2020/04/30

『主体の解釈学 コレージュ・ド・フランス講義1981-82 ミシェル・フーコー講義集成11』を読む ②

ここで展開される『アルキビアデス』のフーコーの解釈は感動的ですらある。テクストを読解するとはこういうことなんだと。
『アルキビアデス』の副題は「人間の本性について」となっていてる。前に『アルキビアデス』を読んだとき、この人間の本性が国家と結びつくところにかなり違和感があったのはたしかで、ここのつながりがいまいちよく理解できなかった。上に立つもの心を清く、正しく、強くあらねばならない、といたって普通のことを述べているとしか思えなかったもので。
フーコーの解釈は、ぼくはそこまで突拍子もないものではなくて、いたって『アルキビアデス』を「自己への配慮」にフォーカスして読解している。ただフーコーが語ると、身体性が前面に出てくるのが不思議です。まあぼくがフーコーの他の著作も読んでるから、そのように読み込んじゃうんだけだと思うけど。それに「自己の技術」は、仏教思想にもみられるし別段めずらしい考えではないのだけれど。仏教では、かなり身体的な制御と精神の制御はリンクしている。
『アルキビアデス』の最後がおもしろくって、アルキビアデスがソクラテスをストーカーすることを誓う。対話だけで相手を落しちゃうんなんて、いい世界だな。ソクラテスって中年なのに。

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下記まとめ

自己の技術
まず退却の技術
プラトンのはるか昔から、自己の技術(テクネ―)を実践することは、広く現れていた。神に近づくことや神託を聞いたすることは、まず自己を浄めなければならない。浄化の実践は古典期ギリシア、ヘレニズム期、ローマ世界にも確認されている。
魂を外部から守ることが重要になる、そのとき退却の技術を必要とする。
アナコーレーシスanakhoresisは、人が世界から自らを切り離し、自らを引き上げる一定のやり方を意味する。外界から接触を断ち、感覚を感ずることをやめ、出来事にふりまわされない、目の前のものを見ないこと、可視的な不在の技術。
この退却の技術によって、苦痛に耐え、誘惑に抵抗することができる。忍耐の技術。
そして試練の技術。
自ら試練ある状況をつくりだして、それに耐えること。

自己とは何か
「heautonとは何か、……君は自己に配慮しなければならない。配慮するのは君だが、君は君と同じもの、配慮する主体〔と同じもの〕である何かへ配慮する。それは対象として君自身なのだ」(64)
heautonとは魂(psukhe)である。
「よき統治とは何か、都市の親愛とは何に存するのか、義しい統治とは何かを知ろうとして、魂の何たるかを問い、個々の魂のなかに、都市の類似物を、モデルを求めようとする……結局のところ魂の階層や機能が、統治の術についてたてられた問いにかんして私たちに解き明かしてくれいるのかもしれない、というわけです」(65)

khresthai/khresisについて
これらの概念は世界や身体を道具として見るのではなく、自分の取り巻く他者や自分自身を超越的な立場でみつこと。
hippo khresthai(馬を使う)は馬をふさわしい仕方で使うことであり、theois khresthai(神を使う)は神をふさわしいかたちで関係を結ぶ意味、礼拝し神を敬うことを意味する。
つまる魂を使うというのは、魂を実体として扱っているのではなく、魂は主体になっている。

医者、家長、愛人
医者が自分の身体を配慮すること、家長が家の財産を管理することは、自己の配慮ではない。
愛人の場合は、少し論調が異なる。アルキビアデスを追っていた者たちは、アルキビアデスの身体に関心があった。ソクラテスはアルキビアデスの青春が過ぎてから彼に声をかけた。それはソクラテスがアルキビアデスの魂、主体に配慮していることを示す。もっといえば、「ソクラテスはアルキビアデスが自分自身を配慮することになる、そのやり方をこそ配慮している」(70)
師の存在が、弟子(愛人)を自己への配慮へと導く。師の少年への無私の愛が配慮の原理になっている。

スパルタ、ペルシャにおけるケース
スパルタ人は自己へ専心しなければならないため、農作業などは農奴にゆだねている。ただし、スパルタの人々にとっては主知主義や哲学には関心がなかった。つまり。スパルタにとって「自己への配慮」というのは「生き方」になっている。
ペルシャの王子がうける教育は、知恵(sophia)、正義(dikaiosune)、節制(sophrosune)、勇気(andreia)、各教師がおり、帝王学があった。
ソクラテスは、この点アテネは劣っている、教育がなされていないことを憂いている。

自己を見る「眼」と「鏡」
他者の瞳に映る自己。それは本来の同一性のことであり、これこそ個人が自分が何であるかを知ることができるための条件となる。
そして眼がこのように他者の眼の中に自らを知覚するとき、自分の視覚の行為は他者の視覚の行為の中で実現する。
そして、魂の本性である思考と知をなす原理そのものへその視線を向けることではじめて自らを見る。
この思考と知の要素とは何か。それは神的な要素で、神lこそが私たちの魂の最良の、純粋で明るいもの。
神は最良の鏡である。
「自己を再認するためには、神的なものを認識しなければならばい」(84)

正義の誓い
アルキビアデスは最後にソクラテスの約束をする。自己に配慮するこではなく、「正義」に配慮することを約束する。
神的な要素と同時に知恵の本質を見たとき、その中に自らを認識し、再認する。なぜか神的なものは私が何であるかを写すからだ。
「したがって自己へ配慮することと、正義へ配慮することは同じことである。」(86)
よき統治者になるために自己を配慮する、それは正義に配慮することであるとなる。

『アルキビアデス』の成立とその射程
『アルキビアデス』の真贋はずっと議論されてきており、フーコーは疑いなくプラトン作としてる。実際はいまだに議論があるよう。
フーコーはこの書物が、プラトンの初期から後期の要素をもっており(例えばペルシャへの関心や鏡の比喩などは後期の特徴)、そしてプラトン哲学の主題や形式がはっきちろ提示されている。さらに捏造されたテクストも含まれており、しかしそのテクストも決して全体を損なうようなものではない。
プラトン的、ないし新プラトン主義的な伝統は、まず自己への配慮が自己認識のなかに至上の形式とあり、また自己認識が真理へのすすむ道を開き、真理への到達が神的なものを自己の内に認めること。
これらの要素はエピクロス派、ストア派、ピュタゴラス派などには見いだせない。
プラトン主義において、真理への到達は神的なものにかかわる一方で、「合理性」を育んでいく。霊性と合理性は対立するかのようだが、、、どうなるのでしょうか。

2020/04/29

「庄兵衛稲荷」司馬遼太郎短篇全集三

気儘人、猿霞堂庄兵衛は川同心だったが、早々に辞めて隠居する。かつては北辰一刀流の剣客で緒方塾で蘭学も学んでいたという。
「由来、気儘人というのは、能力があってしかも世を捨てて市井で怠けているという者への尊称」である。
庄兵衛はお稲という大和高取藩の家老の妻女だが、すでにご寮人で、新太郎という一人息子がいた。庄兵衛はお稲との恋を成就させるために天誅組討伐を手助けすることにする。

こちらも未完かな。尻切れトンボになっちゃてる。突然、紙数がきたからまた次回、とか書いて終わっている。
ブリーキトースを家康から保管するように命じられた高取藩が後生大事にしていという牧歌的なところなんか、幕末の騒乱とは別世界な感じがでてます。
しかしですね、司馬さんが恋の指南を書くというのがうける。恋の過程も楽しめないと本当の数寄ではないみたいな。それで司馬さんが描く女像というのが、なんともかんとも男が描く単純さよ。
「厭や」
「かんにんやでえ」
「厭や」
「かんにんしてや」
「厭や。ここでは、いや――あの、あの藪のなかへ、わたくしを抱いていって」「
「ご寮人さん」
「ここでは、いや」
「――じつは」
「ああ首が動かん。手エも足もや。かんじんのわいが動かれへんねや」

おもしろいやりとりだけど、絶対にこんなベタベタな状況は存在しない。司馬さんが描く女性はフェミニズム的には批判分析対象だけれど、まあ読者はほぼ男性だしいいでしょ。

2020/04/28

『主体の解釈学 1981-82 ミシェル・フーコー講義集成11』を読む ①

久しぶりに読むと、そんな内容だったのかと再発見ができます。最初に読んだのは出版されてすぐだから2004年!!
フーコーが何を問題にしているのか、講義録ということもあり非常に明確になっている。
ぼくなんかフーコーを読む前までは、真理というのは、認識問題としか考えていなかった。
やはり権力との関係で真理を解き明かそうとしているところが、フーコーらしいところです。アルキビアデスが政治家になる、そこでソクラテスは「自己への配慮」を助言する。「他者の統治」と「自己への配慮」が関係しているところがみそ。

