2019/03/31

J.S. Bach, Matthäus-Passion, Michel Corboz, Ensemble Vocal & Orchestre De Chambre De Lausanne, Erato, REL-10~12(NUM75056-58)/バッハ マタイ受難曲 ミッシェル・コルボ ローザンヌ室内管弦楽団、合唱団



J.S. Bach
Matthäus-Passion
Michel Corboz
Garet Marshall
Carolny WatkinsonKurt Equiluz
Gerhard Faulstich
Anthony Rolee-Jonson
Philippe Huttenlocher
Ensemble Vocal & Orchestre De Chambre De Lausanne
Erato
REL-10~12(NUM75056-58)

ミシェル・コルボによる「マタイ受難曲」。躍動感と色彩に富んだ演奏。リヒターの「マタイ受難曲」は僕にとっては好きな演奏の部類には入らない。これは、初めて聴いたのが二回目の録音で、しかもかなりステレオ感をだしてしまっているミキシングで、聴くに耐えなかったというのもあるかもしれない。二回目の録音のものは左右に音が別れすぎてしまっていた。おそらく「マタイ受難曲」は編成が二組で演奏されることもあり、その効果を出したかったのかと思うがやりすぎたと思う。ただ一回目の録音もその後聴いているが、やはり気に入らなかった。あまりに荘厳すぎだ。
リヒターの演奏は、バッハの音楽から可能性を削ぎとってしまう何かがある。それは、なんというか、これこそがバッハである、というような圧力で、それは堅苦しい。
コルボの演奏は明るい。冒頭からテンポは早く、リヒターの厳粛さなど微塵もない。淡々と曲は進んでいく。ソリストはヴィブラートと存分に効かせて歌う。
本当ならば、もっとコルボの「マタイ受難曲」については書きたいことがあるのだけれど、どうもまだ煮詰まっていないから、いずれもっと詳しく書きたいところ。とりあえずは、購入後の一回目を聴いた感じでは、一言、感動でした。音楽の美しさが鮮やかにイエスの受難劇に色彩を与えている。そしてコルボのテンポの速さが、この曲を軽やかにして私たちにより身近な音楽にしてくれている。

2019/03/30

北方謙三版『水滸伝一 曙光の章』3

「地暴の星」「天微の星」「地囚の星」「地霊の星」まで

魯智深は王進に会いに行く途中で、鮑旭という盗賊に出会う。鮑旭は生まれてから、盗みと殺しをしながら生きてきた。魯智深は彼に何かを感じ、王進に武術と教育を教えてもらえるように頼む。王進は快諾する。鮑旭は初めて人間のぬくもりを感じる。
王進のもとを去ったあと、魯智深は武松に会いに京兆府に行く。そこで晁蓋と阮小五と偶然会い、武松を含めて酒席となる。武松は蜂起への長い道のりのなかで、鬱屈し始める。いつはじめるのかと。
史進は父子礼が死んだ後、家督を次ぐがみずからを保正の役割ではないと考えていた。また、史進は自分の力を使う道筋がなく鬱々としていた。そして魯智深があらわれ客のもてなしをうける。そんななか盗賊が史家村を通りたいとあらわれた。朱武、陳達、楊春の3人を首領にいただき、役所を襲うという。史進は陳達と一騎打ちとなり捕縛する。その後、朱武と楊春があらわれ、陳達を解放してほしいと懇願する。史進は彼等との対話のなかで自らの進む道をぼんやりと認識しはじめる。史進は陳達を解放し、彼等と交友をもつようになる。魯智深は史進と別れ、朱武に会いに行く。そこで朱武に史家村を役所が襲わせることを伝える。そのことで史進が自由になると考えた。
梁山湖で店をかまえている朱貴は、梁山湖の首領の王倫と科挙をうけたときからの知り合いで、王倫と朱貴は試験に失敗し、王倫は世の中の不条理に怒り、政府の荷物などを盗む盗賊になるが、時がたつうちに役人の荷物ではなく商人を襲うようになる。そんな王倫に朱貴は幻滅し始めている。
宋江は梁山湖を手に入れるために、朱貴を引きこもうと考えている。宋江はわざとらしく呉用に官僚批判をさせるなどして、朱貴の心を揺らす。
盧俊義は塩の道を完成させるべく、忙しく動いている。しかし、通行書を用意するのに苦心する。花栄はそこで自分の軍で密輸することを提案する。しかし何度も使える手ではないこともあり、花栄はバレれば逃亡することを決心する。
安全道を逃亡させる任務を受けている林冲は、滄州の牢にいる。林冲は安全道のために過酷な木材の伐採をしながら薬草を採取する。安全道はどこか王進に似ているところがあると林冲は思う。安全道は医のために生きる人間だった。そんな安全道に友と呼べる盗人白勝が病気になる。安全道は白勝と滄州の牢に入る前から共に知り合いで、共に生きてきた。安全道は林冲に頼み白勝を診たいという。すると白勝は腸の病になっているという。林冲は高俅からの刺客を殺したため、急遽脱獄することとなる。そんななか白勝はすぐにでも手術が必要だと安全道はいう。手術のために安全道は脱獄を決意する。
無事に安全道を脱獄させた林冲は安全道をともなって宋江のもとへ帰る。
宋江が述べてきた言行禄を多くの人に読んでもらうように木版印刷して配ることにする。その表題を「替天行道」天に替わって道を行う、とした。武松は何かを思い詰めているようで盧俊義は一度田舎に返すことにした。いずれまた戻ってくることを期待して。

