちゃねん。

七博士建白書。帝国大学法科大学の教授たちが連名で政府に送りつける。日露間の戦争を促していく。義和団事件でのロシアの横暴を許すまじ、というやつ。ここで近衛篤麿が登場。近衛文麿の父。ナショナリスティックで活動家にも支援をしていたという。近衛を中心に対露強硬策をうちたて、世論を扇動していった。文麿も大概だが、篤麿も大概だな。とはいっても、冷静に開戦論への批判もあり、世論は沸騰したが、まだまだましだったよう。

戸水寛人は、かなりの強硬論を張っていて、なんとバイカル湖までとってしまえと主張していたようだ。そのため「バイカル博士」の異名も得る。戸水の戦争継続論などは、日露戦争の勝利にもかかわらず、妥協的な講和条約による世論の反発も相乗効果をなす。そして戸水は文部省から罷免させられる。
これによって、大学の独立と学問の自由が大きな争点となっていく。あの美濃部達吉も戸水に主張には反対であるが、政府が大学人事に口を出したことに批判を加えていく。
ポーツマス条約の波紋で東京は一時期無政府状況に陥り、戒厳令が出される。

白虎隊の生き残り山川健次郎。イエール大学をでて、日本人ではじめての物理学教授。当時物理理論の多くを教えていた。山川は千里眼事件にも噛んでいたようで、いくつか実験を行ったが、御船千鶴子が透視能力があるとは結論付けられなかった。とはいっても当時、透視能力を否定したというわけではない。当時は心理学、物理学などにおける躍進があり、人間の従来の学問を超えた現象が証明されつつあった時代でもあった。

森戸事件。山川健次郎は国家主義者でもあり、天皇へ畏敬の念を持っていた人物だが、森戸事件の際の森戸の学者としての姿勢、論文を訂正も撤回もしなかったことをほめている。この森戸事件は上杉慎吉がうらで糸を引いていたようで、上杉の人脈で山県や政府上層部をに働きかけていたという。そして森戸は起訴される。
ここでも学問の自由がいわれるが、戸水罷免のときとは異なり、美濃部も吉野作造も、森戸を擁護しなかった。ただし吉野は森戸の弁護人を引き受けるが。

上杉慎吉。帝国大学では、憲法講義を受け持っていたが、途中から美濃部達吉も憲法講座をもつようになり、かなりプライドを傷つけられた様子。上杉の憲法論は伊藤博文が念頭においていたものとは異なり、天皇親政をよしとしている。伊藤博文はシュタインの君主機関説をとっているので、美濃部の天皇機関説は政治家、官界では常識的なものだったが、上杉は主権は天皇にあり、統治者であり、被統治者は臣民で服従すべきとする。

上杉は木曜会、興国同志会、七生社をつくっていく。これらが右翼運動における源流となっていく。安岡正篤も上杉門下。
森戸事件後、報告会が行われるが、意気揚々と興国同志会が報告をすると、批判が相次ぐ。学生が独断で政府にお伺いをたて、大学の自治を犯したと。そして興国同志会は消滅していく。森戸は文部大臣などを行う。
大内兵衛なんかも面白い。労農派マルクス主義者であり、森戸事件に連座して失職する。大内は東大を卒業後、官僚になり、若月礼次郎や高橋是清のもとで財務を担当する。戦後は渋沢敬三の顧問をやるが大臣をやることはなかった。
マルクス経済学だとしても、大内は実務に明るい人物で、当時のマルクス経済学の一端をみることができる。戦後はさらに社会保障制度をつくるのに尽力した。

血盟団事件。一人一殺主義によるテロリズム。日蓮宗の国家主義者井上日召。
前史として、安田財閥の朝日平吾による安田善次郎暗殺がある。彼は北一輝に心酔していた。この朝日の問題意識は血盟団にも受け継がれている。汚職にまみれた政治家、財閥を一掃し、天皇と臣民との直接的な関係を結び直そうとするもの。
日本の右翼思想は、天皇主義を除けば社会主義思想と同じ。『資本論』を完訳した高畠素之は堺利彦と袂を分かった後に、上杉慎吉と組むことになる。これによって天皇中心主義と社会主義思想が一緒になっていく。北一輝は別ルートで社会主義の傾向をみせている。天皇が親政を行い、特権階級を排し、万民平等の公平公正な社会を実現する思想。「一視同仁」。
岸信介は、大学に残らずに官僚になるが、森戸論文にも好意的であるし、戦後も社会党から出馬しようとしたりしている。彼自身、北一輝に心酔した人物でもあり、やはし国家社会主義の思想を持っていた。

