2021/04/17

『増補 責任という虚構』 小坂井敏晶 ちくま学芸文庫

んーおもしろいですねー、自由があるから責任があるんではなくて、責任や罰を誰かに帰さなけれならないから自由がつくられる。
人権、自由、責任なんてのは、いまさらながら虚構ではあるが、この社会はこの虚構で成り立っている。いわゆる社会構成主義の立場。
以下はメモ程度の書きなぐり。かなり脈絡なくまとまている。

小坂井氏は人間を「外来要素の沈殿物」だという。いつ、どこで、だれが親でかは選べずに人間は生まれる。
意識は行動の原因ではなく、行動を正当化する機能をもつ。行動が意識をかたちづくる。
ベンジャミン・リベットの研究が紹介されている。

そもそも責任概念を支える自律的人間像がいかに脆弱であるか、社会心理学の実験から明らかになっていく。

分業社会は近代社会にとって必要なことではあるが、これによって、自分自身が何かに加担しているという感覚が薄らいでしまう。組織が行う全体的な行動が各人では見えにくくなり、残虐行為が可能になっていく。通常、人が人を苦しめることや殺すことはかなりストレスがあるが、分業はこのストレスを緩和していく。
ユダヤ人の拷問や強姦に多くのドイツ人は苦しむケースがあった。指導層はこのストレスの緩和のため、ヒューマニズムの観点から虐殺のストレスを緩和すべく、効率的で合理的な殺害方法をつくりだしていく。
ここから導かれるのは、反ユダヤ主義がホロコーストの原因というのではなく、虐殺の結果が反ユダヤ主義であるかもしれないということだ。
ホロコーストの分業体制と現在の日本の死刑制度の類似点も論じている。
ぼくは死刑制度に賛成ではあるのだけれど、本書を読んでみて、んーたしかに全て隠されているなかで、自ら手をください卑劣さを見いだしてしまった。
ぼくは死刑制度は、抑止効果とは考えておらず、たんに報復措置として捉えている。
まあそれはいい。
責任を因果関係で理解すると、責任と運の両概念が相容れない。もし自分がナチスドイツの政権下で生まれた場合、はたして自分はどうだっただろうと考える。正しい行為を選択できたのか。道徳状況が運命に任されていく。これは不合理だ。責任とは自由であるから発生するもののはずだからだ。
責任概念と因果関係は論理矛盾を抱える。(230)
1 自らの行為に対して道徳的責任を負うのが、行為者自信が当該行為の原因をなす場合である。
2 だが、どんな存在も自らの原因ではありえない。
3 したがってどんな存在も責任を負えない。
犯罪の原因は何なのかという発想自体に問題あるという。行為者は行為の最終原因と見なされ、行為者を超えて因果関係を遡らない。なぜか因果関係は無限に続くからだ。

行為とは「する」ことだけでなく「しない」ことも行為であるはずだ。
しかし「しない」は意志がないことではあるが、「殺さない」という場合は意志があるということでもある。
意志と行為のあいだにの因果性ではなくて、意志と責任を負うべきあいだの因果性が「自由による因果律」となる。「事後的に「その行為の原因として(過去の)意志を構成するのだ」(234、中島義道孫引き)
意志は行為の原因として認められる、これが近代的発想の誤謬である。意志がの有無は原因になりえない。それでは意志と願望の区別はなにか。それは行為が起きた事実しかない。

「自由だから責任が発生するのではない。百に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである。自由は責任のための必要条件ではなく逆に、因果論で責任概念を定立する結果、論理的に要請される社会的虚構に他ならない」(244)

社会規範は集団の相互作用によって生みだされる。超越論的な何かが支えているものではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれる。
小坂井氏は犯罪は多様性の同意語だという(258)。逸脱行為は社会でかならず生じる。均一性が高ければ逸脱行為は減少し、多様性が高まれば逸脱行為が増加する。
ゆえに「正常な社会現象として犯罪を把握するとはどういう意味か。犯罪は遺憾だが、人間の性質が度し難く邪悪なために不可避的に生ずる現象だと主張するだけに止まらない。それは犯罪が社会の健全さを保証するバロメーターであり、健全な社会に欠かせない要素だという断言でもある(258、デゥルケーム孫引き)
小さな逸脱行為に敏感になる共同体では、些細な逸脱が犯罪の烙印をおしていく。

集団犯罪を社会が糾弾する一方で、しばしば犯罪者当人は責任を自覚しない。
なぜか。
近代的意味での道徳責任主体に集団はありえない。例えば日本の戦争責任を認めとという場合でも否認する場合でも同じ論理の誤りを犯している。
個人に責任を還元するならば、道徳的意味での集団責任は無駄な概念だ。しかし集団に主体概念を認めるかどうかが問題となる。国家の場合は論理が違うのでおくとして、集団として民族の責任はありえるのか。
小坂井氏はここで責任が「気軽さ」もって集団に認められてきたことを指摘する。イギリスの植民地、アメリカの先住民、トルコのアルメニア人の虐殺、これらが「気軽に」認められてきた。
責任は因果関係によって意味をもつ。しかし、現代に日本人と第二次世界大戦時の日本人では因果関係が認められない。

そこで同一化が問題となる。
責任の感覚は心理的同一化に依存する。不断の同一化という虚構が、集団的責任をもたらす。
動物や植物を裁判にかけていた時代がある。また当人だけでなく家族や部族全体を処罰対象になったこともある。後者は現代でもある。
それは現代が責任を自由に結びつけているからだ。因果関係をもとめることが原因となる。

犯罪者が捌かれるのは端的に言えば行為者が目立つからにすぎない。犯人と犯罪が密接に結びつきやすい。「責任と罰は表裏一体の概念をなす。責任があるから罰せられるのではなく、逆に書っ罰が責任の本質をなす」(296)
社会を安定させるために「けじめ」が必要で、責任のつじつま合わせで精神科医や臨床心理学者が起用される。
動機は本当に存在するのか。小坂井氏は犯罪時の記憶が物語として創られていくという。このあたり興味がある。
正義という信仰は人に正当化を与える。天は理由なく賞罰を与えない、徳をなせば必ず報われる、このような信仰で他者の不幸が正当化されていく。
データを解釈、判断することで、正しい戦略がなされるかというとそうではない。ある個人がデーターから下した判断が後に誤りだとわかったとしても、すでにその言説は再生産をされ個人の手から離れ集団行為へと移っていく。誤りだとわかっていてもすでに時は遅い。それが集団行為というものとなる。
なかなか興味深い。実体はよくしらないが北欧では快適な牢獄ライフが犯罪者には待っていて、しかも再犯率が低いという。ぼくはこの件をはじめてしったとき、ある種の嫌悪感みたいのを覚えた。やはり犯罪者はたとえ再犯率が高くなろうとも罰を受けるべきだと。しかし、頭の片隅には犯罪とは何かという疑問をもった。んーたしかに責任が虚構であるならば、北欧の刑務所は新しいパラダイムを開いているのかもしれない。

道徳も法も根拠なんかない。根拠をもとめてもそれは虚構でしかない。しかしその虚構を社会は必要としている。そしてこの虚構に従わせるために暴力が必要となる。
個人への制限は政治思想において、必要なものではあるが、捉え方が異なる。ホッブズは必要悪としてみているが、ルソーにいたっては一般意思によって住民を従わせ真の自由を獲得する。市民の利益はそのまま個人の利益となると考えている。

正義論の無知のヴェールについても簡単に触れているが、これは小坂井氏の言うとおりだ。無知のヴェールをルソーの一般意思と同じものとして考えていいという。そりゃそうだ。
遺伝、遺産、能力は個人差があるが、ロールズはそれを失くす必要はないと考える。これらの個人差は個人の責任ではないが、格差をつけることで社会の生産力は向上する。そうすれば下層の人々も必然的に生活があがる。自由と機会が平等に与えられさえすればよいとロールズは考えている。
しかし、人間はそこまで単純ではない。人間は妬む。だから階級闘争がおこる。また平等になればなるほど不満も増大する。
自由が前提の社会では、平等に機会を与えられても、能力は平等ではない。故に下層の人はこの能力差を自分の責任として引き受けがちになる。
ロールズの公正さは、誰もが納得するものであるべきとするが、しかしそれによって格差を是認することになる。しかも現実の世界ではロールズのような仏は存在しない。
人間の悲しさは、近い所得や近い能力の人間たいして強い羨望を抱くことだ。天才に対しては諦めがつくが、近い存在にたいして妬みをもつ。

万人が競争することが自由で平等な社会であると錯覚するが、それは階級を分けていた境界がなくなったことを意味しているわけではない。不平等が常識であれば、上昇志向がなくなるので、不平等に気づかない。平等であるべきという考えが不満をおこす。
ロールズの場合は格差を無能な自分のせいとなる。それはロールズの示すシステムがそうさせる。だがロールズが劣等感をもつことはない、それは本人の責任ではないからだといいう。しかし自由が担保されているにもかかわらず責任がないとはこれ如何に。