もう十年以上前に赤木智弘が「希望は戦争」という言葉で、一悶着あったが、そんなに目くじら立てて批判することでもないと当時は思っていた。実際、アニメ、漫画、小説では戦争ものが多く、そこでは戦争のロマンが語られている。赤木さんが「希望は戦争」といったとき、多くの人がそれに共感した。批判者は戦争は悲惨であることを述べるが、そんなことは問題ではない。そんな悲惨な場にも自分を置きたいという気持ちなどもあるのだから。赤木さんは、戦争のロマンを語ったわけではないが、多くの人間がもつ戦争への甘い誘惑といいうのがある。
この水滸伝でも、晁蓋は単なる世直しを目指しているのではなくて乱世を希望しているとこもあるように描かれている。
まあ、単純にロマンを語るとよろしくないので、乱世を望みながら世の安寧も同時に願うのが大事。人間というのは不合理な生き物であることで。
とりあえずこれで一巻目終了。

2019/03/27

途中で読むのをやめた本。もしくは超斜め読みした本。

ここ数ヶ月のあいだ、手にとってみたが途中で読むのをやめた本がいくつかある。思っていたものとは違う内容であったり、興味が途中でうせたり、つまらなかったり、といろいろ理由がある。古典とかだと根性で読むのだけれど。

『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ ソルニット 東辻賢治郎訳 左右社
読みはじめて、すぐにこれは違うと思った。たぶんおもしろい内容なのかもしれないが、ぜんぜん読み進められなかった。最初の20ページ読んだか読まないかで、もういいやとなる。「歩くこと」を思想史のなかに位置づけ、現代的な意味を探るというのはおもしろいそうなのだが、文章が……。翻訳がダメとは思わない。書いている内容がちょっと詩的・文学的すぎて、僕のような根っからの散文男にはついていけなかった。内容はいいのかもしれない。でも、読み進められないのでは仕方がない。

『系統体系学の世界 生物学の哲学とたどった道のり』三中信宏 勁草書房
これは単純に難解だった。背景知識が足りないなか、書き方が不親切なためか、ひとつひつの概念がさっぱり。大文字で「系統体系学」と書かれているから、生物学における系統樹の考え方を知ることができるのかと思いきや学説史だった。

『音楽嗜好症(ミュージコフィリア) 脳神経科医と音楽に惹かれた人々』 オリヴァー・サックス 早川書房
かなり流し読みとなる。いろいろな症例を記述しているだけな感じ。4分の1ぐらいまで読むがつまらない。

『猫的感覚 動物行動学が教えるネコの心理』 ジョン・ブラッドショー 早川書房
とりあえず流し読みはした。ネコの起源については勉強になった。でも、あんまり興味がわかなかった。もっとにゃんこの生態学的な話がほしかった。流して1時間で無理やり読了。

『精霊の王』 中沢新一 講談社学術文庫
中沢新一は、けっこう人気あるけど、僕はむかしから何がおもしろいのかよくわからかった。「カイエ・ソバージュ」シリーズや『チベットのモーツァルト』とかもぜんぜんだった。テーマはおもしろいんだけど。やっぱりあうあわないがあるんだなぁ。『精霊の王』は、古本屋で見つけて、やっぱりおもしろそうだから、今度こそはいけるのではと思ったが、ダメだった。「しゃくじ」とか「胞衣」とかから古層を探る試みのようなのだが、おもしろいと思うのだが、しんどかった。半分も読めず。

『ブラインドサイト』ピーター ワッツ 嶋田 洋一訳 創元SF文庫
上巻の3分の2まで読むが、吸血鬼ってなによとなる。SFでもファンタジーでも読み進めていく中で世界観とか人間関係とかキャラ設定とか理解できるものなんだけど、よくわからなかった。話もぜんぜん進まなかったし。下巻でおもしろくなったのかもしれないが、もういいや。

『先史学者プラトン』メアリー・セットガスト 山本貴光 吉川浩満 訳 朝日出版

これは、プラトンの著作から先歴史時代を解き明かす試み。これはとっても刺激的な論考なのかもしれないと思った。とりあえず流して最後まで読んだが、考古学の知識がなく半分も理解できなかった。まず地理が頭にないし、古代都市の名前も初めて聞くものが多くって。原書は30年前に出版されたもので、あれから30年的なことが解説とかで書かれていないのはマイナスポイント。

『増補 日蓮入門 現世を撃つ思想』末木文美士 ちくま学芸文庫
Wikipedia以上のものは得られない。もともと新書で出版されたものが文庫落ち。新書って入門書みたいな扱いになっているが、僕の経験上、入門書となってくれた新書は一冊もない。しんどくても専門書を読んだほうが絶対に知識を得られる。本書も、日蓮の生涯をあまりにも簡潔におさらいして、あまりにも簡潔に思想を紹介する。こんなんで一般人は日蓮を理解できるのかと疑問に思う。途中でWikipediaのほうがためになると思って、ブックオフ行きのダンボールへ。

2019/03/26

レコードとCDの音質について/J.S. Bach, 6 Partitas BWV 825-BWV830, András Schiff/バッハ 6つのパルティータBWV825−BWV830 アンドラーシュ・シフ