中国哲学では権力とつねにかかわっているし、君主たるものなんたるかが問われる。だから東洋思想は自己修養の方法が前面にでてくる。ギリシア哲学、スコラ哲学なども中国哲学と同様に自己修養が論じられていて、やかり権力との関係が重視されている。
こう見てくると、仏教思想は特異な立場にある。仏教思想は究極の自己中心的な思想であり、そもそもブッダはしぶしぶ解脱について弟子に教えているところがある。しかも出家というのは俗世間とは隔離された状況であり、そこには政治権力がからむことはない。
インド思想では、仏教がどのような立ち位置にあったのかが断片的にしか知らず、インド思想において権力の問題が語られることはあったのかどうか。ウパニシャッド哲学なんかも認識問題のみを扱っているようだが、インドでは政治権力と思想との関係はいかがなものだったのだろう。かなり内的な思索が主流だったようだ。

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以下まとめ

epimeleia heautou(エピメレイア・へアウトゥー)を扱う。自分自身への配慮、自分自身を世話する、自分自身を気にかける
「自己に配慮しなくてはならないというこの原則が、一般に道徳的合理性に実際に従おうとするあらゆる活動的な生活における合理的な振る舞いの原理」ととなっている。(13)
ソクラテスからキリスト教禁欲主義の時代まで、「自己への配慮」という考えは歴史がある。

「自己への配慮」の概念
一般に「自己への配慮」というと、自己を称揚し、自己に引きこもり、個人主義的・自己中心的な響きをもつが、古代の思想では肯定的な意味をもち、そして意味合いが異なっている。
第一に、一般的な態度、物事を見る見方、人々の間での振舞いやさまざまな行動をおこない、他社と関係を取り結ぶ、そのやり方。自己や他人、世界に対する態度。
第二に、「自己への配慮」はまた、注意の、視線の一定の形式。視線の方向を外部、他社、世界から「自己」へ向けかえる必要。
第三に、自己を世話をし、自己を浄化し、変形し、変容させる行動をさす。

哲学と霊性
主体が真理にいたることができるようにするものを問う思考の形式、主体の真理への到達の条件と限界を定めようとする思考の形式を哲学と呼ぶとする。(19)
主体は真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求。実践、経験を「霊性」と呼ぶとする。それは主体にとって、主体の存在そのものにとって、真理への道を開くために支払うべき代価となる。
「霊性が原理として立てるのは、主体にはその聖そうな権利として審理が与えられているわけではない、ということです。そのものとしての主体は真理に到達する権利も能力も持たない、真理は主体が主体であり、これこれの主体の構造をもつがゆえに基礎づけられて、正当化されるようなたんなる認識行為によっては主体に与えられない。真理に到達するための権利を得ようとするなら、主体は自らを修正し、自らに変形を加え、場所を変え、ある意味で、そしてある程度、自分自身とは別のものにならなくてはならない。霊性はこう主張するのです。」(19)

近代の真理と認識
要するに、近代(ここでは便宜上デカルト的契機)では認識のみが問題となっているが、哲学の歴史ではこの認識行為が真理をえる手段としているのは例外である。
これは霊性にかかわるものではない。客観的条件、方法の形式的規則などは、認識の内部から主体の真理への到達が定義されている。狂ってはいけない、道徳的であれ、利害とかかわるなといったものは主そのものの構造にはかかわりがない。

プラトン『アルキビアデス』について
ソクラテスは「自己への配慮」を伝統から出発している。スパルタでは哲学とは関係なく「自己への配慮」が生活するうえでの姿勢となっている(だから奴隷は正当化される)。
アルキビアデスは、ある境界年齢に達したことで、かつてのエロスからポリス、つまり他者の統治へと転じる。愛の対象にならなくなってしまっていた。アルキビアデスは、自らの特権的な地位を使い、政治的行動、他者の統治へ。
そしてソクラテスはアルキビアデスに声をかけよという霊感を得る。
この瞬間に「自己への配慮」の問題が生じる。

『アルキビアデス』における「自己への配慮」
アルキビアデスは富も教育も欠如している。それを挽回できる技法(テクネ―)もない。そこでソクラテスは彼に都市のよい統治とは何かを問いかける。
アルキビアデスは、市民のあいだで親愛(コンコルド)が成立していることと答える。
では親愛とは何か、ソクラテスは問うがアルキビアデスは答えられないことに恥ずかしさを感じ、自棄になる。
ソクラテスは、五十歳にもなってからでは遅いが、君の歳なら無知を覚り、「自己への配慮」を学べるという。
1 自己への配慮の必要性は権力の行使と結びついている。「自己に専心する」ことは他者に対して政治的権力を行使したいということが含意されている。
2 この概念はアルキビアデスの教育の不十分さと結びついている。ここには二つの側面がある。アルキビアデスが行使しなかったエロスと奴隷から教育を受けたこと。
3 五十歳は自己への配慮するような年齢ではない、というのは問題が含まれている。ソクラテスは『弁明』では老いも若きも市民もそうでない者も、あらゆる生存にとって「自己への配慮」は一般的な機能として論じている。しかし、『アルキビアデス』では、師と弟子、師と愛人といった関係におけるものとしいる。
4 アルキビアデスが無知に気づくとき、ソクラテスは「自己への配慮」を持ちだしてくる。

自己とはなにか。
自己への配慮というが、自己(auto to auto)とは何か。それに配慮するとはいったいどういうことなのか。
問題になっているのは、人間の本性にかかることでははなく、主体が問題になっている。
「個人から発して自己にめぐり来たる、この反照=反省的(レフレクシヴ)な活動、この反照=熟慮(レフレシ)された活動が向かう、この点とはいったい何だろうか。この自己とは何だろうか」(47-48)
そして自己への配慮は、はたして他者を統治する技術(テクネ―)へ導くのだろうか。



2020/04/27

『新記号論 脳とメディアが出会うとき』 石田英敬 東浩紀 ゲンロン

かなり抽象的な議論をしていて、一度読んだだけでは理解が追いついていかなかった。というか、いまもって理解できていないところもある。情報量もかなり多いので、まとめることもなかなかしんどい。
石田さんの問題意識は最後に書かれていて、現代21世紀の消費文化を分析するために、かつてのアナログメディアを分析していた記号論ではなく、まったく新しい記号論が必要だという。
とても刺激的な内容だった。とは言いつつも、脳科学の知見がどう石田理論に繋がっているのかがよくわからなかった。『ひとの目、驚異の進化』『数覚とは何か』
『プルーストとイカ』とか参考文献として論じられるが、「新記号論」の理論にどう組みも込まれているのか。
脳科学は科学の分野だけあり唯物論的、解剖学的、神経学的だが、茂木健一郎さんなんかが言う「クオリア」というのは、かなり抽象度が高いだけでなく「心理学的」要素が強い。
この科学的な面と心の装置というメタファーをどうつなげていくのか、その心の装置が解き明かす現代消費社会における美学(記号論)を作り上げていこうという試み。

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下記はメモ。

第一講義 記号論と脳科学
現代記号論はアナログメディアのなかで培われたもの。デジタルメディアを分析する新しい記号論が必要となる。アナログメディアのメッセージは自己完結している。
ソシュール派記号学の限界は言語中心主義からくる。すべての記号を「言語のようなもの」として、言語モデルを基本に考えていた。
まずアナログ革命が大衆社会と現代記号論を生みだし、そのアナログ革命が再帰的なったものが、1950年代以降の消費社会としてる。そしてこの再帰的アナログ革命とデジタル革命が融合したところに知識社会が生まれる。
20世紀になり、写真、映画、電話、レコード、ラジオが普及する。これは音や光などが「文字」として記録されているメディア。
レコードは、そこに存在しないものの音を再現し、写真は人間の目では捕えられない瞬間を切り取り、映画は写真を連続させて、あたかも動いているかのように見させる。メディアの技術的無意識。