「人間が営む夥しい相互作用から生成される集団現象が人間から遊離し、<外部>として現前するおかげで根拠が構成される。真善美は集団性の同意語だ。無から根拠が生まれる錬金術がここにある。神のような超越的存在を斥けながら同時に遺伝子や物質的所与への還元主義をも否定した上で、それでも人間世界に意味が現れる可能性をこの認識論が保証する」(385)
そしてこの無根拠なこと、全くの恣意性は隠蔽される。
因果関係は社会制度が作り出す表象である。(402)
「近代は自由と平等をもたらしたのではない。格差を正当化する理屈が代わっただけだ。自由に選んだ人生だから貧富の差に甘んじるのではない。逆だ。貧富の差を正当化する必要があるから、人間は自由だと近代が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だち宣言する。……近代は神という外部を消し去った後、自由意志なる虚構を捏造して原因や根拠の内部化を目論む。その結果、自己責任を問う脅迫観念が登場する。」(419)
そして、
「構成主義の最も重要な功績は、世界の恣意性の暴露ではない。恣意性が隠蔽される事実の認定だ。」(435)

2021/04/16

『風と共に去りぬ』 第1巻 マーガット・ミッチェル/鴻巣友李子訳 新潮文庫

滅法面白い。
スカーレットが無教養な箇所の描写なんかもよくって、バーベキューでレット・バトラー初登場の際にアシュリーがバトラーを評して、ボルジアみたいな人だというけど、スカーレットはなんだかわからない。それにチャールズは嘘だろこいつ的に飯能するが、無教養を装っているのかもしれない、淑女のたしなみ、みたいに勘違いしたりする。
スカーレットは、周りの女たちを見下しているから、同性の友人がいない。そして男たちを誑かすことに喜びを見いだし、結婚する気もないのにインディアに入れ込んでいたスチュアートを落したりする。自分がどう見られ、人をどう扱えば自分に好意を与えてくれるかが完全にわかっている人間として描かれている。
第1巻では、スカーレットの失恋と、自暴自棄のチャールズとの結婚、そして夫の死。この死も滑稽で戦死ではなくて病死。ひどい。さらにひどいのがチャールズとの子供をじゃけんにしているこっと。アトランタでの日々でバザーでレット・バトラーとの再開。
このバトラーとの再開は素晴らしい。バトラーの魅力はよくわかる。無頼で正義なんて信じていなくって、金儲け主義者と思わせるが、どこか筋の通っており、なにか真理めいたものを持っている人間。アシュリーやメラニーは逆にどこか偽善を感じるわけで。
「ほかの女性たちは結局なにも考えずに、郷土愛だ大義だと言って騒いでいるだけなのではないか。男性たちも死活問題だ州権だと騒いでいて、同じく目もあてられない」(380)
そしてスカーレット自分自身だけが良識をもっていると思っている。
スカーレットは男性にせよ女性にせよ、たらし込む術をよく心得ていて、そのういうときは謙虚を装うこともできる。
アトランタに来て、スカーレットは<タラ>の赤土を懐かしんだりする。結局、ジェラルドが言ったようにスカーレットは<タラ>しかないのだと言った感じ。
バザーでメラニーを含めて皆が大義だとかを口にしているなかでスカーレットだけが冷めて周囲をバカにしている。スカーレットは傷病病院での仕事に嫌気がさしていたが、メラニーは天使のように看病をしている。このあたりスカーレットが悪女のように思わされるが、逆にメラニーの態度が逆に何か奇妙なものを思わされるなにかがある。それは偽善の溢れる世の中で象徴であるかのように。
メラニーもピティ叔母もスカーレットを誤解している。
スカーレットが指輪を寄付するところなんかも、ストーリテラー的な感じで読ませるおもしろさ。で、バトラーがメラニーの指輪だけを買い戻してあげるなんかも、よくできている。
スカーレットとレット・バトラーとの再開でダンスを踊ったことが、<タラ>にまで聞こえ、ジェラルドが連れ戻しにアトランタに来るが、ここのやりとりもいい。スカーレットが泣くのをなだめ、バトラーに会いに言ったと思ったらポーカーで大負けして大いに酔っぱらう。
スカーレットはジェラルドがポーカーで大負けしたことをエレンに黙ってあげるかわりに、<タラ>に戻らなくていいことを約束させる。
ここはなんかお約束事のような展開だが、ジェラルドの滑稽さがよくでていていいし、バトラーの「悪さ」もでていていい。
南部の工業力の脆弱さもきちんと指摘していて、しょせんは綿花王国でしかないみたいな、ことが書かれている。だから北部に負けるのは必然であると。
んーどこかで聞いた話みたい。
素晴らしい小説。各登場人物のキャラがよくできているし、軽快なストーリー運び。
んーいい。

2021/04/07

『ジャックポット』 筒井康隆 新潮社

どうなんでしょうか。最後の「川のほとり」は息子の死を思い書かれているので、きちんとした文章になっている。
しかしその他の作品はすべて言葉遊びを徹底しているものになっている。まあたまーに読む分には楽しめるんだけど、収録されている作品のほとんどが言葉遊びだと、さすがに疲れるし、飽きてくる。
とはいいつつも全体的にはまあまあおもしろかった。80歳超えてもなお新鮮な言葉遊びができて、諧謔をわすれず、アイロニーもある。「ジャックポット」なんかまさにね。コロナの氾濫。
超高齢にもかかわらず今だ若さを感じる文章を書いているので、☆三つ。


2021/04/06

ピアノ・レッスン(1日目)

高校卒業以来、ほとんどピアノを触らずに生きてきて、電子ピアノを、しかも結構いいやつを購入したので、もう一度ピアノを弾こうとと思ったが、全然指が動かないし、楽譜の読み方も忘れてしまっている。
暗譜している曲なんかは、ミスはありつつも弾けるのだが、新しい曲となると指と頭がリンクしていないのか、全然ダメになっていおり、簡単な曲でも初見で弾けなくなってしまった。
なかなか感覚ももどらないから、もう一度初歩からやり直すつもりで、
『バッハ演奏へのアプローチ はじめてのバッハ 「インヴェンション」のまえに』(高木幸三校訂・解説/全音楽譜出版社)
を購入して、まさに初心者としてピアノをやり始めることに。
一曲目は「コラール ヘ長調 (満ち足りて心安らかたれ)(BWV510)」
この曲は「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」からのもので、大バッハの三男のヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハの作かという説があるが、よくわからない模様。
曲そのものは素朴で悪くない。
一発目ということもあり簡単ではあるが、それでも指使いに苦戦するし、間違えずに弾けなかったりと、かつてはショパンのエチュードだって弾けたのに、と悔しい思い。
とりあえず、この曲を1時間ちょいずっと繰り返し弾いていた。どうにか間違えずに弾けるようにはなった。指使いは心許ないが。
練習中、どこかの時点で昔の感覚を取り戻したところがあった。指の動きと打鍵にかつての確かさのようなものを覚えるようになった。その瞬間から、旋律をきちんと把握して弾いている感覚が戻ってきて、身体で覚えていた曲を弾くのとは違うものを感じた。

とりあえず一日目であもあるので、まあこんなところかという感じで終わりにして、明日の課題は、BWV510の復習と二曲目「無題の曲 ヘ長調(BWV Anh131)を練習する。この曲も「アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳」の一曲で、バッハの作曲ではないようだ。

2021/04/05

『言語の七番目の機能』 ローラン・ビネ/高橋啓訳 東京創元社

デリダとサールが死んじゃう。なんか暗示的ではあるが、よくわからない。デリダは猫を論じていたが犬は論じていないと思う。サールは自殺しちゃうけど、これはなぜだ。
かなり笑える小説となっている。ソレルスが扱いのひどさ、フーコーの王様のような態度と浮世離れした言葉。ポスト構造主義の思想家が勢揃いであるが、ビネはおそらくウンベルト・エーコーのことは好きなよう。
ベルナール・アンリ・レヴィなんかかなり印象悪い感じだ。
アルキビアデスのような若者に始終しゃぶらせているフーコー。
バイヤールとジュディス・バトラー、スピヴァクの3P。
シモンとビアンカの解剖台の上でのマシーンのようなセックス。
いろいろと酷い。
いつおう史実に基づいているが、これらの解釈というかなんというか、それが違ったりする。アルチュセールの妻の絞殺は書類を捨てたことで頭に血が上ってしたことになっている。ボローニャ駅のテロなんかも絡ませている。この事件は詳しく知らない。
他にもクリステヴァがブルガリア人スパイの嫌疑があったこと、傘の柄に仕込んだ暗殺がブルガリア人スパイが実際にやっていたということ、など。

ロラン・バルトの死が1980年3月で、エーコーの『薔薇の名前』も1980年9月。どうも中世普遍論争を大陸哲学と分析哲学の確執とダブらせているようとのこと。
衒学的な文章もエーコーを思わせるものだし、<ロゴス・クラブ>でのバカみたいな議論、ゴシックとクラシックとか、本当にどうでもいい議論が続くが、エーコーはそのクラブのテッペンの人。
ソレルスは負けて陰嚢がちょん切られてしまうし。去勢だ。

言語の七番目の機能とは何か。魔術的機能。
これはよくわからん。でも最後シモンがそれを実行したのは確か。シモンはミッテランの宣伝広報を受け持つようになる。

そういえば読んでてヤコブソンが1980年にはまだ生きていたというのも、そうだったのかとバイヤールだけでなく僕も驚くばかりで、このあたりもビネのふざけているところ。
生きているのに、ヤコブソンの言語学に関する切れ端とかテープとかをみんなで追いかけまわっているのだから。おそらくこれもビネの仕掛けの一つ。ある種の哲学談義の空疎さを揶揄しているとも思える。実在しているものに周辺でなんのかんのと騒いでるだけっていう感じでしょうか。