J.S. Bach
6 Partitas BWV 825-BWV830
András Schiff 
London Records, L56C-1814/5, 1983

CDでも持っているが、レコードでどうしても聴きたくて買ってしまった。
アンドラーシュ・シフのパルティータがすばらしいのは知っているのだが、レコードで聴くとやはり印象も異なる。レコードの音はどこか色っぽい。
「音がいい」という時、何を意味しているのか。僕らは「音がいい」というとノイズがなかったり、クリアであったりといった意味で使うことが多い。でも「音がいい」というのは、まず誰にとってなのか。それは人間にとってだ。
材料工学では純度がいいからものづくりで最適であるとはかぎらない。ものをつくる際にはいろいろな工程が入る。切削、折り曲げ、研磨などなど。金属学としては純度が高ければ高いほど品質が良いと考えられる。しかし、ものづくりの際にはわけがちょっとばかし違う。もちろん分野にもよるが、若干の不純物が入ることで、切削性が向上したり、耐熱性が向上したり、まあいろいろと特性が異なってくる。そこで問題なのが「品質がいい」というのは何を意味するのかだ。この言葉は工場の現場では非常に多義的となる。
ちょっといた不純物が、ものづくりの際に人間側に寄り添ってくることがよくある。ものをつくる人間にとって作りやすい素材であったり、ちょうどいい特性であったりと、それはあくまで人間にとって「いい」のだ。しかもここで重要なのが、その理由をはっきりと述べることができないということなのだ。材料の生産工場が異なるだけで、スペックは同じでもなぜか同じ特性がでなかったりと、わけのわからないことになることもある。「品質がいい」と「使える/最適」は違う。
「音がいい」という場合も同じで、オーディオをやっているといろいろなデータをみて客観的に音質を語ることがある程度できる。しかし決定的なところは神秘になる。
CDはとってもクリアな音をだす。しかしなぜか色っぽくない。プラセボだとしても、実際聴き比べると違うのだから仕方がない。レコードを愛するひとはレコードの音質の良さを実感している。もうこれは理屈ではないわけで。レコードは材料工学と同じで、純度が高ければいいという話ではない。不純物が若干入ることで人間の耳に寄りそう音が実現される。
レコードを聴いているというと、たまに「CDとの音質の差はわからない論争」に巻き込まれるが、もううんざりで、実際もしかしたらわからないかもしれない。でも、なんでもそうなんだが、人間の感性というのはなかなか複雑にできていて、同じもので環境が違えば、違うものになることはよくあること。回転寿司とカウンターの寿司で同じクオリティを提供されてもカウンターのほうがおいしいわけで、というのもそれは味だけでなく雰囲気も一緒に味わっているから。感性というのはそういうものでしょう。
人間は論理的な生き物ではない。「戦争はいけません」という言葉は誰がしゃべるかで重みが違う。僕みたいな若造がこの言葉をいうと「サヨク」になるけど、九十歳の老人がしゃべるといっきに言葉に重みが増す。同じ言葉でも喋る人が違えば、言葉の風景も異なる。そういうのを読み取るのが人間の感性なんだろう。
こういうことを理解しない人が、上記のようなくだらない論争をふっかけてくる。そしてなんちゃって理系をかじっている輩ほど数値を問題にしてくる。じっさいの実験現場や工場ではいろいろと「神秘」があるんだけどね。
最終的にはオーディオは科学ではなく神学に近いと極言してもいいと思うようになってきた。だからなんだというのか、と。

2019/03/25

"Leaving Time" Jodi Picoult(ジョディー・ピコー), Ballantine Books

久しぶりにジョディ・ピコーの小説を読む。最後はどんでん返しで、ラストではジェナはじつはすでに死んでいたというオチ。で、なぜジェナは死んでいる必要があったのか。このあたりがしっくりこなかったかな。
ピコ―の小説はアイデンティティがよく問題になっている。本書では出生の秘密がテーマ。"Nineteen Minutes"とかは、スクールシューティングをテーマにして、そこに若者のアイデンティティなんかを絡めていて、なかなかアクチュアルな内容だったからよかった。アメリカの高校生もモテる奴、モテない奴がいて、スクールカーストがあって、どこも一緒だなーと思ったものだ。そんななか主人公が見せたラストの行動はなかなかよかった。家族や友人というものを顧みさせる何かがあった。
けど、今回のはまあおもしろい小説ではあるのだけれど、ジェナが幽霊である必然性というか、どんでん返しの意味が、結局読者を驚かす程度の意味しか見いだせなかったし、アメリカ社会の闇的なものもあまりなくて、ちょっと肩すかしだった。
それにゾウが今回の主要な読解上のカギとなると思うのだが、ゾウと出生の秘密にどんな関係性があるのかもよくわからなかった。
英文だったし、僕の読みが浅くなってしまったかもしれない。
ピコーさんは、超能力だとか霊能力とかを小説によく盛り込んでいて、今回も霊能力者が主要な登場人物ででてきている。
ピコーの小説のわりには、原書で読んでも、読みやすかったと思う。"Nineteen Minutes"とか"Sing You Home"とか結構アメリカのちょっとした文化とかを知っていないとわからない文章がでてきたりして苦心した。
本書を読んでよかったのは、無駄にゾウについて興味が湧いてしまったこと。

