今回もかなり渡辺先生の解説がためになった。というか解説がなかったら、『メノン』も、それほど感銘をうける書物ではなかったと思う。
以下のまとめも乱雑で、渡辺先生の解説のまとめみたいになってしまった。
解説を読んだ後、『メノン』本文を読むと、素晴らしいほど「理解」できた。
ただ、アレテーの訳が徳というのは、日本語の語感からして違和感がないわけでもない。
哲学書でもあり普通の使い方ではない「徳」を語っているのはわかっているが。
徳とは何か。
メノンはゴルギアスのもとで弁論術を学んでいる。メノンはまず「男の徳」「女の徳」「大人の徳」「奴隷の徳」があると説く。ソクラテスにもっと一般的にしろと言われて、次に「人びとを支配できること」と答える。しかし、正しい支配でなければ徳とはみなせないとソクラテスに反駁される。
メノンにとって徳は政治家としての理解を重きにおいている。しかし、ソクラテスは一般性の問題として問い直す。
ソクラテスが言う「正義はある種の徳である」というのは正義が徳のカテゴリーの中にあるもので、イコールではないということ。節度、勇気、知恵も徳なのだから。
そしてソクラテスは定義を行う際に循環してはならないという。つまり徳を定義するのに徳という言葉を使ってはならない。さらには徳である正義を使って徳を定義すべきではない。
善い行いと悪い行いとは
「よいものを欲する」ことは、徳がある人のみではなく、誰でもがいつでもやっていることだから、徳を他のものとは区別してくれない。
「悪いことを欲する行為」というのは、「悪いと知りつつやってしまう」「よいと知りつつそうしない」といったように表現される。意志の弱さ、もしくは無抑制というもの。
メノンはここで「よいと知りつつそうしない」ことと「悪いと知りつつしてしまう」ことは、現実には存在しないという結論する。
悪いことを知りつつ行うということ、それは悪いというのは有害であるということ、であれば悪いことを悪いと知っていながら、欲する人がいるのだろうか。
悪いものが有益だと考えていて、悪いものが悪いことであると知っていると、そうなるのか。
ではないのならば、「悪いもの」を欲しているわけではなく、自分がよいと考えたものを欲していることになる。
実際は「悪い」が、それを知らずに「よい」と考えて欲している。
ここで、メノンが言う「悪いものを欲する」人は、害になることを知っているということになる。
害を受けている人は、惨めである。惨めな人は「不幸」である。すると、「不幸でありたいと思う人が、いるのか」
メノン曰く、いないと思います。
するとだれも悪いものを欲しないことになる。誰も害を受けて惨めに不幸になりたくないのだから。
意志ある行動について
整理すると解説にあるように
(a)よいと考えて欲するのか
(b)悪いということを知っていて欲するのか
意志が弱いとなるような(b)のケースが存在するとメノンは言う。では、
(b1)有益であると考えて欲するのか
(b2)害があると知っていながら欲するのか
となるが、(b1)を選択することはできない。有益であると知っているなら「悪」ではなくなる。
で残るのが(a)(b2)となる。
(a)は通常の行為だが、では(b2)はどうか。
これは意志の弱さの行為の典型だが、ソクラテスは「不幸」を欲する行為はだれもしないだろうとなる。
となると、つまりは、ここでは
「意志の弱さからくる」と呼ばれていた行為は、そのような呼称のものとしては存在しないということになる。
通常言われる、「意志の弱さ」、例えば甘い食べ物を食べてはいけないとわかっているのに食べてしまうようなケース、これは(a)となり、「よいと考えて行為する」ような、医師が弱くない行為、ノーマルな行為だということになる。
意志が弱いから行った、というのも認めていない。
自分の意志で甘いものを食べた、選択したことであり、強制されたことではないから。
これは強い何かを感じる。
倫理的とはいかなることか
ここで渡辺さんはさらにもう一点、ソクラテスの意図を述べている。
ソクラテスは、「よい」「悪い」「有益」「害」をいう言葉を、行為者本人の行為からみて、その行為者にとって「よい」「悪い」「有益」「有害」かどうかと使っているという。
それは、「何がその人の結果としての行動を導いたかという観点だけから、その人にとっての善悪や益と害を問題にすることができ」る。
私たちは日ごろ「意志の弱さ」からくる行為について、ソクラテスとの言葉遣いではない理解で善悪、有益、有害を考えている。
ソクラテスはこのような日常的な使い方を排除した。
それは、「人の心は、人の行動によってしか語れないという結果」になる。おおおおおおおー。どうだ。行動こそが重要だということは巷では耳にタコ状態だけど、それをきちんと理屈づけているではないか。
ここから、メノンの「徳」の定義、「よいもの」だとか「美しく立派なもの」という定義は空疎なものになっていく。