河上肇は当時共産主義思想のスターだったが、京都大学を罷免されたのち、念願の共産党員になる。しかし数か月で逮捕となる。転向はしなかった政治にかかわらず、引退宣言をする。満期で出所。

四元義隆、池袋正釟郎らが起こしたテロ事件。安岡正篤はインチキとのこと。重信房子の父は直接テロを行ったわけではないが、四元らと一緒に行動をしていたという。
海軍グループと民間グループで共に決起する予定だったが、上海事件で海軍グループは行動ができず、仕方なく民間グループのみで決起することにするが、結局は井上準之助と団琢磨の二人だけを暗殺するだけにとどまる。起爆剤としてテロを行う。
井上は大陸浪人をやっていたこともあり、テロ工作や情報工作にも精通していた。血盟団の若者たちは自分たちを「地湧の菩薩」と見なし、末法濁世から世界を救済する菩薩と見なしていた。
天皇が自ら政治を行うための革命。日蓮主義と天皇御親政。啓蒙の時代ではない、破壊の時代である。共産主義革命にも通じる革命論ではありませんか。
三月事件と、十月事件の失敗と上海事変。海軍の藤井斉は上海事変で死ぬ。
紀元節にお行う予定だったが、紆余曲折があり、井上は一人一殺で、テロをしていくことにし、計画は井上準之助と団琢磨の二人をテロっただけで終わる。
井上は頭山満の邸に出頭するまで住んでいた。公安たちは、事件の全貌がわかっておらず、井上が関係しているにしろ証拠がなかった。そして頭山に匿われているとなると手出しができなかった。

権藤成卿は、昭和維新と大化の改新を重ね合わせていく。しかもそのテロの正統性を偽書『南淵書』という文献から得、しかもこの偽書は権藤自身が書いた可能性が高いという。南淵請安は中大兄皇子に帝王学を教え、蘇我入鹿に天誅を加えるべきことを勧めるという内容のよう。しかもこの書は古事記より古いという設定だという。権藤先生、勇気があるな。権藤は日本国内だけでなく、中国、朝鮮にも幅広く人脈もっており、血盟団事件のあと高速されるが、簡単に釈放されてしまう。
権藤の思想は農本主義、農地解放、農村自救運動。なかなか興味深いが、偽書を書くという根性もすごい。四元らは北一輝から権藤の思想へとシフトしていったという。

五・一五事件は海軍と陸軍の青年に夜首相官邸を襲った事件だが、この事件は減刑嘆願がだされるほど世の同情をもらった。というのも彼らは義憤で立ち上がったのであるからだ。
天野辰夫はこの五・一五事件の不発を、なんとか挽回するために今一度クーデターを計画する。それが神兵隊事件だった。しかし杜撰な計画のため未遂で終わる。そして裁判では有罪だが刑は免除という奇怪な判決となる。「革命無罪」が実現する。

2020/11/05

『孔丘』 宮城谷昌光 文藝春秋

人こそ宝である、という信念の上に孔丘の学問がある。ゆえに孔丘の思想は温かい。(398)
宮城谷さんはよく書いたな。小説という形をとりながら、論語などの解釈を一つ一つ丁寧に開陳している。
たとえば、「不惑」は、孔子が周文化こそを思想の基底に据えることに確信したことだとしている。それが四十歳。
五十歳で天命を知るとは、斉を去り、魯に帰ることになったことを言っていおり、孔子にとって斉での就職活動の失敗から、一気に巻き返すことができるチャンスの到来が巡ってきたということだ。
こういう解釈もひとつひとつがおもしろい。
他にも孔子が「君子もとより窮す、小人、窮すればここに濫る」で子路が孔丘の独尊ぶりにいらだっているところだとか。聖人君子でも、飢えているときにこういうこと言われたら腹がたつものでしょう。

