子供たちを立派な人間にするために、どうすればいいのか。とりあえず、立派な大人に師事したことがある人物、もしくは立派な大人に育て上げた人に教えを請うのがいい。
まず徳を説くために、その一部である勇気について考察しようという。そこで何かを説くためには、それが何であるかを知らなければならない。勇気を知らなければ勇気を語ることができない。
ラケス曰く、勇気は「何かに対する忍耐強さ」であると、もっと言えば「思慮ある忍耐強さ」である。
ソクラテスが言う、それでは不十分で、将来必ず儲かるとわかっていて投資し続けることは勇気か。違う。「思慮をもって」というのは、間違っているのではないか。それでは思慮を欠いたものが勇気であるのかもしれない。そこで問題がある。勇気は賞賛されるものであり、徳の一部であるというのは皆が了解している。「思慮をもたない」となるとそれば、愚か者ではないのか。
ニキアス「知っていることに関しては優れた者であるが、知らないことについては愚者である」とすれば、勇気ある者が優れているとすれば、彼は勇気が何であるかを知っているのである。勇気とは「恐ろしいこと」と「平気なこと」を知っていることではないか。
ソクラテスは言う、「恐ろしいこと」「平気なこと」という判断は、将来の善悪の判断も含まれている。そして、それは過去、現在をも内包する知識となる。ということは、勇気を知るものは、節度、正義、敬虔を知るものである。ゆえに勇気は徳の一部というよりも全体を言っていることになる。しかし、勇気は徳の一部ならば、矛盾してしまう。アポリアである。
なかなか面白いものなのだが、やはり言葉遊びの感はぬぐえない。まず、勇気が徳の一部であるという前提をおいているので、結局はアポリアになるようになっている。
あと訳については、岩波の全集のほうがいい。古典ということもあり、古代ギリシアの文献を訳すということもあり、非常に訳が逐語的。これは岩波版でもそうだが、三嶋氏はさらに逐語的。代名詞なんかもわかりにくい。古典を訳すうえで、なるべく直訳で、というのは理解できるが、そうすればそうするほど読者は離れていってしまう。それほど直訳的に訳す必要はないとは思う。だいいち翻訳を読むのは専門家意外が大半で、専門家は原語を読むわけだ。
この訳書を読んで文学的な香りを楽しむことはできない。もう少し格調高い翻訳にはならないものか。
まず徳を説くために、その一部である勇気について考察しようという。そこで何かを説くためには、それが何であるかを知らなければならない。勇気を知らなければ勇気を語ることができない。
ラケス曰く、勇気は「何かに対する忍耐強さ」であると、もっと言えば「思慮ある忍耐強さ」である。
ソクラテスが言う、それでは不十分で、将来必ず儲かるとわかっていて投資し続けることは勇気か。違う。「思慮をもって」というのは、間違っているのではないか。それでは思慮を欠いたものが勇気であるのかもしれない。そこで問題がある。勇気は賞賛されるものであり、徳の一部であるというのは皆が了解している。「思慮をもたない」となるとそれば、愚か者ではないのか。
ニキアス「知っていることに関しては優れた者であるが、知らないことについては愚者である」とすれば、勇気ある者が優れているとすれば、彼は勇気が何であるかを知っているのである。勇気とは「恐ろしいこと」と「平気なこと」を知っていることではないか。
ソクラテスは言う、「恐ろしいこと」「平気なこと」という判断は、将来の善悪の判断も含まれている。そして、それは過去、現在をも内包する知識となる。ということは、勇気を知るものは、節度、正義、敬虔を知るものである。ゆえに勇気は徳の一部というよりも全体を言っていることになる。しかし、勇気は徳の一部ならば、矛盾してしまう。アポリアである。
なかなか面白いものなのだが、やはり言葉遊びの感はぬぐえない。まず、勇気が徳の一部であるという前提をおいているので、結局はアポリアになるようになっている。
あと訳については、岩波の全集のほうがいい。古典ということもあり、古代ギリシアの文献を訳すということもあり、非常に訳が逐語的。これは岩波版でもそうだが、三嶋氏はさらに逐語的。代名詞なんかもわかりにくい。古典を訳すうえで、なるべく直訳で、というのは理解できるが、そうすればそうするほど読者は離れていってしまう。それほど直訳的に訳す必要はないとは思う。だいいち翻訳を読むのは専門家意外が大半で、専門家は原語を読むわけだ。
この訳書を読んで文学的な香りを楽しむことはできない。もう少し格調高い翻訳にはならないものか。
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