ウォルター・バジェットをヒントに日本の近代を解いていく。
バジェットにとってき近代とは「議論による統治」であり、前近代を自由な議論を可能にする積み重ねの時代とし、近代は一日にしてならずとした。
バジェットは「伝統や習慣から自由な人間の自己利益の認識能力に疑問をもち、それを駆使して把握したと信ずる自己利益を行動の発条とする同時代の功利主義的人間観に与し」なかった。
王権のような単純な統治ではなく、近代は「複雑な時代」であり、おもしろいのがバジェットは「受動性」を説く。性急な行動を妨げて入念な考慮による「議論による統治」。
そして「慣習の支配」から解放させるには、議論に委ねること、つまり議論されることは問題の脱神聖がなされていくという。
戦前の政党政治を加藤高明内閣(1924, 大正13年)から犬養毅内閣(1932年、昭和7年)までの8年としている。
複数政党制が成立することは世界史的にみて一般的ではない。しかし日本では明治憲法下で複数政党制が実現した。
それは日本が江戸幕府からもっていた権力分立制を引き継いでいるからという。江戸幕府では合議制によって政治が行われていた。これは支配者が専門家である有力官僚の恣意的な決定を防ぐためだった。行政の没主観性を達成するための合議制であった。そして日本では幕藩体制とともに相互監視機能が備わっており、あらゆる行政機構が複数性(合議制)であり、お互い牽制しあう制度が精密に出来上がっていた。
そして同時に、「文芸的公共性」が成立しており、政治的コミュニケーション以外の学芸の分野でのコミュニケーションが活発だった。(森鴎外の史伝、澀江抽齋、伊澤蘭軒、北條霞亭など)
西周は徳川慶喜のブレーンとして、三権分立を主張していく。これは幕府が行政権を最終的には握る算段だったという。すげーな。そして立法権は全国の大名たちらによる合議制をもって行おうとした。立法権と行政権の分離は、非幕府勢力を立法権の領域に封じ込めることだった。やっほー。
そしてさらに諸大名らの意見を「衆議」として、伝統的な合議制をめざし、それまで幕府を意味していた「公儀」の正当性が失われ、「公議」へと移行していく。ここには議会制の萌芽がみられる。
明治憲法は幕府のような覇府の出現を防止するために、権力分立制だった。つまり三権分立のみならず統帥権の独立は、そもそもが軍事政権のイデオロギーではなく、。権力分立のイデオロギーによってなされたもの。天皇の存在のために集権的、一元的国家と見られがちだが、実際には相互均衡が作動していた。そして明治憲法は反政党内閣の性格をもっているが、これも立法と行政の両機能をもってしまっている政党内閣の排除の志向性だった。
穂積八束はアメリカと同様に権力分立がなされている明治憲法を高く評価していたし、上杉慎吉は反政党内閣論者だが、明治憲法の権力分立制を強く主張していた。とくに立法権と司法権の独立を重視していたという。美濃部達吉はゆるやかな権力分立で立法権を優位にする学説をといていた。故に裁判所が議会でつくった法律を審議することはありえないことだった。なにーー。
明治憲法においうては内閣にしろ統制力は弱かった。内閣自体、国会の指名ではないので、議会の支持を得ずらかった。これは現在の内閣制とは異なる。
「日本の政治は、遠心的であり、求心力が弱かった」(72)
この分権的な体制を統合する非制度的な主体の役割を担っていたのが、藩閥のリーダーであり元老たちだった。とはいいつつも藩閥とは関係のない議会を掌握することは元老たちもできず、藩閥は政党の役割を担えなかった。
注意すべきは、立憲主義であることは民主主義であるということではない。五・一五事件ののちにできた斎藤實内閣は、専門家組織としての官僚内閣であり、これに蠟山正道は立憲主義の唯一も道として提言し、立憲的独裁へと日本の政体は変わっていく。
明治日本の経済政策は、やはり不平等条約とは切り離せない。明治政府は外国からの支配を警戒し、外国債に頼ることをしたくなかった。そこで、地租改正が行われていく。そして安定的な質の高い労働力の確保という観点から「学制」が取り入れられていく。
また外国資本に依存しないですんだのは、明治政府が四半世紀以上、対外戦争をしなかったこと、とくに日清戦争の回避が大きい。外債の危険性はグラント大統領が明治天皇にも具申したらしい。
