2021/01/16

『民主主義とは何か』 宇野重規 講談社現代新書

前著の『保守主義とは何か』に引き続き、とってもためになる本でした。民主主義という漠然としたものの歴史がまとまっていてよかった。
僕自身は、それほど民主主義に期待していないのだけれど、というか現在の日本の民主主義が良くないってことに尽きるのかもしれない。いやそうではなく、一人の市民として自治体にも何も働きかけていないのだし、僕自身、かなり個人主義に毒された人間にすぎないことが痛感させられます。
まず、ポピュリズムも民主主義の現象であること。不満をもつ多くの市民の声を政治がすくい上げていくこなかった結果ともいえる。

合議制で決める政治は、特別なものではなく、ましてや起源を古代ギリシアに求める必要がないが、古代ギリシアでは民主制を発展させてきたこともあり、古代ギリシアの制度と歴史は民主主義を考える上でも出発点となる。
古代ギリシアにおいて、民主主義は第一に公共的な議論によって意思決定をすることが重要であるとする。そして第二に公共的な議論によって決定されたことについて、市民はこれに自発的に服従する必要があったが、強制されるものではなく、納得に基づく「自発的な服従」が重要であった。
古代ギリシアのソロン、クレイステネス、ペイシストラトスについては、
トゥキディデス『戦史』、モーゼス・フィンリー『民主主義 古代と現代』、橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』あたりを参照。
とはいいつつ、民衆の憎悪でソクラテスを失ったプラトンやクセノフォンからすれば民主制は、多数派が正しいとは限らないことを常に言っているしし、自己に配慮した哲人王を夢想していわけだが、まさにイデアだけにプラトンは理想主義者。アリストテレスにいたっては籤引きがいいといっている。
ここで重要なのが「共和制(res publica)」で、これはデモクラシーとは異なる。たしかプラトンの『国家(ポリテイア)』のラテン語訳はres publica。で、この共和制とは、「国家は市民にとって公共的な存在であり、それを動かす原理は公共の利益であるという理念」で、デモクラシーの「多数派の利益の支配」とは異なり、「公共の利益の支配」を含意する。共和制は代表制を取り入れた政治体制であり、間接民主主義をとおして選ばれた少数の市民が政府を運営することを意味している。
民主主義というのは、現在では金科玉条のようなものに仕立て上げられているが、歴史は必ずしも民主主義を肯定的に扱っていたわけではない。なんてたってアリストテレスからすれば理想的なポリスの大きさは5040人だとしているぐらいだから。

民主主義を先導するアメリカ合衆国だが、そもそもこの国の成り立ち自体が民主主義を目標にしていたかが疑問で、むしろ表向きの単なる看板でしかないのかもしれない。アメリカで憲法を制定し、各州に批准させるために運動していたの「ザ・フェデラリスト」の憲法解説書。憲法案は妥協の産物で、連邦政府が全州にたいする統治と支配が中途半端であった。
そしてアメリカ合衆国は、民主主義ではなく共和制を志向していたし、実際建国の父たちは「民主主義」ではなく「共和制」を好んで使っていた。
トクヴィルは19世紀前半のアメリカをみて、アメリカを覆う「平等化の趨勢、さらにはそこで人々の思考法や暮らし方」を含めて「デモクラシー」と呼んだ。アメリカ社会が出すエネルギーを「デモクラシー」とみたという。
アメリカ東部では名もなき一般人が政治的見識をもち、自治や結社の活動をしていたことに感銘をうけたようで、そこにデモクラシーを感じたという。ここからそれまで否定的な色彩を帯びていた「デモクラシー」に脚光が浴び、多様な「デモクラシー」が含まれるようになる。
トクヴィルはデモクラシーをまず少数の小さな自治体レベルでのものとして考えていた。だからトクヴィルの本には代議制民主主義の話はほとんどない。アメリカにはまさに古代ギリシアで行われていたデモクラシーが自治体で行われていたことに驚いていた。
そしてトクヴィルはデモクラシーを平等化の趨勢のことを指してもいる。貴族、聖職者、地主などの封建制から脱していく過程やエネルギーをデモクラシーとみている。
そしてデモクラシーの裏面もみる。伝統を壊すことは、それは社会基盤をこわすことでもあり、個人主義をもたらしている。これはデモクラシーが引き起こしたものと言える。アメリカでは結社というもので伝統的な紐帯のかわりを担い、市民からの寄付で事業を行うようになる。