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2019/03/24

北方謙三版『水滸伝一 曙光の章』2

「天罪の星」「天雄の星」まで
魯智深は、闇の塩を運ぶ阮小五と会う。阮小五は盧俊義のもとで闇の塩を船で運ぶルートの開発をしていた。阮小五は盧俊義からじつはかの坊主は将来同士となる者であることを聞く。
宋江、晁蓋が梁山湖の近くの山上にて、相まみえることとなる。魯智深、晁蓋を一目見、これこそ英雄と心から思う。多くを語らず、まずは決意表明として共に政府と戦う意志を確認し合う。
林冲は地下牢からだされることになる。李富が再度尋問をするが口を割らず。高俅が尋問の場にあらわれ李富とのやり取りをみると、李富は高俅の手下ではなく蔡京の部下であることがわかる。高俅は李富を煙たがっている様子。李富は林冲をまだ何かに使えると判断し、滄州へ流刑となる。
その途中で、魯智深があらわれて、滄州の牢から安道全という医師を連れて脱獄することを打診する。滄州が近くなると魯智深は王進のその後を見るためにも一度別れ、柴進が我が家に招きたいと、林冲の護送役人に言う。賄賂をわたし許可がおりる。そこで語りあう。

まだこれといって話が進んでいないから、書くこともそれほどない。が、この小説、宋の時代を舞台にしているが、宋のことを「政府」というふうに書いている。この単語が出るたびに、にやついてしまう。ふつう時代小説や歴史小説を書く際、台詞で現代の単語は極力ださないものだが、臆面もなく「政府」という単語を使う。さすがは北方さん。
また、李富がなかなかいいキャラクターとなる予感。密偵やら謀やらでどこか陰惨な面が当初はありそうだったが、林冲との対面で少し見せた、改革者としての面が今後どう展開していくのだろうか。林冲に、男だな、お前のような男だからこそ政府から離れていく、と述べたあたり。これは林冲を懐柔するための発言だったのか、それとも本音だったのか。

2019/03/23

北方謙三版『水滸伝一 曙光の章』1

「天罡の星」「天孤の星」まで。
禁軍武術師範の王進は、軍の改革を上申するが聞き入れられずにいた。謀反を企てているとされ、同僚であり友である林冲の手引で母と共に開封府を逃げる。その途中、休みなく逃げていたため高齢の母の具合が悪くなり、史礼の家で厄介になる。史礼の息子史進(九紋竜)に王進は自らが持つ武術すべてを教授することを決心する。
一方、林冲は魯智深と会っていうことを李富に目をつけられて捕えられ、拷問を受ける。
宋江は林冲が囚われていることを知り、魯智深から逃げるように言われるが、大義をなすために林冲を信じると言う。
また魯智深は宋との戦いの備えて金を調達するために、闇で塩を販売している盧俊義と面会をする。
宋江は魯智深を連れて梁山湖に行き、ここを山賊から奪い拠点にし政府と戦う意志を話す。
王進は史進に教えられる全てを教え、王進の母は史進に礼儀を教えた。そして王進は延安府へと向かう。

まだまだ最初の最初だけど、やっぱり読ませる。ページ・ターナーですよ。

2019/03/22

『睡蓮 花妖譚六』司馬遼太郎短篇全集一

睡蓮 花妖譚六

役行者、役の小角の話。
「人間なんて、どこまで行っても芸のないばかげた存在だ。おれはこんなばかげた存在から、どうあっても脱出せねばならぬ。死ぬんじゃない。生きて、脱出する」174
不二の麓にある沼沢で水をすくおうとしたとき、睡蓮を見つける。放心したように睡蓮と戯れ時間を忘れる。美しいものへ放心できるこころを得、悟る。大峯、雲上で広がる山々は蓮のごとく、自らもその蓮の上で座れば、そこはまさに浄土となる。
この短篇は、短いにも関わらず役の小角の生涯が凝縮されていて見事。文章が非常に透明感と寂寞とした感をもっているため、自然と役の小角の修行者としての一途さと孤独が読みとれる。
とんびのように空を飛びたかったという司馬さんの創作?がちょっと入ることで、役の小角がとても身近な存在となっている。

2019/03/21

『匂い沼 花妖譚五』司馬遼太郎短篇全集一

匂い沼 花妖譚五

科挙の試験に十数年挑み続けてきた子青は、花の匂いに誘われて艶めかしい美しい女性をみる。子青は女の肉体に溺れていくが、女性は一方的に去っていき、悲しみの果てに沼に身を投げる。寝台には沈丁花が咲いていた。それ以来、書生のあいだで沈丁花は忌み花とされるようになったという。
司馬さんは何をもとにして書かれているのか気になるがよくわからない。これもまあまあまあといったところ。

2019/03/19

Johann Sebastian Bach, Clavier-Übung 2. Teil, Harmonia Mundi, HM30 868 K/バッハ クラヴィーア練習曲集2 フランス風序曲 イタリア協奏曲 プレリュード、フーガとアレグロ、グスタフ・レオンハルト



Johann Sebastian Bach,
Clavier-Übung 2. Teil
Partita h-moll BWV831
Italienisches Konzert F-dur BWV971
Praeludium, Fuge und Allegro Es-dur BWV998
Gustav Leonhardt
Harmonia Mundi, HM30 868 K, 1968