有難迷惑ということ
「よいもの」が有益にもなり、有害にもなる。
つまり「正しい使用」であればよいが、そうでないならば有害でしかない。そして「正しい使用」は知識や知性によって導かれる。
財産や美は、ある人にとっては有益だが、別の人にとっては有害になる、というのはうなづける議論でしょう。
つまり、メノンがいう財産、美、勇気を欲すること、もしくは所有することは、それ自体が「徳」ではないことになる。
「探求のパラドクス」
知らないことをどうやったら知ることができるのか。
メノンにとって知ることは同一指定となっている。同じであることはIdentifyできるかどうかを意味している。
だからメノンは暗闇のなかで手探りでどうやって「徳」を探求できるのか、知らないのに知ることができるのかと問う。
「徳とは何か」と問われ、ソクラテスは知らないと答える。メノンはパラドクスを突きつけるが、そもそものメノンの知識観が間違っていることが次で述べられる。
想起説
探求すること、学習することは想起することであるとソクラテスは言う。これが一般的(メノンを含む)な学習とは考えが違う。
「事物の自然本性」はギリシア語で「フュシス」で、これをラテン語に約訳されたとき「ナートゥーラ―(natura)」となる。つまり「本質」「本性」の意味が強い。「徳のフュシス」といえば、それは「徳の本質」、それは芋づる式に応えがでてくるはずで、そえは人間の誕生以前の高貴な状態で、すでに知られているものである、と想起説ではなる。
この想起説で、知識は全体
ソクラテスは「原因の推論」という『縛り』」があり、だから「正しい考え」よりも優れているとするが、プラトンはそこに想起説を結びつけているという。
この場合、正しい考えは長期間とどまってくれるために原因の推論が必要だとする。それが想起であるという。
例えば三角形の内角の和が二直角に等しいという知識は、定理を原因から掘り起こせば「知った」ことになるが、たとえ原因から知らなくても、なんらかを「知った」ことになる。このことは正当化があれば知識は知ることができることをしめしている。
「理解して知る」ことこそが、人間の本来的に「知るに至る」ことである。
そしてさらに新たに学ぶこととは別に、むかしの経験の記憶に基づく知の再獲得こそ「学び」であるとソクラテスは主張しているようだ。
後者の想起は、なぜプラトンが重要視するのか。
それは知識が、「人格」や「内面」とほんとうの内奥で結びついていて、その人の中で切り離すことができないからだ。
徳とは何かという問いには、徳が教えられるものであることが前提となっている。
しかし、ソクラテスは知性(ヌース)や知(フロネーシス)という言葉を使う。これらの言葉は内的な関係性を響かせているという。
つまり、本来知識は外化できるものではないものであるという、プラトンの考えが反映されている。
「わたし本来の豊かな内容」を、過去の「記憶」の中に探る、「なぜ若い人は、じゃまになる考えを取り除いて頭の中をきれいにしてあげさえすれば、次々と壁と思われたものを越えて、次の段階にジャンプして成長すように学んでいけるのか? それは、自分の中にそれを超えさせるくらいのたいへん豊かな財を、もともともっていたからだ」(226)
仮説の方法
難解な幾何学の問題を例にしているように、ここから普通では理解しがたい問いへと変化していく。
幾何学で通用する立派な方法で徳は教えられる。
メノン、徳は知識ならば教えることができる。
しかしソクラテスは徳がいわば知識のようなものならば、学ばれるというは徳は「他人から教えられない」という仕方で学ばれる。
メノンの場合、徳の教師がいないから、徳は教えられない、ゆえに徳は知識ではないというストレートな解釈となる。
ここでソクラテスの行った「仮説のの方法」が無視されるようになる。
メノンはソクラテスのあいまいさや多義性を排除している。それは幾何学方法と同じように厳密な論理形式としてみなしている。
ソクラテスは徳を知識として結論はしている。それは「学習」される、経験から学ぶことができるから。徳は「学習」できるものとしている。しかし、ソクラテスは「知識・エピステーメー」にあいまいさをもたせている。
徳とは何か
ソクラテスの場合、有益なものは知(フロネーシス)であり、徳は有益であるのだから、必然的に徳は知であるとしている。
外的なもので有益とさえるものである、財産、地位、頑強さは、有害にもなりうる。
だから、これらを正しく使うことを理解しなければならない。そしてそのためには内的に有益なものが必要となる。
それが徳となる。
メノンが言っていた徳、男らしさや財産、地位、健康などは外的なもので、ここでメノンとソクラテスの違いが明確になる。ソクラテスの場合は内から外へだが、メノンは外から内へと向かっている。
徳とは正しい考えのこととなる。