石田さんのUchronieユークロニーについて指摘がおもしろい。次の著作ではインカ帝国がヨーロッパを支配したら、という話らしい。いいじゃないですか。

2021/03/30

『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』 ジェームズ・C・スコット/立木勝訳 みすず書房

僕らは国家を基準にしか歴史を検討できない。国家管理が永続的なものだという幻想ももっている。
驚くべきことに、定住が行われはじめていた紀元前5000年、6000年では乾燥地帯ではなく湿地帯だったという。沖積層が現在の水準よりも10メートル以上低かった。乾燥地帯だったというのは現在を過去に投影したにすぎない。
初期の定住は沖積層で発生している。
湿地帯では大規模な灌漑整備を必要とせず、食物獲得においてのポートフォリオでは狩猟、漁労、採食、採集といった多様性に富んでいた。そしてこのような環境では単一の強権的な国家はできなかった。湿地では強権的に徴税する必然性もなく、穀物を備蓄すること、インフラの整備などにうおる労働集約を必要としない。湿地は共有資源だった。
スコット氏はここで氾濫農法(減水農法)を上げている。定期的な河川の氾濫は、土壌を豊かにし、農業で最も労働をさく施肥、耕作、種まきをコストゼロで達成できる。

農業が人類進化の一因だったかもしれないが、狩猟採集よりも当初は優れていたというわけではない。遅延リターンとして、農業が将来への投資としてい位置づけている説もあるが、狩猟採集でも保存食は作られるし、道具も必要となる。ある面では農業よりも複雑な協働と調整が必要になる。農業の有利であるわけではまったくない。
狩猟採集民は湿地、森林、サバンナ、乾燥地などを股にかけ食料をとるゼネラリストだった。国家の分業社会では、人間の生涯の貧困を見ている。

「ブロードスペクトラム革命」というのがあり、これは何かしらの理由で栄養価が低い資源を活用せざるを得ない状況になり、耕作農業、家畜の飼育という労苦に到達したというもの。また人口圧が高まったために以前より多くの者を周辺環境から採取する必要もでてくる。ここから集約的な作物栽培、家畜飼育が必要となっていく。
これにより疫病のリスクが成り立つ。都市化が郡性疾患を主な死因にした。狩猟採集民においては腸チフス、アメーバ赤痢、ハンセン病などの人間以外の生物が保有している宿主のものが主だった。フェロー諸島の麻疹の例が興味深い。これは『1493』に書いてあったか。ここから教訓をえるとすれば、感染病は全員がかかって集団免疫と免疫を持たないものが全員死ぬまで続くということであり、また感染病は波をもっていることだろう。ある程度の人口がいることで感受性の強い宿主が一定程度存在し、そしてこれらの人に感染して、恒久的な感染が維持される。

著者は農耕文明の隆盛にはまさに定住自体に答えを見いだしている。狩猟採集民のほうが労働時間は短く、栄養価では優れていたが、出生率は定住の方が高かった。たとえ定住の場合死産の割合が高くてても、多産であるため狩猟採集民よりも人口増に貢献した。これは長い年月、2000年とか5000年という歳月でみると大きな差として現れてくる。

本書における国家とは何か。それは税の査定と徴収専門として、単数もしくは複数の支配者に対して責任を負う役人階層を有する制度、としている。そしてさらに言えば、分業があり、階級社会となっていること。この条件当てはまる国家が紀元前3200年までに登場したウルクだった。
国家は穀物を税として徴収する。なぜなら運搬、保管、収穫の面で他の作物よりも国家にとって都合が良いからという。
国家が文字をもつ動機は、行政運営のためで、メソポタミアでは簿記目的以外で使用されるには、文字の出現から500年以上も経ってからとなる。ウル第三王朝のギルガメッシュ叙事詩は紀元前2100年まで遡れるが、楔形文字が商業や行政で使用されて方1000年もあとになる。文字は行政を強く連想させるものだった。
本書のおもしろい指摘は、国家が人口管理を基本としているということだ。これはフーコーの近代国家の生権力にも繋がるところ。
人は常に外部に流、死亡率も高かった。城壁は外敵から守ると同様に、内部の人間の外部への流出を防ぐためでもあった。死亡率や出生率が重要な要素となり、人口が減れば外部から調達する必要にがでてくる。それは戦争によって調達されていく。奴隷も同様に生産に従事させられていく。戦争の一番の目的は領土獲得ではなく捕虜の獲得だったといってもいい。

本書の最大の魅力はもう一つ、「崩壊」について語るところだ。中央集権の終わりは暗黒時代をもたらしたのではないということだ。
古代の国家は疫病や天変地異、気候変動や戦争、または環境破壊などにより非常に脆弱だった。ウル第三王朝が五代の王が引き継ぎ100年続いたことが異例中の異例だったという。
何かしらの理由で国家が崩壊しても、住民たちも一斉に消滅したり死んだりするわけではない。外部へと逃亡する。
国家の崩壊は必ずしも文明や文化も同時に消滅したことを意味していない。離散していった民衆たちは、文化を保持しながら生きていた。国家管理の時代よりも栄養面であったり労働面でも優れていたと思われる。
例えばイリアス、オデュッセイアは古代ギリシアの暗黒時代に語り継がれたものであり、それが後世に文字で残されたにすぎない。たんに暗黒時代には巨大な建築物やインフラ整備、生産活動が行われず、現代からは何も見えないことで、我々からすれば「暗黒」になるにすぎない。

定住と遊牧、狩猟採集の境界を明確に線を引くことができないのかもしれない。
国家が崩壊したあとの暗黒時代は暗黒であったかどうかは議論がある。狩猟採集民や遊牧民たちは、定住している集落や国を略奪することがあったが、しかしだからと言って常に略奪をしていたわけではない。そもそも集落や国家が少ないのだから、略奪するよりは交易をするほうがいい。また国家よりも遊牧民のほうが武力で優り、そのため交通の安全は遊牧民にかかっていた。遊牧民たちは、国家に交通の安全と引き換えに貢物を要求する。
このあたりの話は、モンゴルでもお馴染みになっている。

遊牧民たちは国家に手を貸していたが時代、それは彼らにとって黄金時代だったか、いつのまにか立場は逆転をしていく。彼らは国家の発展に手を貸し、自分で自分の首をしめていた。

2021/03/17

『晩年のカント』 中島義道 講談社現代新書

はじめて中島さんの本を読む。カントへのイメージが一変した。
食べ方とか汚いとか、なんか人間的でいい。決まった時間に散歩するというのも、若いころからしていた習慣ではなく、自分の家をもった63歳ごろで、病弱だったので健康のためにやっていたという。そして病弱なからだについて自己診断で自己流の療養法を行っていたという。ビールが嫌いで、誰かが病気になったとか死んだとかいうとビールのせいにしたらしい。
さらに女性観がひどいのなんの。女性が悪を避けるのは不正だからではなく、悪が醜いからだというのだ。女性に道徳心を認めていない。
本書にカントの草稿が載っているが、病的なほどびっしり書いている。

カントの「根本悪」という概念がおもしろい。真実性の原理と幸福の原理があって、人間は幸福の原理を選択する本性がある。なぜなら人間は感性的であり理性的だからだ。
そしてこれを必然的であるとはみなさない。というのも「べし」という普遍性と一般人が守っている経験的規則がある。そして必然性とは自然法則や道徳法則にかなったもの、理性にかなったものにしか使用してはならないという。つまり法則(理性)に反するものは必然的ではない。
よってすべての人に責任を帰すことができる、という結論になる。根本悪に陥ることが物理法則のように必然的だとすると、根本悪に陥る人間に責任を課すことはできない。つまり根本悪は必然的ではなく、選択しうるものである、となる。

「性癖」には三つある。1人間心情の脆さ。2人間心情の不純。3人間心情の悪性。
3は1と2で異なる構造をもつ。1と2は感性が理性にまさって陥ることで、3は理性が感性に引き起こすもの。
ここから人間は感性的存在者であり、かつ理性的存在者であることが導きかれる。根本悪はまさに感性的存在者にある理性が引き起こすものとなる。

『たんなる理性の限界内における宗教』が、物議をよび、カントは弁明をする。ここがまず素晴らしいところ。この弁明がが上記の根本悪と照らしてみると、まさにカントは根本悪をなしてしまっている。好意的にみてもそうなる。
そしてカントはスピノザのごとくキリスト教の有用性を説いたりしている。

カントの時間についてもいい感じ。
「時間の長さ」とは、過去を想起することから長さが生まれる。

んー他の中島さんの本を読んでみようか。

2021/03/16

『理論疫学者・西浦博の挑戦――新型コロナからいのちを守れ!』 西浦博/川端裕人 中央公論新社

僕は前提として西浦さんには批判的。
「3密」の誕生とあるが、正直そんなたいしたことではないと思う。まあ言葉としては巧みだと思うが。でもこれがいかに日本社会を歪めているかを理解しているのか。コロナウイルスが飛沫や接触で感染するのは別段格別な証拠が必要なのかと思う。
風邪ひいたら、近くに寄らないというのは、多くの人に同意が得られることだろうし、閉じられた空間は喚起が良くないのなんて、あたりまえだし、なんだかね。
この3密という言葉は社会を壊しかけていることを何も考えていない。

日本がクラスター対策を重視している理由は、感染の仕方が二通り考えられ、一つはインフルのように一人の感染者がきちんとふたりずるに感染させるというのと、SARSのような一部の人がたくさん感染させるというもので、西浦さんたちは後者のSARSに近いものと考えて、だからこそ重点的なクラスター対策をとっていたようだ。でも欧米予想外の拡がりとなったので、どうも違うとなる。

日本と欧米の対策で、日本の優れているのは感染者の濃厚接触者に対するアプローチだけでなく、その場を共通の感染源となった場を見いだして、その場を共有した人たちをも追跡したことだという。

