2019/07/30

『龍樹 空の論理と菩薩の道』瓜生津隆真 大法輪閣

3割ぐらいしか理解できなかった……

空について
いろいろ書いているが、いわば空とは、「ものはすべてそれ自体として存在するのではないこと、すなわち実体(あるいは本体)はないという否定を示している。相依性とは、ものはすべて相依相関の関係にあること、すなわち相互依存の関係を示している。したがって、縁起が空であるというのは、自己をはじめこの世界はすべて原因や条件によって生じ、また滅するのであっそれ自体として生ずるのではなく、また滅するのではない」(101)
人間は、つねにものごとにたいして、「本質」を見ようとしてしまう。でもそんなものはない。そして、すべては関係性のなかにある。
「相依相関、相互依存の関係性とは、ものはすべて相互関係や因果関係などの関係性の上に成り立っているので、原因や条件などが即時的に(それ自体として)成立し、存在しているのではない」(101)。
アビダルマ仏教では、存在を有るものとしてみているから輪廻も涅槃も区別され、ともに存在するものとして扱う。ナーガールジュナは、輪廻も涅槃も「幻のごとく空であり」、「輪廻のまま涅槃」であると説く。涅槃も輪廻も実体として有るのではない、苦も空であり、故に輪廻も涅槃も幻にすぎないという。
ただし、空は有を否定し無を主張しているのではなく、有無を越えている存在の如実相だという。有無両方を否定する絶対否定が空である。

アートマンについて
アビダルマ仏教ではアートマンを成り立たせているのが五蘊で、それは色、受、想、行、識(物質、感受、構想、心作用、認識)となる。
この空の思想ってのは、なかなかおもしろくて、「いかなる自我もなく、自我がないのでもない」という有無をともに否定していて、一種の形而上学批判となっているみたいなところでしょうか。そしてこのアートマンは世俗のなかでは存在すると述べられていること。
チャンドラキールティは、世俗は真実(本性)を無明(無知)が覆っている。世俗は無明である。そして世俗は互いにつながりあって成立している。つまり世俗は縁起であるとする。さらに世俗は能所(主客)対立の上に存在する言語表現であるとする。
主体は無知で、そしてその相依性のなかでものごとは存在する。すなわち縁起として有である、となる。それは世俗の言説表現だということだ。つまり実体はない。
だけども、仏教では無我も説かれている。本書では、有無にとらわれることがよくないことで、そのための方便といっている。むむ。
そんな世俗の中で絶対真理たる勝義はどうしたら得られるのか。それは語り得ないもので、言説の中にはない。世俗とその論理を徹底的に否定しつくすところにある。

まとめ
とまあ、その他にも世俗の真理についてや、菩薩行についてなど書かれているのだけれど、いまの僕には要点をまとめられるほどの力量がないのが残念。
本書、いろいろと内容が詰まっているため、かなり難しい。。。アビダルマ仏教のみならず、ニヤーヤ学派なんかも知らないとなかなか理解できない。
あとはやはり理解できずとも、『中論』なりの原典を読んだほうがよいかな。多く引用されているが、はじめてみるテキストということもあって、すーっと頭に入ってこない。

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