人間孔子の実像にけっこう近いのではないかと思う。
儒家が葬儀を司る集団だったところから書く。
孔子が革命的なところは何か。
礼を貴族だけでなく人間一般にまで広げたものとし、礼を政治的なマナーから人間の権力関係一般にまで広げたことか。
孔子は基本的に、政道にかかわる役職にないものが、政治をを批判することを驕りと考えている。きちんと地位を得てから行うべきというのが孔子だ。
そして徳において勝たねば、ほんとうに勝ったとはならない。正義には徳が必要であるとする。孔子にとっては人格的成熟や倫理的な姿勢をさしている。
「民を導くには徳を以てし、民を斉するには礼を以てするのがよい」。ここに人間の自立と他者との調和という孔子の根本的な思想を見出ししてる。
そして孝は徳の基本であるとする。このあたりが、なんかモヤっとするとこでしょうか。
国が乱れないため、無暗に下克上が起きないように、礼をもって国が統治される、っていうのは特権階級の温存でしかないと思いがちだが、実際は政務と執り行うものは専門家であるべきだという、いたってふつうのことを主張している。民主主義の世の中だと、パンピーでも政治ができると錯覚してしまうが。
ただ孔子は理想主義であり、あまりに現実離れはしている。国を乱さないために礼を普及させるというのは、いかにも人間に期待しすぎている。
しかしだからこそ「大いなる時代遅れは、かえって斬新なものだ」」(359)

たしか宮城谷さんの『太公望』だったと思うが、本書でも「天」についての考察が書かれていたと思う。殷は神々を占有し、そして自らを帝とし、神政を摂った。周はその帝を再度元の位置にもどした。天帝にかわる形而上的な存在、それが「天」であると。象はないが意志はある。天は自己規律の大本となった。
孔子は晩年に易に熱心になったというが、天命に従うというを、ある種諦念のようなものとして描いている。

2020/11/02

『オプス・デイ――任務の考古学』ジョルジョ・アガンベン/杉山博昭訳 以文社

キリスト教神学やギリシア語、ラテン語の詳しい解釈は、もう正直言って難しいが、言わんとしていることはわかる。
英語のdutyもラテン語からで、「~を負る」の意味をもっていて、本書でも「負債」を論じるところででてくる。
カント倫理学の厳格は、若いころの僕を魅了した。人間とはかくあるべきと理想に燃えるものです。しかし社会生活を営んでいく過程で、カント倫理学がいかに傲慢であり、そして非人間的であるかを思わざるを得ないわけです。
アガンベンの最後の提言への解答はどこにあるでしょうか。


祭司は善悪かかわらず、典礼を行うものは、キリストの秘儀の代理者として行う。つまり道具でしかない。典礼の実践では、秘跡の客体化の効能と価値と現実の主体は完全に独立している。だからユダから洗礼を受けても、無効にはならない。
「存在はいっさいの残余なく実効性と一致するが、それは、存在がただあるがままのものではなく、実行化され、実現化されなければならない」(85)。この有為性は効力と行為、作用と仕事、効果と実効性など決定不能になり。この決定不能性こそが、教会がおつ典礼の秘儀を定義付けている。作用、有為性自体が存在で、存在それ自体が有為的だという。(92)

「代理する」という用語はつねに他性を内包し、この他性の名のものとに「権能」ははたされる。しかしそれだけではない。ここで問題になる存在そのものが、人為的かつ函数的であることが重要なのである。「それゆえ、この事実は当の存在を定義して理解することを、そのつど、ひとつの実践へと送り返す。」(99)
これが典礼の秘儀の本質となる。

カテーコンというギリシア語をキケロは、オフィキウムと訳す。両者の特徴は、善悪とは関係がなく、むしろ義務を善悪に持ちこむことを諌めている。
キケロの『義務(オフィキウム)について』は、動作主の社会的条件を考慮し、ふさわしいことについての著作である。これは善悪とは関係なく、たとえばどう航海するか、それは状況によるというのと同じである。

本書によれば狭義のオフィキウムには責務や義務が生じないという(128)。キケロによればオフィキウムとは、名誉、礼節、友愛に属するものであるという。
さらにキケロはオフィキウムが「生のかたち」に関わっていることを示唆する。「生を監督する」「事物を統一する」ことが、「生の使用にかたちを与える」「生を設ける」ことを意味し、「生の創設」となる。