フッサール『内的時間意識の現象学』
ばらばらの連続した音をつなげてメロディーになっているが、どこからメロディーと知覚されるのか。意識と時間の問題。フッサールは速記ができ、その速記のスピードで意識を考えていたかもしれない。
やはりフッサールが一つの鍵なのか。旋律が心地よいとか、「音楽を奏でている」という認識って、不思議です。音の羅列が旋律になるのって、単純に不思議。

宮沢賢治の『春と修羅』の解釈。
テレビの原理で書かれている詩ではないか。「わたしといふ現象」が「明滅する」「幽霊」。デリダ的。「メディアがテクノロジーの文字で書くようになると亡霊化する。だから、事物および事実が、まさに現象学が言うよう「現象」になる」P63
これはすごい説得力のある話。ブラタモリで『銀河鉄道の夜』の鉄道とはどんなものだったのか、というので僕らのイメージでは蒸気機関車なんだが、じつは電車だったというやつ。

『ひとの目、驚異の進化』(マーク・チャンギージー、インターシフト)
ヒトはみな同じ文字を書いている。ひとは物の辺や縁、角の輪郭の部分要素の位相的パターンを手がかりに、物の位置関係を読みとる。そのパターンは有限で、これらが文字の基本要素となっている。その証拠として、現在流布している画像データを解析すると、世界の文字のなかで現れるかたちの要素の出現頻度と一致する。世界の文字は自然界のなかで見つかる。
ニューロンリサイクル仮説。ヒトは空間の配置を本能的に見分ける能力があり、その空間識別をする脳の領域で文字を識別することにも転用している、という仮説。これは言語とは違い、文字を識別すること、つまり識字は後天的であることを意味している。
文章を読んでいる時、文、文節などを認識しながら読み進めていく。これらが脳科学からみたらどうなっているのか。

第二講義 フロイトへの回帰
ラカン「無意識は言語のように構造化されている。」
石田「無意識はシネマトグラフィーのように構造化している。」「無意識は、グラマーとロジック・テクノロジックなものである。」
21世紀のメディア環境は、かつてとは異なりSNSやネットに常につながっている状態。第一講義での「読むヒト」がこの21世紀のメディア環境で、どんな影響を受け、どのように読み書きをするのか。

フロイトの「不思議メモ帳についての覚書」
コンピューターのインターフェイスには、映画のスクリーンとは全く異なり風景がない。視覚の比喩ではとらえられないデーターベースで、しかもiPadには接触も加わる。接触の痕跡が保存させ、データベースが呼び起こされることでまた痕跡が蘇る。
セルロイド板の下にパラフィン紙があり、そこに入力された文字や絵が表象化される「知覚ー意識」の層。さらにその下にワックスでできた蝋板が「記憶」として貯蔵される「無意識」の層。つぎつぎと書き込まれていく痕跡の記憶が無意識をつくりだす。
フロイトは不思議メモ帳を心の装置のアナロジーとして用いている。
不思議メモ帳は、書き込んでいくものは呼び戻すことができないが、心は記憶を再生できる。不思議メモ帳の比喩の限界。しかし現代ではiPadはそれができる。
「われわれは外部世界からの刺激情報をメディア端末を通して受け取り、意識にとどめて氷床を生み出しては、記憶の層へつぎつぎに送り込んでいる。現代人の「知覚ー意識」に現れる現象は、心の装置の蝋板へと送り込まれると同時に、コンピューターやサーバーのメモリーに送り込まれて蓄積され、それぞれの記憶の層から呼び出されたり消去されたりしつづけている……いまわれわれが使っているインターフェイスなのです。」P105

フロイトの心的装置
初期のフロイトは唯物論的。解剖学的な局在説である「言語装置」を批判し、複数の皮質野の広がりと重なりという「言語連合」で考えていた。そして言語活動は語表象と対象表象の結合によって行われる。語表象とは、視覚、聴覚、筋運動に由来する。対象表象は対象物から受け取る感覚印象の複合。
外部から受けっとた刺激的な物理的エネルギーがニューロンを通して、というように心的装置を考えいてる。そしてニューロン間は離れていて、それを「接触障壁」とよび、シナプスのあいだを「通道」とう言葉で説明している。これによって、記憶を説明できるようにしている。
フロイトは心的装置を流体力学モデルで考えていて、現代のように「ビット」「情報処理」としては捉えていない。

フロイトの夢
フロイトは『夢解釈』でニューロンなどの神経学的な説明をすべて放棄し、心理学的な観点から考察している。精神分析の成立へ。
フロイトは心の装置を光学装置のメタファーで捉える。
感覚・知覚のエネルギーが無意識を通る過程で、接触障壁と通道が組み合わされていく。そのエネルギーが前意識の壁の段階で検閲されて、検閲を通過したものが意識へと登る。それ以外は再帰的にまた同じプロセスをへる。
語表象は前意識の段階で対象表象(物表象)と結びつく。物表象は視覚的、聴覚的、触覚的、筋運動感覚的、それ以外のあらゆる表象の連合複合といて開かれた連合。
それはソシュールのシニフィエが絵を用いているように、イメージで形成されている。つまり無意識は映像である。
フロイトのいう夢とは、感覚器官からの入力がなくなり、身体内部のエネルギーが強くなり、前意識の検閲機能が低下し、エネルギーが退行する。そしてそのエネルギーは感覚末端へいき、知覚にまで達する。つまり「夢」「幻覚」は現実の知覚ではなくて、欲望や欲動が知覚末端・感覚末端が投影装置となる。

エスと超自我
意識が繰り返されることで自我が形成される。
エスとは内部的な興奮をもたらす心的な力の審級のこと。
超自我とは聴覚帽が内在化したもの。「超自我では、外界の事柄を聴覚帽で聞き取り、無意識のレベルでエネルギーを供給しているエスとが結びついて内在化している。
内在化した超自我は語表象とつながっている。超自我の源流には聴覚という知覚がある。
超自我を自然、文化のと対立させずに連続的に捉え直す必要がある。
無意識は物表象でつくられ、意識は語表象でつくられる。超自我も語表象でつくられる。超自我は意識と同じ材料でつくられながら、エネルギーだけは無意識=エスから借りてきている。
語表象の無意識化。

精神分析の方法論とコミュニケーション
つぎつぎと相互のコミュニケーションの輪が広がり、共通の集団的な言語脳ができる。これがソシュールの「ラング」。このコミュニケーションは「聞こえることしか聞こえない」というもの。犬、come here、かめや。ビジン・クレオール。記号内在主義。
これにフロイトの「抑圧」「欲望」を持ち込むと、裏命題がでる。「聞きたくないことこそ聞こえる」。ヒトはデフォルトで抑圧されている存在と考えている。そうすると、ハーバーマスのような理想的な公共的コミュニケーションのモデルではなく、バイアスのコミュニケーションとなる。
そこでフロイトは「黙って聞く」精神分析的聴取を発明する。「聞きたいこと」「聞きたくないこと」を決定している「主体の真理」の歴史を読み解く、「聴く技法」の発明。
患者の自由連想に無意識の痕跡をたどり、無意識を復元する。
「それは、コミュニケーション文明の加速によってどんどんエスのコミュニケーションのほうへ流れていこうとする人々の無意識を、いちど沈黙の壁の前に建てせることで、歴史と記憶をつくり直させ、したがって超自我の声をも聞き取らせることで、真理の主体へと回復させようという文明的な治療の企て」P181-182

デジタル時代の夢と権力。
夢の解読が可能となると、そこに責任が生じる。夢への政治の介入がおこる。しかし夢は明証性がない。いまここの経験がなく、実証可能でもない。夢のデコーディングが可能になれば、実証可能でないにもかかわらず「エビデンス」を突きつけられる。
夢は忘却したり思い出したりして、幾通りにも解釈してきた。夢は究極的に私的な領域で、実存の重要な領域である。それが脅かされるかもしれない。

第三講義 書き込みの体制2000
フロイトとスピノザ。「エス」の問題。フロイトのスピノザ化。エスのあったところに自我が来なければならない。
「無意識は集団的で情動的でメディア的なものだ」という定式へ。そうすることで情動の記号論、症候や感染のメディア論を浮かび上がらさせる。
アントニオ・ダマシオ『スピノザを探して(邦題:『感じる脳』)
「ホメオタシス機構」
情動と感情に切れ目がない、身体と心を区別している。欲動は情動と表象の二つの領域で表現される。欲動は身体を流れるエネルギーであり、かつ記号や表象を生み出す。
スピノザ、フロイト、ダマシオの心身並行説。心も身体もホメオタシスのシステムで並行して動く。
「ダマシオの樹もフロイトの心の装置も、現在のIT化したコミュニケーション状況では、メディア装置を通してネットワークに接続さて集団に結びついて成立している」231
さらに、インターフェイスの問題。身体的になってきている。たとえばタッチパネルやVR。
デジタルメディアはインタラクティブ。