ハルモニア・ムンディ、レオンハルトによるクラヴィーア練習曲集の2枚目。フランス風序曲、イタリア協奏曲が練習曲第二巻として収録されていて、カップリングで「プレリュード、フーガとアレグロ」が収録されている。
イタリア協奏曲は息もつかせない音の構造物といった感じで、ピアノではこうはいかない。チェンバロだからこそのもの。チェンバロでの演奏はピアノとは全く異なるもので、バッハの音楽が大聖堂のような建築物のような様相。
3枚目はまだ手に入れていないが、パルティータ4番、トッカータト短調BVW914、そして何より「音楽の捧げもの」の3声と5声のリチェルカーレが収録されており、どっかで見つからないかなー。

2019/03/18

『烏江の月 謡曲「項羽」より 花妖譚四』司馬遼太郎短篇全集一

烏江の月 謡曲「項羽」より 花妖譚四

謡曲なんて聞いたことないから比較できないけど、まあこの項羽の話は英雄譚としてよくできている。司馬さんの『項羽と劉邦』では、最後の四面楚歌の場面など哀切をきわめたものだった。今回の花は芥子こと虞美人草。ひなげしの花は、血を吸ったかのように真っ赤な花を咲かせる。それは虞美人の血を吸っているからという伝説を題材にしている。まあまあな出来。ただし特筆すべきとこもなし。

2019/03/17

Beethoven Sonata No. 30 in E Major, Opus 109/ Sonata No. 31 in A Major, Opus 110 Egon Petri, piano CONCORD 3002/ベートーヴェン ピアノ・ソナタ30番 31番 エゴン・ペトリ



Beethoven
Sonata No. 30 in E Major, Opus 109
Sonata No. 31 in A Major, Opus 110
Egon Petri, piano
CONCORD 3002, USA, 1956

このレーベルを知らない。CONCORD RECORDという会社でニューヨークの住所がジャケットに書かれている。Wikipediaで見るとカルフォルニアの会社だし、70年代に設立だし。Wikipediaでペトリを見てみるとカルフォルニアのバークリーで亡くなっている。CONCORD RECORDのサイトを見るとクラシックも出していることがわかった。ネットで今回購入したレコードについて、DISCOGtかで調べたけど、よくわからない。面倒になったから、調べるのを放棄することにした。いずれわかる時が来るもので。
エゴン・ペトリは1881年生まれというから、レコーディングはSP時代で、それをLPにしたのか。そのあたりがよくわからない。
音質はよくないが、十分に歴史を教えてくれる。かなりうろ覚えだが、音楽評論家のハロルド・ショーンバーグという人が『ピアノ音楽の巨匠たち』(シンコーミュージック)という本のなかで、ペトリをとても賞賛していた。すこし彼の左手はずれてピアノを演奏しているようで、それが彼特有のロマンティシズムを生みだすとかなんとかいっていた。今回のレコードを聴いたところで、そのズレがわかるわけでもないが。
31番の第三楽章のフーガがとてもいい。立体的で力強い。先のショーンバーグの言葉の影響か、左手の低音部に耳がいってしまうが、低音部をよく響かせているのがわかる。だから重厚な演奏になっている。30番も第三楽章の変奏曲なんかロマンティシズムあふれる名演と思う。
ペトリは鍵盤をしっかりと弾いている感じで、ずっしりと重い演奏になっている。もっと録音状態がよければよかった。1930年代〜50年代ぐらいの演奏家の録音をたまに聴くと、当時の演奏がいかに自由で、そして大胆であったかがわかる。現代の演奏はどこか型にはまりすぎている印象も否めないと思う。現代人は自分たちが昔よりも自由であると考えているかもしれないが、実はそれほど自由を謳歌しているわけでもなく、けっこう不自由だと思われる。社会的規範が内面化しすぎているようだ。まあ窮屈なのは昔も今も変わらないか。

2019/03/16

Mozart Klavierkonzerte A-Dur KV488 und C-Moll KV 491 Wilhelm Kempff, Bamberger Symphoniker Dirigent: Ferdinand Leitner, Deutsche Grammophon, SLPM 138645/モーツァルト ピアノ協奏曲第23番 24番、ヴィルヘルム・ケンプ フェルディナンド・ライトナー バンベルク交響楽団



Wolfgang Amadeus Mozart
Klavierkonzerte A-Dur KV488 und C-Moll KV 491
Wilhelm Kempff, piano
Bamberger Symphoniker
Dirigent: Ferdinand Leitner
Deutsche Grammophon, SLPM 138645, 1960

ヴィルヘルム・ケンプによるモーツァルト、ピアノ協奏曲23番と24番。
やはりK488でしょう。ケンプのピアノはここでも優しい。グルダのような奔放さはなく、モーツァルトらしさといえばグルダのほうがあるのだけれど、ケンプの場合、ベートーヴェンでもそうだが、もはやケンプのピアノを愉しむということそのものになっている。
たしかにグルダでも誰でもその人の演奏を愉しむものなんだけれど。多くのピアニストを聴くとき、やはりどうしても作曲家が先に立っていてる。ケンプの場合、もはやケンプを聴きたくて聴く。
第一楽章なんか、ほんとうに心が癒やされるわ。第二楽章では訥々とピアノで語りかけてくる感じで心にしみるわ。そしてこの曲の花である第三楽章、ある晴れた春のお昼って感じだわ。澄みわたった青空に駆けぬける風のようだよ。谷川俊太郎の詩にでてきそうな、あの感じ。