以下のまとめも乱雑で、渡辺先生の解説のまとめみたいになってしまった。
解説を読んだ後、『メノン』本文を読むと、素晴らしいほど「理解」できた。
ただ、アレテーの訳が徳というのは、日本語の語感からして違和感がないわけでもない。
哲学書でもあり普通の使い方ではない「徳」を語っているのはわかっているが。
徳とは何か。
メノンはゴルギアスのもとで弁論術を学んでいる。メノンはまず「男の徳」「女の徳」「大人の徳」「奴隷の徳」があると説く。ソクラテスにもっと一般的にしろと言われて、次に「人びとを支配できること」と答える。しかし、正しい支配でなければ徳とはみなせないとソクラテスに反駁される。
メノンにとって徳は政治家としての理解を重きにおいている。しかし、ソクラテスは一般性の問題として問い直す。
ソクラテスが言う「正義はある種の徳である」というのは正義が徳のカテゴリーの中にあるもので、イコールではないということ。節度、勇気、知恵も徳なのだから。
そしてソクラテスは定義を行う際に循環してはならないという。つまり徳を定義するのに徳という言葉を使ってはならない。さらには徳である正義を使って徳を定義すべきではない。
善い行いと悪い行いとは
「よいものを欲する」ことは、徳がある人のみではなく、誰でもがいつでもやっていることだから、徳を他のものとは区別してくれない。
「悪いことを欲する行為」というのは、「悪いと知りつつやってしまう」「よいと知りつつそうしない」といったように表現される。意志の弱さ、もしくは無抑制というもの。
メノンはここで「よいと知りつつそうしない」ことと「悪いと知りつつしてしまう」ことは、現実には存在しないという結論する。
悪いことを知りつつ行うということ、それは悪いというのは有害であるということ、であれば悪いことを悪いと知っていながら、欲する人がいるのだろうか。
悪いものが有益だと考えていて、悪いものが悪いことであると知っていると、そうなるのか。
ではないのならば、「悪いもの」を欲しているわけではなく、自分がよいと考えたものを欲していることになる。
実際は「悪い」が、それを知らずに「よい」と考えて欲している。
ここで、メノンが言う「悪いものを欲する」人は、害になることを知っているということになる。
害を受けている人は、惨めである。惨めな人は「不幸」である。すると、「不幸でありたいと思う人が、いるのか」
メノン曰く、いないと思います。
するとだれも悪いものを欲しないことになる。誰も害を受けて惨めに不幸になりたくないのだから。
意志ある行動について
整理すると解説にあるように
(a)よいと考えて欲するのか
(b)悪いということを知っていて欲するのか
意志が弱いとなるような(b)のケースが存在するとメノンは言う。では、
(b1)有益であると考えて欲するのか
(b2)害があると知っていながら欲するのか
となるが、(b1)を選択することはできない。有益であると知っているなら「悪」ではなくなる。
で残るのが(a)(b2)となる。
(a)は通常の行為だが、では(b2)はどうか。
これは意志の弱さの行為の典型だが、ソクラテスは「不幸」を欲する行為はだれもしないだろうとなる。
となると、つまりは、ここでは
「意志の弱さからくる」と呼ばれていた行為は、そのような呼称のものとしては存在しないということになる。
通常言われる、「意志の弱さ」、例えば甘い食べ物を食べてはいけないとわかっているのに食べてしまうようなケース、これは(a)となり、「よいと考えて行為する」ような、医師が弱くない行為、ノーマルな行為だということになる。
意志が弱いから行った、というのも認めていない。
自分の意志で甘いものを食べた、選択したことであり、強制されたことではないから。
これは強い何かを感じる。
倫理的とはいかなることか
ここで渡辺さんはさらにもう一点、ソクラテスの意図を述べている。
ソクラテスは、「よい」「悪い」「有益」「害」をいう言葉を、行為者本人の行為からみて、その行為者にとって「よい」「悪い」「有益」「有害」かどうかと使っているという。
それは、「何がその人の結果としての行動を導いたかという観点だけから、その人にとっての善悪や益と害を問題にすることができ」る。
私たちは日ごろ「意志の弱さ」からくる行為について、ソクラテスとの言葉遣いではない理解で善悪、有益、有害を考えている。
ソクラテスはこのような日常的な使い方を排除した。
それは、「人の心は、人の行動によってしか語れないという結果」になる。おおおおおおおー。どうだ。行動こそが重要だということは巷では耳にタコ状態だけど、それをきちんと理屈づけているではないか。
ここから、メノンの「徳」の定義、「よいもの」だとか「美しく立派なもの」という定義は空疎なものになっていく。
有難迷惑ということ
「よいもの」が有益にもなり、有害にもなる。
