2022/01/23

『不道徳的倫理学講義――人生にとって運とは何か』  古田徹也 ちくま新書

運と運命で左右される人生観はかなり諦念を含む。
プラトン『ゴルギアス』の神話によれば、「不治の者」は、因果応報で奈落に落されると読める。にもかかわらず、この神話では審判が下されていることになる。因果応報なのにもかかわらずだ。「責任は選んだ者にある。神に責任はない」とすれば。

アダム・スミスの道徳について。
「<正当な道徳的評価は運にさゆうされて下されてはならず、――これをスミスは公正の原則(equitable maxim)と呼ぶ――を、誰もが同意するはずの真理だと指摘するのである」(229)
そして、
結果の評価は、運に影響される。行為者の人格や行為に対する感情を根拠とするのは適当ではないと。
つまり、行為者の動機と意図から予想される結果を基に評価がする。これを<功罪(merit/demerit)の評価>と呼ぶ。<功罪の評価>は結果の評価ではない。では中立な傍観者の評価はできるのか。
アダム・スミスの答えは、古田さんによると単純すぎる。善悪あわせもつ。経験豊かな人物が、多面的な評価をすべきというな感じだ。「良心」への信頼があるな。
ただし、スミスは、意図や動機だけでは評価はできず、結果もやはり無視できないというところで落ち着いている。
人は意図した行為でなくても害悪が生じた場合、罪の意識が生じる。それはスミスは他者の幸福を尊重することという。
意図や感情だけで捌けば、それは異端審問のようなものとなる。
「現実の我々は、結果として誰も傷つけなかった人に対して傷害罪や殺人罪と同等の処罰が課されることに対して、これほど公正さを揺るがすものはないという感覚をもつ。それがいかに公正の原則から逸脱した不規則な感覚であろうとも、我々の生活や社会にとって重要な自然な感覚なのだと、スミスは主張するのである」(258)
「<感情の不規則性>や<誤った感覚>に流され、<見えざる手>に導かれて、図らずもたまたま皆の幸福に寄与できたとしても、その結果に至る手段や経緯を自分で正当化してはならない。運によってもたらされたものは、何であれ真の意味で称賛されるべきものではない。公正の原則に従えば、そうなるだろう。人びとはこの点を省みて、いまの自分に驕らず、理想を忘れ去らないことを、スミスは願っていたと言えるかもしれない」(262)
ねー。そうだよねー。世にはびこる自己啓発本なんかの胡散臭さは、この「運」についての考え方が違うということだな。すべてが運でないにしても、運が寄与する影響は凄まじいのに、自己啓発本は運ではなく鍛錬を推奨することだ。ただ鍛錬がいけないことではないがね。

バーナード・ウィリアムズとトマス・ネーゲルの箇所がいい感じ。
「道徳的運(Moral Luck)」とは。ネーゲルは、ある行為が行為者のコントロールを超えた諸要因に依存しているが、なお我々は行為者の道徳的評価の対象として扱い続ける場合に。その諸要因を道徳的運とする。
人はあらゆる行為に自分のコントロールではきかない外的要因が、結果に左右していることに気づいているが、しかしそれだと「責任」がなくなる。しかし実際は「罪の意識」は生じるし、「責任」だも生じてしまう。この矛盾した状況で働いている運と「道徳的運」としている。
しかし、ここで言っている「道徳的運というのは実は道徳をめぐる問題ではなく、認識をめぐる問題にすぎない」(293)というものだ。
つまり完全な認識を得られていない。認識を得られれば道徳を問えるのだということになる。これってラプラスの魔みたいな話ではないですか。
そこでバーバード・ウィリアムズが登場。
広義の道徳と狭義の道徳。これは柄谷行人の倫理と道徳の区別と同じ。狭義の道徳では義務や責任を指す。広義の道徳では、いかに生きるべきが問われている。なのでときには狭義の道徳に抵触することもある。「咎なくとも、責がある行為」ということもありえるわけで。
咎なくても責を感じる、これがない場合、行為者は不道徳な人間になっていく。
ネーゲルの議論を敷衍すると、咎がない、つまり外的な要因による影響のみの場合、自責の念にかられる必要はないことになる。というのも、そこには認識が不完全であるから、と。
このネーゲルの感覚は、ストア派にまで遡れ、自らのコントロール外の場合、それに供えて心を準備する必要はあれど、結果については責任はないとなっていくわけだ。そうなると、すべてが保や社会制度によるものとして自らの責任を免れていく。それはアイデンティティの危機でもある。というのも人生は運が影響されているのだから、それをすべて外にほおりだせば済む話ではない。
「後悔は消去しえないということ、人生は「意図的にしたこと」と「他の、単に自分に起こったことだけのこと」とに峻別できるようなものではないということは、行為というものは本性に存することでもある。(Willians, Shame and Necessity p70)(328)
カントからすれば、善は幸福であるべき、となる。そしてそれは理性が要請していると。悲しい人間の性よ。でもでもそれは道徳と運を切り離しすぎているわけだ。M.C.ヌスバウムの問い。「アリストテレスをはじめてとする古代ギリシアの思想家たちは、価値ある生活を営むために人間はどの程度運と共存すべきか」と問うたと。(282)で、古代ギリシアでは基本的に徳のある生活をすれば幸福であるという考えが基調にあったとしているようだ。

ということで、バーバード・ウィリアムズはなかなかおもしろいので、翻訳がある『生き方について哲学は何が言えるのか』(産業図書)を今度読んでみよう。ともったら文庫になってやんの。しかも2020年11月。筑摩の人もこの本を読んだか。しかも2019年8月には、『道徳的な運:哲学論集1973~1980(双書現代倫理学)』が出版されている。これも念頭において、古田氏、この本を書いたのか?

0 件のコメント:

コメントを投稿