僕は短調のモーツァルトは基本的に好きではない。24番はベートーヴェン的とか評されるけど、それじゃまるでベートーヴェンのほうがモーツァルトより優れているようではないか。中二病的作曲家とモーツァルトを一緒にしないでもらいたいよ。
とりあえず、通して聴いてみたけど、やはりあまり好きになれない。まあいずれ理解できる日が来るのを待とうかと思う。

2019/03/15

Mozart, Piano Concertos KV488 & 537, Friedrich Gulda, Nikolaus Harnoncourt, Concertgebouw Orchestra TELDEC, LC3706/モーツァルト ピアノ協奏曲第23番、26番「戴冠式」 フリードリッヒ・グルダ ニコラウス・アーノンクール コンセルトヘボウ


Wolfgang Amadeus Mozart
Klavierkonzerte/
Piano Concertos KV488 & 537 "Kronungskonzert" "Coronation"
Friedrich Gulda
Nikolaus Harnoncourt
Concertgebouw Orchestra
TELDEC, LC3706, 6.42970

デジタル録音かつDMMというカッティング方法を取り入れているレコード。音質は素晴らし。
演奏もすばらしい。23番はグルダの自由さがあまり効かないぐらいかっちり作られているから、あまりグルダらしさがないかもしれないが、それでも軽やかだし。アーノンクールはいつもの奇抜さもなりを潜めているが、それでも躍動感ある。なんといっても第三楽章がよくて、ピアノとオーケストラのかけあいが心地よく、疾走している。息もつかせないピアノとオーケストラの応酬が心の曇りを吹き飛ばすかのよう。
ただ期待していなかった「戴冠式」もよくて、これまでモーツァルトのピアノ協奏曲のなかではあまり好きではなかったけれど、はじめていいと思った。それでもやっぱりあまり好きになれない曲。何が気に入らないかというと、長すぎる第一楽章、転調もなくただただ明るいだけ。第三楽章も中途半端な感じがする。ただアーノンクールのおかげか第三楽章はこれまで聴いてきた「戴冠式」とは印象がかなり異なっていて、尖った感じがしてよかった。
もっと聴き込めば好きになるかなぁ。
それにしてもこのジャケットのセンスのなさはなんなんだ。どうしてこの写真を選んだんだろう。とてもほほえましい。


2019/03/13

『黒色の牡丹 花妖譚三』司馬遼太郎短篇全集一

黒色の牡丹 花妖譚三

「聊齋志異」の作者蒲松齢を扱っている。花の精が美女に变化し蒲松齢と交わる。そしてぽっくり蒲松齢は死ぬという話。
まあまあまあといったかんじ。
この「花妖譚」という一連の短篇は、ちょっとねらいすぎている感じする。

2019/03/09

『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』河合香織 文藝春秋

ノンフィクションとしては駄作。あまりにも表層的すぎる。
しかしこの裁判は胸糞が悪いもので、本のかなでアメリカなら勝訴していたとかいう弁護士の言葉があるが、こんな裁判自体ありえない。母親の訴訟を起こした理由に、医師が生まれた子に謝ってくれなかったからだという。といっても本書では、訴訟を起こした理由は混乱している。医者と患者との非対称性が生み出した訴訟であるけれど、ホントに必要な訴訟だったのかな。
生まれた子供が障害を持っていて、生後間もなく苦しんで死んだ、それでそんな子供を産ませた医者を訴えるってそんなのありなのか。生まれるべきではない障害を持った子が生まれ、苦しんでしまった、それを医者のせいにできるのか。その後の母親の様子で障害児をかわいく思えるようになったとか心境の変化があったようだが、いやいや、そんなの免罪符にならない。母親は医者の態度が急に変わって、息子が死んだとき謝りもしなかったから訴えたといっているが、まあ引き金はそんなところなのだろう。誤診による予期せぬダウン症の出産と合併症による死を目の当たりにして、感情の行き先をどこかに求めるものなのかもしれない。
この出生前診断でダウン症と分かった場合、多くが中絶する。とういうよりもダウン症ならば中絶することを考えている人が出生前診断を行うということか。理由はダウン症児を育て養っていくことができるのかが不安だからだ。もしかしたら親よりも長生きをする。そんなとき誰がわが子の面倒を見てくれるのか。他にも体裁もあるだろう。人は障害者を悪いと思いながらも奇異な目でみてしまう。そんな気持ちを親は知っているのだ。だって自分もそうだから。だから中絶する。
著者は、誰も責めないし中立にたった書き方をしている。僕はそれは無責任だと思う。人それぞれ考え方は違うからって、それぞれ尊重する必要もない。
まあ、ノンフィクションでもあり、実際この両親と医者との間で何が起こっていたのかを本当のことはわからないが、ノンフィクションの通りであれば、僕はこの母親に批判的だ。