ジョン=スチュアート・ミルはベンサムの功利主義の影響のもとに、古典的な自由主義を追求していく。自由を自分自身の幸福の追求であり、他人に決定権はない。幸福の尺度はみんな違うのだから。しかし自由にも限界があり、他人を妨害しないかぎりにおいてという条件付きとなる。すなわち他者の自由を侵害するならば権力によって抑制されることになる。
ミルは代議制民主主義を最善としてる。なぜならこれこそが、官僚制や優れた人材の必要性を述べており、さらには彼らに投票数を二票、もしくはそれ以上を与えることを認めていた。
代議制の真意は、執行権ではなく立法権にあり、ということではない。ミルは国会での立法については懐疑的だった。専門性が高く、うまく運用できていないのは昔からだったようだ。では、ミルは代議制の何を見ていたのか。「代議制統治が意味するのは、全国民あるいは国民の大多数の部分が、自分たちで定期的に選出する代表を通じて、どんな国制でも必ずどこかにあるはずの最終的統制力を行使する、ということである」。つまり代議制の本義は統治の監視と統制にあり、立法ではない。ぬおーーーー。そして、議会が行うべきは審議であり、多数の意見を聞き、討論を行うこと、多くの、多様な国民の意見を表明する機関である。ぬおーーーーー。
よく言われる三権分立について、執行権(行政権)、立法権、司法権があるが、実際には執行権と立法権を分離することは難しく、多くの国で立法権は空疎化し、執行権が強大にある。
この執行権がちょっとした議論になる。ルソーは民主制は理想であり、現実的な制度ではないとみていたふしがあり、むしろ貴族政、寡頭政を良しとしたふうもある。ルソーにとっては重要なのは人民主権であり、つまり立法権となり、執行権については少数の人びとにゆだねることを主張する。
しかし重要なのは立法権というよりも、執行権であるといえる。というとだ、現在の日本の国会は、とりあえず立法府となっているので、与野党ともに法案がでないこと自体、もうすでに国会の機能は果たせていないといえて、これはミルの意見と同じだ。ということは日本の国会も立法府ではなく、行政府としての性格をもっと強くすべきなのかもしれない。
そしてアメリカではフランスの影響で建国が行われたこともあり、三権分立がきっちりなされているが、イギリスでは行政権と立法権があいまいなかたちで一体化がみられるという。なるほどねー。

ウェーバーの苦悩。第一次世界大戦後のドイツで「指導的民主主義」と打ち出す。大統領制というのは代議制民主主義とは異なり、人民投票で決まる。ヴァイマール政治体制の苦悩。
シュミットの独裁論。なかなかアクチュアル。「近代議会主義とよばれているものなにしも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして独裁は決して民主主義の決定的対立物でなく、民主主義は独裁への決定的な対立物でない。」んーいま現在、強いリーダーを欲する人民の心を代弁しているかのようなシュミット。
シュンペーターのエリート民主主義論。シュンペーターは人民は代表を選ぶだけで、あとは代表者が政治を自由に行えるようにすべきとする。個別案件での主張によって左右されてはいけない、代表者も競争によって選ばれるべきであるとする。
ロバート・ダールのポリアーキー。これはなかなかいい感じ。民主主義、民主主義とはいうけれど、この民主主義なる概念はあいまなでありすぎる。なので、ダールは民主主義をある種の理想として脇へ置き、ポリアーキーという複数の利益団体による権利獲得闘争として政治をとらえ直すという現実路線をとっている。民主主義を標榜する国家は先進国含めて数あれど、どこも「民主主義」を達成しておらず、いわば寡頭政治をしているにすぎない。痛いところです。だからこそ集団間の自由な競争によって望ましい結末を考え出せるような体制を考えることにしているようだ。ここには一元的な政府の支配もないい。ダールは面白そうだから、今度読んでみようかと思う。

その他参考文献は下記。
待島聡史『政治改革再考 変貌を遂げた国家の軌跡』 新潮選書
三谷太一郎『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』 岩波新書

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