2021/01/12

『戦争調査会』 井上寿一 講談社現代新書

『戦争調査会事務局書類』(ゆまに書房)が出版されたのが2015年~2016年。かなり遅れたなあと思う。
敗戦直後、幣原喜重郎が「敗戦の原因及実相調査の件」ということで、戦争調査会が設置される。
三つの基本方針
1 戦争著境は「永続的性質」を帯びている。
2 戦争犯罪者の調査は「別に司法機関とか或は行政機関」が担当すべき。
3 歴史の教訓を後世に遺し、戦後日本は「平和的なる、幸福なる文化の高い新日本の建設」に邁進すべきである。
東京裁判との兼ね合いで、法的な戦争責任を問うことは除外されていた。
戦争調査会は結局は存続せず、調査記録が残っただけとなった。

ブロック経済だったのかという疑問があって、これはなかなか盲点です。
オタワ会議に代表されるような日本いじめがあるというが、渡邊鉄蔵はこれに反論する。日本がブロック経済ではなく開放的な通商貿易体制の国だったこと、そして日本の方が世界経済のブロック化に挑戦していたということ。事実、日本は保護主義に反対していた。そして輸入も拡大していた。そして経済摩擦を起こすまでになっていた。事実は、ブロック経済どころか輸出を拡大していた。日本は孤立化などしておらず、各国は排他的でもなかった。

ジャーナリストの馬場恒吾は敗戦の原因を追究すること、それは戦争をはじめたからという論理だったが、幣原は戦争自体を否定おらず、戦争は勝つこともあるとしている。だからこそ敗戦の教訓を遺す必要性を説く。しかし馬場は危うい発言でもあった。いわば勝てる戦争ならしてもいいという考えの微妙なバランスで成り立っていた。

戦争の原因をどこまで遡ることができるのか。
明治維新まで遡る議論が当時かあるが、平野義太郎はこのような運命論を拒絶する。人口過剰のため領地拡大をしたという説もあったが、実際は日本から満州、朝鮮、中国へと移民がほとんど行われていたなかった。人口問題は非軍事手段で解決は可能だった。そして資源問題についても戦争を正当化できるものではなかった。日露戦争前後までには日中戦争、太平洋戦争の原因を見いだすことは難しいとする。
徳富蘇峰は戦争賛成ではあったが、必ずしも日本のやり方を擁護していたわけではない。とくに日中戦争については、日本側の中国に対する認識を批判していた。
興味深いのは、第一次世界大戦が終わって、軍縮と平和の時代が到来するが、それによって軍人への蔑視感情がでくる。そんななか、大正デモクラシーの雰囲気の中で、世相の頽廃を難じ、反動が起きる。華美な社会と成金の台頭によって、一部から世直し運動がはじまる。右翼テロが起きる。
永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次らのバーデンバーデンの盟約でgは国家総動員による戦争準備を約すが、これも大正デモクラシーの反動であり、もう一ついお形だった。軍部と国民の一体化を唱えている。しかし満蒙問題は話されていない。大正デモクラシーのなかで国
総動員と国家主義が醸成されていく。
ロンドン海軍軍縮会議において統帥権干犯問題が起きる。軍縮に調印するとなると統帥権に侵犯となるが、天皇自身が批准しているのだから問題ないとする。驚くべきは侵犯している主張したのは浜口雄幸だということ。なかなか興味深い。
戦争調査会で共有されていた見方としては、満州事変をすっぱりやめて、満州国への投資がきちんと行われていれば、日中戦争は起きなかったという。
日中戦争の和平についても、宇垣、石射猪太郎は国民党の周仏海の努力も、近衛の無駄な好戦的な声明などでチャンスを逃す。
戦争回避の転換点は、南部仏印への進駐で、これによってアメリカの態度がいっきに硬直化する。対日全面禁輸の措置となる。そしてこの措置は予測不可能だったとの見解もあるが、南部仏印への進駐が外交的に多大な影響を予想はできた。
とはいっても、まだ戦争回避の可能性があった。野村駐在大使によるアメリカ政府との交渉によって日米の妥協点をもって戦争回避もできた。しかし松岡外相による外交政策によってアメリカの心象を悪くする。しかし、野村、松岡に共通する認識は、雨いr化が強硬路線をとってきたことであり、松岡からすれば三国同盟を結ぶことでアメリカへの牽制すう意図があった。
下記、面白うそうな参考文献。
石井修『世界恐慌と日本の「経済外交」』(勁草書房)
井上寿一『線全日本の「グローバリゼーション」』(新潮選書)
籠谷直人『アジア国際通商秩序と近代日本』(名古屋大学出版会)


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