2019/03/08

『その女アレックス』 ピエール・ルメートル 文春文庫

なぜこの小説が流行ったのか、まったく理解できない。
なぜアレックスは、フィエットとという拷問を受けたのか。その理由がどこかに書いてあるのかとおもったらない。フィエットである必要はあったのか。苦しめるなら他の方法でもいいと思う。
おそらくは陰惨な描写がこの小説の売りなのかもしれないが、残念ながら、それほどでもなかった。拷問シーンでなかなかよかったのは『犬の力』かなと思う。
このフィエットという拷問方法が新奇と読者に感じられるところまではいい。ただ、なぜフィエットなんだよ、このやろー。
それとどんでん返しという売りなのだが、ただのご都合主義でしかない。アレックスの計画はカミーユ刑事だから偶然成功したけど、そんなあやうい計画をしてアレックスの用意周到さをアピールするのもなんだか。
まあ数年前に「このミス」で一位だったから、古本屋で見つけて買った。こういう駄作を一位にしていると「このミス」の信用もなくなるだろう。まあもうないかもしれないけど。

2019/03/07

『チューリップ城主 花妖譚二』司馬遼太郎短篇全集

チューリップ城主 花妖譚二

戦国時代にチューリップが日本に来ていたのではないか、という妄想を小説にしている。司馬さんらしい着想だが、「妖」というほどではない。別所長治という播磨三木の城主は南蛮趣味があったらしい。信長に誇りのためにたてついて、最後に自害した。その遺体のそばで咲いた花は百合とも蘭ともいえない南蛮の花であったという。

2019/03/06

François Couperin, Trois Leçons Des Ténèbres, Laurence Boulay Erato, REM-1010-RE/MONO/フランソワ・クープラン 「ルソン・ド・テネブル」 ローレンス・ブーレイ




François Couperin
Trois Leçons Des Ténèbres
Deux Motets
Nadine Sautereau, Soprano
Jeanine Collard, Contralto
Huguette Fernandez et Marie-Claire Bisson, Violin
Marie-Anne Mocquot; Viole de Gambe
Noëlie Pierront a l'orue Gonzalez
Derection et Realisation; Laurence Boulay
Erato, REM-1010-RE/MONO

クープラン
聖水曜日のための三つのの夜課(ルソン・ド・テネブル)*このレコードは日本版で解説には「朝課」ではなかった。「夜課」となっている。
モテット「聞け、なべての人」
復活祭の日のためのモテット

すばらしいとしか言いようがない。録音技師はアンドレ・シャルラン。時期は1954年。ヴァンヴの聖パティルド修道会の聖堂にて録音。この盤は再発盤。どうもこの録音が、「ルソン・ド・テネブル」の最初の全曲録音のようだ。録音もいい。オルガンが少し遠くに聞こえるとこなんかは、空間の臨場感をだせている。オルガンのベース音なんか、本当に聖堂にいるかのように低く響かせている。
ローレンス・ブーレイは知らなかった。フランスの音楽学者。クープランのクラヴサン全曲の録音もある。フランス・バロックの復興に力をいれてきた方のようだ。

ソロは、ホグウッド版のネルソンやカークビーとはぜんぜん違う。ビブラートを効かせていて、力強く、いくぶん耽美的。第三テネブル、ソプラノとアルトの二重唱が恐ろしいほど美しい。なんか妖しい雰囲気がただよっている。
モテット「聞け、なべての人」。ヴァイオリンの通奏低音とソプラノというシンプルな曲。もう一つのモテットもいい曲。
最初から最後まで名盤中の名盤と断言できる。


ヨーロッパはいけすかないところだけど、やはり文化を非常に大事にしている。300年前フランスで作曲された宗教音楽を東アジアの片田舎で聴いている。べつにフランス人が宣伝したわけでもない。ただ僕が中古レコード店でたまたま見つけて買っただけ。でも文化ってそんな感じで広まっていくんだと思う。クールジャパンなんてやめればいいのに。アニメ文化だって、いまさら国がでてきて宣伝することが気にいらない。日陰でこそこそ楽しんでいた日々が懐かしい。

2019/03/05

J. S. Bach Three Keyboard Concertos, In D Minor BWV1052, In A Major BWV1055, In F Minor BWV1056 Andras Schiff, DENON, OX-7182-ND/バッハ チェンバロ協奏曲BWV1052、BWV1055、BWV1056 アンドラーシュ・シフ 



J. S. Bach

Three Keyboard Concertos, In D Minor BWV1052, In A Major BWV1055, In F Minor BWV1056
Andras Schiff, George Malcolm
English Chamber Orchestra
DENON, OX-7182-ND

アンドラーシュ・シフによるバッハ。録音がいいですね。レコード盤の原材料の塩化ビニールも不純物が少ないのかのノイズがゼロで、もうここまでくるとCDのでる幕はない。

リヒターとは対極にある演奏。リヒターのは、堅苦しくて、なんかバッハを過剰にえらそうにしてしまっているところが気にいらない。バッハは神なのか、と突っ込みたくなるような演奏。
シフはまったくそうではなく、のびのびとした演奏で、襟を正さずとも安心して聴ける。
チェンバロ協奏曲第1番BWV1052にしろ、張り詰めた緊張感とは違った空気が全体を覆っている感じ。第一楽章なんかはみなさん厳格になってしまうところなんだが。
チェンバロ協奏曲第4番BWV1055。はじめて聴く。第一楽章はブランデンブルグのような感じ。弦楽とピアノの相性がいい。第二楽章は第一楽章とはうって変わって、弦楽による半音階の通奏低音とともにピアノがラメントを奏でている。第三楽章は第一楽章のように活発な調子にもどり、合奏とソロが交互に登場する。
チェンバロ協奏曲第5番BWV1056。はじめて聴く。第二楽章ラルゴはいいですね。カンタータ第156番『わが片足すでに墓穴に入りぬ』からの転用とのこと。バッハのこういう甘い曲はなんとも言えない良さがある。G線上のアリアもそうだし。第三楽章はバッハ特有の疾走感。オーケストラとの掛け合いもいいし、中盤でヴァイオリンとピアノとの対話も楽しい。