すべての人がネットワーク化して結びついている
「情動/感情」の境目は「記号の正逆ピラミッド」のふたつの三角形の境界=インターフェイスにある。
メディアたんなる表象を媒介するものではなく、感情と情動が活性させる。
人びとの情動と感情の次元が、人間側では記号生成のボトム、そして、テクノロジー側では情報処理のボトムとなる。
東さんの解説がわかりやすい。
「ダマシオの樹とフロイトの図が、さきほどの「記号のピラミッド」ふたつの三角形の片方に重なるというのではないんですね。むしろ、両方に重なっている。あるいはより正確には、このふたつの三角形の底辺が交わった面、「記号の三角形のボトム」に対して、横から、つまり三次元的にダマシオの樹とフロイトの図がくっついているかんじでしょうか。情動(物表象)が記号化し、分節化して感情(語表象)に変化する、それが一方では個人単位で身体内で起きており、他方では集団単位で社会のなかでおきていると考えている。」(240)

スピノザの「コナトゥス」
観念と物が同時に現れるという一元論。
心身並行論を持ち出す理由。それは心は身体の表象である、または表象するという考えを封じるため。
「感情」は身体と身体のあいだの「感応」として考える。それは情動が記号化されて感情になるだけでなく、その感情は人間と人間をつなぐ=感応するメディアにもなる。
ダマシオのソマティック・マーカー仮説が取り上げられる。外部からの信号はまず脳が情動として身体のループで処理し、そして次のループで感情、判断が生まれる。

パースの記号論
「類像(アイコン)」「指標(インデックス)」「象徴(シンボル)」
まず指標が成立する。
メディア・コミュニケーションとは、メディアを通した述定である。(268)
パースには「現在」がある。「現在」は知覚するものではなく、事後的に生成するものでもある。それは責任として現れる。データベースの本質は「いまここ」で決定できず、未来が決定する。
「いまここ」のの経験が記号として存在する。ピュアアイコン。そしてそのあと二次的にヒュポアイコンが生じる。

フッサールの現象学とデリダ
フッサールはパースの述定(これは〇〇である)にては一定の時間があると考える。知覚世界での述定以前を問題にする。
痕跡が痕跡化する差延。
エクリチュールはシンボルとイメージのあいだにあるもの。

メディア論
スピノザは共同体を考えるとき「模倣」を原理としている。人は他人の感情を模倣する。SNSなんかはその例。そしてスピノザの問題は表象ではなく表出の問題であるとする。
マーケティングでは「感染」をさせることが重要で、権力側も反政府側も「感染」だけを扱っている。
二十世紀資本主義の4つの柱があり、テイラーの「科学的管理法』、フォーディズム、ハリウッド、マーケティング。
マーケティングの立役者エドワード・バーネイズは驚くことにフロイトの甥で、まさにマーケティングとは「心の中の隠された市場」に働きかけるノウハウだという。
消費を分析しなければ、つまりどのように情動は支配され、動員させられているのか。消費者は単なる消費者ではなく、知らないうちにSNSに「いいね」などをしながら労働をしている。生産者かつ消費者であるとは、現代においてどういうことなのか。

「これからの時代においては、人間の心(mind)は身体(body)のレベルで、機会(machine)が行う情報処理のプロセスと接する生活を営むようになる。つまり、人間の知覚が世界を読み取り、心の意識や意味を生み出しているあいだにも、機械のほうでは、人間の感覚経験や行動パターンや思考を解析して情報処理を」している。「人間が記号過程しているあいだに、マシンは情報処理している」。これが石田記号論であるという。(270)

2020/04/26

「軒猿」司馬遼太郎短篇全集三

軒猿の与惣次を殺すことを命じられた寺男のちょうさいは、なぜ与惣次を殺さなければならないのかと疑問に思う。さよがちょうさいに与惣次を殺さないようなのみ、ちょうさいは気づく。さよと与惣次はできていると。
さよは院主竜妙の伽をしてた。竜妙は与惣次とさよが関係をもっていること知ってしまったという。
ちょうさいはばかばかしく思い、村を離れる決意をする。

未完ということで、不完全燃焼。なかなか面白いなあと思っていただけに残念です。
故郷をもたないちょうさいと、故郷があるにもかかわらず邪魔者あるかされる与惣次。中島みゆき的。ちょうさい、与惣次、さよ、だれもが劣等感の塊で、かなしい。

2020/04/25

『利己的なサル、他人を思いやるサル――モラルはなぜ生まれたのか』フランス・ドゥ・ヴァール 西村利貞・藤井留美訳 草思社

ずい分前にドゥ・ヴァールの『道徳性の起源』(紀伊國屋書店)を読んだが、今回の『利己的なサル、他人を思いやるサル』も、だいたい同じ内容かと思われる。『道徳性の起源』は、細かいところを覚えてないし、すでに売却してしまったが。

「人間の本性は野蛮なのか、気高いのかという二者択一ではなく、人間はその両方を兼ね備えているのだ――そんな人間像は複雑ではあるけれど、はるかに真に迫っているにちがいない。」(10)

ウィルソンの『社会生物学』
社会生物学者がなげかける意味論のわな。
エリオット・ソーバーは「利己的」には二つの意味があるという。「俗称的エゴイズム」と「進化的エゴイズム」。「俗称的エゴイズム」は日常的に使う意味で、遺伝子の自己発展を意味する場合は「進化的エゴイズム」と使い分けるべきとする。
たとえば、チンパンジーや人間は俗称的な意味で利他的行動が、生存や生殖にかかわる場合、進化的な意味での自己中心的となる。
ただし、通常では人間は道徳を語る際、その意図をみる。意図や意志のない行動から生まれた他者への利益は、利他的行動とは判断されない。たとえ結果が同じでも。
しかし社会生物学では、行動の結果に重点が置かれているため意図の有無は問題にならない。それはつまり生物、ひいては人間の道徳性の解明を放棄していることになる。

道徳性は自然に含めれないものなのか。
ドーキンスは道徳性は自然には埋めれないから意識して身につけるべきとし、自然と道徳性を切り離す。利己的な遺伝子の味方からすると、愛や憎しみもホルモンや脳波に還元しないにせよ、遺伝子に帰結させてしまっている。
これまでの社会生物学などの場合、動物の行動を人間界の基準と比較してきた。

クロポトキンの『相互扶助論』
生存競争に直面する動物は、互いに助け合う必要がある。このような見解はドゥヴォールはクロポトキンのシベリア探検からきていると指摘する。そこでは季節の移り変わりが極端であり、生物がまばらな大地。北アジアでは種の敵は自然だった。生存競争というのは、個体がその種を相手に戦うのではなく、個体の集団が困難な環境に対して行うものだからである。(47)
相互扶助の考え方は社会生物学の基本的な材料となる。

ロバート・トリバースの「互酬的利他現象の進化」
情動や心理プロセスといった中間プロセスに注目した。
ただちに見返りをえたれる協力関係は互酬的利他現象とはいえない。
三つの特徴
1 やりとりされる行為が受け手には利益になるが、実行者には犠牲を伴う。
2 代償と見返りのあいだにタイムラグがある。
3 見返りを条件に犠牲を払う。
これは当事者がギヴ・アンド・テイクで動くわけではない。

リチャード・アレクザンダーの『道徳システムの生物学』
人間の集団対集団、国対国で繰り返してきた暴力行為こそ、我々が共通の利益や倫理的行為に重きを置いてきた究極の理由。
そして、グループ内の葛藤である。個体の利益と集団の利益が矛盾するとき、とくにそれが集団どうしがきそいあっておりときに生じた場合、道徳システムが生まれる。
そしてこの関係は、基本的に類似性の原則で成り立っている。人間の場合、宗教、学歴、身体的特徴など。
道徳原理といものはもっぱら自分が所属するグループに向けられるもので外界には適用されてにくい。