そして明治27年の日清開戦までには、ある程度の不平等条約が是正されていき、外債募集へと舵をきることができるようになった。
自立型資本主義から、外債を受け入れることで国際資本主義へと転換していく。外資資本が入り、本格化するなかで日露戦争となっていく。
高橋是清と井上準之助の対比もおもしろく、高橋はドイツ・ユダヤ系の投資銀行クーン・レーブ商会と親密な関係があったが、井上はアングロサクソン系のモルガン商会と結びついていたという。
井上のモルガン商会とのつながりで、1920年に中国に対する米英仏日四国借款団にモルガン商会のラモントを加入させ、日本はますます国際金融とのつながりを強化していく。そしてこのながれはワシントン体制へと引き継がれていく。この四か国を第一次世界大戦後の戦後レジームとなる。
日本は帝国主義であったが、それは欧米諸国の帝国主義とは性格が異なるものだった。
欧米の帝国主義は「自由貿易帝国主義」であり、単純な拡大主義ではなかった。欧米の場合は軍事コストを植民地経営にあまりかけずに行っており、つまり植民地経営とは欧米とっては経済的利益の追求にあり、日本では山県の「利益線」「主権線」という言葉が表すように、軍事的安全保障の問題であった。
台湾、朝鮮の法と内地の法は異なっていた。その理屈が「異法区域」。植民地に憲法を適用できるかどうかなども議論される。美濃部達吉は立憲主義の範囲外として植民地を規定していた。
枢密院とは、憲法に規定された枢密顧問によって構成される天皇の最高諮問機関のことである。枢密院は帝国議会の貴族院と衆議院の上にある存在であり、明治憲法における日本の議会は三院制といっても間違えではない側面があった。
一般に日本の植民地経営についてのある種の誤解がある。それは、関東軍や関東都督府、総督府などの権力は集中的なものだったというもので、ある種のイメージとなっている。しかし実態は、分権的にしようとしており、悪く言えば縦割りにわざと仕組んでいる。そうすることで権力の分散を極力狙っている。
蠟山正道の「地域主義」はなかなか示唆的。「地域主義」は「国際主義」の修正版として提案されていることが重要。「地域主義」は「民族主義」「帝国主義」「普遍主義」の対立概念として登場する。
しかしこの考えが日本の「大東亜」という概念に利用されていく。
著者はここでおもしろいことを少しいっていて、竹山道雄『ビルマの竪琴』では「埴生の宿」「仰げば尊し」といった欧米の曲を原曲とする歌を使うが、最初はアジア共通で親しまれている旋律を選ぼうとしたようだが、結局はそんな日本とビルマで共通の旋律はなく、「埴生の宿」を選ぶしかなかったという。アジアを考える上でもなかなか示唆的な話。
日本をヨーロッパ化するのに上で、ヨーロッパのイメージを必要とした。そこで持ちだされたのが機能主義的思考様式。国民が主体的に動き、役割を果たすこと。
福澤諭吉、田口卯吉、長谷川如是閑、石橋湛山などもそうで、戦後では司馬遼太郎が代表。マルクス主義も当初は実用的な計画経済の理想として取り上げられていた。
鴎外の史伝はこの機能主義へに反対命題として明確に意識して著述されている。
近代日本が抱えていたヨーロッパ像は歴史的背景を排除されたものであり、永井荷風などはこのようなヨーロッパ像への批判があり、「近代」がすなわちヨーロッパであるという考えを一面的だとしていた。
教育勅語は天皇からの直接の公示ろなっている。当時から教育勅語と明治憲法の異質性があった。しかし、明治憲法はあくまでインテリ向けであり、教育勅語は庶民の規範となっていく。このあたりにも日本の政治の不安定さがあった。
教育勅語の成立過程で問題になっていたのは、宗教色をなくすこと、政治色をなくすことだった。
宗教色をなくすことは、道徳を天皇と結びつけるうえでも重要で、無用な宗教の対立産むことをさけるためだった。
そして政治色が強くなれば、世俗臭が強くなり、天皇からの勅語という神聖性を失いかねないというものだった。
教育勅語では、天皇は神などの絶対的超越者ではなく相対的超越者になっている。「皇祖皇宗」というのは、現実の君主の祖先というものを道徳の源泉としている。そしてこの徳は儒教思想が盛り込まれている。
とはいいつつ、「近代」も盛り込まれたものが教育勅語となっている。
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