2019/02/09

『中世の覚醒 アリストテレス再発見から知の革命へ』 リチャード・E.ルーベンスタイン ちくま学芸文庫

西洋世界でのアリストテレスの受容について、よくまとまっていて面白かった。近代哲学については書籍でいろいろとあるが、中世哲学となると数が限られてくる。その点でも貴重な一冊。そして信仰と理性を切り離して考えてしまう現代人たる僕にとっては非常に面白かった。
この世界を読み解くうえで、アリストテレスの『自然学』が基礎となっていたと指摘されて、中世哲学では、『自然学』で使われているカテゴリーや用語や概念がまさに自然を説明するものと見えていたという。そうだろうと思う。現代の科学がこの世界を説明してくれるものなのかどうかは、はなはだ疑問なわけで、だって量子力学がどうのって言われても、僕らが見ている世界は量子力学のような世界ではないわけ。僕は量子力学よりアリストテレスの方が真理に思えてしまう。だって僕の目は、素粒子のようなサイズの物体を見ることができないもの。
アリストテレスだけでなく、アリスタルコスやプトレマイオスのような古代の知識人たちは、自然をよく観察し、考察と推論でもって世界を解明しようとしてきた。天動説か地動説かなんてのは結局どっちでもよい問題で、要はそれに至る推論と思考がすさまじいのだ。アリストテレスは、自然を見て誤謬や矛盾がない完璧な論をはり、世界の見方を提供してきた。現代人がバカげていると一蹴できないほどに、その自然の見方は徹底的に論理的。といったって、僕が『自然学』を読んだのは10年以上も昔なのでほとんど覚えていないけど。覚えているのは、難解だなあという感想と、よくもまあここまで自然の原理を掘り下げて説明するなというアリストテレスの執念深さだった。『中世の覚醒』を読んで、久しぶりに読んでみようかなと思っている。ここ数年、哲学書だとかのテキストを読むこともめっきり減ってしまったから。トマス・アクィナスなんて、面白そうなんだけど『神学大全』はめちゃくちゃ膨大な量で読める気がしない。本当は本書のような概説本ではなく翻訳でいいから原典にあたりたいところ。
オッカムが、諮らずも近代的な知を呼び込んでしまったとか、なるほどね、と思った。信仰に新たに光を当てるため、神秘性を復活させるために、世界や自然を神秘的かつ理性的なまなざしで観察することを否定し、神を理性でとらえることをやめることを主張していた。オッカムは信仰の復活を意図していたが、結果は教会の失墜とキリスト教そのものの在り方を変えていってしまった。彼の剃刀は、わからないものをわかろうとするものではない、というところがあり、一種の形而上学批判となっている。それは神的なものを否定しているのではなく、神の神秘性を強調しているのだと。なるへそ。
信仰か理性か、といった二者択一はつまらないところがある。というかこの問は欺瞞に満ちている。さすがに、こんな問いをする人は現代でもそういないと思うけども。でも、この信仰というのは、別に特定の宗教を信じているかどうかでなくてもよくて、ルーベンスタインも言っているように、自分の倫理観や政治観は、何か厳格なるもので基礎づけられたものではなく、一種の信仰のようなものなのだ。ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか』という本は、まさに僕たちの政治観や倫理観がある類型に分けることができるとして、一方は他方の信じる思想を受け入れることはない、正義は我にありと考えていると書く。この本の原題は"The righteous mind"で、この本では結局、僕らがいつの間にか身に着ける政治観や倫理観が何なのか、それは何に基礎づけられているのかなどは書かれていない。あくまで保守的に考える人とリベラルに考える人、または極端に考えてしまう人たちの思考パターンを類型化して、これは一種生まれつきのものなのだ、と突き放している。これはこれで面白いんだけどね。
でも、本書『中世の覚醒』を通して思うことは、ルーベンスタインが言うように、なぜ私は信仰するのか、何を信仰しているのか、ということへの関心のなさへの批判で、結局メディアの討論ではくだらない信仰告白が蔓延っている。そこに傲慢さと知性の欠如を見てしまうのも仕方がない。僕が考えたいことは、自らがよって立つ思想がいったい何に基礎づけられるのかだ。でなければ、狂信者と変わらない。

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