ドゥ・ヴァ―ルの「コミュニティの利害」
「協力的で統率のとれたグループは、所属する構成員すべてに利益を与える。それゆえグループに生きる者は社会に気を配り、・・・・・・社会を改善し、強化する努力をしなければならない。・・・・・・紛争解決は当事者のみならず、コミュニティ全体の問題になってくるのだ。動物がコミュニティのために犠牲を払うと言っているわけではない。むしろ社会環境は個体の生存を左右するため、すべての個体がその質に関与しているのだ。」(61)
さらにモラル社会では、自分の行為が他者からどう見られるか、思われるかが重要な要素となる、アダムスミスの「公正な傍観者」とは、まさに社会的な事象を共感をもって理解する者のこと。

ドゥ・ヴァ―ルは道徳性進化の条件
1 集団の価値――集団に属しているおかげで食物を手に入れ、敵・捕食者から身を守ることができる。
2 相互援助――集団内で協力や互酬的な交換が見られる。
3 内部衝突――集団を構成する個体が、それぞれ異なる利害を持つ。
衝突は一対一もあれば、高度なレベルもある。
1 一対一――直接の相互扶助や、喧嘩後の和解など、個体どうしが一対一で解決する。
2 高いレベル――コミュニティが個体どうしの関係に配慮する。和解のあっせん、平和的な紛争解決の仲裁、利他的行動の集団全体での評価(間接的な相互関係)、社会環境の質の向上のための貢献奨励といった形で現れる

ドゥ・ヴァ―ルは、そして道徳性というのは、言語と同様に、生まれた社会の規範を吸収していき、並べていきながら学ぶものであるという。ここは生成文法と同じように、道徳は多様で、ある社会では不道徳なことでも別の社会ではそうではないことはふつうにある。性教育、私刑、殺人、これらは普遍的な道徳規範でのべることができず、遺伝子もあらかじめプログラミングしてうrわけではない。ただし、その枠組みはある。

「同情」、または「感情移入」について
本書ではチンパンジーなどがみせる、「思いやり」や「共感」「同情」の例を多く載せている。
ドゥ・ヴァ―ルは、行動主義や社会生物学の考え方に対し、重要な批判をしている。
「私たちがいま取り上げているのは、動機であり意図なのだ。実際にどういう行動で現れるかは関係なく、他人を思いやる者は他者の状況を敏感に察知し、助けたいという衝動に駆られ、その状況で最適の行動は何かを決定しているにちがいない」(105)

社会の形成
カントの道徳論は、行動のフォーマットがなんであるのかを考えたものでもある。つまり、親切心で行うのではなく、「そうせねばならない」という命令というのは、行動規範であると同時に人間のフォーマットだということ。
そこに「記述規則」が加わる。それは見返りと懲罰によって積極的に支えられているもので、典型行動のこと。人間が家畜やペットに課すルールもそのひとつ。
そして社会が醸成されていく。
フォーマットの上に記述規則がつくられていく。

人間と動物の連続性(感想)
動物には、感情がある。そして社会がある。チンパンジーなどは他者へ共感する認識能力もある。他者が何を考えて行動しているのかを推測する能力もある。
だからといって人間のようなモラルがあるわけではない。
しかし、互酬的関係もあれば、排他的な関係もある。諍いをやめさせる和解のやり方もあり、上下関係や公正さもみられる。
人間は、「動物的」であることをやめようとしたりする。例えば婚姻制度を廃止しようとしたり、職場の人間関係を否定したりする。
しかし、婚姻制度はおそらく人類の誕生と同じくらい長い歴史をもち、いまだかつて完全な撤廃を実現できていない。職場の人間関係にしろ、どんなに飲みニケーションを否定しようが存続しつづける。
ぼくらは、婚姻制度などを古い悪習であったりと罵ることがある。まあ婚姻制度の否定なんかずいぶん昔からあるから、別段現代的な考えでもないけど、そのなかを生き延びてきた制度だ。
それには、人間の動物としての何かがあると思われる。

動物がもつ社会は、人間とは異なるにせよ、そこにはただルールがあるのではない。
道徳というのは、たんに善悪を論ずることではなく、社会の規範をつくり上げているもので、重要なのが道徳は理性とは別物であること。
ドゥ・ヴァールはここでかなり重要なことを本書で述べている。哲学の世界では道徳は理性で語られ、高尚なものとして扱われるが、そもそもチンパンジーでも、人間と共通する道徳的ふるまいはあり、それらは集合となし社会が築かれていっているということだ。
善悪の彼岸がここにあり。


2020/04/24

「みょうが斎の武術」司馬遼太郎短篇全集三

大阪鰻谷で犬猫を理想に剣術を磨くみょうが斎の話。
「犬猫になるのに、師匠も弟子も要るか。お前の家にも土間ぐらいあるやろ。そこで寝てたらええ。」
「酔生夢死するこっちゃ。理想というもんを持ちたがるさかい、人間世界が住み辛うなる。」
お歌はみょうが斎に剣術を習いたいという。藤兵衛はそのなかを嫌々ながらとりもつ。天満試合の当日、乳繰りあっているところを藤兵衛に見られながら、試合にむかう。

いい話です。最後の天満試合なんか、薩摩の野暮ったさがでている。司馬さんは、けっこう長州や薩摩だとかに辛口なところがあって、田舎者と思っているふしがある。じっさい、幕末のころなんかそんな輩のような連中が大阪、京を我が物顔で闊歩してたら腹も立つ。

2020/04/23

「外法仏」司馬遼太郎短篇全集三

藤原良房は娘の明子が産んだ文徳帝の第四皇子を皇太子にするため十番の競べ馬をすることになる。恵亮は加持を行うことになる。恵亮は青女と関係をもち、女犯をおかしてしまう。そこで恵亮は青女に何かをあげることを約束してしまう。それは自らの外法頭となった頭だった。青女の外法仏が功を奏し、斃れた白馬は立ち上がり勝ち続ける。その結果皇太子となった皇子は後の清和天皇だという。

導入はすばらしかった。青女のあやしさが十分あり、三白の眼が目に浮かぶ。
ただし、ちょっとできはどうか。司馬さんの幻想小説としては、ちょっと物足りない。恵亮の旧知黒緒の存在が弱い。中途半端なところがあって、青女の邸にいっても、とくに何もせず、恵亮の加持に何も影響もなく、真実を知っているのは黒緒だけ、みたいな終わりになっていて消化不良。
恵亮が独鈷で自らの頭をかち割って、脳漿をまき散らすなど、おどろおどろしさもないわけではないけど。

2020/04/22

「丹波屋の嬢さん」司馬遼太郎短篇全集三

丹波屋の嬢さん

大阪同心の善七は正月明けに喧嘩をすることになるが、相手は大人数。佐吉にその話をしていると、善吉が思いを寄せているお実以が立ち聞きしていた。お実以は善吉に喧嘩屋太蔵を会いに行くように勧める。
司馬さんのすごいのは、ここでの主な登場人物は4人、それぞれの個性が短い短篇で際立っていることで、不思議なところです。凝縮された文章、ちょっとしたセリフがよく効いている。
太蔵の描写なんかも、思わず笑っちゃう。
佐吉に対して下座で平つくばって、鰻谷の口入屋、人呼んで喧嘩屋である口上があり、この太蔵のふてぶてしさと、そのおかしみがにじみでている。
佐吉だけでなく太蔵もお実以に惚れていたが、お実以は彼らをあざむく。
「女にだまされた男が三人、ここで六法をふんだところで物笑いの種や。それに、こっちはに得物もない。……ここにいる神木善七というお人は、大阪同心ながら、これでも幕臣や。幕臣がうぬらにだまされて、幕府の不利になることを働いた。というが、これは真赤なウソや。だまされはしたが、そんな天下国家のことやない。たかが女にだまされた。しかと言うが、これは色恋の沙汰や……色恋事の勝負は、他愛もない浮世の茶漬話でな、眼の色かえることもない。じゃによって、こちらは笑うて退散してこます。こっちもそっちも、刃物を引けい!」

大した話でもないのにいい話。ちょっといじれば落語になるよ。

2020/04/21

『スピノザ『神学政治論』を読む』 上野修 ちくま学芸文庫

非常にためになった。時代背景がわかり、『神学政治論』の意図がよくわかる。

大前提
神学者とデカルト主義者との、「神学と哲学の分離」についての論争があったいう。
デカルト主義者は「真理は真理に矛盾しない」のだから「自然の真理」が「聖書の真理」損なうことはない、という折衷案がでたが、これに問題がおこる。聖書の不可解な記述、例えば悪魔や復活など。聖書を哲学の真理に矛盾しないように読むことができない、となる。
『神学政治論』で呼びかける「哲学的読者諸君」とは、動揺するデカルト主義者のこと。
保守派が主張する、なんでも自由でいいのかという問に対して、スピノザは答えとして『神学政治論』を書いているという。
考える自由、そして敬虔も平和も損ねない、それを証明する。聖書に根拠に証明していく。