アンブロジウムは、このキケロのオフィキウムをキリスト教に持ちこむ。これによって祭司の実践に、本来は徳性を語っていたものが変化していく。それは、祭司の代務という要素と、神の介入、代務の実現、そして実効性を語るようになる。
神のエフェクトゥスは人間の代務によって確定され、人間の代務は神のエフェクトゥスによって確定される。この実効的一致は、オフィキウムとエフェキウムの一致である。しかし、この一致は以下を意味する。つまりオフィキウムは存在と実践のあいだに循環的関係を確立する。この関係にのっとって、祭司の存在はみずからの実践を定義し、他方、祭司の実践はみずからの存在を定義する。オフィキウムのもと、存在論と実践は決定不能となる。したがって、祭司は在るものとして在らねばならず、同時に、在らねばならないものとして在るのである。(148)
命令は行為ではない。しかし命令が他者性をもつことで意味がある。
そのふるまいから存在を規定されるのであり、その存在からふるまいを規定される。司宰者とおなじく官吏もまた、そう為すべきように在り、そう在るように為すべきである。現代の倫理だけでなくその存在論と政治をも定義する、存在から当為への返還がみずからのパラダイムを据える(154)
義務は法に対する敬意から生じる。義務という観念の起源は何か。
徳性は有為的状態であり、これはまさに有為的状態であるため、徳性の目的は執行そのものとなる。つまり徳性の目的はその有為性にある。
祭司の任務と徳性も、循環性があり、つまり「善もしくは徳性に満ちているのだとすれば、それがよくはたらくかぎりにおいてであり、よくはたらくのだとすれ、それが善もしくは徳性に満ちているかぎりにおいてである。(185)

レリギオ(religio)の理論が、徳性と任務を仲介する。神を敬うことは、それ自体は徳性であり、そしてそれは自由意志によってなされる。人間は神に負債を返す。トマス・アクイナスは人間が神に奉仕を負うことは、自分の主人に対して自発的に負うのと同じように必然的であるとする。自発的である限りにおいて、徳性は行為となる。徳性に満ち、有為的である行為は、義務の執行となる。神を敬うこと義務に向けられ、そして徳性を課される。
負債のもとで敬神は神の法に従うことであり、そこから法的命令に依拠する義務になる。そしてこの負債は完全に返すことはできないものであり、無限の義務が生じる。

カントにおいて、「徳性の義務」という概念があり、これが倫理の次元で徳性と義務を一致させている。「義務であると同時に目的」という概念だ。これはまさに教会が実践と理論化をとして行ってきた聖務・任務と同じとなる。カントにおいて神の地位にあるのが法である。カントは、法に対する純粋な尊敬をとおして行われるのが義務と定義される。
道徳律に関して強制とは、法による外的な強制ではなく、自己によって、尊敬することで自発的に行われる、自由意志と密接に関係する。カントは「尊敬」というものを「理性みずからが生み出した感情」とする。そしてこれは完全にアプリオリに認識する唯一の感情として位置づけていて、つまりはアプリオリな感情はもはや感情ではなく、意志が法に服従するという意識を単に表すものとなる。「尊敬は、主体における法の効果であっても、法の原因ではない」(208)
これはある種のパラドックスをなす。意志は自己強制として規定され、そして同時に衝動という主体というかたちをとることになる。
しかしカントは同時に、尊敬を消極的効果としても見いだし、そしてこの感情は法へ服従であり、主体に対する命令でもあり、行為することの不快を含む。そして尊敬の起源は謎のままとなる。

存在と当為を分離することはできない。「存在論が、そもそもの始まりから、そして実効性にかかわるのと同じくらい、命令にかかわる存在論でもある」(216)。当為は外部から存在に付与された法概念や宗教ではない。当為はひとつの存在論を孕み、定義する。
神学と形而上学がいよいよその版図を科学的理性に明けわたすその時、カントの思想が表わすのは、ある〔エスティ〕の存在論のただなかに、あれ〔エスト〕の存在論が世俗的に再登場したことであり、哲学のただなかに、法と敬神が破滅的に再浮上したことである。科学的知見の勝利に際して、カントは形而上学の生き残りを担保するべく、実体と存在の存在論のなかに、命令と当為の存在論を移植し、それらを作動するがままにした。このように形而上学の可能性を保証しようとし、それと同時に、法と敬神ともかかわりのない倫理を創設しようとしたのが感とである。しかしいっぴうで彼は、オフィキウムと有為性という、神学的-典礼的伝tプの遺産をいっさい職名することなく受け入れ、他方では、古典的存在論に対して永遠の離別を告げた(222)
規範は規定された事実とふるまいが一致しないのと同じで、命令もまた命令による構成される意味と意思の行動は一致しない。規範はたんに任毛がなにかしらの仕方でふるまわなければならないことを望んでいる。
もし存在が、在るのではなくみずからを実現しなければならないのだとすれば、そのとき存在は、みずからの本質において、意志であり命令である。翻って、もし存在が意志なのだとすれば、そのとき存在はただ在るのではなく在るべきである。それゆえ、到来する哲学の問題とは以下を思考することにある。つまり、有為性と命令の彼方にある存在論を、そして、義務と意志の概念から完全に開放された倫理と政治を。(233) 