2019/03/04

Brahms Symphony No. 1 in C Minor Opus68 Eduard Van Beinum, DECCA, LXT2675/ブラームス 交響曲第一番 エデゥアルト・ベイヌム



Brahms
Symphony No. 1 in C Minor Opus68
Eduard Van Beinum
The Concertgebouw Orchestra of Amsterdam
DECCA, LXT2675

エデゥアルト・ベイヌムによるブラームス交響曲一番。録音は1951年。
まあじつはCDでもっていたけど、レコードで見つけたから購入したのだ。この盤にはノイズが多いのだが、CDではやはり泣けず、レコードは泣けると再認識した。
やはり名盤のなかの名盤ということもあり、迫力のある演奏。
ベイヌムは1901年生まれだから20世紀生まれ。時代は新即物主義であるのだが、ぜんぜんそんなふうに聴こえない。
新即物主義ってなんだったんだろう。第一次世界大戦後にあらわれた。世界を席巻したヨーロッパは凋落し、アメリカとソ連にとってかわられる時期。
ベイヌムが指揮したものをいくつか聴いた、ブラームスはもちろん、モーツァルト、シューベルトぐらいかな。どれもいい演奏でした。
ベイヌム指揮コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を多くを知っているわけではないが、時代の潮流とは一線を画す彼なりのスタイルがあったことはわかる。それが何かと問われても、いまの僕にはわからないけど。

2019/03/03

Brahms Klavierkonzert, Piano Concerto No. 2 Maulizio Pollini, Claudio Abbado, Deutsche Grammophon, MG1083/ブラームス ピアノ協奏曲第二番 ポリーニ、アバド



Brahms
Klavierkonzert, Piano Concerto No. 2
Maulizio Pollini, Claudio Abbado
Vienna Philharmonic
Deutsche Grammophon, MG1083, 2530 790

ポリーニのブラームスピアノ協奏曲第1番と同様に非常にお安く購入できた。こちらはアバド指揮。
ピアノ協奏曲第2番も第1番同様にかつてはほんとうにほんんとうによく聴いた。ここ数年は遠ざかっていたが、気まぐれでブラームスのレコードを数枚購入してしまい、ああやはりいいなあと。久しぶりに通して聴いたら、昔を思い出してしまって胸がいたくなったり。音楽を聴くか読書するしか楽しみのなかった切ない青春時代をおもいだす。
演奏はいい。僕はポリーニから遠ざかっていた分、非常に新鮮に聴けるのがありがたい。第一楽章のポリーニのピアノは華麗だし、第三楽章ではではオーケストラに寄り添うピアノが涙をさそうじゃないですか。第四楽章はなんかもピアノがあまり全面に出すぎないところもいい。まあ、ただ僕はピアノ協奏曲第二番ではこの第四楽章が好きではなくて、三楽章までしか聴かないこともしばしばで。
ポリーニの演奏は知的な印象を受ける。思慮深く、けっして飛んだり跳ねたりせず、それがつまらなさになるところが、ポリーニは芸術にしているわけ。

2019/03/02

『森の美少年 花妖譚1』司馬遼太郎短篇全集一

森の美少年 花妖譚1

ギリシア神話のナルキッソスの話。花にまつわる世にも奇妙な話。一話目は水仙。今回は特筆すべきところない。司馬さんのよさがでていない。まあこういうこともあるね。

2019/03/01

『「武蔵野」を読む』 赤坂憲雄 岩波新書

基本的には柄谷行人の『日本近代文学の起源』の風景論をもとにしているのかと思う。国木田独歩の「武蔵野」は名作とされているが、正直読むのはかなりしんどい。めちゃくちゃ退屈なわけ。
国木田は風景を発見する。その風景は、心象風景が投影したものでけっしてリアリズムの描写ではない。赤坂さんが、本書で論じているのは、国木田の「欺かざるの記」と「武蔵野」の関係だが、いまでは失わわれた武蔵野の雑木林が彼の心と折り重なっていると述べている。
風景論はあまり人気がないのか、それほど類書がない。でも、現在ではアニメの聖地巡礼(ブームは去ったかな)なんかもあり、アニメで描かれる風景なんかもけっこうおもしろいと思う。ジブリ作品をみて、多摩ニュータウンにいったりする人がけっこういるが、そこでみる風景はアニメのものとかけ離れている。なぜアニメの風景は、僕らを惹きつけるのか。絵がきれいで彩色豊かだとかもあるが、そこには現実の風景から取り除かれたものがあったり。
現在、玉川上水周辺で国木田独歩がみた武蔵野の風景はない。武蔵野はすでに武蔵野ではない。しかし、武蔵野の地にマンションが建つと「武蔵野」の風景を利用して入居者を募集したりもする。僕らは土地土地の風景をもっていて、その風景に自分の心象風景を重ねあわせる。
誰かこの問題をがっつり論じてくれないかな。
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