二つの聖書解釈
聖書の記述には不可解なところが多いが、それに対し神学者はスピノザからすれば狂気に似た解釈をしている。矛盾している箇所をアクロバティックに解釈したり、不思議であれば不思議なほど真理だとか思いたがる。
または、理性では解釈不可能な事柄に対してはメタファーとして扱う。もしくは理性で判断できない場合、筆写ミスであるから修正すべきとなる。しかしこれだと神学者は許さない。

スピノザの聖書解釈
スピノザはどちらの立場もとらない。
スピノザは、聖書は実証的に、考古学的に、歴史的に解釈されなければならないという。解釈は秘儀ではない。聖書に真理を読み取ろうとしてはいけない。
聖書には不可解な記述があっても、それを超自然的な光で解釈してはならない。また哲学的真理も述べているわけではない。そもそも預言者は知識人だとかに啓示を与えたのではないのだから。
スピノザ場合、預言を言語行為として解釈している。上野さんはここで、「普遍的信仰の教義」を万人が知っている「文法」にたとえている。隣人を愛せ、とは聖書から抽出される教えであるが、それは聖書を隅から隅まで知らなくても、読めなくても、すべての人が納得することである。信仰においては、神学の問題は無用となる。各人が神をどう思い描いていも、正義と愛を実行している人は、論理的に教義を信じていることになる。信仰には服従と敬虔以外いらないとなる。
「預言者の得た確実性は「言われていること」の真理にではなく、かく「言うこと」の倫理的かつ文法的な正しさのみ存する。だから真理を教えることは聖書の目的ではない」(58)
上野さんが言う「文法」というのは、ニュアンスとしては「方便」みたいなものか。でも、方便とも違う。

自由は平和を毀損しない
愛や正義といった「敬虔の文法」は自然状態の人間には期待できない。だから第三者である最高権力が必要となる。
ヘブライ国家にとって啓示は法であたが、ヘブライ国家が消滅した後、法的効力はなくなり人びとの権利は国家に移譲されている。だから何が正義や何が敬虔かも決定する権限は共和国の最高権力が有する。
人は服従することで臣民になる。そして臣民はつねに最高権力に恐れを抱いている状態で、としても最高権力は人心を離れさせるようなことはしなし。恐れから怒りに変わると国の危機となる。
自由を抑圧すれば、ヒーローが生まれる。人びとは国に服従しなくなる。思想言論の自由はゆえに平和を損なうことはない。

『神学政治論』への批判
『神学政治論』を批判したのは、哲学の自由をうたうデカルト主義者であった。その一人、ランベルト・ファン・フェルトホイゼンは『神学政治論』を偽装した無神論ととった。これはおおいにわかる。『神学政治論』でスピノザは神を否定していないが結論は、宗教はしょせん無知な人間を方便で導いてやるといったものになっているふしがある。
「啓示宗教は真理を教えない。
信仰は無知であってかまわない。
よって、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する。」(88)
この論理は、やはり理解しづらいところでしょう。上野さんはスピノザの上記の論理をこう説明する。モーセを含めヘブライ人はなぜ神政国家がうまくいているのか無知であった。啓示は真理ではなく命令や訓戒として理解されたのであり、神の律法として命じられた。神政国家は欺瞞や策略ではなく無知によって成立っている。無知でも普遍的な真理である正義と愛は守られればよい。

やはりスピノザの聖書解釈は方便でしょう
下宿のおかみさんの逸話。ある日おかみさんから、いまの自分の宗教で救われるかと問われた際、
「あなたの宗教は立派です。あなたは静かに信心深い生活に専念なさりさえすれば、救われるために何もほかの宗教を求めるには及びません。(100)(リュカス/コレルス『スピノザの障害と精神』)
んー、上野さんはフェルトホイゼンのような立場をとりたくないようだけど、やはりスピノザのどこか高みの見物的な姿勢は拭えないでしょう。じっさい、無知な人間には宗教が大事で、無神論はおすすめしませんっていう知識人特有の選民思想です。非常に共感はしますけどね。

2020/04/20

第二十章 自由な国家体制では、誰にでも、考えたいことを考え、考えていることを口にすることが許される、ということが示される――スピノザ『神学 政治論』

自由に考え、判断をくだすのは、自然権であり、他人に譲るものではないし、できない。権力者もその自由を奪えない。
国の究極の目的は、人を恐れから解放し、安全に暮らせるようにし、自然の権利を自分自身た他人に危害を加えないかぎり最大限確保できるようにすることである。
人はそれぞれ考えが異なる。だから平和に暮らすために人は自然の権利を勝手きままに使うことを放棄しなければならない。
だからといって理性を働かせう権利や自分で判断する権利を放棄するわけではない。
ただし人は至高の権力者の取り決めに従う必要がある。よかろうと思っても行動をとらないことは仕方がない。

自由を認めても国の平和や道徳心や至高の権力者の権利は損なわれない。むしをこれらを損ないたくなければ、この自由を認めなければならない。奪おうとすれば必然的に社会が壊れていく。

***************
自由はどこまで許されるのか。ふわっとしている。まああくまで抽象論だからね。いいでしょう。
書いてある内容は、現代からみればまとも。なぜこれが発禁あつかいになるのか。神=自然とか聖書は道徳の教科書的な発言が冒瀆に値すると。
なるへそですね。

オランダの政治と宗教
17世紀のオランダには連邦制で州の独立性が高かった。しかし、独立戦争の英雄オラニエ公ウィレムが半元首の存在として影響力をもち、この中央集権的色合いが強いのが「総督派」と呼ばれる。対し、連邦内の分権性を確保するのが「議会派」となる。
カルヴァン派の流れの新教各が乱立している状況で、主流派と非主流派に分けれていく。主流派は総督派と結びつきが強かった。議会はは一方の派閥に肩入れすることに慎重だった。というのも彼らの支持基盤が商人であったから。
ただし実際はスピノザの時代、改革派教会主流派はすでに17世紀半ばには国教のような地位にあった。そのためリベラルな議会派が政権を担っていても、教会主流派の考えを無視できなかった。だからスピノザが総督派か議会派かは本質的に問題ではなくなる。
「不寛容な宗教勢力が既に多かれ少なかれ政治権力の中枢部に食い入ってしまっている場合に、思想の自由をどうしたら守り抜けるか」(364、解説)

スピノザは『神学・政治論』を哲学的読者に向けて書いた。それ以外の人は倒錯した解釈をつけて勝手に不愉快がる、というのはなんとも、今も昔も変わらないようで。
解説に書かれているが、議会派率いていたデ・ウィットは失脚して群衆に虐殺されている。
時系列を眺めていると、世相は急転していくのがわかる。自由な雰囲気がいっきに不自由な社会へとなっていく。
世の中、非常にあやういものなんですねー。
だからこそ、自由はつねに大事にしなければならないわけですね。
自由を捨てるぐらいなら死を選ぶ、的な感じのことがこのコロナ狂騒のときにでてこないものかねー。

2020/04/19

第十九章 宗教上の事柄にまつわる権利は、すべて至高の権力の持ち主たちの管理上にあることが示される。正しいかたちに神に奉仕したいなら、宗教上の礼拝活動は国の平和と両立するようなに行われなければならないのであるスピノザ『神学 政治論』

宗教上の礼拝や道徳心に基づく活動は国の平和や利益と両立するものでなければならない。
だから至高の権力の持ち主によって取り決められる必要がある。ということは宗教の解釈は至高の権力者に委ねられる。
ただし個人が神を敬うのは侵害されないし、道徳心を他人に譲れというわけでもない。

神は正義や隣人愛をといていて、これらが法として効力をもつ国こそ神の国である。

自然状態では、理性のある者もない者も自然の法則に従って生きることになり、正義も隣人愛もきちんとおさまるところがない。
正義、隣人愛といった理性の教えを全うするためには、権利を譲渡し、はじめて正義、不正義、公平、不公平が成立する。つまりこれらは国の定めた権利関係によって定められる。
ゆえに宗教の教える正義や隣人愛は権利関係のなかにあり、神の王国もそこにある。
したがって宗教は自然の光によって示されようと預言の光によろうが、権力者が法令としてしないかぎ、力を持たない。