42万人という数字について、川端さんは二つの理由で西浦さんを擁護している。
一つは、西浦さんの計算はあくまでも「最悪の被害想定」であるということ、そして二つ目が被害想定の期間の問題で、終息までの期間なのだから、まだ42万人は有効期間内であるという。
そしてさらには42万人というのは、ファクターXの存在が明らかになり、仮に日本人が何らかの免疫をもっているなどが判明しないかぎりは、同様の関数となり、42万人という数字は変わらないという。マジかよ。これって科学というよりも神学ではないか。
ならば100万人でも1000万人でもいいじゃない。対策次第でゼロが一つも二つもとれていくってい、まあ至極普通のことを言っているけど、でもそれって多めに言っておけば成果が出やすいことでもある。
サラリーマンの社会でもまっとうな計算ではもっと少なくても、成果をでていることをアピールするためにも損を莫大に言ったりする。

基本的に西浦さんのロジックは、「感染症を止める」につきていて、それ以上でもそれ以下でもない。ウイルスの毒性云々はこの際どうでもいいような印象がぬぐえない。
またクラスター潰しが功を奏しているのかどうかも、正直どうなんでしょうね。

2021/03/15

『柳田国男――知と社会構想の全貌』 川田稔 ちくま新書

川田氏の著作は全般的に冗長だ。全体を俯瞰するのにはとても役に立つが、通読するのには骨が折れる。
書いてある内容で、特筆すべきところとしては、農務省時代の柳田国男の農業政策だ。地主制度の廃止、南方への移民の推進などは柳田の手軽に読める著作物では知ることはできない。
地方の人口増加によって、農民一人がもてる土地の面積が小さくなるから、南方に移民を考えていたというのも、けっこうショッキングではある。

柳田は民俗学を欧米のフォークロアでもエスノロジーでもないものとして確立しようとしていた。
柳田の著作を読んでいても、欧米の影響というのはよくわからないのだが、本書ではデュルケーム、マリノフスキー、フレイザーらの影響があることが論じられている。まあそうだな。

全体的には柳田国男の著作をある程度読んでいれば、さもありなんといった感想しかない。
とりあえず国家神道への批判や氏神信仰について書かれている。ある程度まとまっているので便利ではあるが、それ以上でもそれ以下でもないかなと思う。

2021/03/14

『感情史の始まり』ヤン・プランパー/森田直子 監訳 みすず書房

んーかなり微妙。普遍主義と構築主義を止揚しようとしているようだが、正直何をやっているのかわかりかねた。
感情というのは本能だ。しかしその現れ方は文化によって異なるし、時代によっても異なるだろう。
歴史上の人物にも感情があるなんて、そんなことふつうでしょうし、テキストを読むうえであたりまえのように考慮に入れることでしょう。怒りの文章でも、今の自分がもっている怒りの感情とは同質かどうかなんて、んなこと知るかよ、と思う。
神経生理学や解剖学的な知見だけではいけない、というのもそうでしょうよ。
アリストファネスでもアイスキュロスでもいいけど、読んでみれば、そこには現在と相通じるものがある。たしかに細かい機微まではわからないけど、同じように笑い悲しんでいたわけです。
いずれにせよ感情史とはなんだかよくわからない。

2021/03/13

『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 下』 ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳 筑摩書房

しかし酷いのなんの。どうしてここまで虐殺が起こるのか。
本書で、ユダヤ人大虐殺の見方が変わる。ぼくなんかそれほど知識ないから、ホロコーストといえばアウシュヴィッツのような強制収容所での虐殺だけを念頭においていたが、実際には大半のユダヤ人がモロトフ=リッベントロップ線以東で殺されている。
おそるべきはナチスのバルバロッサ作戦の失敗がユダヤ人の東への移送を不可能にし、その結果として大虐殺がおきていくということだ。
第一世界大戦から第二次世界大戦の終了まで、東欧の歴史はあまりに悲惨すぎる。

下記はメモ。

ナチスの対パルチザンとユダヤ人の殺害は同じものとして扱われた。パルチザンの活動は民衆やユダヤ人を助けた面もあるが、ナチスが民衆とユダヤ人を問答無用で殺害する動機にもなっていた。

ベラルーシ―などでパルチザンが結成されていくが、ある不安があった。ナチスを追い出した後にスターリンはパルチザン組織を弾圧するのではないか。ということでスターリンは共産主義の教義上、下から勝手に組織が出来上がることはよくないので、これらのパルチザンはナチスの手先として

ナチスは民間人の退避計画を組織できなかった。しかし軍はソ連に降伏するよりはイギリス、アメリカに降伏したほうがいいと考えて西に逃げていたという。ひどい話。それでソ連へに民間人の男は殺されるか強制収容所に送られ、女は強姦されていく。

ナチスの敗戦後、新生ポーランドが生まれる。共産主義政党はすべてのドイツ人を追放、排除することを決める。これはポーランドだけでなくチェコスロヴァキアでも起きた。ポーランド人にとっては共産主義は好ましい相手ではなかったが、土地を与え、ドイツから守ってくれるのがソ連だった。

「大祖国戦争」では、実際に戦地となり、勝利していったのは、ベラルーシ、ウクライナであり、死んでいった者たちもロシア人よりユダヤ人、ベラルーシ―人、ウクライナ人が多かった。しかし、スターリンはそれを隠し、ロシア人の勝利として扱っていった。ここで疑問なのだが、グルジア人であって、生粋のロシア人ではなかったと思うのだが、それでもロシア人に肩入れしたのはどういう理由なのか。マジョリティであるロシア人の顔色をうかがったのか?

ソ連にとってナチスがおこなったホロコーストをあまり宣伝材料に使いたくはなかったようで、というのもソヴィエト人の手を借りて膨大なユダヤ人を殺害していったからだという。

ユダヤ人虐殺ではアウシュヴィッツが象徴として取り上げられる。たしかにアウシュヴィッツは死の工場であったが、大量飢餓発生地域やトレブリンカのほうが虐殺の効率性はよかった。そしてアウシュヴィッツはユダヤ人コミュニティを形成していたポーランド、ソヴィエトのユダヤ人が多数殺された場所でもなかったアウシュヴィッツが中心的な死の工場となったころには、すでにポーランド、ソヴィエトのユダヤ人は殺害されていた。アウシュヴィッツは大量虐殺の最終章だったという。

モラルとは何か。ナチスもソ連も、これらはひとつのモラルだった。
ある目的のためには犠牲が伴う、という期待が現在の悪を将来の善であると信じていた。


2021/03/12

『アンナ・カレーニナ』4 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンはオブロンスキーに誘われて仕方なくアンナに会いに行く。そこでリョービンはアンナの女性としての魅力に惹かれていく。そして彼女の境遇をかわしそうだと思うようになる。アンナはリョービンをわざと籠絡しているのだが、リョービンはキティに指摘されるまで気づかない。キティに指摘されリョービンはアンナの誘惑に敗けたことを自覚はするが。
「およそ人間はどんな状況にでも慣れしまえるものだが、まして周囲の人が全部そんな風に暮らしているのだとわかっている場合はなおさらである。」(98)
キティの出産がはじまる。リョービンは理性的に考えれば神を会議するものと考えていたが、そんな判断さえも出産という事件では神に呼びかけることを少しも妨げるものではなかった。
「子供は? どこから、どうして現れたのか? そしていったい何者なのか?……彼はどうしてもわからなかったし、その考えに慣れることもできなかった。子供は何かしら無駄なもの、過剰なものと思われ、長いこと子供の存在に慣れることができなかったのである。」(122)

オブロンスキーはアンナの離婚を成立させるためにカレーニンを訪れる。そこでリディア・イワーノヴナ伯爵夫人とカレーニンの関係を知り、そしてランド―と呼ばれる怪しい占師、もしくは教祖のような存在がこの二人の心を支配していることを知る。キリスト教ではあるが、狂信的な教えのようでカレーニンもリディアも彼の言いなりで、ランド―が離婚を否定した。
アンナはカレーニンを愛しているが、ヴロンスキーを信じることができなかった。ヴロンスキーを冷たい人間であると、そしてアンナの絶望や孤独は全てヴロンスキーのせいにする。そして言い争いになると、アンナは自分を「不誠実な人間よりももとお悪い、心のない人間」と言う。ヴロンスキーはそんなアンナに我慢ができなくなく。
アンナはヴロンスキーの愛を強烈に欲していく。しかしアンナはヴロンスキーには愛がないと感がている。
アンナは自分の置かれた境遇、カレーニンの恥辱、息子の恥辱、そしてヴロンスキーへの復讐をするためには、死を選ぶしかない考えるようになる。
ヴロンスキーはアンナの我儘を極力聞いてあげている。しかしアンナはどんどんと自ら絶望へと走って行く。ヴロンスキーが母のところへ行くのも、ソローキン侯爵夫人の娘に会いに行くのだと思って、彼を追いかける。
鉄道の駅に向かう前にアンナはドリーに会いに行って、すべてを話そうとするしかしそこにキティがいた。アンナは露悪的な態度でドリーとキティに接する。彼女たちはアンナをかわいそうだと思い、同情していく。このあたりですでにアンナとキティたちの立場がまったく別のものになっている。

