2019/11/13

『ブッダ伝 生涯と思想』中村元 角川ソフィア文庫

本書は非常に平易に書かれていて、しかも経典からの引用が多くて、参考になった。
中村元先生は、本書でも少し触れているが、「慈悲」を大事にしている。他人を慈しむことの重要性を仏教から読み取っていく。
これは、仏教からはなかなか引き出すのが難しいところだとは思っていたのだけれど、中村先生は、やはりいい意味で大乗的なお方だったんだと改めて思う。

すべてを捨てること
「人々は『わがものである』と執着した物のために悲しむ。〔自己の〕所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない」(『スッタニパータ805』)
ブッダの言葉で好きなのがこれ。
ここで自己(アートマン)とは何かとなる。
そこで「無我」を考える。それは家族も財産も捨て、我執を捨てる。自己以外のものは憂いをもたらす。子であろうが、親であろうが、金だろうが。
あらゆるものを捨てる、これが解脱の心境となる。
「現実社会で生きている人々にとっては、生き抜くためにいろいろな障害にとらわれないという意味です。つまり束縛や障害を、束縛や障害として冷静に受けとめ、行くべき道を自ら、見いだし、自由闊達な活動を展開することです。我執、つまり執著を離れ、自由な広々とした境地を体得すること」だと、中村博士はいう。

自己とは
身体はアートマンではない。ではこの身体はどこまで拡張されるのか。だから身体もわがものではない。
現象世界は五蘊で成り立っている。これが執著を起こし、束縛する。
では人間の主観、つまり認識や感受、表象などの作用は、アートマン(私)が行う、と考えられがちだが、仏教ではこれらはただ作用しているだけでアートマンを想定していないという。
ブッダはアートマンを形而上学的に実体することを極力排除し、ただ「自己に頼れ」という、実践活動の主体としての自己を認めていた。
ブッダが否定したのは、アートマンという実体があるという執著であるという。
アートマンはこれでもないし、あれでもない。

自己を愛し、他人を慈しむ
ブッダは自己を否定していたわけではなく、倫理的な行為としての自己は積極的に認めていた。
そこでまずアートマンを護りなさいという。
「たとい他人にとっていかに大事であろうとも、〔自分ではない〕他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ』(『ダンマパダ』166)
そして自己を愛せと説く。子がかわいかろうが、自己ほどかわいいものはないとブッダは言う。
原始仏教では人間は利己的な存在であることからスタートしている。
ここでたんなる利己主義には陥らない。他人も自己がかわいい、だからその他人を害してはならない、という倫理へとつながる。
自己を愛する人、守る人はつつしむ人であると。
ブッダはこのように自己(アートマン)を認めながら、形而上学的な議論には沈黙をした。

さとりとは何か
ブッダは十二因縁を観じ、悟ったとするが、『サンユッタ・ニカーヤ』では、「老死から生、生から有とたどっていって、ついに『識を縁として名色あり』、次に『名色を縁として識あり』と……ここでは縁起の系列を逆にたどっていて、識と名色との相互基礎付けで終わって」いる。この経典では縁起説の成立前となる。
十二支は無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死と『ウダーナ』から中村博士は引用している。この引用部分非常にわかりやすい。いうなれば無明から生活作用、そして識別作用……と順に生じること考え、そして次に無明が止滅し、次に生活作用が止滅し……と逆に考えていく。
この十二支縁起は、原始仏教でもずっと後になってから整理されたようで、もっと古い経典では縁起説はもっと簡潔にでてくるという。
その他にもさとりは六処、六根、四神足、四禅などのさとりの道があるという。
中村博士が言うには、このようにいろいろなさとりの道がるのは仏教の成立に遡れるという。仏教は特定の教義がなく、ブッダ自身が定型化を望んでもいなかった。
とはいってもその底に流れる思想がある。それは、因習や宗教に囚われずに、「いま生きている人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得るようにされること」だという。それには実践的にダルマ(理法)を体得することだという。
そしてこのダルマもまた定型的なものではない。


非想非非想処「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。――このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」(『スッタニパータ』)
「バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。それは単に外側に関することであるからである。外的なことによって清浄が得られると考える人は、実はそれによって浄らかさをえることができないと真理に熟達した人びとは語る。
バラモンよ。わたしは[外的に]木片を焼くことをやめて、内面的にのみ光輝を燃焼させる。永遠の日をとおし、常に心を静かに統一していて、敬わえうべき人として、私は清浄行を実践する。」(『サンユッタ・ニカーヤ』)
これらのブッダのことばのように、ブッダは同じようなことを繰り返し繰り返し説いている。ことばが変わっても底に流れる思想は同じで、この世は諸行無常である、だから自己を愛し、そして修行に励みなさい、というこである。

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