至高の権力の持ち主は神の定めた権利関係を解釈する人でもある。

祖国のための道徳心こそ、人の発揮できる最高の道徳心に違いない。なぜなら国がなくなれば自然状態に戻るからだ。
国民の福祉とは、国を保つことであり、たとえ道徳的にみえても行為が国を損なうならば、道徳的な行いではなく、その逆もしかりだ。
国民の福祉をきめるのは至高の権力者であり、隣人の愛し方、神への仕え方も至高の権力者だけが決めることができる。だから至高の権力者は宗教も解釈者である。

***************
このあたり解釈次第では、現代からみると単なるナショナリスト的なものになりかねないけど、実際スピノザはそれに近いものを考えていたのかもしれないなー。どうなんでしょう。国が乱れることを体験している場合、インターナショナルとはいかないしね。


2020/04/18

第十八章 ヘブライ人たちの国家体制と歴史物語から、いくつかの政治的教訓が引き出される――スピノザ『神学 政治論』

至高の命令権をの持ち主としての国家元首を置くことは、神の王国[=神権制]と矛盾しない。現にヘブライ人は権利を神に預けて至高の命令権をモーセに委ねている。
第一王国の時代までは、大祭司は命令をすることはなかった、慣例を遵守することだけだった。
第二王国では祭祀権に加えて、国事を取り扱う権力など宗教以外の事柄も、自らのことばが神聖で権威あるものとするようになった。
これにより迷信ができる。律法を勝手に解釈したり、論争がはじまる。それによって分派ができる。
そして、私人にすぎない預言者が自分の裁量で警告を発しても、人は従わなかった。王に従うことを選んでいる。王が正しければ預言者は邪魔な存在だった。
民衆が支配権を持っていた間は、内乱が一度しか起こっていない。
そして民衆が死骸していた時期のほうが、律法は歪められず、きちんと守られていた。王が現れる前は預言者の数はきわめて少ないが、王が現れてからはきわめて多く、同時現れていた。

つまり、宗教者に政治を任せるのは有害で、神の権利を持ち出して法律を作ったりするのは危険だということ。さらにするべきこととそうでないこを区別する権利は、至高の権力者に委ねなければならない。最後に民衆が王に慣れていないなら、君主制は有害だ。とはいっても君主を取り除くのも危険だ。王の権威に慣れているなら、王の権威のみが頼りだからだ。
その例としてイングランドの清教徒革命とクロムウェル独裁を例に引いている。

2020/04/16

Bach, Concerto pour violin BWV1041/1042/1043, Jean-François Paillard, ERATO, ERX-2406/バッハ ヴァイオリン協奏曲 ジャン-フランソワ・パイヤール



Bach
Concerto pour violin BWV1041/1042/1043
Gérard Jarry
Pierre Amoyal
Jean-François Paillard
Orchestre de chambre Jean-François Paillard
ERATO, ERX-2406

パイヤール指揮、ジェラール・ジャリ、ピエール・アモイヤルがヴァイオリン。
パイヤールらしく明るい演奏です。オーソドックスというか、安心して聴ける演奏となっていますね。
奇を衒うこともなく、流暢に音楽が奏でられるので、パイヤールの演奏はよく聴く。クイケンだとかもいいんだけど、どこか聴く側に緊張を強いるところが疲れる。

2020/04/15

Prokofiev Piano Concertos No. 2 in G minor Piano Concertos No. 3 in C Piano: Dmitri Alexeev Yuri Temirkanov Royal Philharmonic Oechestra EMI, ASD3871/プロコフィエフ、ピアノ協奏曲2番、3番、ドミトリ・アレクセーエフ、ユーリ・テミルカーノフ



Prokofiev
Piano Concertos No. 2 in G minor
Piano Concertos No. 3 in C
Piano: Dmitri Alexeev
Yuri Temirkanov
Royal Philharmonic Oechestra
EMI, ASD3871

ドミトリ・アレクセーエフがピアノ、ユーリ・テミルカーノフ指揮のプロコフィエフ。
第三番は、やはりロシア系ということもあって、かなりクセのある演奏なんだけれど、それがプロコフィエフによくあっているでしょう。
しかし、このピアノ協奏曲第三番というのは、やっぱりいい曲ですね。
メカニックな要素がある。ロマン主義のような流れるような音楽とは一線を画している。
それはやはり産業革命が本格化していったことが背景にあるかと思う。
この曲は1921年ごろにアメリカで作曲されているけれど、プロコフィエフにとって当時のアメリカはありえないほどの発展をしていた最先端の国だったはず。プロコフィエフなんて、ウクライナの田舎者だし、当時のキエフにしろモスクワにしろロシアは産業革命しているといっても、まだ農業中心だし、日本と同じように産業革命後進国だったわけです。
そんななかフォーディズムまっしぐらなアメリカは、まさに機械じかけの国なわけでして。
この曲は、第三楽章のクライマックスで、それまであった機械チックなリズムをすて、情緒を持ち出してくるが、すぐにモダニズム的リズムが支配する。
おそらくではあるが、第一楽章からのテンポだとかリズムというのは、やはり当時のアメリカの社会の雰囲気でもあると思う。自動車が走り、バスが走り、鉄道であったり、地下鉄であったり。
そんな目まぐるしさや活気、そしてそこに潜む情緒を垣間見せている。モーツァルトの時代の感性ではこういう曲はできないでしょう。

2020/04/14

Beethoven, Hammerklavier Sonata in B flat Op. 106, Vladimir Ashkenazy, DECCA, SXL6335/ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 29番「ハンマークラヴィーア」 ウラジミール・アシュケナージ


Beethoven
Hammerklavier
Sonata in B flat Op. 106
Vladimir Ashkenazy
DECCA, SXL6335

アシュケナージののハンマーグラヴィーア。これは60年代の旧録音。
んーすばらしいですねー。この曲の構造がはっきりと理解できる演奏だよね。
第三楽章を聴いてみると、あれーこんな曲でしたっけと発見がありますね。ベートーヴェンってやはり中二病のロマンチストだったようだと、それぐらい甘い演奏。悪い意味ではなく、かなりいい意味で甘美。
第四楽章のフーガだって、こんなに明確に明暗を描きだしている演奏って少ないでしょう。
やはり名演であるのは間違いない。

2020/04/12

Beethoven, Sonatas for Paino No. 14 in C sharp minor, Op. 27/2, No. 27 in E minor, Op. 90, No. 32 in C minor, Op. 111, Mihály Bächer, Qualiton, LPX.11 414/ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 14番、27番、32番 ミハリー・ベッヒャー


Beethove
Sonatas for Paino
No. 14 in C sharp minor, Op. 27/2
No. 27 in E minor, Op. 90
No. 32 in C minor, Op. 111
Mihály Bächer
Qualiton, LPX.11 414

どう発音するのか、ミハリー・ベッヒャーとかか。ハンガリーのWikipediaでもあんまり情報がない。
けどですね、この32番はいいです。
第二楽章のテンポがは早めで、力強いです。この曲に似つかわしくないほど。この曲って瞑想的でしょ、第二楽章は。でもこのベッヒャーという人は、その瞑想を覚まさせてしまうような感じです。
とてもいいですね。
14番はまあ、好きなソナタではないけれど、とりあえず聴いてみますと、まあまあまあまあ。
27番は、ぼくもけっこう弾きこなせる曲であるので、よく弾いているから親しみ深いですね。やっぱりプロはうまいな。
第一楽章ではの和音を連打なんか、ぼくこんなふうに弾けないし。連打がグラデーションをなしているけど、ぼくのは単一の色だよね。アルペジオ部もすげー繊細ですよ。むかつく。