アンナが死んだあと、リョービンの信仰について書かれていく。
ここにはリョービンが抱えもっている矛盾と調和が書かれる。
善い生き方をしているのはすべて信者であること、そして反宗教的な人は決してリョービンを納得させるようなことを言ってはくれない。
リョービンは「魂のために生きる」ことを言うようになる。
理性には理解できない、理性の外部にあるもの、しかし明確な認識、善は因果の連鎖の外にある。
理性が教えてくれるのは生存競争であり、自分の願望の成就だ。他者を愛せというのは理性からはでてこない。なぜなら不合理だから。理性は傲慢だ。(324)
リョービンはこのような認識を得て、これで自分も変われたと思ったが、実際彼は人にも腹をたてるし、議論もしてしまう。

この時代、露土戦争がおきており、ここでヴロンスキーが志願兵としてセルビアに行くことを愛国的と評価される向きがあったようだが、トルストイはリョービンとシチェルバルツキー老侯爵の口を借りて言う、いつのまにスラブ人であることを求められるようになった、けれども自分にはスラヴ人同胞に興味がなくロシアのことしか興味がわかないと言う。民衆はそれに戦争のことなんか理解していないという。民衆は意志表明をしないし、そもそも何に意思表明をしなければならないかもわかっていないと。(348)
ここでもリョービンは議論に負ける。しかし、それは重要な事ではなかった。議論は理性的な活動的しかないからだ。
キリスト教以外の宗教を信じている者たちは、キリストが教えてくれる最高の恵みを奪われているのだろうか、とリョービンは自らに問う。しかしリョービンはこのような問い自体、多種多様なことに一般的な表現を取り入れることを拒否するようになる。個人としての自分の心に理性では捉えられない知恵をはっきり示してもらっているのもかかわらず、理性と言葉を頼りにしようとしていた。(369)
「これからもおれはこれまでと同じように御者のイワンに腹を立て、同じように議論をとおして場違いなところで自分の意見を述べるだろうし、自分の胸のうちの神聖なるものと他人との間には、たとえ相手が妻であれ、壁があり続けることだろうし、相変わらず自分の恐怖感を妻への非難にすり替えては、それを後悔し、また同じくなんで自分が祈るのか理性で説明できぬまま、祈りつづけることだろう。だが今やおれの生が、おれの生活の全体が、わが身がどうなろうと関係なく、どの一分間をとっても、単にかつてのように無意味でないばかりでなく、疑いようのない善の意味をもっている。しかもその善の意味を自分の生活に付与する力が、おれにあるのだ!」(373)

2021/03/11

『アンナ・カレーニナ』3 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンは結婚する前に痛悔礼儀を受ける。リョービンは神の存在を疑っている。司祭から神の存在は世界を見れば自明であることを説かれる。子供が生まれたときに子供に世界の存在をどう説明するのかとも言われる。
リョービンは兄ニコライの見舞いに行くと、すでに死期が近いことを悟る。キティも一緒についてきて、リョービンが嫌々ながら兄に紹介する。するとキティはベッドのシーツや枕などのを変えたり、病人に必要なことを指示し、行っていく。一方リョービンは何もできずに呆然とするだけ。ニコライは臭いや汚らしさを嫌がることなく接してくれるキティに感銘をうける。ニコライとリョービンは互いにある瞬間で優しい気持ちをもち手を握り合ってったりするが、ときに不機嫌になったりするニコライに対してどう接していいかもわからなくなったりもする。
てきぱきと動くキティを「賢い」とリョービンは思う。リョービンは死にゆく者を恐れていた。
キティとアガーフィアは死にゆく者に身体的な苦痛を和らげる以外の何かを求めていた。
リョービンもキティもニコライが死ぬことを確信していた。しかしニコライはなかなか死なない。面白いのはトルストイはこのあたりでニコライの早い死を誰もが望んでいることを率直に書いていることだ。キティは身体的にも精神的にも看病に参っていた。ニコライは痛みから周りに当たり散らすようになる。
リョービンは死を神秘として捉え、そしてニコライの死は同時にキティの妊娠へと繋がっていく。

アンナとヴロンスキーはイタリアへ駆け落ちをする。セリョージャを置いて、ヴロンスキーを選ぶ。
しかし欲望を満たすことが幸せであることとは違うことを悟っていく。これをトルストイは人間のよくやる過ちとしている。
アンナはいろいろとめんどくさい女になっていく。ペテルブルクで社交界に勝手に行ったにもかかわらず、ヴロンスキーに愛しているなら、なぜ止めてくれなかったのかと責めたりする。

オブロンスキーが連れてきたヴェスロフスキーという脇役が登場する。感じのいい青年で、ドリーやキティに色目を使ったような態度で接したりして、服装もどこか気取っていた。リョービンはヴェスロフスキーを感じのいい青年として認めるも、自分の感情が不安定になるというので、家から追い出す。

リョービンはオブロンスキーと労働について議論をする。ここではリョービンは素朴に暴利を貪る人間、利権にしがみつく人間を嫌う。オブロンスキーはかなり自由主義的な発送で、銀行でも鉄道でも事業を行う人間が居なければ発展がないだろうという考えをもつ。
この違いは、かなり現在でも引きづっている。リョービンの考えは簡単に反論できるものではある。事実リョービンは簡単にやりこめられてしまう。しかしそれに納得できないのがリョービン。
オブロンスキーはそんなに不平等を間違っているというならば、領地を農民にくれてやるべきではないかと言う。リョービンは言う、農地を農民たちにくれてやる権利はないし、そして先祖代々の土地を守っていく義務があると言う。リョービンはここでも言語化がうまくできずにいる。
「所詮二つに一つなんだ。現存の社会体制を正当なものと認めて、自分の権利を守ろうとするか、それともこのぼくがしているように、自分が不当な特権を教授しているのを認めながら、その特権を喜んで教授するしかないのさ」(386)

リョービンは子供が生まれることは神秘であるべきである考えていた。そんんなかキティは細々とした実用的な準備を進めている。それをリョービンは苦々しく思っている。キティの人為的な作業がそれを冒涜していると感じている。

ドリーはアンナに会い行く。アンナとヴロンスキーの生活は驕奢で、イギリス風の家具を取り揃えていたりと何かとってつけたような幸せなところがあった。ドリーは現実の子育てや子供たちの未来、苦しい家計などに直面しており、アンナたちのような贅沢はできない。
しかし、アンナたちの生活を目の当たりにして、その窮屈さや堅苦しいさががまんできなくなり、むしろ現実的な生活のほうが懐かしく思うようになる。
ヴロンスキーはドリーにアンナが離婚をするように説得してくれるように頼む。しかしアンナはドリーに、自分の不幸と、自分の置かれた立場がいかに絶望的かを叫ぶ。
理性があるのだから不幸な子供を産まない、それは理性的な回答かもしれなかったが、ドリーはそれを理解できず、嫌悪感も覚えた。
ドリーは子供が欲しいが経済的にも子供をもてない、しかしアンナは今の状況で子供が欲っしてはいけないという状況というふうにアンナは理解していた。
なかなか難しいところだ。

2021/02/27

『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 上』 ティモシー・スナイダー/布施由紀子訳 筑摩書房

んー凄まじい。
ポーランド、バルト地域、ベラルーシ―、ウクライナをブラッドランドと呼び、その凄まじい大量虐殺を書き出している。
1932年から1933年までスターリンの行った五ヵ年計画で工業化を目指して、集団化政策を行って、農作物を輸出して、機械類を輸入して、そしてウクライナが飢餓になって、人肉食までいく。なんなんだこの歴史は。しかもスターリンは意図して飢餓を起こしている。
フセヴァロド・バリツキーはNKVD支局長として、ウクライナの穀物収奪を正当化させていく。スターリンにはこの飢餓を民族主義者の陰謀として説明し、飢餓と処罰を組み合わせていた。
そしてこの集団化政策は階級闘争と位置づけていた。「富農(クラーク)」を抹殺することを意図していた。ではクラークとは何かと言えば、そんなものは国が勝手に決めていた。
グラーグと呼ばれる強制収容所へ農民を大規模に強制移住させ、集団化を行っていく。自由農民が奴隷農民となっていく。
飢餓はウクライナ人300万人だけでなく、ロシア人、ユダヤ人、ドイツ人、ポーランド人で30万人、そしてソヴィエト・ロシアでも150万人が死んだ。さらにカザフスタンでも飢餓が起こっており、130万にが死んでいるという。
この飢餓のによる大虐殺によってウクライナの人口動態が変わったという。しかも人口調査をした担当者を処刑までする。ひどい、、、

1937年、バリツキーはウクライナの飢餓を「ポーランド軍事組織」の陰謀にも結び付けていく。ドイツの侵攻でソ連に亡命した共産主義者はスパイとして処刑もされていく。バリツキーはウクライナで「ポーランド軍事組織」が再結成されたと主張したが、エジェフはそれをさらに誇大にしていき、モスクワ本部、そしてソ連全土にかかわる問題にしていく。そしてスターリンはバリツキーが「ポーランド軍事組織」を甘く見ていたとして免職になり、逮捕され、処刑される。なんなんだこりゃ。

ソ連はインターナショナリズムを謳っているの嘘ではなかった。だからエジェフにしろ、民族問題として取り上げていたのではなく、あくまでスパイ行為として罰せられていく。
1939年9月17日にドイツについでソ連はポーランドへ侵攻する。
そしてモロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)によってポーランドは分割される。知識人は虐殺されていく。ソ連によるカティンの森大虐殺など。
ドイツでもポーランドを「浄化」するために、ユダヤ人だけでなくポーランド人も強制移住させられ、餓死していく。ヒトラーもスターリンもポーランドの知識人階層の抹殺を意図的に行っていた。そいて従順な大衆だけを残し統治をしやすくしようとしていた。