つまり「正しい使用」であればよいが、そうでないならば有害でしかない。そして「正しい使用」は知識や知性によって導かれる。
財産や美は、ある人にとっては有益だが、別の人にとっては有害になる、というのはうなづける議論でしょう。
つまり、メノンがいう財産、美、勇気を欲すること、もしくは所有することは、それ自体が「徳」ではないことになる。
「探求のパラドクス」
知らないことをどうやったら知ることができるのか。
メノンにとって知ることは同一指定となっている。同じであることはIdentifyできるかどうかを意味している。
だからメノンは暗闇のなかで手探りでどうやって「徳」を探求できるのか、知らないのに知ることができるのかと問う。
「徳とは何か」と問われ、ソクラテスは知らないと答える。メノンはパラドクスを突きつけるが、そもそものメノンの知識観が間違っていることが次で述べられる。
想起説
探求すること、学習することは想起することであるとソクラテスは言う。これが一般的(メノンを含む)な学習とは考えが違う。
「事物の自然本性」はギリシア語で「フュシス」で、これをラテン語に約訳されたとき「ナートゥーラ―(natura)」となる。つまり「本質」「本性」の意味が強い。「徳のフュシス」といえば、それは「徳の本質」、それは芋づる式に応えがでてくるはずで、そえは人間の誕生以前の高貴な状態で、すでに知られているものである、と想起説ではなる。
この想起説で、知識は全体
ソクラテスは「原因の推論」という『縛り』」があり、だから「正しい考え」よりも優れているとするが、プラトンはそこに想起説を結びつけているという。
この場合、正しい考えは長期間とどまってくれるために原因の推論が必要だとする。それが想起であるという。
例えば三角形の内角の和が二直角に等しいという知識は、定理を原因から掘り起こせば「知った」ことになるが、たとえ原因から知らなくても、なんらかを「知った」ことになる。このことは正当化があれば知識は知ることができることをしめしている。
「理解して知る」ことこそが、人間の本来的に「知るに至る」ことである。
そしてさらに新たに学ぶこととは別に、むかしの経験の記憶に基づく知の再獲得こそ「学び」であるとソクラテスは主張しているようだ。
後者の想起は、なぜプラトンが重要視するのか。
それは知識が、「人格」や「内面」とほんとうの内奥で結びついていて、その人の中で切り離すことができないからだ。
徳とは何かという問いには、徳が教えられるものであることが前提となっている。
しかし、ソクラテスは知性(ヌース)や知(フロネーシス)という言葉を使う。これらの言葉は内的な関係性を響かせているという。
つまり、本来知識は外化できるものではないものであるという、プラトンの考えが反映されている。
「わたし本来の豊かな内容」を、過去の「記憶」の中に探る、「なぜ若い人は、じゃまになる考えを取り除いて頭の中をきれいにしてあげさえすれば、次々と壁と思われたものを越えて、次の段階にジャンプして成長すように学んでいけるのか? それは、自分の中にそれを超えさせるくらいのたいへん豊かな財を、もともともっていたからだ」(226)
仮説の方法
難解な幾何学の問題を例にしているように、ここから普通では理解しがたい問いへと変化していく。
幾何学で通用する立派な方法で徳は教えられる。
メノン、徳は知識ならば教えることができる。
しかしソクラテスは徳がいわば知識のようなものならば、学ばれるというは徳は「他人から教えられない」という仕方で学ばれる。
メノンの場合、徳の教師がいないから、徳は教えられない、ゆえに徳は知識ではないというストレートな解釈となる。
ここでソクラテスの行った「仮説のの方法」が無視されるようになる。
メノンはソクラテスのあいまいさや多義性を排除している。それは幾何学方法と同じように厳密な論理形式としてみなしている。
ソクラテスは徳を知識として結論はしている。それは「学習」される、経験から学ぶことができるから。徳は「学習」できるものとしている。しかし、ソクラテスは「知識・エピステーメー」にあいまいさをもたせている。
徳とは何か
ソクラテスの場合、有益なものは知(フロネーシス)であり、徳は有益であるのだから、必然的に徳は知であるとしている。
外的なもので有益とさえるものである、財産、地位、頑強さは、有害にもなりうる。
だから、これらを正しく使うことを理解しなければならない。そしてそのためには内的に有益なものが必要となる。
それが徳となる。
メノンが言っていた徳、男らしさや財産、地位、健康などは外的なもので、ここでメノンとソクラテスの違いが明確になる。ソクラテスの場合は内から外へだが、メノンは外から内へと向かっている。
徳とは正しい考えのこととなる。
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