『マトリックス』の解釈について。デカルト的な解釈は間違えだという。ドゥボール、ボードリヤールの線で考えるべきと。
スペクタクルの世界から目覚めるには、新しい世界を手に入れる必要がある。体制の細部を変えるのではない。すべては白昼夢。そのために必要なことは世界がおかしいと象徴的な抵抗行動をおこすこと。文化自体がイデオロギーにすぎない。だからカウンターカルチャーを創造せよ、という解釈らしい。
んーなるほど。
反体制といいながら体制に取り込まれて、カウンターカルチャーは成長していっているのは、そうだよ。
差異を見出していき、差異にこそ個性を見出していく。しかも万人がそれをやるから、差異が差異ではなくなっていく。わかるよ。
でもねー。
だからみんなもがいているわけですよねー。そのもがきが、なんかいいんじゃないですかー。
まあ、でもですね、カウンターカルチャーがどこかの時点でマスに取り込まれる、その時、寂しさを覚えるよね。もういまはこの感覚ないけど、『エヴァンゲリオン』が大衆社会に取り込まれたと思ったときは寂しかったー。まあ本書の言い方からすれば『エヴァンゲリオン』自体が資本主義から生み出されたものだけど、そりゃわかっているし、別に『エヴァンゲリオン』は反資本主義ではないけど。
そもそもがだ全体の幸福のためにわれわれは長い行列に並んでいるわけではない、ということだ。たんに慣習であったり、周りの目であったりがそうされるわけです。
ルールから逸脱と異議申し立ては別だというが、それも結果論に近い。事後評価に近い。
カウンターカルチャーの反逆者たちは、社会規範はすべて強制されているという所見に基づき、文化全般は支配のシステムであると結論しているというが、まあそりゃそうでしょ。マイノリティからすればマジョリティが圧力をかけてきていると見るんだから。
これはイタチごっこになっていくのね。
マイナーな主張が一般化すれば、バックラッシュがある。バックラッシュでなくても、マイナーが一般化すれば、それが権威になるわけだし、そうすればまた違う角度からの批判がでてくる。
ナオミ・クラインの幼稚さへの批判もわかるし、それに群がる連中の知性の低さを嘆くのも同意しますよ。
ブランドはいらない、っていうのは消費主義批判ではなく、大衆社会批判である、というのは全くもってそのとおり。彼らは大衆を馬鹿にしたいだけ、だとも僕も思いますよ。
でも、これって低脳をやり玉にあげて、勝ち誇るのと一緒だ。最近でも、Twitterなんかでは極端なバカの意見を一般化して、全体を論じていこうとする傾向があるようだ。ここで著者がやってることも同じ。
ナオミ・クラインをだして反資本主義はダメだといっても、何も意味がない。
本書、かなり反動的であることは間違いない。20歳前後で読んでおけば、ある種の解毒剤にもなるかと思う。
ただね、「反体制」は言うほどカネにはなりませんよ。
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