ヒトラーもスターリンもイギリスを気にしていた。帝国主義の存在はスターリンにとっての共産主義の存在を、世界革命という目標を成り立たせてくれるものだったし、イギリスという巨大な悪の存在があるからこそヒトラーとも手を結ぶことができた。ヒトラーはイギリスを超える帝国主義国家を目指していた。
ヒトラーもスターリンもイギリスの存在から導きだした答えが、拡張主義だった。食料、鉱物を豊富に持ち、自給自足の社会を作り上げるには領土を増やすことをよしとした。
そこでヒトラーもスターリンも目につけたのがウクライナだった。そして驚くべきことに、ナチスドイツはドイツ国内の食糧問題を解決するために、ウクライナを餓死させることを計画する。大量餓死と植民地化がセットになった政策だった。
ナチスドイツは占領したソ連領で捕虜収容所をつくるが、ここで飢餓政策がなされ、カニバリズムが起こる。*ドゥラーク(一時収容)、シュラーク(下士官用)、オフラーク(士官用)
ドイツのソ連への攻撃が行われて、ソ連は報復処置としてヴォルガ川に住むドイツ人をカザフスタン以に強制移住させていく。これがナチスドイツとは違い、非常にうまくスムーズに行ったようで、スターリンが作り上げた官僚国家の効率の良さがわかる。
リトアニア、ラトヴィア、ルーマニア、などでもユダヤ人の虐殺がなされていく。
モロトフ=リッベントロップの東側では銃殺によ大量虐殺、西側ではガス殺でユダヤ人が殺されていく。

この本を読んでいると、改めて20世紀前半のヨーロッパの歴史の酷さが目につく。いたるところで虐殺が起こり、多くの場所で虐殺の碑がたつのも頷ける。どこでもかしこでも虐殺が行われている。
バビ・ヤールの虐殺で思い出したが、ショスタコーヴィチの交響曲13番がこのバビ・ヤールを題材にしている。聞いたことはないけど。

2021/02/26

『アンナ・カレーニナ』2 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

リョービンとコズヌィシェフの対比。コズヌィシェフは都会人として農民を愛し、農民を知っていると自認している。リョービンはそんなコズヌィシェフの態度を気に入らない。
リョービンにとって農民は共同の仕事の主な参加者でしかない。リョービンも農民を敬い、愛を持ち、彼らの力、つつましさ、公平さに感嘆する。しかし、農民たちのずぼらさや嘘つきっぷりにも怒っている。リョービンは農民を愛しかつ憎んでいた。
コズヌィシェフにとっての田舎生活は都会生活の正反対のものとしてあった。
コズヌィシェフはリョービンがゼムストヴァに参加せず、公共の福祉に寄与しようとしないことを非難する。教育、医療、インフラなどこれらを共同に管理、経営することの素晴らしさをコズヌィシェフは言うが、リョービンは農民に教育は必要ないし、そして医者も自分には関係のないことだと言う。
リョービンはキティに振られてから、さらに偏屈になっていく感じがあり、ドリーが子供たちにフランス語でしゃべることに欺瞞的だと思うようになっている。ドリーはその欺瞞を承知でフランス語を使用しているのだが。
トルストイはロシアの精神性について、けっこう辛辣。「わが国の農民は、経済的にも精神的にもきわめて低い発展段階にとどまっているますから」(258)とか書いているし。
とは言いつつ、リョービンはある計画を考えている。
「おれの個人的な事業ではなくて、公共の福祉に関わる問題だから。農業全体が、なによりも全農民の境遇が、一変しなくてはならない。貧困のかわりに、共同の富と満足が、反目のかわりに利害の調整と一致が必要なんだ。ひとことで言えば、無血革命を、ただし大いなる革命を起こすのだ。はじめはうちの郡の小さな範囲に過ぎないが、だんだんそれが県に、ロシアに世界全体に広がって行くのだ。そうだ、これこそ働き甲斐のある目標だ。」(277)
兄のニコラスがリョービンを訪ねてくる。リョービンは兄の死を予見する。
そこで共産主義を論じる。(292) リョービンは私有財産などを否定することではなく労働の調整を考える。そしておもしろいのがすでにトルストイは共産主義を初期のキリスト教のようなものとして述べている。兄は共産主義を合理的で未来のある運動と一定の評価を与えている。
ニコライとの対話では、リョービンはきちんとした言葉で語ることできずにいる。
リョービンはニコライと別れたあと死がつきまとう。自分の事業が地球規模から考えてちっぽけなものだと思うようになっている。(353)

カレーニンはこれまで通りの生活をすることを決意する。アンナにもその旨を手紙で知らせる。アンナはこれを受けて、さらに気がふれる。アンナは当初の魅力がなくなり、ヒステリックな女性へと変わっていった。ヴロンスキーもアンナに初めて会った時のような感覚は失せたが、それでもアンナが自分を愛していることに、愛を感じたりする。すでに引き返せないと悟っている。(312)
同僚のセルプホフスコイが昇進し、その自信を目の当たりにし、ヴロンスキーはそれでも自ら昇進を辞退したこと、そのことに焚いて自分は自由気ままな人生を送る人間と装うこと、これではまずいという本音などが書かれている。
ヴロンスキーは、ある国の皇太子に街を案内しているときに、皇太子のふるまいに自分自身の卑しさをみて嫌気がさす。
アンナとヴロンスキーは同じ夢を見る。ぼうぼうにひげを生やした小さな百姓が身をかがめて袋をごそごそといじっている夢。死の予見させる。
オブロンスキーはカレーニンと会い、晩餐に誘う。リョービン、コズヌィシェフ、キティらが一堂に会する。そこでリョービンはキティと再会し、お互い許しあい、愛を語る。
ドリーはカレーニンに離婚しないように説得するが、カレーニンはドリーが語るきれいごとに嫌気がさす。敵を愛せ、、、
カレーニンはペテルブルグでアンナの容態が悪いことを聞き、家に戻ると娘を産んだ後に産褥熱にかかる。
アンナはうなされながら、カレーニンに許しを請う。アンナはカレーニンを高潔な人物とみなす一方でそんな高潔さを憎んでいた。
カレーニンは、アンナの病状を目の当たりにして、死に直面したアンナのすべてを許すことにした。しかしアンナは回復してしまう。カレーニンの誤算。
アンナはカレーニンを恐れ、オブロンスキーはそんな夫婦関係を見て、ヴロンスキーに離婚を勧める。いったんは離婚を決意していたヴロンスキーは、アンナを許したにもかかわらず、再び離婚を決意することがなかなかできなかったが、オブロンスキーに説得され、離婚に踏み切るも、アンナは離婚をせずにヴロンスキーと一緒に国外にでる。

2021/02/22

『遠野物語 山の人生』 柳田国男 岩波文庫

「遠野物語」の良さは、やはり簡潔な文章にある。
収集した説話を無駄なものを付け加えずに残している。常民の研究が日本の精神史、宗教史をつまびらかにする。文章で残っている「古事記」「日本書紀」などだけでは日本の歴史を語れない。いまでも柳田のような研究を下品なものとして脇に追いやることがままある。とくにナショナリストによる歴史はそうだ。柳田が書くように、そういう人たちは「いつまでも高天原だけを説いているがよい」(264)

「山人考」で説かれているように、東北には神社が少ない。これは大和の支配圏がせいぜいいっても関東程度であったことで、「風土記」の編纂も常陸までしかない。
東北地方では、おそらく大和のもつ文化的宗教的侵襲を、平泉平定ごろまで拒んでいたふしがある。
とはいいつつも東北地方だけでなく、全国で常民の宗教の残滓を垣間見ることができる。「山の人生」はそれを見せてくれる。
かつては神を扱われたものが妖怪として恐れられたりする。もともと天狗や山人と集落の者たちとの交流があった。
「始めて人間が神を人のごとく想像しえた時代には、食物は今よりも遥かに大なる人生の部分を占めていた。」(253) その象徴が餅で、古来より神に餅を捧げるのは、まさに餅を供えることで神は人間の手助けをしてくれた時代があったのだ。角力も現在のような天皇を頂点とするヒエラルキーの中で行われていたわけではない。土地土地で山人と角力によって交流がなされていた説話が多く残っている。

柳田が残した説話から常民たちの宗教史なるものが浮かび上がる。この宗教というのは、仏教やキリスト教やイスラム教などのようなたいそうなものではない。
明治の三陸地震の津波の話が残っている。
「夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。……男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今この人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したり人と物いうとは思われずして、悲しくて情なくなりたれば足元をっみてありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。」(64)
よく柳田はこの話を残したと思う
このようなことは、簡単に幻覚だとか夢だとか、ウソだとかと言っていい話ではない。かなり現実的な話で、東日本大震災のあとも同様の話がいくつもある。

柳田は夏目漱石、森鴎外が作り上げた文学の流れにある。鴎外も柳田も官僚であった。彼らは国家と人間の関係を常に意識した作品となっている。それは田山花袋、芥川、太宰とは異なる系譜をつくりだしている。