2020/10/30

『ママ、最後の抱擁――わたしたちに動物の情動がわかるのか』 フランス・ドゥ・ヴァール/柴田裕之訳 紀伊國屋書店

情動とは何か
情動は、私たちは十分に理解できない複雑な世界で舵取りをするのを助ける。情動は、私たちが自分にとって最善のことをするのを確実にする、体なりの手段なのだ。しかも、必要とされる行動をとれるのは身体だけだ。心は単純では役に立たない。周りの世界とかかわりを持つには体を必要とする。情動は、これら三つ、すなわち、心と体と環境の接点なのだ。(114)
ドゥ・ヴァ―ルによる情動(emotion)の定義。
情動とは、当該の生き物にとって意味のある外的刺激によって生じる一時的な状態である。情動は、体と心(脳、ホルモン、筋肉、内臓、心臓、覚醒状態など)における特定の変化を特徴とする。どの情動が引き起こされているかは、その生き物が置かれた状況からも、その生き物の行動の変化と表現からも推測できる。情動と、その結果として生じる行動との間には、一対一の対応関係はなく、情動は個々の経験を環境の評価と組み合わせ、最適の応答ができるようにその生き物に準備させる。(114)
感情は意識的な経験であり、情動の経験を自覚した時にのみ、感情へと変化する。「だから私たちは、情動は示すが、感情については語る」(11)。情動は身体的表現であり、感情は内面にとどまる。
動物行動学のような機能的解釈は、情動を語るのを避ける。ラットが馬やヘビを怖がるという表現は慎むように言われるが、なぜそんな必要があるのか。
共感は中立的な能力だとする。(139) 他者を思いやるにせよ、拷問をして痛めつけるにせよ、この共感という能力は使われる。他者を助ける利他的行動を起こす。
人間は言うほど利己的ではないし、自らを犠牲にしてでも他者を助けることはよくある。

情動の背景にある豊かさと深み
微笑みが「幸せな」顔だと判断されがちだが、微笑みの背景にはもっとずっと豊かな意味がある。他者を喜ばせる必要性や、不安な他者を安心させる意図、歓迎の態度や服従、愉快さなどで、単一の意味を持っているわけではない。微笑みは服従と敵愾心の欠如を表すことから、親愛の合図に変化していった。笑いはくすぐりあいなどの遊びの標識として始まり、絆作りや健全さのシグナル、そして面白さや幸せのシグナルへと変化していった。この二つの表現はしだいに近づき、混ざりあっている。
「自分のよからぬ振る舞いについて後ろめたく感じると言って謝罪する人のも、私はいつも納得いくわけではない。むしろ私は、無言の後ろめたさの「ほうが好ましいと思う。」(205)
へーと思うのが、海外でも偽りの涙や、謝罪の形式というものがあって、有名人の謝罪なんかはこの「非謝罪」「偽謝罪」を使うようだ。んー人間は普遍的だね。
「嫌悪」という情動は、文化的現象が背景にあり、後天的なものと扱われることもある。虫、排泄物に対する嫌悪だけではなく、道徳的な嫌悪も同じで、近親相関や詐欺などに対する嫌悪もそうだが、しかし動物も人間と同じように