2020/04/11

『人類が消えた世界』アラン・ワイズマン 鬼澤忍訳 早川書房

基本的に望んでいた内容とは異なっていた。
人類が世界から消えて、その過程を描いているのかと思いきや、プラスティックや肥料なんかの環境問題、原子力の問題なんかが中心で、その腐敗や腐食、浄化などの話を期待していたんだけどなー。
ないわけではないけど、ちょろっとしかないし。
結論から言えば、あらゆるものは分解されていちゃうという。プラスティックはちょっと時間がかかる。ほかにも土の中に埋もれてる場合酸素に触れずにすむから腐食に耐えられるだとか、けっこう新聞紙だとか紙類も酸素に触れられずにまとまって地中なんかにあると何千年とのこるという。
だからなんだってんだ。
んなことはわかってんだよー。
読みたかったのはSFチックなこの世の崩壊劇だったわけで、それを材料学、生物学などの面から考察していって、ナウシカのような世界を描いてくれることだった。がっかりだ。
最初の方では、若干金属素材について書いてあったりして、いい具合だったんだけどね。
世界崩壊後の世界を描いた作品として、貴志祐介の『新世界より』だとか思い出す。これなんか超能力をもった人類の社会がいかなるものになるか、という実験的な考察をしていて、そこにはボノボ的な性愛の文化が育まれていたりと、なかなかおもしろかった。
このワイズマンの本では、自然界のエントロピー増大的な話を期待していただけあって、残念でした。

トリビア的な情報があって、例えばニューヨークの地下鉄では絶え間なく地下水がでていて、一分間に2500リットルだという。それを電動ポンプで汲みあげているというのだから驚く。大雨やら干潮やらとつねに闘っているらしい。へーー。

2020/04/08

『他人の顔』 安部公房 新潮文庫

連続して安部公房を読みなおしているけど、この『他人の顔』って、こんなに退屈だったけ。大学生のときに、のめり込んで読んだ記憶がある。とはいってもほとんど内容は忘れてしまったけど。
で、再読、はじめの4分の1ぐらいまで、そうですね、仮面を作るところぐらいまでは、まあいい。
しかし、そこからが正直つらい。読んでいて、主人公の自分語りが、もう冗長で、だらだらとどうでもいいことを語るわけ。我慢して読んだけど、ほとんど頭に入ってこず、ただ字面を追うだけのこともしばしば。顔は人間同士の通路だという。そこから人間は外見なのか中身なのかといった話になるんだけど退屈だ。自己批判と自己肯定が繰り返される、その葛藤が読みどころなのだろうか。
ストーリー自体、ケロイドの顔を隠すために仮面をつくって、自分の妻を誘惑して、云々、とまあいい感じです。
実際のところ、K高分子科学研究所や古生物学者の話、仮面を作る材料や段取り、ブラン某の顔の形態論なんかさもありなんと思わせる説得性があって、安部公房らしさというのがあるんだけども、顔についての考察の段になると、観念論が披歴されていく。
ロマンティック学生の心の傷を癒してくれるだろうけど、すでにそんなものを卒業し現実を受け入れた諦念の塊であるぼくには世迷いごとにしか読めなかった。
観念論をやめていれば、プロットはおもしろいと思う。ラスト、カミさんが失踪しちゃうけど、そのカミさんの手紙も悪くないわけで。そして、主人公が見た映画のあらすじなんかも、けっこういい内容なわけです。妹が海に消えていくところなんか美しいと思うよ。
なんかもったいない感じ。

2020/04/05

第十七章 至高の権力にすべてを引き渡すことは誰にもできないし、その必要もないことが示される。ヘブライ人達の国家体制はモーセの存命中、その死後、王たちを選ぶ前はそれぞれどうなっていたのかについて。この国家体制の優れていた点について。そして最後に、この神による国家体制が滅びた原因や、存続している間もさまざまな反逆にさらされずにはいられなかった原因について――スピノザ『神学 政治論』

すべての権利を至高の権力をわたすことはない。なぜなら暴力的に臣民を支配することもよしとしてしまうことにもなる。
では国の権利や権力はどこまで及ぶのか。
国は人びとを恐怖で動かすことで成立っているのでない。
人の行動は、恐怖心、愛国心、利己心などからであろうと自分独自の考えに基いて行動を決めている。
支配者は人を心理面で支配しているとしても、逆に独裁者への最大の支持者は臣民である。つまり権力者は無制限に力をもつことはない。支持を得られないからだ。

国を保つためには、臣民がどれだけ忠実で有能かにかかっている。
人は欲望にかられる生き物だ。だから感情に走らないように、みなの権利を優先するように整えることが重要となる。国の敵と同じくらい自国民のせいで危険にさらされる。

エジプトから開放されたヘブライ
人は、自然状態におかれた。モーセの助言と啓示によって、ヘブライ人は自分たちの権利を神に譲渡した。その後、神に代わってモーセが至高の裁き手となった。
民衆は、神権政治であろうが君主制国家であろうが、同じくらい非自立的であり無知である。君主のみが頼りだった。
スピノザの見立てでは、モーセの後継者たちは国の管理者でしかなく、支配者ではなかった。彼らは神にお伺いする権利はなかったし、与えられもしなかった。法を制定することや戦争を決定するのはモーセだけであった。
ここでスピノザは、宗教道徳が及んでいた範囲は、同国民に限られていたことを強調している。普遍的なものではなかったということ。

これまでの章のおさらい的な感じ。

2020/04/04

『燃えつきた地図』 安倍公房 新潮文庫

無機質な文章で、解説のドナルド・キーンさんが言うように、あまりに散文的すぎるのですが、そこからあふれでる詩情がたまらなくいい。都市、街といった郷愁とは無縁の空間が無機質な豊かさをもって迫ってくる。

この小説の奇妙さは、まず主人公が最後に記憶を失ってしまうことにあって、にもかかわらず小説それ自体は自分語りの一人称形式になっていること。記憶がないのに語っているんです。だから小説の中では現在進行形で語るしかなくなる。主人公の語りは、つねに現在が支点になっていて未来が語られない。というか安倍公房の小説は一人称が多いかな。
根室波瑠の弟とはいったなんなのか。住所不定でやくざまがいの仕事をして、殺されてしまう。弟も根室洋を追っているようなのだが、主人公を追っているようにもみえる。田代はなぜ自殺したのか。
この一連の不可解さはけっして解決されず、謎のまま残る。そしてこの謎であることがこの小説の輪郭を決めていく。すべては未解決であり続ける。
事実も、なにが事実であるのかもよくわからない。
「まったく、事実ってやつは、貝みたいなものでね、いじれば、いじるほふぉ、ぴったり口を閉ざして、とりつくしまもない・・・・・・無理に、こじ開けようとすると、死んでしまって、元も子もなくなるし・・・・・・向こうから、口を開けてくれるまで、待つしかないんですよ・・・・・・おおむね、ありそうな所には、何もないというのが、事実の事実たるゆえんでしてね・・・・・・」(166)
田代は根室の撮影したポルノを明かしながらも、それが嘘だといったり。でも、「ぼく」からしたらその真偽はわからないわけで。

田代が街で根室を見かけたときに声をかけなかった。その理由に、
「だって、果たしてぼくに、そんな四角があるものかどうか・・・・・・」(318)
という。なんとも孤立した存在として、都市でいきる個人をとらえている。
「本人の意志にさからってまで、他人の居場所に干渉する権利が、誰にあるのか・・・・・・」(319)
この小説の寂しさは都市に生きる人間に共通のもので、「ぼく」が暴行を受け、女の部屋で起きたとき、女は窓の外をみていて、「ぼく」は何を見ていたのかと問う。
「だから、窓よ・・・・・・沢山の窓・・・・・・だんだん灯が消えていくの・・・・・・そうすると、その瞬間だけ、はっきり分かるのよ、そこに人がいるのが・・・・・・」(357)

カーブの向こうの台地の町が、記憶からなくなり、存在が共同体から、会社、元妻から切り離されいく。
「誰だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世界に閉じ込められていることに変わりはないのだ。坂のカーブの手前、地下鉄の駅、コーヒー店、その三角形はなるほど狭い。狭すぎる。しかし、この三角形が、あと十倍にひろがったところで、それがどうしたというのだ。三角形が、十角形になったところで、何処がどう違うというのだ。」(390)
「過去への通路を探すのは、もうよそう。手書きのメモをたよりに、電話をかけたりするのは、もう沢山だ。車の流れに、妙によどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックまでがよけて通ろうとしているのだった。無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる。」(393)

小説は団地の描写からはじまる。どこにでもある平凡な団地には過去も未来もない。
そしてラスト、冒頭の状況描写が反復される。主人公と根室洋が重なっていく。
自分が誰であるのか忘れてしまう。アイデンティティの喪失。故郷の喪失。だから都市で生きることは失踪していることと同義なのかもしれない。

「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられてた、君だけの地図。
だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。」
冒頭の言葉を読み返せば、失踪、蒸発といったことがポジティブなことであることがわかる。都市で生きるための思想、言葉がある。