2021/02/21

『「色のふしぎ」と不思議な社会――2020年代の「色覚」原論』 川端裕人 筑摩書房

んー脳内革命。
日本では先天的色覚異常が男性では5%いるという。それを「異常」としていいのか。だから日本遺伝学会では、色覚異常を「異常」とせず多型として、1%未満を変異と、概念を変えている。頻度の高いものはすでに定着しているという考え。もちろん1%には根拠はなく目安としている。
色覚異常をもっている人々への差別というのは、正直ピンとこなかった。自分自身が「正常」の範囲であるからでもあるが、かつては結婚差別まであり、現在でも職業差別がある。かつては色覚異常がある場合は理系に進むこともできなかった時代があるとは。
2014年に色覚検査の復活がなされたという。というのも、今の社会において、職業選択の際に前もって自分の色覚について知っておくことは、後で知るよりもメリットがあるからというものだ。これを日本眼科医会が推しているという。とはいえ日本眼科医会も別に差別するために色覚異常を見つけ出すことを目的にしているわけではない。あくまで個人が認知していることの重要性を説いている。
ただ、ここで問題が起きているようで、川端さんがいうように、石原表によるスクリーニングが適切なことなのかどうかということだ。
川端さんは石原表でのスクリーニングは基準を満たしていないという。
この問題は興味深くて、眼科医と色覚の研究者では、視点が異なっていることだ。

あのドットで数字を見る検査表を石原表と呼ぶとは知らなかった。しかも戦前に陸軍で作られ、世界に広まったとは。そしていまなおスクリーニングにおいて有用性があると認知されているとは。
ただし、アメリカ軍でもイギリスの民間航空会社でも、石原表ではなく、別の基準を設けて色覚検査を行い、適正を測っている。そして石原表では異常となりパイロットもしくは整備しにはなれなかったかもしれない人々が、別基準では採用がなされていく。
石原表とは何なのか。しかも感度と特異度がきちんと調査されていないという。なんだそれ。
結局、石原表でスクリーニングにひかっかても、異常ではなく正常にもなる。
問題はスクリーニングにひっかかってもその後の確定診断にいたる過程が確立されていないことだという。
ちなみに石原表には色覚異常ではないと読み取れない票があり、正常な色覚だと読めないものがあるという。もはや正常と異常が何を意味するのかがわからなくなる、そもそもアンビバレントを孕んでいるようだ。

色覚を調べるのに糞のサンプルから遺伝子のDNAを拾うというので驚く。
色覚の2型、3型などがあり、人間は3型が多数を占めるが、必ずしも3型が有利であるというわけでもない。人間がどうして2型、3型、と多様なのかもよくわかっていないようだ。
ただ2型の方が、一般的に明るさのコントラストや形状の違いに敏感で、自然界で昆虫を採取したりなどの条件では有利に働く。ただし3型は森の中で緑の背景で果実の赤を見つけ出すのが有利だったりするらしい。
ただし、こういう有利不利も経験からその差異は埋められていき均されていく。
「色の弁別」と「色の見え」は違うというのは、まったくもって納得。色覚異常であるから色の弁別ができないわけでもない。見え方が違う。ただし、それがどのように見えているかは検証する術がない。
色の見え方は、証明の明るさや波長でも異なっていく。ザ・ドレスを参照。
「色覚は健全な錯視である」
結局、異常と正常の明確な境はない。スーパーノーマルの存在が明らかなように、正常自体が人間が作り出した幻想でしかない。
色覚では、明確な線が引けない。
「軽いほど危険」というフレーズそのものに危険が潜んでいる。気づかないぐらいの色覚だと知らないうちに日常生活で不利益を被るというものだが、そもそもとして正常と異常がはっきりと区別できないことがわかっている状況で、この言説を指示できる根拠がなくなっている。

驚くべきは魚類で、多様な色覚を獲得しているようで、緑型、青型という哺乳類、霊長類がもっていない錐体オプシンをもっているとのこと。すごい。
猫を飼っているが、やつらは多様な色を見分けられないとバカにしていたが、じつはそうではなくて、猫からしてみれば色覚が2型であることで闇夜でコントラストと輪郭をはっきりさせて、生存してきたということであって、まさに多様性なのだな。


2021/02/20

『アンナ・カレーニナ』 1 トルストイ/望月哲男訳 光文社古典新訳文庫

一人ひとりの登場人物がどんな思想をもって、発言し行動しているのかがうまく描かれている。
オブロンスキーは新聞はリベラルなものを読んでいたが、彼はノンポリであくまで都市的な教養としてリベラルを装っている。そして彼は他人に対して非常に外交的で、多くの人が彼に魅了されていく。

「きみはまた人間の行動にはいつも目標があり、愛と家庭生活が常にひとつであることを願うだろうが、そうばかりではないのさ。人生がこんなにも多様で、魅力的で、美しいのも、すべて光と影の両方があるからなんだよ」(110)

オブロンスキーのこの発言なんかも、非常にバランスのいいもので、そして包容力がある。人生をどこか達観している。他の登場人物とはちょっと違った視点を提供する。

アンナの登場の描写も素晴らしい。おそらくはトルストイの恋愛経験から書かれているかと思う。ヴロンスキーがアンナをはじめて会ったときの描写、

「全身から漂っている優雅さや淑やかさのせいでもなくて、相手の人文の脇を通り抜けるときのその愛らしい表情に、なにかしら特別にやさしく暖かいものが感じられたからであった。」(156-157)

このあとの描写でもアンナは自分の優雅さや美しさを自覚している。それを武器にして社交界で生きている。素晴らしい。

結婚観がとっても面白く、恋愛結婚を旧習なものだとヴロンスキーが述べ、理性による結婚こそが幸福であることとを主張する。
アンナとカレーニンの結婚は理性による結婚の象徴であるのか。ドリーが感じるアンナとカレーニンの生活感のなさや、節度をもったお互いの不干渉など、アンナもカレーニンも理性的。
にもかかわらず、アンナもヴロンスキーも恋愛にはまっていく。

リョービンは貴族として農場を経営する。農民たちは言うことをきかない、そんなときリョービンは得体のしれない「自然の力」と戦う意欲がわいてくるらしいのだ。まさに民衆、農民などは「自然の力」なのだ。意志をもって対峙する相手となっている。
当時にすでに「田舎の解放感」が求められていたようで、オブロンスキーもリョービンを訪ねたさいに、田舎を満喫する。
しかし田舎はある意味で都市の幻想で、田舎には現実がある。そしてその現実に疎いオブロンスキーは自分の土地を、リョービンから言わせれば安い価格で手放しています。
キティはドイツに慰安のために滞在中に、ワーレニカに出会う。キティは彼女と出会い心の平安を得て、さらに滞在先でワーレニカの真似をしながら、善行を尽くそうとする。
そこに父が登場し、さらにワーレニカの義母であるシュタール夫人とのやり取りを目の当たりにすることで、キティはシュタール夫人にどこかうさん臭さを見いだし、ここでおもしろいのが父親の存在で、彼はキティに言う、

「しかしね、事前をするのなら、むしろ誰にたずねても誰もしらないという形でしたほうがいいのだよ」(576)

父の街での振舞いやシュタール夫人にたいする態度から、キティが求めていた神々しさのめっきが剥がれていく。

2021/02/14

『代議制民主主義――「民意」と「政治家」を問い直す』 待鳥聡史 中公新書

代議制民主主義を委任と説明責任で解き明かしている。まあそうだよね、この世の中分業だもの。
それよりか民主主義、共和主義、自由主義の枠でもっと書いてほしかった。
共和主義の特徴を
「「市民的徳性」が持つ政治的意義を強調したところにある。市民的特性の持ち主、すなわち他者よりも倫理的、道義的に優れており、それに基づいて社会的事柄に関して的確な判断ができる人物こそが、政治的影響力を持ち、公益あるいは公共善を追求すべきだということ」(25)
と書いている。起源をマキャヴェリと書いていることから、参考文献にあるとおりポーコックあたりがベースか。
共和主義は君主や貴族を否定しているわけではなく、徳性さえあれば別に君主でもよい、とするからで目的は公共善といったところ。
自由主義については二つに大きく分けて論じている。ロック的自由主義とマディソン的自由主義。
ロック的自由主義は経済的自由、君主から財産権の擁護。
マディソン的自由主義とは、党派間で競争させ、お互いを抑止させていくもので、エリート間での相互抑制でもあった。多様な政治勢力たちが勝ったり負けたりすることで、個々の判断が過剰でも全体として妥当に落ち着くという「多元主義」としている。
自由主義にせよ、共和主義にせよ、ブルジョワジーやエリートによる支配という見方は拭えない。しかし民主主義は「多数者の専制」でしかない。
このあたりのバランスは各国で調整しながら運営されていっている。
現在、ミャンマーの軍事クーデターが話題になっているが、ミャンマーでの民主主義とはいかなるものかを論じられていないし、さらに言えば民主主義だからいいというわけでもないのに、ああだこうだ言いすぎている。残念至極。
ということで下記、参考文献から

田中秀夫『アメリカ啓蒙の群像』名古屋大学出版会
ポーコック『マキャヴェリアン・モーメント』名古屋大学出版会

ポーコックは昔読んだけど図書館で借りたからもっていない。もう一度さらっとおさらいしたいけど、高いし、置く場所ないし、図書館で借りるしかない。
しかし蛇足ながら、待鳥さんは素晴らしい実績もあって、他の著作はよかったけど今回は微妙でしたね。なんか焦点が定まっていなくってふわっとしていた。

2021/02/13

『性の歴史IV 肉の告白』 ミシェル・フーコーフ/レデリック・グロ編/慎改康之訳 新潮社

やっぱり一回だけ読んで理解できるような代物では全くなかった。けっこう難解な内容。どう整理していいかもわからない。
この『肉の告白』がどのように現代の問題と結びつくのか、結びつけられるのかがよくわからない。内容自体は興味深いものばかりで、知的好奇心は満足できるものではある。
んーだれかこの主体性やら欲望の系譜学とやらで、現代と結びつけながら論じてくれる人はいないものか。