動物への不当なまなざし
動物、特に哺乳類、類人猿は、人間と近い情動を表す。同一ではないかもしれないが、人間が使う表現で表すことはできる。動物はこれらの情動に沿って、返礼、復讐、赦し、そして未来を予期することもする。犬だって何かを「期待」して行動をしている。
人間と動物にはそれぞれ」異なる言葉が使われる。「自負」と「優位性」、「恥じる」と「服従」あるいは「下位者」など。動物を語る差異、機能にかかわる言葉を使い行動の背後に感情がることを意図して無視する。
行動心理学からすると「愛」は否定され、そこには生殖だけを問題にし、動物が自負を見せれば、それは単なる自己顕示だと言う。生物学ではこれを「分析レベルの混同」として知られているようで、
情動が行動の背後にある同期にかかわるものであるのに対して、結果は行動の機能にかかわる。両者は切っても切れない間柄にある。どんな行動も、動機と機能の両方を特徴としている。私たち人間は、愛するとともに生殖もする。自負を感じるとともに相手を畏怖させもする。渇きを覚えるとともに水を飲みもする。恐れるとともに自分を守りもする。嫌悪を感じるとともに体を清潔にする。(224)
チンパンジーの母親が自分の子を他人に奪われたとき、母親は関心がないふりをする。へたに奪った者を追いかけたりすれば赤ん坊に危険が及ぶことを知っているからだ。だからあえて無関心を装ったり、冷静さを保つ。しかし子供を取り返すと、奪った者たちを力いっぱい威嚇し怒りを発散させる。ここにも情動の抑制がみられるし、そして物事の対応へのある種の「合理性」を見出すことができる。

現代社会では受け入れられるか
現在では人間の社会構造を分析し、それを肯定することは、道徳的に批判を受けることになりかねない。例えば、会社で上司にゴマをすったりぐらいならまだいいが、部下が上司に気を使ったり、上司の顔色を読んだり、上司が気に入った人物を特別扱いしたなどなどはは、「閉鎖的」とか言われるが、人間特有の特質ではなく、動物も構造は異なるにせよ、持ち合わせている。こういう現象は、人間が特別な存在ではなく、動物一般に見られ、人間が動物であることの証拠である。
権力はいかなる人間関係の間にも存在する網の目のような力関係であり、人はそれから決して逃れられない。
そして人間の社会は、整然として見えるが、規則を守らない者には刑罰と強制によってなりたっている。「人間であれ動物であれ、結果を考えずに情動に屈することほど愚かな行動はない」(52)。動物は機械のような生き物ではない。自らの情動を抑えて行動をしている。食べ物を狙うときだって、情動の従って闇雲に襲うことはないのもその証左となる。
つまりは、人間社会というものの悲しい現実に直面せざるを得なく、またそれは必然でもあるという悲しさ。
だからといって、よりよい社会、よりよい人間関係を目指しても無駄だということではなく、人間社会の不平等や不寛容を批判する際に、フェミニズムや合理的・理性的思考をもって批判すること自体が無効化されていくと思われる。
さらに、ある種のタブーも書かれている。
ボノボの研究で孤児となった子供は、共感能力を著しく損なわれるということがわかったようだ。母親とともに育った場合情動のコントロールがうまく、調整することを知っている。孤児の場合、自分の情動の波をどう処理していいのか、難しいようだ。そして孤児のボノボは他者を気遣ったり、慰める行動は少ない。
これを人間社会でもそうなのではないかとして研究をすること自体が難しく、結果がでてもそれを公表しずらい時代でもある。しかし動物を対象にしていれば、雄弁にも語られる。

哲学は有効なのか
「文明は何か外部にある力ではなく、私たちそのものだ。」(261)霊長類は社会生活とは切っても切れないものであり、文化が社会を構成するのではない。生物学的特質と社会は密接に関係しあっている。
猿たちは、自分のご褒美と他のサルのご褒美の比較をし、それに満足や不満足を示す。つまり猿たちも他者を観察し、見積り、比較している。人間だけでなく猿たちも相対的な世界で生きている。ロールズへの批判として、正義の原理は嫉妬とは無縁の人びとが選ぶべきものとしており、そうするある矛盾に行きつく。つまり嫉妬のない世界であれば、公平さに配慮する必要がないからだ。ロールズのような合理的な議論は、道徳原理が情動から力を得ていることを無視している。(290)むしろこの情動の存在を認めて社会を構築していくべきだ。
哲学では、贈与や負債などの概念が、人間に特有のものとして展開されるが、「おもいやり
」や「後ろめたさ」といった情動が動物にもあるのなら、宗教や社会制度によって構築されていったとされるこれらの概念が危うい状況になるかと思う。
ということで次にアガンベン『オプス・デイ』を読むことにする。