以下はメモ。
古代ギリシアから離れ、ようやくキリスト教における欲望の系譜学を描き出す。ここでフーコーが抽出しているのは、単純な宗教的禁欲ではない。禁欲や節慾がもつ意味となる。
まず、アレクサンドリアのクレメンスによる『訓導者』を読み解いていく。
「我々が我々の訓導者から学びつつあるキリスト教徒の生は、<ロゴス>に適う行動の一式である。<ロゴス>の教えを断固として実行すること、これがまさしく我々が信仰と呼んだものである。」
クレメンスは適切な振る舞い(カテーコンタ)はロゴスから解読する。ロドスが人間行動の正しい道徳感覚を与え、救済するとなる。
初期キリスト教において、性交や結婚、それ自体は正真正銘の悪としては扱われない。人間の子作りの行為は<天地創造>の力能を関係しており、キリストの再生、受肉にも関連付けられている。

悔い改め
「悔い改めの実践と収斂的な生の務めは、「悪をなす」ことと「真を語る」こととのあいだの諸関係を組織化し、規範の厳しさの増減よりもおそらくはるかに新しくはるかに決定的な一つの様態において、自己、悪、真に対する諸関係を束ねる。実際、問題となtっているのは、主体性の形式である。自己の自己に対する務め。自己の自己による認識。調査および言説としての自己自身の構成。自己の解放と浄め。自己の奥底にまで光をもたらし、最も深いところにある秘密を贖罪のための現出の光へと導く操作を通じて得られる救済。このとき練り上げられたのが、一つの経験形態――自己への現前の様態であると同時に自己の変容の図式であるものとしての経験形態――である。そして、経験形態こそが「肉」の問題を、徐々に自らの装置の中心に据えるようになったのだ。そして、正しい生の一般的規則に統合されるものとしての、性的関係ないしアフロディシアをめぐる規定に代わって、生の全体を貫き生に課される諸規則の基盤をなすものとしての、肉の根本的関係が現れることになるのである。」(68-69)
「悔い改めは、自己の客体化よりもむしろ、自己の現出化に結びついている。」(85)
「メタノイアはこうして、心理に知王辰しようとする魂の動きであるとともに、その動きの現出化された真理でもあるような、複雑な一つの業を構成するのである。

他者の意志に服従するのは、他者が服従を欲しているから。
従順とは、他者との関係のみならず、生存の方法である。修道士が従わなければならないのは、まさに従順に達するためとなる(172)。従順とは自己との官益の一形態であり、指導は内面化し自己が自己自身の指導者へとなっていく。指導されるものは自分の意志に代えて他なる意志を際限なく受け入れる立場におかれる。「指導は、もはや欲しないようにしようとする熱意という逆説に依拠している」(175)
なかなか興味深いのが、初期キリスト教思想において、神の力添えなしに、人間の思慮分別は不可能であるとしてることだ。頼みの綱は神の恩寵であると。
自らの行為に間違いがないかどうかの検討をしても、自己自身を欺くこともある。それを払いのけることはできない。だから告白が必要となる。
「自分の心を苛むいかなる思考も偽りの羞恥によって隠されないようにすること、そうした思考がうまれたらすぐにそれを上長に現しだすこと」(カッシアヌス『共住修道制規約』/189)

なぜ告白が検証の役割を担うのか。上長の経験が優っているから助言が適格である、というのもあるが、カッシアヌスは言語による外在化に清めの効力を認める。
告白には羞恥がともなう。
自己を検証することで、「真を語る」ことと絶えず結び、神の恩寵が作動する。神は清らかな思考のみを迎えていく。
フーコーは自己に責任があると認める行為を「法陳述」ではなく、自己自身も知らない秘密に関する「真理陳述」としている。
「清らかさは逆に、自分自身のあらゆる意志の決定的な棄却」とし、「真理陳述」は自己の棄却と結びついている。
処女・童貞性の価値。禁欲や節慾が論じられながら、「個人の自分自身との関係、つまり、個人の自分の思考、自分の魂、自分の身体とのあいだに打ち立てる関係を」定義するようになる。処女・童貞性の推奨は、姦通の禁止の延長線にあるのではなく、非対称であり、異なる本性に属するという。(211)

オリュンポスのメトディオス『饗宴』
処女・童貞性には単に節慾の重要性や困難さを言っているのではなく、霊的な意味が与えられる。
結婚には肯定的な意味が与えられている。ただし、それは処女・童貞を守ることができない弱い人々に対する譲歩としてという。
清らかさは神の賜物なのである、腐敗から人間を守ってくれるという。
「永遠」「この生を超えた世界の彼方」。プラトン的。

アレクサンドリアのクレメンス曰く、結婚は過酷な試練を受けていることになるようだ。結婚は処女・童貞と同じように道徳的価値が与えられる。結婚には多くの危険がある。
処女・童貞を選ぶことは強い人々だけであり、少数の人のためのもの。結婚はみんなのためのもの。
「処女・童貞性は、天指摘生存を開くのだ。処女童貞性は、いまだ我々とともにあり続けている人々を非腐敗と不死性にまで上昇させる。」
「似た躯体的に自発的去勢者となることは、功徳がないだけではない。そのようなことをするものは、自らの魂の処女性を自分自身で確固たるものとすることを拒絶しているゆえに、つまり行為を自分にゆるさないとしても欲望には同意しているゆえに、罪びとともなされるべきである。」(287)とバシレイオスは言う。
結婚の目的は子づくりではない。というのもこの言明は夫婦と性的関係を義務としている。(355)そうではなく姦淫を避けるために、妻をもち夫をもつ。節慾のため。
子づくりは結婚の本質ではない。というのも「神の意志がなければ、結婚がそれ自身によって大地を人々で満たすことなどできないだろう。子づくりについて言えば、神は、結婚も身体の結びつきも減ることなくそれを保証することが完全にできるだろう」(356)とクリュソストモスは言う。
「産めよ、増やせよ」は身体的な生殖活動を言うのではなく、霊的な生殖を意味する。結婚は堕罪に結び付けられる。
処女・童貞性は義務ではないが、結婚は義務であり、法であるという。(361)。情欲のエコノミーにかかわる義務。

アウグスティヌスは、教会が処女・童貞を特別視していてもキリスト教共同体に帰属するための条件として、処女、結婚、節慾を求める必要がないという。(384)一つの共同体において統一される。
アウグスティヌスとって「性的関係は、堕罪の帰結でもなければその原因でもなく、創造の御業そのものによって人間の自然本性のなかに組み入れられているのだ。性的関係は、したがって、過ちからも情欲からも解き放たれいる」(397)
「結婚は<天地創造>の一部となす。。教会は結婚を保証する。なぜなら教会を構成する霊的諸形態の一部であるから。だから結婚は善なのだ。(404)
アウグスティヌスはさらに情欲に支配された、小罪を侵す人々に過度に義務をかすべきではなく、寛容さを説く。(421)
「リビドーとは、過ち、堕罪、「不従順の報い」の原理によって性行為と総合的なやり方で結びつけられた一つの要素なのだ。この要素を明確に定め、メタ歴史におけるその出現地点を決定することによってアウグスティヌスは、性行為とそれに内在する危険とが思考される際に拠り所とされていた「痙攣性のひとかたまり」を解体するための根本的条件を立てる。彼は一つの分野領野を開くのであり、そしてそれと同時に、政敵官益を回避するかそれともそれを(多少とも自らの意志にもとづく譲歩によって)受け入れるかという二者択一とは全「別の様態において振舞いを「統治」する可能性を素描するのである」(447)
アウグスティヌスとって情欲は意志に逆らう非意志的なものではなく、意志そのものに属する非意志的なもので、情欲なしでは意志は意欲しえない、しかし恩寵があれば情欲の弱点がのぞけるという。
「情欲の「自律性」、それは、主体が自分自身の意志を欲するときの主体の法であるということ。そして主体の無力、それは、情欲の法であるということ。これが、帰責性の一般的形式――というよりもむしろ、その一般的条件――なのである。」(454)
「情欲のことを人は「罪」と呼ぶが、「ある種の言葉の綾で」そう呼ぶ」(455)
「古代世界における性行為は、「発作性のひとかたまり」として、つまり個人がそこで他者との関係の快楽のなかに沈潜し、死を模倣するに至るような、痙攣性の統一体として考えられていた。そのひとかたまりについて、それを分析することは問題とならず、それを快楽と力の全般的エコノミーのなかに置き直すことが必要とされていただけであった。そのひとかたまりが、キリスト教においては、生活規則、自らを導き他者を導くための技法、検討の技法、告白の手続きによって、また、欲望、堕罪、過ちなどに関する一般的教義によって、解体されてしまった。しかしながら、もはや快楽と関係を中心としてではなく、欲望と主体を中心として、一体性が組み立て直された。その一体性は、回折がのこるようなやり方で、そしてそこで分析が可能となるようなやり方で組み立て直された。理論や思弁の形態のもとで、そしてまた他者もしくは自己自身による個別的検討という実践的形態のもとで、分析が可能となる。そしてそれらの形態のもとで、分析は、ただ単に[推奨される]だけでなく、義務とされるのだ。このようにして、発作性の快楽のエコノミーを中心とするのではなく、情欲の主体の分析論と呼びうるようなものを中心とする組み立て直しがなされた。そこでは、性、真理、法権利が、我々の文化が緩めるどころかむしろ強固な絆によって結びつけられているのである。」(474)